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「アムドラ様、ほんと~に! よろしいのですか?」
鼻が利くという理由で先頭をイコ、不測の事態に備えて魔王子の前を守るバンが二番手、アムドラを挟んでしんがりを歩くシャルロット。常緑樹が密に生えた森はうっそうとしており、長身の魔物たちが歩くには枝葉の処理ができた方がよい。しかし、バンの獲物は槍、シャルロットは鞭、アムドラは無手とあってはそれもままならず、小さくてすばしこいイコに置いて行かれぬよう、皆が腰をかがめて懸命に進んでいた。
人里を探して森を進む一行だったが、旅が始まって一時間ほど、シャルロットは前を歩くアムドラにひたすら話しかけていた。
「くどい。人と縁がどうということより、このまま森でじっとしていても何にもならんのだ」
「ですが……」
尚も食い下がろうとするシャルロットを振り返り、アムドラは語気を強めた。
「余が最終的に目指すのは魔王城だ。その間に人と遭遇することもあろう。そなた、その全てを襲い、打ち倒して進むつもりか?」
それも致し方なし。戦争の最中に在って、敵と遭遇したならばとるべき行動は二つに一つ。すなわち殲滅か死かである。魔王軍の兵士であれば最敬礼してこのように答えるところだが、シャルロットは兵士ではなく、そこまで浅薄な魔物ではない。
「そうは申しておりませんわ。わたくしはただ……」
「そなたの気持ちはわかる。余とて肉親を殺されたのだ。人間共すべてと共存したいなどとは思っておらぬ」
アムドラは立ち止まり、完全にシャルロットに向き直った。気づかないで進もうとするイコの首根っこをバンが捕まえた。
「だがな、これ以上侵略を進めずとも我ら魔の眷属の勝利は確実だろう。なれば無益な殺生は控えるべきだ。歴史的に見ても、大量虐殺を行った指導者によって築かれた国家が隆盛を極めた例はない」
「……」
魔王子の世話係は押し黙った。アムドラの言う通りであり、それを教えたのは他ならぬシャルロット自身であった。
「城に至るまでに出遭うのは人間だけとは限らぬ。故郷を離れて戦う仲間たちに必ず遭遇するであろう。その中には、戦争を終わらせたいと思っている輩も少なからず居るはずだ。余は旅を進めつつ、余に賛同してくれるものを集めたいと思っておる」
魔王子はそこで言葉を切り、しばしシャルロットを見つめた。二体を観察するバンは、恐らくシャルロットは跪くだろうと思っていた。表情が見えないように。
「そなたはどうだ? 過去を忘れよとは言わぬ。だが、余の考えに賛同してはくれぬのか?」
「……もとより、このシャルロット、殿下の仰せに是非もございません」
「……左様か」
バンの予想通り、シャルロットは跪いて恭しく頭を垂れた。だが、「アムドラ様」ではなく「殿下」と呼んだ。それを見下ろすアムドラが、彼女が納得していないことに気づかないはずもない。二体の会話から、シャルロットも近しいものを戦争で失ったのだろうと知れたが、身分においても実力においても絶対的強者であるアムドラの言葉だ。世話係として長く時間を共有してきた気安さがあるとはいえ、あれほどに食い下がったシャルロットの過去とは……
「……では、参ろう」
「はい」
立ち上がったシャルロットは笑顔であったが、すでにアムドラは背を向けていた。バンは欠伸をしていたイコを促し、道なき道を進み始めた。
しばし無言で歩みを進める一行。
沈黙を破ったのはイコだった。
「バン、人間の匂いだ」
「待て、イコ」
駆けて行こうとするイコを押し止め、バンは声を潜めた。
「殿下、イコと様子を見て参ります」
「頼む」
バンは頷くと、イコを伴って濃い枝葉を慎重にかき分けて進んだ。バンは試しに鼻から空気を吸い込んでみたが、感じられたのは濃密な緑と腐葉土の匂いばかりだった。
「イコ、距離はどのくらいだ?」
「そんなに遠くないよ。もうあと百メートルくらいだ」
「何体いる?」
「二体。両方オスだ」
