二章
二章
もしも誰かがこの場にいたとしたら、他人のロッカーの前にかがんでがさごそと中身を漁っている俺の後ろ姿はさながらこそどろのように見えたことだろう、と俺は思った。
例によって朝ドリル前。
昨日と違うところはまだ予鈴が鳴っていないというところ。クラスにいる人数は俺を含めてただ一人。つまり俺は独り。現在クラスは俺が占領中だ、ふはははは。と笑いたくなりはしないが、いや、ともかく一人だ。
「ぼくは?」
ルキがうしろから話しかけてくる。
ノーカウント……いや、ノーコメント。俺は作業に没頭する。
どうしてこんな朝っぱらから俺がロッカーを漁っているかというと、そのロッカーというのは女子のものだからだ。男子のものならば、漫画借りるよ、てへ。で済むのだが、女子のものとなると仕方がないとはいえ気が引ける。
俺は自分の横に積まれた荷物の山とロッカーに残された中身を見る。
確認。――完了。これですべてだ。
「これらは何事なの? この山は」
「俺の荷物だ」
そう、これらは俺が木村さんのロッカーに無断で入れていたものだ。昨日、ジャージのことで木村さんに迷惑をかけたようだから、これを機に全部自分のところに戻しておこうと思い立ったわけで。
俺のロッカーの中身はもうすべて出してある。きちんと整理しないと木村さんのところに入れていたものが入らないからだ。
それで、二つの中身を合わせて、この山。……いったいどれだけ溜め込めば気が済むんだ俺。いくらなんでもこれはない。
がららっ、と、そのとき、教室の戸が開いた。
一人しかいない教室の中でその音はかなり大きく響き、俺はびくっと肩を縮こませた。
思わずそちらのほうに目をやると、担任の先生が例のごとくプリントを持って入ってくるところだった。教室には俺しかいない――むろん先生には天使であるルキのことは目に見えない――から、もろに視線がかち合った。
「おはよーう、厚紫」
挨拶。
外国語のうまい者というのはどうも日本語の発音も少し不思議な感じになるらしい。先生は生粋の日本人のはずだが、言葉が口の中にこもったような響きに聞こえる。
「おはようございます」
俺も挨拶を返した。
先生は俺の横に築き上げられた荷物の山については詮索せず、プリントを置いてさっさと教室を出ていく。
朝はとにかく忙しいのだ。職員会議や授業の準備……それからついでのついでに前日の朝ドリルの返却のための、整理。
忙しいなら朝ドリルは廃止してくれればこちらの労力も先生の労力も減るだろうというものだが、まあ叶うはずもなく。
うん。仕方がない。
教室の戸ががらがらっと音を立てた。
先生。閉まりきってないです、戸。――俺は心の中でひそかに突っ込みを入れた。
それでもなんとなく俺はほっと息をつく。
こんな作業、誰かがいるところではあまりしたくない。じーっと注目されるのは不本意だからだ。
「そーしくん、ぼくは?」
「お前はいつでも所構わず俺のそばにいるだろうが」
ノーカウントだ。
しかし。俺がまた一人で作業ができるな、と思ったそのとき。
「おはよーう」
先生がまた挨拶をした。もちろんその相手は俺ではない。そしてこれまたもちろん、俺の隣にいるルキにでもない。
「おはようございます」
小声でそう挨拶をして先生と入れ違いで、がら、がら、と閉まりきっていない教室の戸を控え目に開けて入ってきたのは、木村さんだった。
うん、ばっちり目があった。
「おはよう木村さん」
「お、おはよう庄司くん」
木村さんは一応自分の席に座ったものの、ちらちらと俺のほうを見てくるので落ち着かない。そわそわと立ち上がって教卓の上に置かれているプリントを配ってからもこちらを気にしている。
いや気になるって。
気にしているなら一度会話を試みたほうがすっきりするだろうが、昨日のことは例外にしても、木村さんの性格からすると自ら進んで話しかけてくるようなことはないだろうから、仕方なく俺のほうから話しかけることにする。
「あー、木村さん、ごめん」
「え?」
「昨日。ジャージと鞄のこと。あ、違うな、うん――ありがとう、だよな。昨日はどうもな。ロッカーの中身は俺の分は撤去しておくから」
「あ、うん。……入るの?」
おずおずとそう聞かれたが。
正直、入る気がしない。
俺が山を見てため息をつくと、木村さんはためらいがちに提案してきた。
「あの、別に今すぐ全部退けなくてもいいよ? そのジャージ……、誰のだか分からなくてちょっと困ってたんだけど、庄司くんのだってちゃんと分かったからもうあんまり気にしてないし。間違って私の教科書使ったり体育館シューズを突っ込んで資料集のページを折ったりしなければそのまま置いててもいいから」
ルキが俺の顔を覗き込んでくる。
「……もしかしてやっちゃったことあるの?」
ぐさっと俺の良心に何か精神的に訴えるものが刺さった。
あるかも、というか確実に、ある。プリント類は強引に突っ込んでいるし、ロッカーの扉も足で蹴り飛ばして閉めることも多々あるし。
「ごめんっ」
ここはとりあえず謝っておくのが正解?
「木村さん、本気で感謝。近いうちに全部他のところに移すようにするから、あー、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると木村さんは戸惑ったように頷いて前のほうに向き直り、朝ドリルのプリントを始めた。
机を叩く鉛筆の音。
俺はとりあえずたまりに溜まったいらないプリントを選り分けてごみ箱に捨てることにする。
それからとりあえず今日の授業で使う教科書は机の中に入れておき、使わない予定の教科書は自分のロッカーに戻し、ジャージと体育館シューズも自分のロッカーに戻し、いつも通り鞄は机のわきにかけ、……あれ?
「そーしくん、全部入っちゃったみたいだけど」
「そうだな、これは予想外だ」
まあ入ったのなら入ったで構わないだろう。このプリントの束は捨てるにしても、いやこの状況はあれか、終業式前の荷物整理か、と突っ込みたくなるような気持ちはなんだと思うのだが、どうだ。
「どうだ、と言われてもね」
ルキがうーんと考えるように唸ったが、なんの言葉も思い浮かばなかったらしく、首を振って肩をすくめた。
がらっ。
また教室の戸が開き、誰かが入ってきた――いや、誰か、ではなく、俺はばっちりこのクラスの者ではないはずの騒がしい奴すなわち有間の顔を見た。
「おはよんしょーじー、昨日は大変だったよねまったくさ? あ、木村さんも。超おはようっ、ボーナンマテーノン!」
毎度毎度よくこうまで騒がしくはしゃげるものだ。
だいたい、木村さんだって困っている。普段は構わないくせに有間のような元気キャラに構われたら真面目女子の木村さんは警戒したくもなるだろう。有間のことだから、昨日はどうも、くらいの軽い親しみを込めた挨拶のつもりなのだろうが。
「どうして? ぼくはやっぱり挨拶されたほうが気分いいと思うけど」
「そりゃあ……色々あるんだよ。男子のほうはまだまだお子サマだからな。無駄に誰かをいじめたくなったりする奴がいるんだ」
特に木村さんのような真面目でおとなしくて内向的で皆の輪から外れやすい女子は格好の的なわけで。
有間が話しかけてくる。
「それで、その状況はあれか、終業式前の荷物整理的な」
プリントを抱えている俺のことを指差してそう言った。
さりげなく俺の考えていたことと同じなのが気に食わない。有間め。
俺はプリントを抱えたまま返事をする。
「見ての通り単なる片付けだ。まりおこそなんの用なんだ? また朝ドリルが英語のやつだったのか?」
二日連続で同じ科目のプリントというのはそう珍しくはないのだ。この前は古典が一週間続いた。
しかし有間は首を振る。
「いやドリルはどうだか知らねーな、俺の担任まだ来てなかったからドリル配られてないし。違うって。そうじゃなくて、伝言を預かってきたんだよ。佐藤から」
「佐藤から?」
「そう。昼休みにまた会いにくるってさ。モテモテだなしょーじ」
……嬉しくない。
というか伝言を預かってきたと言いつつしっかりとプリントを親指と人差し指でつまんでひらひらさせながらさも当然だというふうに俺の席に座ってちょこんと待機しているこいつをどう突っ込んだらいいだろうか。というか俺の座る場所は?
