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「卵かけごはんが食いてえ」
これが、自他ともに認める人類最強だった男が遺した最期の言葉である。彼は戦いに傷つき、魔王城に囚われ獄中で死亡した。
人魔大戦――千年続いた人間と魔物の戦いは、勇者アルフレッドの死をもって魔王軍に勝利をもたらした。
人の歴史は終わり、世界の年号は勝魔と改められた。人類にとっては魔の勝利によってもたらされた暗黒の歴史の始まりであった。新たな世界の王となった魔王は、人類の存在を許さない。表向きは人類の降伏を受け入れつつも、なんだかんだと理由を付けては人間の指導者たちを処刑していった。
勝魔歴二年。
新年を祝う席にて魔王の実子、アムドラとその従者たちが「特別料理」を振る舞った。それまで魔物の世界では流通していなかった、米と卵を使ったもので、炊き立ての米に卵を割り入れただけのシンプルなものだった。嗜好品と言えば酒や生き血と相場が決まっていた魔の王侯貴族は、怪訝な表情を隠さなかったが、魔王子アムドラは稲の種子を「生命の根源」と称し、生の卵は「穢れなき魂の宿るゆりかご」だと説明した。その味わいと栄養価の高さについては言わずもがな。魔王を含めて居並ぶ文官武官の舌を虜にした料理は、あっという間に彼らの胃袋に納められた。
アムドラはその様子を満足げに見渡すと、父王の許しを得て演説を始めた。
「米と卵を量産する技術は魔に属するものにはなく、茶碗一杯の料理には人類の叡智が詰まっている。それを口にし、歓喜した心は人と魔に共通するものだ。人類を根絶やしにし、闇に葬ることで魔物の心は感動を忘れ、勝魔の歴史は暗闇に堕ちてゆくのではないか」
歴史上、魔王の御前にて人を擁護する考えを主張したものは皆無だ。人間との友和を持ちかけたアムドラに、魔王はかつてない怒りの眼差しを向けた――
◇
「……余が、愚かだったと思うか」
アムドラは力なく項垂れ、呟くように問いかけた。
魔王の子として生まれたアムドラは、この世に生を受けてから幾百年、地べたに腰を降ろしたことなど一度たりとてない。先の戦争――人類の降伏は受け入れられたが、実際は各地で抵抗勢力との戦いが続いている。しかし人間の勇者が獄中で死亡してからというもの人間側の士気は大きく下がり、魔と人の大戦は一方的な侵略へと様相を変えた――において兄と弟、それに婚約者であった将軍を殺された時であっても、涙一つ見せることはなかった気丈さを持っているはずの魔族は今、力なく地べたに座り込んでいた。
問いかけられたのは、アムドラのそばに佇む主従関係を結んで二年ほどの人型の魔物だった。人間からは悪魔などと呼ばれる類のこの魔物は、勇者アルフレッドが囚われていた牢獄の牢番を務めていたもので、彼の最後の願いを叶えるべく奔走した結果、アムドラに召し抱えられ、共に追放の憂き目に遭ったのだ。本来、追放されるものが従者を伴うことなど許されない。アムドラは一体で追放されるはずだった。しかし兵糧に米を導入したという功績を考慮され、これを許されたのだった。
「私は、殿下の行いを批評する立場にはございません」
魔王子によって大臣の位を与えられ、城仕えをすることとなった彼は、牢屋番の身分ではけして袖を通すことはなかっただろう、王族の召し物にしか使われない魔蚕の糸をふんだんに使った白シャツの上に、豪奢な刺繍が施されたベヒモスの皮をなめしたこげ茶色のベストを羽織っていた。静かな湖面を思わせる深いブルーの瞳は、へたり込んだ主人の姿を映すわけにはいかないとでもいうように彼らを囲む森の深淵に向けられ、引き結んでいた薄い唇から怨み言の一つも言うことはなく、といって主君の様子を気遣うわけでもなく、問われたことについて己の立場を示すことでもって答えた。