小鬼はすばしこく、鼻が利くが、知能は高くないというのが魔物の間では一般常識だった。イコは魔王城で働くようになる前、人間の下で奴隷として働かされていたおかげか、距離や時間の単位を知っていた。そして、特に人間の匂いには敏感なのだった。どんな匂いかなどバンは知らないが、雌雄を嗅ぎ分けられるほどに。ほどなくして、二体の魔物は木々の隙間から二人の人間を視認できる距離まで近づいた。
「……武装しているな」
二人の人間は、同じような背格好だった。身長はシャルロットと同じくらいで、麻と思しき布を被り、腰紐で結んでいる。下半身も同じような素材のズボンをはいていた。バンが気にしたのは、二人が携帯している弓矢であった。
「狩りの最中のようだが」
携帯している矢の数が少なく、顔が見える方の緩んだ表情が戦士のそれでないことからバンはそう判断した。一人は弓矢の他に大きめの麻袋を携えていたが、それが膨らんでいないところをみると、獲物はまだ仕留められていないのだろう。衣から覗く腕を見る限り、引き締まってはいるが力が強そうには見えなかった。携帯している武器は木製の弓、矢は筒にしまわれていて先端は見えないが、動物を狩るのに魔物の弱点である銀製の矢を携えてくる可能性は少ないだろう、とバンは考えた。そんなものが必要な森ならば、これまでの道中でとっくに仲間と遭遇しているはずだった。
総合的に見て、二人をただの人間――それも戦う力はほとんど持ち合わせていないと判断したバンは、ちらりと後ろを振り返った。立派な巻角を生やしたアムドラと、猫の様な耳と尻尾を持つシャルロット。どう考えても魔物にしか見えない二体が出て行けば、二人の人間は逃げ出すか、恐怖に震えて話もできない状態になってしまうに違いない。
「イコ、カチューシャを外すんだ」
「なんでだ? バンが付けるのか?」
的外れな答えを返しながら、素直にカチューシャを外して差し出すイコの隣へ屈み、頭を撫でるふりをしながら、バンは彼女の前髪を降ろした。もともと小さな角は、新緑を思わせる髪に隠れてしまった。イコはくすぐったそうにしながらも、されるがままだ。
「さて……」
バンはイコの頭から手を離して立ち上がり、
「イコ、これを預かっておいてくれ」
と、長大な槍の柄を彼女の両手に握らせた。小鬼は普段、刃物の類いを持たされることはない。イコはずっしりと重いそれを抱えるようにして持ち、先端の輝く刃をしげしげと眺めていた。
「とても鋭い。穂先に触ったらだめだぞ」
このように言い置いて、バンは、ゆっくりと二人の人間に歩み寄っていった。彼は並の人間よりは大きな体躯をしているが、大口を開けて牙を覗かれなければ見た目は人間に近いと言える。角さえ隠せばイコもそうだ。人間の社会常識はよくわからないが、森の中で突然幼女に出会うことは少ないのではないかと彼は考えた。声をかけ、話しをするなら自分が適任だと判断したのだ。
実際は、四体の中で誰が行っても二人の人間はギョッとする結果になるのだが。アムドラとシャルロットは当然として、バンにしてもイコにしても、田舎の森で枝をかき分けて登場するには身なりが良すぎるのだ。
そんな事情を知らないバンは、木が少なく、大人四~五人が腰を降ろせるほどのスペースで木製の水筒を出して休憩している二人に近づいていった。気配を殺すようなマネは敢えてしなかった。相手が狩人なら、何かが接近してくる気配は当然感じるだろう。しかし危険はないと悟らせるためだった。
「おい、見てみろや」
二人のうち片方はこちらに背を向けていたため、木立の間からぬっと現れた魔物の姿を認めたもう一人の男が、相棒の肩を叩いてバンの顔を指差した。
「どうしたなや――んん? こりゃあ」
振り返った男を見て、バンはこの二人は兄弟かもしれないと思った。二人の顔はそれほどよく似ていたのだ。
バンが聞き慣れていた人間の言葉とは少し異なるイントネーションで短い言葉を交わし、二人の男はバンを見上げてあんぐりと口を開けたが、矢をつがえるようなことはしなかった。
「突然すまない。私は――」
「たまげたなあ!」
「んだ!」
二人はバンを無視して素っ頓狂な声を上げた。
「ヨサク、こったらでっけぇ奴、村にいたか?」