どうして俺の机で朝ドリルをするんだ、有間。
違う。
朝ドリルが配られていないと言いつつプリントを持っているということは、つまりそれは宿題――それもこの学年を担当している先生から考えると高確率で数学だ。
……それに関して何か突っ込んでおいたほうがいいのだろうか?
俺はため息をつく。
まあ有間だから仕方がない。いや、妥協する気はないが。
がらっ。
俺がどうやって有間を撃退しようかと頭の中で策を練っていると、教室の戸の開く音がして、また数人が入ってきた。
「有間ー厚紫ー、超おはよー」
「はよー」
「おー」
「おはよう厚紫ー」
「おはっちゃー厚紫」
「おー」
「おはよー」
「はよー」
「おー」
「おはよー厚紫と有間ー」
「おー……ってなんでさも当然と言わんばかりに俺とまりおをまとめて呼ぶんだ」
……と、ごちゃごちゃと挨拶をしまくったが、その全員が全員男子だというのが切なく感じる俺。
それから。
気になったのでちらりと横のほうを見てみる。
――木村さんは少し硬い表情をして、入ってきたクラスメイトの一人を見ていた。
そう、今は見向きもしていないが、そいつは入学数週間後から木村さんにちょっかいを出しているのだ。
総シカトとか頭にジュースをぶっかけたりとかいう典型的ないじめというほど大げさなことはないようなので、放置しているのだが。
「ずいぶんと詳しいようだねそーしくん?」
「そりゃあこの学校に入ってからずっと見ていたからな」
「……ぞっこん?」
ルキの言葉に俺は半身ほど勢いよく振り返ったため、抱えていたプリントを手元に数枚残したのみであとのものをごっそりと取り落とし、しかも、そちらを振り返って拾おうとかがんだら足をぶつけてごみ箱をどかっとひっくり返して中身を散らしてしまった。
「おいしょーじー」
これは有間。
それと。
「何やってんだよ庄司ー」
「びっくりさせんなよ庄司ー」
「ドジっ子属性かよ庄司ー」
それに続いて悪乗りした男子数人に囃された。
……というか。
「だぁあッ! お前らここぞとばかりに俺の名前をからかうな!」
誰がしょうじだ。庄司はそうしって読むんだっての。
俺はごみ箱をもとに戻して床に散らばった中身を集めて捨て、ついでに俺のプリントも全部突っ込んでおいた。
そして、自分の列のプリントを配って席に戻る。
……が、俺の席には有間が座っているわけで、俺は、えっと……どうしろと?
「しょーじ、いい加減シャーペン買ってよ。俺、鉛筆好きくないし」
有間が俺の机にかけてあった鞄から筆箱を勝手に引っ張り出して鉛筆を使っていた。
どうしてこいつが俺の席に座っていて、俺のほうは立っていなければならないんだ?
「座ればいいじゃない?」
ルキが空いている席を指して言った。
いや、俺の席に俺が座れないというのがおかしいだろうこれ。理不尽だ。
というわけで俺は有間から鉛筆を取り上げてぺいっと有間を椅子から引き剥がし、そこに座った。
なにやら有間がひどい、薄情者、ちょっとくらいいいじゃんか馬鹿、こよなく愛される
べき有間様になんてことをしてくれるんだしょーじ、などと喚いている気がするが、すべてスルー。色々突っ込みたいところもあるが、ともかくスルー。俺は昨日の予定通り、今日中に読むべき漫画を読むことにする。
漫画を開いたところで有間は俺の席で朝ドリル――いや、宿題だな――を書き上げることをあきらめたようで、ぷんすかと大げさな身振りをして、覚えていやがれしょーじ、とうわあ今どきそんな典型的な捨てゼリフを聞けるとはというような雄叫びをあげつつ教室を出ていった。
うん。平和。
のはずだったが。
「じゃなくてそーしくん、結局そーしくんは木村さんにぞっこんなの?」
……ルキめ、余計なことを。
「だから、違うって。分かるだろう?」
俺は力いっぱい否定した。
いつも俺が木村さんのことを見ているのは、どうやら木村さんが特殊な体質なようだからだ。
木村さんの守護天使はどちらも上級エンジェルだ。深い茶色と、濃いめのオレンジ。
いや、それはまあいい。二匹ともどこにでもいるような普通の守護天使だ。
重要なのは、守護天使たちがしょっちゅう力を送っているのに木村さんがその力が効いていないような振る舞いをしていることだ。
守護天使の影響はたいしたものではないが、力を百回送ったとして百回ともことごとく効かないようなことはありえない。
いつもと言っても四六時中見ているわけではないから、俺の知らないときには効いているのかもしれないが。
……しかし少なくとも俺が見るときには必ず失敗している。だから、気になって仕方がない。
「ことごとく、ね」
ルキが少し首を傾げて言う。
「そーしくんの考える通り、そんなことはありえないよ」
「でも現に効いてないだろう?」
「うん、いや、うーん」
ルキは考え込むように口元に人差し指をあてて目を天井に向ける。そして、うん、やっぱりちゃんと力を受けているはずだよ、と、ルキはそう言った。
「それはたぶん自分の心を押し殺しているのだろうね。やりたいと思っていても、なんらかの精神的な原因で行動をためらわされているとか」
「うーん」
俺は考える。考えて、ある程度確信を持って尋ねた。
「……例えばいじめとか?」
ルキは首を振る。
しかし――横に、だ。
否定。
何が確信だ俺のお馬鹿。
いや、木村さんのことだからそれが一番正解に近いと思ったというか。
「うーん、別にそういったどかんと衝撃的な理由がなくてもかまわないよ。例えば親しい人にちょっとした軽口を言ったらもの凄い剣幕で怒鳴られたとか、早とちりを指摘されて恥ずかしい思いをしたとか、自分の自己中心さに気付いてしまったりとか、電車の中で優先席を譲ろうかよそうか迷いに迷って結局答えが出ないまま駅に着いたりとか、――そういった小さな失敗や後悔や絶望を繰り返すたびに、自分の行動に対して絶大な恐怖を感じるようになっていく人がいるんだ」
ルキは言う。
「そういう人は普段は話さないような誰かと話をしたり重要な決断をしたりして日常から少し外れた行動をするたびに、それまでの失敗の数々を一挙に思い出してしまうことがある。そうなったら自分はすべてがすべて間違っていて、まったく救いようのない馬鹿だと劣等感を抱いたりする」
「劣等感?」
「そう。彼らは日常を崩されることを非常に嫌う。だから、知らない誰かとのやり取りは恐怖だし、新しい世界というものには絶望を感じる。つまり――」
俺は答えた。
「――ルーティンワーク」
頷く。
「そうだね。彼らは自分のマニュアル通りにしか生きられないから、一切の他者を排除する。それには当然守護天使の力も含まれるわけで」
力が通じないのは、自分を閉じているからだ。
自分のやりたいことも我慢して、日常を守ろうとする。いや、我慢、というよりもあきらめ、といったほうがいいだろう。目の前の壁が高すぎるから、何もせずにいたほうがいい、と。
……それってつまり要約すると、超内向的で頑固な性格、ということではないか。
それってつまり。
「損だ」
俺は深々とため息をついた。
「損だ」
「そうだね」
それってつまり。
どこまで行っても同じ世界。
俺は思う。
それはかなり壮絶な生き方なのではないだろうか?