「オイラは、アムドラは馬鹿だと思うな――ムグッ!?」
「こここ、こらイコ!」
石像のように直立不動の姿勢を保っている元牢屋番――勇者から「バンさん」と呼ばれていた魔物の足に寄りかかって忌憚のない意見を述べたのは、身長百三十センチほどの魔物だった。イコと呼ばれた魔物は額に生えた小さな一本角がなければ、人間の幼女――それも高い身分の家に仕える給仕係にでも見えた事だろう。というのも、その魔物はとても愛らしい姿をしていたからだ。猫の様な目の真ん中につぶらな赤い瞳が輝いており、強めのウェーブがかかった緑の髪を背中まで伸ばしていて、瞳の色と合わせたのかサンゴの飾りがついたカチューシャで長い前髪を上げている。纏う服は黒を基調に袖口やスカートの裾に白いフリルがあしらわれたメイド服だった。
「むー! 離せよシャルロット!」
「なりません! 毎日、アムドラ様にそのような口をきいてはいけないと口を酸っぱくしているのに、お前ときたら――」
「なんだよ! シャルロットだって『殿下が下手なことを言うから』ってぼやいてただろ――モガッ!?」
「おほほほほ! 何を言いだすかと思えば、この小魔は! ほほほほほ!!」
イコは外見に反して言葉遣いは粗野であり、とても王族に相対しているとは思えないものであった。その彼女の口を塞ぎ、普段以上に青白い顔になった魔物がいた。こちらも元牢屋番と同じく人型の魔物であった。言葉遣いと立ち居振る舞いがイコとは違って洗練されたものであり、幼女を取り押さえる姿にすら気品が漂っていた。着用している服は襟元に複雑な紋様の刺繍をあしらったシルクシャツ、その上に羽織った乗馬服に似た黒い薄手のジャケットと同様、下半身にピタリとフィットした白ズボンが女性らしい起伏を際立たせていた。アーモンド形の目と大きな茶色の瞳、人間で言えば年の頃は二十代前半に見える。彼女ほどの器量でダンスパーティーに出席すれば、引く手あまたであっただろう。
「こら、尻尾を掴んではなりません――あ、あああ……ら、らめれすって……ば……!」
ただしそれは、豊かなヒップの上、腰の少し下あたりから生えた、やや青みがかった黒毛の猫の様な尻尾と、肩の少し上で切り揃えられた同色の髪の隙間から顔を覗かせる、やはり猫を思わせる両耳さえなければの話だ。
「ふ……そうか。そなたらもそう思うか……」
「あの、あの、殿下? わたくしはけして、イコが申したようなことは」
弱点を責められてふにゃふにゃになりながらも、潔白を主張するシャルロットを一瞥すると、魔王子は深いため息をついた。
「よい。やはり、父王に和平を奨めるなど、間違ったことであったのだ」
「ほらやっぱり。アムドラは馬――ムグー!!」
「ほほほほほ!! この小魔めが! それ以上言うと鞭打ちですわよ!?」
再び取っ組み合いを始めた二体を尻目に、紫の唇から洩れた笑いとは裏腹な感情を見ごとに表出させた暗い顔で、魔物の王子アムドラが天を仰いだ。
「所詮、人と魔物は相容れぬもの。人は百年も生きぬが、父王はもう五百歳だ。長く戦を続け、家族や仲間を失う悲しみを味わい続けたお方に、敵を赦せなどと……」
「失礼ながら殿下、はたして本当にそうでしょうか」
自嘲気味に始まった魔王子の独白は、元牢屋番のバンによって遮られた。相変わらず直立不動のまま、彼は目を伏せて口を開いた。
「千年も前に始まった戦争の動機など、今を生きる私たちは知りません」
