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短編集

牛丼屋にて

作者: セキムラ

 某牛丼チェーン店が朝の営業を再開した。かねてからブラック企業ということでメディアを騒がせているのが親会社だが、人材を確保することに成功したのだろう。

 とにかく、月に一度か二度は朝外食をすることにしていて、牛丼をこよなく愛している僕としては嬉しい限りだ。

 車を降り、春風を受けて踊る『24h 営業』の幟に心踊らせ、僕は店舗へと足早に向かう。そんなに牛丼が楽しみかと、あるいはどれだけ空腹なんだこの男はと思われても構わなかった。武士は食わねど~なんて時代ではないし、ざっと見渡した限りでは周囲に人の目はない。

 

 なるほどこれか。

 自動ドアの前に立ってみれば、求人広告が透明なはずのガラス板の一面に飾られ、清潔そうな店の制服を着こなしたモデルの微笑みがまぶしい。彼らの整った姿態の下には『9:00~17:00時給\1000~』と明記されていた。以前の賃金は百円ほど低かったはずだ。都内の飲食店に引けをとらない待遇を見て、金がもつ力の大きさに感謝しながら、僕は店内に足を踏み入れた。

 なぜかベタつくリノリウムの床を踏むと、小気味いいとは言えない摩擦音が店内に響く。客の来店を告げるドアブザーの電子音、すぐさま嗅覚を刺激してくる牛バラ肉と玉ねぎが煮えた匂い、音量が控えめに設定されたラジオの音声。それら全てが懐かしい。

 しかし、なにかが違う。

 数ヵ月ぶりに訪れた牛丼屋は、一見すると何も変わっていないように見えるのだが。


「……」


 言い知れぬ不安を飲み下し、不思議な粘着力を持つ床を踏んでカウンター席へ向かった。他に客がいるわけでもなく、もしかすると店員までいないのでは? と思わせるほど店内は静かだった。前にこの店で朝食をとった時は、二十歳くらいに見える青年の店員がいた。生気のない顔をしていたが、僕の目から見る限りでは、彼の仕事振りは誠実だった。


「ぇらせせ」

「へ!?」


 彼は辞めてしまったのか、まさか病気で……などと荒唐無稽なことを考えつつ、カラカラに乾いた物体――恐らくそれはかつて紅しょうがという食物だったろうことがその周囲にこびりついて乾燥した赤いシミからわかった――が落ちていない席に陣取りメニューを手にとろうとした僕の目の前に液体が六割ほど入ったグラスが現れた。ほどよく角が取れた氷が数個浮いており、それらとグラスがぶつかってカラン、と音を立てた。何故だかそれは、とても乾いた音に聞こえた。

 謎の言葉、ぇらせせ――低い声を口中で噛むように発したのだろう。それは呪詛のようにしか聞こえなかった――とともに、影から涌き出たかのごとく現れた男が牛丼屋の制服を着ていたお陰で、僕は彼を店員であると認識できた。同時に彼が吐いたのは呪詛の言葉ではなく、客を迎える歓待の言すなわち『いらっしゃいませ』に脳内変換され、男が僕を見下ろしたまま微動だにしないのは、客の注文を律儀に待っているのだということも理解できた。


「高菜めんたいマヨ、健康セットで」僕はメニューをとらず、大好きだったセットを注文した。


「……はい」


 恐らくこのチェーン店を世界中に展開している親会社は、接客マニュアルを大幅に改定し、簡略化したのだろう。

 まず、客に対する笑顔は削除。店の掃除はどんなに暇でも定期清掃以外行わない。さらに労働者にできるだけ小さな声で話させることによって、体力の温存に努めるよう定めているに違いない。


「ぇらせせ」


 僕が親会社の努力について考察していると、新たにやってきた客が呪文の洗礼を受けていた。はす向かいの席に座った中年男性の目の前でも先程と同じ光景が繰り返されていることだろう。店員がグラスに素手で氷を掴んで入れているのも、改定したマニュアルに明記されている業務に違いない。きっと、トングなどを洗浄するコストを抑えるなど、目的や意味はあるのだ。

 メディアの攻撃力は本当に恐ろしいものだと、零細企業の一労働者として戦慄を覚えていると、先程の店員がトレーを持って戻ってきた。


「……」

 

 無言だ。

 僕は無意識のうちに姿勢を正していた。それは彼の愚直な仕事振りに感銘を受けたからだろう。彼はまさに社畜なのだ。どこまでもマニュアルに忠実な彼は、客に対する暖かい接遇などという、余計な行動をとってはならないと教え込まれているに違いない。僕は、彼が徹底した社員教育を受けているということを、運ばれてきた牛丼を手にして改めて実感した。

 牛丼は、完璧に盛られていたのだ。学生時代に別の牛丼屋でアルバイトをしていた僕は、牛丼の盛り方を見ればその店員のレベルがわかる。具と御飯のバランス、肉と玉ねぎの比率、美しい碁盤模様を描くめんたいマヨ、どれもが素晴らしい。どんぶりの縁に液だれもなく、早朝の牛丼屋特有のやや煮詰まった出汁の香りに僕はノックアウト寸前だった。


いただきます。

海を越えて日本にやってきて、時給千二百五十円で働く彼の愚直な仕事ぶりに舌を巻きつつ、彼が作り出した静寂を壊さぬよう、心の中で謝辞を述べ、僕は牛丼を掻き込んだ。

うまい。

適度に出汁を切ってあるため、御飯がびちゃびちゃになることはなく、濃い味の具と絡まって飲み会明けの胃が強制的に目覚めさせられる。火傷寸前の熱い味噌汁が喉を焼くかのようで、靄がかかったようだった頭もスッキリした。もしかしたらグラスに氷を素手で投入したのも、この熱さをじっくりと味わってくださいという、企業側からのメッセージなのかもしれない。

喉元を過ぎてなお、胃壁を越え腹膜を介して居座る熱い液体をさらに飲み下し、もう少しでグラスを掴みそうになる左手をどうにか中枢神経の支配下に置いた。


この次は違う店舗に行こう。


僕は冷奴の上に飾られたタクアン漬けをよけながら、心に誓った。




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