まるで無機物。
この世はすべて化学反応だとでも言わんばかりの生き方。
「でも、本人にとっては楽な生き方だよ」
「知ってる」
なにせ同じような毎日が繰り返し繰り返し繰り返されるのだから、要は単なる慣れの問題に成り下がる。
しかし。
また俺はため息をつく。
やはり損だ。
開きっぱなしの漫画はもう読む気にはなれなかった。
俺は木村さんのほうへと目を向ける。
黙々とプリントに取り組む木村さんの前を、例の要注意クラスメイトが横切る。なにやら守護天使が力を送っているようだったが、木村さんはその男子が目に入らないように頭を下げていた。
「どうするのそーしくん」
「分からない」
いや。
俺は首を振って否定する。
多分、というか確実に、俺は何もしないだろう。
その要注意男子にしてもちょっかいを出すのは木村さんに対してだけで、他のクラスメイトにとっては普通に気さくな奴だ。
それに、ちょっかいを出すのも、もう一人――相方がそばにいるときだけだし……出すにしてもたいしたものではないし。そう害のあることでもないわけで。
どうにかしようなんて。
……何をどうすればいいんだ?
「難しいねぇ」
「まったくだ」
俺は今日と昨日、それから一昨日のルキの言動を思い出す。
こいつは俺に何か特別なことをさせようとしているわけではないようだった。俺は元々は死んだら天使になる器だったのだが、こいつはそれにかこつけておかしな使命感を吹き込むような真似はしていない。
こいつは単に俺の守護天使になるためにやってきたのであって、世界を救うためにとかそういった感じで俺を救世主に仕立て上げるようなつもりはないのだ。
むしろ俺が何か特別なことをするような気がないことを、嬉しく思っているような節もある。
守護天使たちの言動を詳しく見ていればある程度他人の心が読めるから、もしかしたら俺の力を強化すればそいつらに干渉できるようになるかもしれない――つまり他人の意思を、気付かれないうちに変えることすらできるかもしれない。
この守護天使を見る力と、ルキと話していても他人に違和感を与えないようにする力の他にも、もっと凄い力を目覚めさせることだってできるかもしれない。
ファンタジー世界の主人公のような魔法だって使えるかもしれない。
しかしそれらは――。
今は別段必要というわけでもないというか。
正直、たいして興味がないというか。
俺はごくごく日々飽きることなく普通に過ごしたいわけで。
……いや。
そこで俺の思考はぱちりとすべてが枠にはまるように、結論を得た。
俺はルキに……というよりはなかば自分に言い聞かせるように言って、頷いた。
「うん、でもまあ気が向いたら注意くらいはしてやるよ」
ルキが首を傾げて俺に言う。
「そーしくん。さっきと言ってることが違う気がするけど」
「細かいことは気にするなよ」
俺は言う。
だって、本気で本当に何もしないというのはむしろ不自然だろう?
何故ならば何もしないという行為は、俺の日常から外れるような特別なことなどはしない、という意味であって、気になって気になって仕方なくなっても何も言わないなどということとはわけが違うからで。
守護天使から俺に干渉してくることは――ルキや佐藤の緋い奴を除いて――ないが、俺にはそいつらが見えているわけで。その言葉に興味を抱くのは当然で、なにか気まぐれを起こすくらいのことはあり得ないことではない。……と思う。
うん。
あくまでも気が向いたら、だ。
おいおいあんまりか弱い女の子をいじめてんじゃねぇよ、とかいう軽い調子で言ってやればいいだろう。
そんな機会は多分来ないと思うが。
「なんだ。それでも助けるつもりなんだねそーしくん?」
「いや、そんなものではないって」
どちらかというとお節介とかちょっかいとかの部類というか……。
これは、何かをする、というようなたいしたものではない。はずだ。
俺がそんなことを思っていると、ルキは笑いをこらえようとしつつまったくこらえられてねぇぞこらと突っ込みたくなるような表情で俺を見てきた。
気持ち悪いぞルキ。
「ぼくもそう思う」
俺はもう一度開きっぱなしの漫画に目を落とした。
しかしやはりそれを読む気にはなれなかった。――ルキが隣で笑い続けていて、集中できないのだ。
ため息。
今日中に読まなければならないのに。
「まあ、あんまり深く考えないほうがいいよ」
「うん。……いざとなったら授業中に読めばいいしな」
「いやそれは学生としてどうなのかと……」
「分かってるって」
俺は漫画を閉じた。
――そして。
昼休みでもないのにどうしてこいつはここにいるんだ。
俺はそう思った。
椅子に、緋い翼のルキフェル。俺の席だ。
「……お前、そこが俺の席だって分かってやってるんだよな? そういうのを嫌がらせって言うんだ。知ってるか?」
俺の言葉に、「厚紫の席はこの後ろじゃなかったか?」
佐藤が怪訝な表情をして答えた。
しまった。
そういえば佐藤には俺とルキフェルの会話の、俺の声だけ聞こえるらしく、つまり俺は今やだーこの人ひとりで何わけの分かんないこと喋ってんのー? 的な状態で見られているという少々まずい状況に置かれているのだったっけ。
「あ、うん、そうだ。俺の勘違いだった」
俺はあははははと苦し紛れの言い訳をして笑った。
……というか座れないんだが。
迷惑極まりないんだが。
俺、今から今日中に返す予定の漫画を読まなくてはいけないんだが。
しかも少女漫画。
……いや、それはどうでもいいか。
「なんの用なんだ?」
俺は立ったまま尋ねた。
「ミーカール大天使……じゃねぇや、偉大なる第一ルキフェルに会いに来たんだよ」
これは佐藤のルキフェル。
「お構いなく」
これは佐藤。
いや、構わないわけにはいかないっての。
「まりおからの伝言では、昼休みに来るって言ってたじゃあないか」
今は、休み時間ではある。
ただし昼休みではなく、二時間目が終わったばかりの、だ。昼休みまではあと二時間ある。
授業の合間のこの休み時間はたったの十分しかないので、他のクラスの者が何かをするには短すぎる……というかすでにあと三分しか残っていないので、もう教室に戻らなければならないはずだ。
「うん。もちろん昼休みにも来る。今は単に厚紫を観察しているだけだから」
なんて迷惑な。
というかどうせ観察するだけならわざわざ有間に伝言を残さずとも良かったのでは。
俺が顔をしかめてそう考えていると、その表情から俺の考えを読み取ったのか佐藤のルキフェルが言ってきた。
「言っておくけど、今日の昼休みはただ単に観察しに来るわけじゃねぇから気をつけたほうがいいぞ変人。こいつは頭がいいからな、昨日からすでにそこにおられる神聖にして偉大なる第一ルキフェルの正体に勘付いてるから」
……なんて迷惑な。
俺はため息をついた。
しかもこのルキフェル、俺を変人呼ばわりしたうえに俺が座るべき席をでんと陣取っているなんて、まったく、なんて……いや、やはり有間には敵わないか。うん。
守護天使の中には普通の守護天使のようなちみっこい姿をとらない奴がいて、守護天使になる前の――つまり普通の大人くらいの背丈の姿をとる場合がある。
俺の目の前にいる佐藤のルキフェルもそのたぐいで、だから俺はそいつを力ずくで椅子から退けることができない。
普通ならば守護天使は人に対して物理的な干渉はできないから、俺が椅子に座ったとしても身体をすり抜けるだろうが――しかし、そうやって俺が座っている姿を想像してみると、どうも不格好でならない。