バンの口調は静かであった。春を迎えた森は小鳥のさえずりや風に揺れる木々が枝葉をこすり合わせる音、時折野生の動物たちが鳴き交わす声などで満ちている。その只中にあって、彼の低い声は三体の魔物の喧騒を打ち消して響き渡った。
「王陛下のお心を慮れば、人間撲滅は致し方ないことのように思えます。王子殿下が仰せのとおり、人と魔は本来相容れぬものなのかもしれません。ですが」
バンは携えていた槍の柄を握り、目を開いた。
「私はアルフレッドと心を交わし、彼のために料理を作ってやろうと思いました。家族のために竈に立ったことすらない私が、です。結果として料理は彼の死に間に合いませんでしたが、イコと出会い、殿下に召し抱えて頂く栄誉にあずかり、そのおかげで兵たちは米を食する喜びを知り、力を得ました。私は、この世界で生きているという以外は何一つ共通点を持たないとされていた人と魔との間に、架け橋を作るきっかけを見たような気がしています」
イコ、アムドラを順に見ながら話すバン。自分の方には顔を向けられなかったシャルロットが目を吊り上げたのちに少しだけ肩を落としたが、元牢屋番は気づかなかった。
「僭越ながら王子殿下、一つ提案することをお許し願えますでしょうか」
アムドラは黙したままバンを見上げていた。彼はそれを肯定ととらえたわけではないが、構わず話を続けた。
「私たちで人と魔との間に縁を結んではいかがでしょう」
「縁……か」
「世迷言ですわ」
バンの言葉に答えようとする魔王子を遮ったのは、シャルロットだった。
「人と魔物の間に結べる縁は、食うか食われるかだけですわ。長きにわたって殺し合いを続けてきたわたくしたちが、今更慣れ合うなど不可能です」
「それは、お互いを知らないからだ。私は、アルフレッドという人物を知り、好感を持てた」
再び目を閉じ、腕を組んで答えたバン。シャルロットはその様子を見て顎先をくいと上げてせせら笑った。
「歴史上もっとも多くの仲間を屠った男に好感ですって? 貴方、男色の趣味でもおありですの?」
「……」
二体の間に緊張が走った。
シャルロット・マリーンは魔王子アムドラの世話係という肩書きを持つ。魔物としてそれなり以上どころか魔王に次ぐ力を誇る魔物に成長したアムドラが幼い頃に、礼儀作法を叩きこんだ実力者だ。
対するバンも、囚われ、拷問の果てに弱っていたとはいえ人類最強の勇者の牢屋番を任された魔物だ。
「おい、二体とも――」
もし、この二体が戦うことにでもなれば――もちろんアムドラの力をもってすれば止めることは可能だろう。しかし互いに無傷では済まないし、周囲に大きな被害が出ることは必至だ。近くに人間の集落でもあれば、縁を結ぶどころか攻撃されかねない。
焦ったアムドラが立ち上がり、二体の間に入ろうとしたその時だった。
「なあ、バン」
一触即発の空気をものともせず、バンのズボンのすそを引っ張ったのは小鬼のイコだった。
「“えにし”ってなんだ? うまいのか?」
「……イコ、食い物じゃない」
バンは緊張を解き、イコの頭に手を置いて嘆息したが、シャルロットはうなじの毛を逆立てたまま口を開いた。
「イコ、お前は――」
シャルロットが何か言いかけた瞬間、小鬼はサッとバンの後ろに駆け込んだ。そして、股の間から顔だけ出して、
「ニンゲンに会いに行くなら、オイラは“ごはん”が食べたい!」と言ってニンマリと笑った。
「何を言って――」
シャルロットはイコを捕まえようと手を伸ばしたが、その先に佇む男の下半身と顔を交互に見て押し留まった。そして、一瞬膠着した空気を逃さず、この場で最も高貴な魔物が口を開いた。
「そ、そうだな! 余も、ごはんがよい!」
「アムドラ様まで……」
かくして魔王子一行は、とりあえず人が暮らす村落を探して旅立ったのであった。