「いんや、こったらでっけぇ奴、オラは見だことねえ! お前はどんだ、イサク?」
「オレもだ! 見だことねえ!」
二人の名はヨサクとイサクという。それはバンにもすぐにわかった。初めに声を上げた方がイサク。振り返ったのがヨサクだ。
「おめえ、どこのもんだ?」イサクは左目を細めて訊ねたが、バンが答えようとする前にヨサクがイサクの隣に並んで袖の端を引っ張った。二人はバンに背を向け、顔を寄せあって、
「ヨサク、よぐ見ると、ずいぶん高そうな服さ着とるべな」
「んだな……もしかすっと、貴族様だべか」
と、ひそひそごえで話し始めた。
「オレは知ってるだ。ああいう“エリ”がついた服は、やんごとねぇお方がお召しになるんだべ。やっぱり、貴族様だべ!」
「だけんど、貴族様がなんで“ススの森”なんかに居るんだべか」
「そったらこと、オレが知るか」
「オラだって」
「んだら、聞いてみっか」
「お前、聞いてみれ」
「お前が聞け」
「なすてオラが!」
ヨサクがイサクに食ってかかった、いやイサクがヨサクに? 頭の中で二人の識別が困難になってきたバンは、どちらにともなく声をかけた。
「驚かすつもりはない。私はある高貴なお方の従者だが……実は、道に迷って困っているのだ」
「ほれ、見ろ!」
バンの言葉に胸を張って鼻の穴を膨らませたのは、ヨサクかイサクか。二人が振り返った際に立ち位置が入れ替わったように見えたが、バンはもうどちらでもよくなっていた。
「やっぱりオラの言った通りだったべ!?」
「先に言ったのはオレの方だべ!?」
袖をまくって拳を振り上げたのは多分イサクだ。だが、二人の喧嘩などに付き合っている場合ではなかった。あまり長いこと待たせると、堪え性のないイコが何を始めるかわからない。そう思ったバンは、二人の間に割って入った。
「すまないが、主人が待っている。人が住む場所まで案内を頼めないだろうか」
「そったらこと、いぎなり言われても、無理だ」
「そうなのか? ……礼ならきちんとさせてもらうが」
バンはもうどちらが誰か意に介さなくなっていたが、渋面を作ったのはヨサクだった。
「そういうこっちゃねえ。貴族様をお助けするのは当たり前だ。だけんどオラたつはまだ獲物を狩れてねんだ」
ヨサクが空の袋をヒラヒラと振ってみせた。隣で腕を組んでいたイサクも口を開き、
「オレたつが獲物を獲って帰らねえと、夕食に雌鶏をすめなきゃならね」と言うとヨサクが、
「んだ、んだ」と深く頷いた。
なるほど、そういうことかとバンも内心で頷いていた。ならば、話は簡単だ。
「んだもんで、オラたつが狩りを済ますのを待っててくれれば――ちょ、なにするだ!?」
「慌てるな、イサク。その矢を一本貸せ」
「オラはヨサクだ!」
「……すまない」
慌てて背中の矢筒を庇おうとしたヨサクの肩を抑え、長身のバンは筒の中から一本の矢を引っ張り出した。その先端は金属製ではなく、木材の先端を鋭利に尖らせただけのものだった。
「ふむ。強度はまあまああるか」
軽く振って矢の重さ、固さを確かめたバンは、右手で矢の真ん中あたりを握りしめた。
「ところで、何を狩るんだ?」
「へ? ……そりゃあ、お前、“スス”だべ」
「んだ。ここは“ススの森”だからな――あっ! こら! 矢は大事に――」
呆気にとられていたヨサクとイサクが応じると、バンは右手を振りかぶった。何をするつもりなのか悟ったらしいイサクが制止するために声を上げたが、バンはそれを一瞥するとニヤリと笑って右手を素早く振り下ろした。
東に向かって放たれた矢は、まさに目にも留まらぬ速さで飛翔し、一瞬後には見えなくなっていた。ヨサクとイサクには、いや普通の人間にはその軌跡を目で追うことなどできはしない。しかし、二人の若い青年は、矢がどこに向かったのかを知ることができた。
「ススとやらを狩る手伝いをしよう。そうすれば、人里までの案内を頼めるな?」
「なにもんだ……お前」
「馬鹿。ばけもんに決まってるべ……」
ヨサクとイサクが見つめる先には、幹の直径が三メートルはあろうかという大木があった。そこに向かって放たれた矢は、矢筈を僅かに残して深々と幹に突き刺さっていた。