それにどうせルキや佐藤の緋い天使は俺に触れられるのだから、俺が座ればつまりはそいつの膝の上に座ることになり、……無理だ。
「いいや、そーしくん。佐藤くんは天使を認識できないから、きみは何もないところ座っているように見えるはずだよ。つまり見た目は空気椅子なわけで。……下手をしたら浮いてるように見えるだろうね?」
むしろ空気椅子のほうが恥ずかしいと思うのだが。
いや、ともかく俺の席から退いてほしい。
経験からすれば――というかこの状況を見れば分かることだが、佐藤のルキフェルのように普通の天使と同じ大きさの守護天使は、性格が悪い。
なんというか自己主張の激しい奴が多くて不遜で高飛車で根拠もなく自信満々で。
そのくせ実はそいつらはエンジェルであれルキフェルであれ、何故だかもう片方の守護天使よりも影響力が弱い。というか守護天使としてまともに働いているところを見たことがない。
ただでさえ守護天使は影響力が弱いのに、ふんぞり返って何もしないのではお前そこにいる意味はあるのかと言いたい気分に――。
と、そこまで考えてから俺は一つ気が付いた。
しまった。
言い過ぎた。いや、考え過ぎた。
佐藤に気付かれないようにしておそるおそるルキの様子をうかがってみる。
じとーっと恨めしげな視線。
そうだ、こいつも普通の守護天使と違って小さくなっていないのだった。
いや、その理由はきちんと分かっている。
話は前に聞いた。
こいつが普通の大きさのままなのは、俺がこれまでずっと守護天使なしで生きてきたからだ。例の虫歯菌の法則だ。俺の守護天使の分は他の次元のものが補っているから、今さら守護天使が入る余地はないのだ。こいつは力が強いからそこへ強引に割って入っているようだが、俺にはもう、本来いるはずのもう片方の守護天使はつかない。ルキはそう言っていた。
完全な守護天使としてうまく定着できないこいつは、見かけ上は俺の手の上から離れたところにいるしかない。俺の感知できない次元のところではきちんと守護天使としての役割を細々と、それはもうちみちみと果たしているらしいのだが、まあ見えないものは見えないからともかく見えない。……何を言っているんだ俺は?
しかしつまり、ともかくこいつは例外だということだ。決して佐藤のルキフェルのように性格が悪いわけではない。こいつは本当は本来通りの守護天使と同じようにしていたいらしいのだが、事情が事情なだけに仕方なく妥協しているだけなのだ。
俺にできることはないし、こいつは佐藤のルキフェルのように悪意に満ち満ちた笑みを浮かべながら俺の邪魔をすることもないから、とりあえず俺はこいつがでかくても気にしないことにしているが。
と、そんなことを俺が思っていると。
佐藤の守護天使がもの凄くがらの悪い形相で睨んできて、俺の胸ぐらをぐいっとつかできた。
「おい変人? おれさまの神聖にして偉大なる崇高な第一ルキフェルにどんな愚かなこと言ったんだ」
どんなって。
俺はちらりと佐藤を見る。
佐藤は……いや、大丈夫だった。俺のほうは向いておらず、漫画を読んでいた。ちなみに中身には見覚えがあるから、俺が有間に貸しているものだろうと検討がついた。俺経由で有間に渡り、さらにそれが佐藤のほうに行ったものとみえる。ちなみに少年漫画だ。もちろん。俺に少女漫画なんて買う勇気があるはずはない。
というかよく漫画なんて読めるな。もうほとんど時間がないのに。
……俺のほうへは注意を向けていないようなので助かるが。
しかし今ここで話なんかしたら俺が佐藤に変な目で見られるのは確実だ。そのことをこの緋い翼の守護天使はきちんと理解しているのだろうか?
だいたい、そんなふうに会話して佐藤に天使の存在が云々で寿命を縮める羽目になったら困るのは、お前だろうが――俺はそう思ったが。
もちろん佐藤の守護天使には俺の心は読めないから、通じるはずもない。
まったく役に立たねぇな、赤い糸的な何か。
ぱたん。
はっと気付いたように佐藤が手に持っていた漫画を閉じ、がたんと椅子を引いて立ち上がった。
何事かと思って佐藤に目をやると、ちょうどそのとき予鈴が鳴り始めた。
予鈴が鳴っているのにこんなところにいたら間に合わない気がするのだが。
「急がなくていいのか」
「いや。次の授業は古典だから」
なるほど。
俺は納得した。
古典は教室に来るのがいつも五分ほど遅い先生だ。だからこんなに余裕を持っているというわけだ。……いや、それもどうかと思うが。
佐藤が俺に言う。
「また来る」
嫌な予感。俺はいまだに胸ぐらをつかんでいる緋い翼のルキフェルを押し退けて、おずおずと聞いてみた。
「……昼休みに、だよな?」
俺の問いに、佐藤はじっとこちらを見て――にやり、と笑っているのか笑っていないのか見分けがつかないくらいかすかに、笑った。――いや。
見間違いだ。
やはり笑ってはいない。笑っているように見えただけだ。雰囲気的な何かが?
しかしこれは。
次の休み時間――昼休みよりも前の時間にも来るつもりだ。絶対にそうだ。
これはもう確実だ。そうに違いない。
「いやちょっと待て、俺予定あるし」
「予定?」
「……今日中に読まなくてはいけない漫画が」
ちなみに少女漫画。
うん。それはどうでもいい。
佐藤が少し首を傾げて言う。
「別に、読んでいればばいいだろう。俺も厚紫を観察しつつ漫画読むし」
「わざわざ俺のクラスに漫画読みに来るなよ。……というか来ることは確定なのかよこんちくしょう」
しかも佐藤は少年漫画を読んでいるのに俺はその横で少女漫画を読む、と。
俺の問いに佐藤はやはり答えずにその場を離れた。
佐藤に引っ張られて緋い守護天使も俺のそばから離れる。
「じゃあな。おれさまのいないあいだに最も神聖にして偉大なる崇高な第一ルキフェルに失礼なことをするんじゃないぞ」
……授業だっての。
しかし。
よくよく考えてみれば、なにも律儀に佐藤に付き合ってやらなくてもいいわけで。
佐藤に会わないようにしておけば心配などしなくて良くなるということだ。
若干、逃げるんじゃねぇぞこら的な威圧感を受けていたような気がしないでもないが、まあ別に素直に従う義理はない。
つまり、だ。
俺が教室にいなければ事は穏便に済むわけで。
予鈴。
授業終了の合図とともに俺は全速力で教室をあとにした。
しかし。
「しょーじー、廊下は走っちゃいけないんだかんなー? 習わなかったか?」
今まさに廊下の角を曲がらんとしていたそのとき、俺は後ろから襟首をつかまれて引き止められた。
全速力、最短距離で曲がろうとしていた俺は曲がる直前で止められたので、危うく角にぶつかるところだった。というか実際にかすったような気がしないでもない。危ねぇ。
ちなみにこの声、この行為は有間以外にはいないことを俺はよく、それはもう反射的にため息が出るくらい身をもって知っている。
俺が振り返って見てみれば、やはり予想通り有間がにやにやとしながらこちらを見ていた。
「いやお前こそ俺を捕まえるために走ってきたんだろうが」
「えーだってー、佐藤に頼まれたんだもーん。俺ってば一応佐藤の親友だし? やっぱ頼みは聞いてやんなくちゃいけなくね? 言うなれば正当防衛みたいな」
有間が言った。
言いたいことは薄らぼんやりと分からないでもない気がするが、正当防衛はまったく違う意味だ。
つまり有間は佐藤に俺を引き止めておくよう頼まれたから、今こうして俺を捕まえているのは当然の行動だと言いたいわけだ。
「……で、離してくれないつもりか?」
俺がそう尋ねると、有間は頷いて言った。
「うん。しょーじのことは俺がしっかり捕まえておかなくちゃいけないじゃんか。あ、でもしょーじの頼みなら特別に恋人らしく手なんかつないでもいいんだけど」
そう言いつつ俺の襟首をつかんでいないほうの手を差し出す有間。
俺はためらいなくその手をとり――。
「あぎゃぁあああっしょーじそれ痛い手がもげる本気でもげるやめてそれ卑怯だって反則だから無理無理無理っ……!」
――あらん限りの力をもって、ぎしぎしと握ってやった。
うん。俺の握力をなめんな? 三十しかないけど。
しかしそんなふうに力を入れてやっているにもかかわらず有間は俺の襟首を離さなかった。
仕方なく俺が手を放してやると、有間は俺を教室まで引きずっていった。
俺は言う。
「離れろ、もういい分かった、逃げないから。まりお、……ふざけんな?」
離れた。
「こっ……恐ぇってしょーじ……」
しかも一歩引いている。
まあ、それでもここから有間を振り切って逃走するのは不可能だろう。有間はこういう面白そうな――俺はちっとも面白くないが――ことに対しては全力で参加してくる性格だから。
俺は教室に戻っておとなしく自分の席に座――。
れなかった。
「……またかよ」
教室に、すでに佐藤が来ていたのだ。
つまり。
俺は自分の席に、当然のごとく座っている緋い翼のルキフェルを見たわけで。
「ふふん。こいつはおまえが裏をかいて別の経路から逃げ出す可能性のこともよくよく考えて、そっちのほうから来たんだ」
佐藤のルキフェルが言った。
別経路というのはベランダのことだ。各階、それぞれの教室は一つの長いベランダでつながっていて、一組の横に非常階段があるから、廊下を使わずとも外に出られる。
廊下ならば一組から四組までと、五、六組とを二つに分けるように走っているから、当然のことながらそちらを使ったほうが早いのだが。
佐藤のルキフェルが勝ち誇ったような表情をして両手を腰にあてる。
「まあ、おまえみたいなただの変人には所詮思いつかなかったことだよな」
いや、だから廊下を使ったほうが早いって。というか実際俺はベランダなんて使ってないし。
……ともかく佐藤がここにいるというのはよろしくない。緋いルキフェルがもれなくついてくるというのもかなり悪い。さらにそこに有間もついてきているわけで――。
ふう。
仕方なく俺は自分の鞄から、借りている漫画を取り出して隣の席に座った。
「あれ、どうして自分の席に座らないのさしょーじ」
有間が聞いてくる。
もちろん、俺の席には佐藤のルキフェルが座っているからだ。俺が座れば佐藤からは空気椅子に見えるし……というか、そいつの上に座ろうと思うような気は起こらない。絶対に。……多分。
代わりに俺は有間に言う。
「だったらまりおが座っておいても構わないぞ」
「うーん?」
俺の席の椅子を見て、考えるように少し首を傾げた有間は、しかし俺の前、佐藤の隣に座って言った。
「やっぱしやめとくわ。その席さ、場所が悪いっていうか座るなオーラが出てるっていうか……呪われてる?」
「失敬な」
憮然。
人の席を呪われているとかオーラが出ているとか幽霊が座っているとか。
「言ってないよそーしくん、幽霊は言ってないって」
「ん? なんですか幽霊って」
佐藤の守護天使が口をはさんできた。
「まさかおれさまのことか、変人」
……似たようなもんだろうが。
俺は思う。
しかし見たかったな、有間が佐藤の守護天使の上に座っている光景。
有間には守護天使が見えないから、そのまま座っていてもおかしくないはずなのだが。
「ごめんねそーしくん」
何故だかルキが謝ってくる。
それからルキがおずおずと指差してきたのでそちらを見てみると、当然俺が知っている通り、有間が座っている。
普通だ。なんの変哲もない。
「違うよそーしくん。彼じゃない。彼の守護天使が――昨日からぼくのことをちらちらと見てくるんだ。多分、佐藤くんみたいにぼくの力に影響されてるんだと思う」
厄介な。
俺は改めて有間を――有間の両手の上の、守護天使を見てみた。
どちらも、白。
実はその片方が最下級ルキフェルだと知ったのはごく最近のことだ。てっきりどちらも最下級エンジェルだと思っていたのだが、片方は、かすかに光を放っている。
その最下級ルキフェルと……目が合った。
俺と目が合うとそいつは一瞬驚いたような表情をしてすぐに俺から視線を外したが、そのあからさまな行動は確実に俺のことを認識していることを示していた。
守護天使は宿っている主を通してしか周りの人物を認識できないはずなのに。
……このままいくとどうなるんだ? もしかして佐藤の守護天使みたいに俺に話しかけてくるようになるのか。
俺は思った。
「多分その通りだよ」
ルキが言う。
「そーしくんは有間くんとは相性がいいようだから、彼の守護天使が彼を通じてそーしくんを認識するうちに、きみの存在を直接認識できるようになったらしいね」
「ちょっと待て、今までそんなことは一度もなかったぞ!」
俺は思わず口に出して言ってしまった。
有間と佐藤が振り向いた。
しかし、そのあとすぐに有間のほうはどうして俺は振り向いたんだおかしいなというような怪訝な表情をして、俺から注意を逸らした。
まだはっきりと俺とルキの会話を認識しているわけではないらしい。
「というか有間くんは佐藤くんとは事情が違うから、放っておいたらぼくのことも見えるようになるだろうね。……いや、多分佐藤くんもそのうち緋い彼のことを認識できるようになるだろうけど……」
どうしてそうなるんだ。
見えるようになるならば他の次元に対して敏感な佐藤のほうが先だろうに、と俺は思ったが、――いやしかし、やはり今まで俺の周りでそんなふうに守護天使を認識できるようになった奴などいない。
「だから、ぼくが守護天使としてついたせいでそーしくんの力が引き出されてしまっているんだ。佐藤くんは他の次元に対してある程度耐性があるけど、有間くんはまったく普通の人だから、きみからの影響を受けやすいんだろうね」
今まで以上に気をつけなくてはならないわけだ。
有間にも、佐藤にも。
そして実際。
――佐藤はじっとこちらを見ているわけだが。
俺は言う。
「いや佐藤、あれだよ、……漫画だ。今のは漫画の話だ」
「漫画、ね」
この上なく疑わしそうだ。
「あ、いや、本当は昨日読み終えておこうと思っていたんだが、あれだ、鼻血出したり気絶したりしたせいで読めなかったし、机の中に入れっぱなしだったから持って帰れなかったし」
俺が話を逸らすためにそんな苦しい言い訳をしていると、有間はそこに口をはさんできた。
「なんだよしょーじ、先に言っといてくれれば心優しい有間様がちゃんと鞄の中に入れといてやったのに」
いや、気絶するような事態を予測できていたならあらかじめ自分で入れておいたはずだし。
ふと、佐藤が思い出したように言う。
「鞄といえば、昨日の女子を見かけた。さっきベランダですれ違った」
その言葉に俺は少し首を傾げる。
「鞄の……昨日の女子? 木村さんのことか? でも佐藤、保健の先生から聞いたんだがお前は有間と木村さんとは一緒に来なかったんだろう? どうして俺の鞄と木村さんのことを関連付けられるんだ」
確か保健室に鞄を持ってきたのは有間と木村さんの二人で間違いないはずだ。保健の先生は二人の名前を知らなかったようだが、少なくとも有間は確実だ。有間の他、もう一人は女子だったというから、佐藤は含まれていない。……はずだ。
しかし佐藤は首を振る。
「いいや俺も一緒だった。有間がお前の鞄に嬉々として制服を詰め込んで保健室に持って行くのにも同行した。俺は廊下で待ってたけれど」
なるほど。
つまり佐藤は俺の制服がぐしゃぐしゃに詰め込まれているところを見ているにもかかわらず何も言わずにいたというわけだ。
というか嬉々として、というあたりがふざけているぞ有間の奴め。絶対にわざとじゃあないか。
……いやいやそれよりも木村さんのことだ。
見たところまだ教室には戻っていないようで姿が見えないが、何をしに行っているのだろう。
いつもならばこういう授業の合間の短い休み時間には、教室にとどまっているはずなのに。
「それで、その木村さんとやらの話だけれど」
佐藤が言う。
「……その女子、いじめられてないか?」
想像もしていなかったその言葉に、俺は驚いて佐藤の顔をまじまじと見てしまった。
「ベランダですれ違ったとき、蒼白な顔で駆けて行ったから何事かと思ったけれど、振り返ってみたら制服の襟首のあたりに何か……多分、消しごむのくずがついていた」
「えっと、それっていじめなのか?」
俺が困惑気味に尋ねると、有間が口をはさんできた。
「そうだよ。俺も昔よくやった手口だもんな。後ろの席からさりげなく背中に消しくずをぱらぱらと入れてやるやつ」
「……本気か?」
俺は思う。
この口振りからすると有間は昔いじめっ子だったと言っているような気がするのだが、しかし……いや、とても想像できない。
佐藤のルキフェルは俺の表情を見て言う。
「このお馬鹿の言ってることは本当だぜ、変人。おれさまの宿主であるこいつは妙な成り行きでこのお馬鹿にいじめられてたんだ。……これまた妙な成り行きでいつの間にか友人になっちまったけどな」
なにやら突っ込み所が多い気がするが……、いやしかし道理で木村さんのことがいじめだと断定できるわけだ。
いや。
「……それってやっぱりいじめというほどひどい状態なのか? 単に偶然、消しくずを払い落としたら背中にかかったとかは?」
「だって、前の席には払わないじゃん? やりにくいからさ。普通は横に落とすはずだから。つまりそいつは意図的にやった疑いが濃厚ってわけで」
「いや、でも……やっぱり前に払うことだってあるだろう。――いじめだって言い切れるのか?」
俺は。
放っておいても構わないと思っていた。たいしたことではないと、そう思っていた。
木村さんの後ろの席は例のいつも木村さんにちょっかいを出す男子ではないし、今までなんの害もなかった……はずだ。
見落としていたのだろうか?
「うーん、断言できるのかと聞かれちゃあ俺には答えられないかも。なんていうか、そこまではっきりとは分からんけどとりあえずむかつくのでこの有間様がぶっ飛ばしといてやろう的な?」
「こら待てその横暴」
俺がそう言うと、有間はひらひらと手を振って、細かいことは気にすんな? と言ってきた。
全然細かくねぇ。
やはり単なる偶然ではないのか?
そう思ったが。
「で、木村さんの後ろの席は誰の席なんさ」
有間が聞いてきた。
俺は――有間が佐藤のルキフェルにも劣らぬ悪い笑顔を浮かべているのを見た。
従わずにいて矛先がこちらに向けられてしまうのも困るので、俺はとりあえず、深く考えないようにしてその木村さんの後ろの席のクラスメイトを指差した。
「よっし、おーけー任せろ」
そんな不吉なことを言って有間は席を立ち、そのクラスメイトならびに他のクラスメイトがいるところに向かっていき、声をかけた。
「よぉ」
「なんだよ有間じゃんか」
「おう、有間」
なんの疑問も抱かずに答えるクラスメイトたち。
いやいやここは俺が黙っているわけにはいかないだろう。
有間が何をするつもりなのかはよく分からないがとりあえず止めておこうと俺も席を立ち――。
――しかし佐藤に止められた。
「やめておいたほうがいい。巻き込まれる」
「巻き込まれる? いったい何に?」
「見ていれば分かる」
なにやら妙に説得力を持った雰囲気で佐藤がそう言ってきたので、俺はしばらく有間の様子をうかがうことにした。
聞こえてくる会話に耳を傾けていると、プロレスごっこしようぜおうよ上等だかかって来いやとかいう流れになっているらしかった。
一見すると和気あいあいとした様子。
しかし俺は有間が次にどういう行動に出るのか、だいたい想像がついた――いや、ついてしまった。
そして有間はにっこりと笑ったまま目当てのクラスメイトの肩をぽんと叩き――。
「お前の相手は俺な」
何も知らずそのクラスメイトが返事をする。
次の瞬間。
「天誅――!」
有間が技をかけ、クラスメイトはだんっと床に叩きつけられていた。
いや明らかに柔道らしき技を繰り出した気がするのだが。
佐藤のルキフェルも言う。
「いや明らかに柔道らしき技を繰り出した気ィするんだが」
……はからずしも佐藤のルキフェルなんぞと同じことを考えてしまったらしく。
「柔道……」
最後にぽつりと佐藤が呟いた。
そしてクラスメイトを吹っ飛ばした有間はふぃーっと満足気にため息をつき、たいして汗もかいていないのにひたいの汗を拭う動作をして、なんだその爽やかな笑顔はというような表情でこちらに帰ってきた。
ちなみに有間の技を食らったクラスメイトは他の者多数にぶつかる、足を踏むなどの被害を及ぼしたが、現在は床の上に座ってぽかんとした顔で有間を見ている模様。
有間が言う。
「うん、俺ってば強い」
「そうか」
佐藤はそう返事をして、それっきりまた手に持っている漫画を読み始める。
いやそこらへんはちゃんと突っ込んでおこうぜ。
明らかに不意討ちだろうが。勝負になってねぇだろうが。
俺は思う。
というか有間は何をしに行ったのだろう? これで木村さんへのいじめがなくなるというわけではないし、――そもそも木村さんがいじめられていると断定できるわけではないし。
誰も有間が木村さんの肩を持って今の行為に及んだとは思ってもみないだろうから、木村さんに対する関係がますます悪くなるようなことにはならないとは思うが。
しかしこれでは有間が単なる腹いせにこんな暴挙に出たようにしか見えない。
俺がそう思っていると、有間が両手でばんっと机を叩いて言ってきた。
「それよか佐藤もしょーじも薄情すぎね?」
有間は言う。
「せっかく有間様がこうやって構ってやろうとここにいるのに、二人とも漫画なんか読みやがって、……そんなんだから恋人できないんだよお前らっ。帰ってやる、俺は今すぐ教室に帰るぞーっ」
……なにやら叫んでいるが、有間にいちいちまともに対応するのは、うん。不正解。
要するに無視してないでちゃんと俺様に構えと主張しているのだろうが、……こちらにだって都合がある。漫画とか読んだり漫画を読んだり、漫画読んだり。そうつまり俺は今漫画を読みたい。
しかも少女漫画。
いや、それはどうでもいい。
それから一応思い出してみるが、俺は有間を呼んだ覚えはない。こいつが佐藤に頼まれて俺を引き止めたあと、勝手に教室までついてきただけだ。
――となれば。
「うん、帰れや」
俺は至極簡潔に返事をした。
有間はぴたっと動きを止めてこちらを見てきた。
「……帰っていいの?」
「うん」
「俺、本気で帰っちゃうよ?」
「うん」
「本気か」
「うん」
顔を下に向けてわなわなと震えだす有間。
そして。
「しょーじの裏切り者ーっ! 末代まで祟ってやるからなーっ」
うわーんと右腕を顔にあてて泣きながら――無論、身振りだけで実際に泣いているわけではないことを俺は知っている――走り出した。
いや祟りって……、どんな亡霊だよ。それに裏切り者ってなんだ裏切り者って。
俺はやれやれとため息をついて有間を見送った。
有間は教室の戸の前まで行き。
――そこで立ち止まった。
なんだ?
何かと思って様子をうかがっていると、木村さんが足早に教室に入ってくるところに居合わせたらしかった。
声をかけようかかけまいか迷っているらしいことが見てとれた。
まあ有間のことだからとりあえず声をかけないはずはないが――と思った矢先にやはりというか有間は木村さんに声をかけた。
話しながらこちらに戻ってくる。
ふと。
後ろから制服の端のほうを引っ張られた。
「なんだよ」
俺が振り向くと、佐藤が怪訝な表情をしていた。
「どうした」
「え、佐藤じゃあないのか」
「なんの話だ?」
不審そうな佐藤の視線に俺は一瞬固まった。
「あ、え、あー、俺に……話しかけたよな? あ、勘違い?」
俺は笑って誤魔化す。
実際には誰も話しかけきてはいないが。
「違う。おれさまだ変人」
引っ張っていたのは佐藤のルキフェルだった。
知ってるから話しかけてくんな、と俺は心の中で言う。
どんな罠だちくしょう。
すぐさま何事もなかったふりをして借りている漫画に目を移し、佐藤の眼差しを完全に無視することにする。
しかし。
なおも引っ張ってくる緋いルキフェル。
自己主張激し過ぎるぞ空気を読め空気を。
「変人。聞けって」
聞いてるって。
「今すぐあのお馬鹿を引き離したほうがいいみたいだぜ? 真面目っ娘の様子がおかしいらしいっておれさまの宿主であるこいつが言ってる」
「……木村さんが?」
改めて俺は木村さんの様子をよく見てみた。
どうやら図書館で本を借りてきたらしく、本を開いていたが――有間に話しかけられているせいで気が散って読めずにいるようだ。
それにしても。
受け答えしている表情が、傍目から見ても分かるくらいにひきつっている。
一応会話は成立しているようだが、どこかぎこちない笑みと、ほとんど言葉とも言えないような相槌で誤魔化しているようにも見える。……あまり誤魔化せているとは言えないが。
もちろん有間もその様子には気付いているようで、大丈夫なのかと心配そうに尋ねるのだが、木村さんのほうは笑いながらなんでもないと首を振っている。
というかむしろ有間が話せば話すほど表情が硬くなっていっているような。
俺は立ち上がって木村さんの席に行き、有間の肩を叩いた。
「まりお、その辺で戻ってこい。木村さんも困るだろう」
「えー……」
物凄く不満そうな顔。
「えーとか言うな。というかもうさっさと自分の教室に帰れ。もうすぐ予鈴が鳴るから」
「えぇー……」
有間は、なんだよまだ時間あるじゃんかとかと俺に対して文句を言いながら渋った。
「そーしくんそーしくん」
つんつんとルキが俺を突っついてくる。
「なんだか木村さん、思い詰めた顔をしているようだけど」
「え?」
ルキに言われて俺が木村さんを見てみると、俯きがちだった顔をさらに下げて黙ってしまった。
かなり警戒されているらしい。
俺が、なにか気に障るようなことをしたのだろうか。
少なくとも今朝は普通に話していたから――そのあとに? そのあとに何かあっただろうか? まったく身に覚えがない。
それに。
どうやら木村さんの守護天使たちがまた力を送っているようなのだが、改めて見てみると、かなり強い力を発しているらしい。
それはまあいつも見ていることなのだが、……問題はその内容だ。
守護天使たちが力を送る前に交わしていた会話が、俺に関することだったからだ。
天使の器の子にこの子を痛めつける意思があるはずがない、と。
絶対に誤解だから、すぐに確かめさせよう、と。
誤解?
「言葉からしてそれって、木村さんがそーしくんにいじめられていると思い込んでいるけど、そんなはずはないだろうって、彼らが言っているってことだよね」
ルキがそう言ってきた。
ややこしいな。
つまり木村さんの守護天使たちは俺の無害さを知っているが、木村さん自身は俺のことをいじめっこだと思っているわけか。
おそらく有間のことを恐れているのもそのせいだ。有間は俺の友人で、よくこのクラスに来るから。
しかし俺は思う。
……いやそれはつまりどういうわけだ?
今朝から今まででは、何もない。
昨日よりもさらにさらにずっとさらに遡って考えてみても、やはり俺には身に覚えがない。
「木村さん」
俺は、俺のどんな行為がそう思われる原因になったのかを確かめるために、木村さんに話しかけた。
ゆっくりと振り向いた顔はやはりどことなく強張っていて、今朝まで話しかければ普通に応えてくれたのを思えば少々悲しい。
しょげるぞこら。
しかし一応少しだけでも話を聞いてくれそうなのは安心だ。
おそらくそれは、実は勘違いなのではないかとか今すぐ俺が謝ってくるのではないかとかいう希望のたぐいからではなく、振り向いておかなくては不信感を持たれるとか木村さんの元々の性格のせいとかに起因するものなのだろうが。
「あのさ、俺、木村さんに誤解されるようなことしたかな。というか、したんだと思うんだけど……。ごめんね? 俺さ、それ自分でも気付いてないだろうから」
「なんだよしょーじ。お前、木村さんに何をしたんだよ」
会話についてこれずに有間がそう言う。
いや、何をしたか知っていれば俺だって苦労はしないっての。
木村さんがおずおずと口を開く。
「あの……、ごめんね庄司くん、――誤解って?」
……本人もかよ!
俺は言う。
「えー……俺って木村さんに、俺がいじめを加えていると思われているんだよな……だよね?」
木村さんは驚いた表情で少しの間固まっていたが、しばらくしてから何やら納得したように「そういうことか」と頷いて言い、――それからまたさらに驚いた顔をした。
「それはそうだけど……私、ちゃんと気付かれないようにしてたはずなのに……」
まさか守護天使の会話から推測したなどと明かすことができるはずもない。
どう説明したものかと俺は少し考える。
そこへ。
どごッ――!
衝撃。
「……げはッ」
俺は空気を吐き出した。
いきなり横手から拳が飛んできたのだ。腹に直撃。
内臓しかない、人体の弱い部分を狙えるような鬼畜な場所に立っている人物は、確認するまでもなく有間しかいない。
「見損なったぞしょーじ、お前がそういう奴だとは思わなかった!」
怒りをあらわにする有間。
こんな怒り方をしている有間は初めて見るので、先ほどのクラスメイトをぶっ飛ばしたときのようにふざけた演技をしているのかとも思ったが――。
――危ない。
俺は直感した。
有間がまた拳を振るう。
本気。
「待……っ、だから、多分誤解……まりお、待てってのに……!」
俺は突き出された拳を受け止めつつそう言ってはみたものの、有間のほうは俺の話に耳を傾ける気はないらしく、問答無用で攻撃を繰り出してくる。
無論、柔道も剣道も空手もボクシングも習っていないごく普通の高校生な俺は、一、二発を辛うじて避けるだけで精一杯。蹴りが加わるともうお手上げ。あとはあまり痛くないように背中を向けて退散する羽目になるわけで。
俺、超格好悪い。
ちなみに有間も格闘技は何も習っておらず、試合で使われるようなルールに則った優しい対応はしてもらえそうになかった。つまりそれは――。
逃げる俺の襟首をうしろからつかんでぐいっと引き寄せるような反則技も平気でしてくるわけで。
というかこれ廊下でもやられなかったか俺。
……そして有間は俺を強引に反転させて自分のほうに向かせ、なんだか殴ってはいけないところを殴ろうとする構えをした。
いや顔を真正面からやっちゃうのはかなりえぐい行為だと思う。
どうしてこいつはいちいち急所を狙ってくるんだ。
鼻骨なんて柔らかいからすぐに折れるんだぞこら。
「待――」
本気で、やられる、と覚悟したそのとき。
ぽん、と有間の肩を叩く手があった。
佐藤。
「有間、もうすぐ本当にチャイムが鳴るから、帰ったほうがいい」
助かった。
寸でのところで有間は動きを止めて、時計を見た。
確かに、予鈴まであと一、二分しかない。急いで自分の教室に戻らなくてはならないような時間だ。
もちろんここは俺の教室だから、俺には関係のない話だが。
うーんと有間は考え込む。
このまま帰ってくれれば嬉しい。
俺は切実にそう思った。
有間は佐藤のほうに向き直って――。
「うん。分かったからちょっと待っててな?」
言った。
なんかもう俺を殴ることは確定事項らしく。
いや待てその横暴。
「だから待て――」
「あと、それから――」
俺と佐藤が同時に言った。
佐藤はこちらのほうを見たが、有間は俺には一瞥もくれずに佐藤に話を促した。
意図的に無視かこの野郎。
しょげたぞこら。
有間が俺を無視するので佐藤は話を続ける。
「……それから、有間は周りをきちんと見たほうがいい。今自分がクラスの中でどんな事態になっているのか気付いてないだろう」
「周り? なに、俺ってば注目されて――」
有間は周りを見渡しながら、「――なくね?」
なんでだ? と首を傾げながら言った。
こんな殴り合い――いや、有間が一方的に俺を殴ったり蹴ったりしているだけだが――になっているにもかかわらず、誰もこちらを見ていない。
不自然に目を逸らされているわけでもない。
――こんな光景を俺はよく知っている。
俺がルキに目配せをするとルキは頷いて言った。
「うん。無意識にやってるんだろうけど、これはそーしくんの力だ。気付いてる?」
「うーん……いや」
分からない。
俺の力だという自覚はあるのだが、どんな力をどんな方法で出しているのかはさっぱり分からない。筋力がどうとか思念がどうとか、そういうものではないらしい。
ただ、俺がルキや佐藤の守護天使と会話をしても違和感を感じさせない能力と似たようなところがあるから、その応用なのだろう。
自覚はないが。
「けれど、周りがおかしいのがどうしてなのかはだいたい検討がついてるから、まあいいとして」
佐藤が横目で俺を見ているのは気のせいか?
「気のせいじゃあないよそーしくん。見られてる。佐藤くんは頭がいいから」
ルキも声をひそめて話しかけてくる。
守護天使の声は佐藤には聞こえないはずだが。――不安から、そうしなくてはならない気になってしまうのだ。
恐るべし、佐藤。
佐藤は言う。
「それよりも。……当人の話も聞かずに正義ぶるのは有間の昔からの悪い癖だ。木村さんが言いたいことがあるみたいだけれど、気付いてないだろう」
「え」
佐藤の言葉に、有間が木村さんを見る。
しかし木村さんは小声で何か言いかけはしたものの、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
予鈴。
あるいは時間切れ。
「うあ」
有間がおかしな声を上げる。
うーんと唸りながら木村さんと俺とを交互に何度も見比べて――。
「やっぱり一発殴っとく! ごめんしょーじ、許せ親友覚悟しろいくぜ有間様の正義の鉄槌ーっ」
ちなみに後半は早口だ。
……なんか。
もう。
すでに拳を振るっているというのがおかしい。
「いやお前それもうなんか俺のことなんだと思ってるん――ふべっ」
避けようもなく、殴られた。
ついでに周りの机を巻き込んで倒れ――いや、むしろ机の脚に自分の足を引っかけて、倒れた。しりもちをつく。
ぎゃあ。
痛ぇ。
「でも少しは手加減してくれたみたいだね? 顔面じゃあなくて良かったじゃない」
「……良かったで済むなら医者はいらないっての」
俺がぶつぶつと文句を言っている視界の端で、佐藤と有間が教室をあとにするのが見える。
俺も予鈴が鳴っているので自分の席に戻ることにして、動いてしまった机と椅子を元に戻した。
「あの、庄司くん」
木村さんが話しかけてくる。
「ごめんね庄司くん。私が有間……? 有間くんに誤解させちゃったせいで、ひどい目にあったみたいで」
「いや、別に。うん、一応手加減されたらしいから気にしなくていいし。俺が木村さんに誤解されるようなことをするのが悪いんだし」
木村さんが目を逸らす。
「あの……違うの。誤解ではないの……」
「え?」
俺は聞き返した。
……どういうことだ。
つまり俺は、疑う余地もないほど分かりやすいいじめ行為を無意識に行っているというわけか?
「うーん、ぼくは人の関係っていうのはまだ完全には理解できているわけではないけど、見ている限りではそーしくんに非はないと思うよ?」
それはありがたい。
「……あの、誤解ではないっていうのは」
木村さんは言う。
「誤解とか、そういう問題ではなくて、だから、えっと……私、庄司くんは普通にいい人だってことはちゃんと理解してて」
「でも俺が木村さんのことをいじめていることは誤解ではない、と」
「え? あ、えっと、違うよ? 庄司くんが私のことをいじめるわけがないってことも理解してるから、私――」
どうも言っていることがよく分からない。混乱しているのだろうか?
「木村さん。少し落ち着いて話そう」
俺はなおも喋ろうとする木村さんを両手で制止した。
あ、と声を上げる。
「庄司くん、怪我」
木村さんが俺の手を指差して言う。
俺が木村さんの指差したところを見てみると、確かに手のひらの皮膚が剥けて血が出ていた。
見た目だけすれば地味に痛いが、まあ……、たいしたことではない。
と。
「こら有間、佐藤、さっさと教室に戻れー」
「せんせー俺ここも教室だと思う」
「自分の教室にでしょうがお馬鹿、さっさと行け?」
次の授業の先生が教室に入ってきた。
女の先生だからといって優しいと思ったら大間違いだ。中身は言葉遣いと同じく荒っぽいのだ。
俺も自分の席に戻らなくてはならない。
「ごめん。そういうことだから、またあとで」
方手を上げてそう言うと。
「あ、あの、……あ、待って。庄司くん、その怪我、本当に大丈夫――」
木村さんが手を伸ばしてきた。
その手が俺の肩に触れた、その瞬間。
痛み。
猛烈な勢いで身体を引きちぎられていくような感覚。
身体の奥底から悲鳴が湧き上がる。
痛い。
しかし、俺は。
それが俺自身の感覚ではないことを知っていた。引きちぎられるような痛みも、声にならない悲鳴も、――俺のものではない。
嫌な予感。
「お前ら!」
俺は架空の痛みに耐えながら、叫ぶ。
これは。
「宿主を置いてどこに行くつもりなんだよ……!」
俺の言葉に、木村さんの守護天使が一瞬だけこちらを見た。
この痛みは木村さんの守護天使の痛みだ。
消える。
俺はそれを感じた。
木村さんが意識を失い、床に崩れ落ちる。
思わず手を伸ばしたが、俺が触れる前に、木村さんの守護天使は雲が散るようにふっとかき消えた。
それと同時に。
俺が感じていた痛みも消えて。
木村さんの守護天使がここから完全にいなくなったことが分かった。




