一章
一章
予鈴。
お馴染みのあの鐘の音が鳴り始めたのを合図に、俺たちは自分の席に戻った。
担任が「はいおはようございまーす」とこれは仕様なのかってくらい聞き慣れたセリフとともに教室に入ってきて朝ドリル――「朝」ドリルといいつつ普通の生徒は放課後までかかってだらだらとやる漢字やら数学やらのプリント――を数枚各列に配り、また教室を出ていく。
教室にいるのは数人。
そりゃそうだ、この時間はまだホームルームの時間ではない。一応進学校であるこの校に設けられた、ホームルームの前にある「朝ドリルの時間」ですらない。それよりももっと早い、名称不明のなんでもない時間。
つまり今ここにいるのは電車通学のためうまく時間が合わないから早めに来ている奴とか、部活の朝練が終わった奴とか、俺みたいに律儀に朝勉しに来る奴だけだ。
うん、俺は家にいても正直勉強する気にはならないから、ここで配られるプリントだけでもやっておいたほうがいいと考えているわけで。
俺だって学校ではそれなりに真面目にやっているのだ。
まあ数学のプリントだったら答えを見て写すけどな。
というわけで俺と同じく真面目な女子の木村さんが自分の列のプリントを後ろの席に配り始めたので、俺も席を立って一番前の席からプリントを取りあげる。
どうやら今日は英語らしい。
――ということはもうすぐあいつが来るだろう。
俺がそう思いつつ席に戻ってドリルを始めると、がらっと教室のドアを開けて奴が入ってきた。
「おっはよー木村さん」
「お、おはよう」
その真面目女子木村さんが消え入るような声で答えた。
するとクラスにいた男子の一人が野次を飛ばしてくる。
「有間お前なんで木村さんだけに挨拶してんだよ! 俺に挨拶してくんねーのかコラ、てかおはよう、マジ本気でおはようっ」
「おー、うん、はよ」
「何それなんか俺に対する態度ひどくね?」
「んなことねーっつーの」
奴はひらひらと手を振り、俺のほうに近づいて来て、ちゃっかりと前の席の椅子を勝手に拝借して俺のほうを向いて座った。
「おはよん、しょーじ。有間様が今日も来てやったぞ」
頼んだ覚えはないのだが。
というか俺の名前は「そうし」と読むのだから、そのあだ名はやめて欲しいと何度も何度も何度も言っているのだが……。ただでさえ読み間違えられるというのに、こいつが俺を「しょーじ」と呼ぶせいで、名前を覚えてもらうのに長いことかかるのだが……。
というか今そこにいる木村さんなんかは俺のことを「しょうじくん」として認識しているくらいだし。
俺は思う。
――まったく、迷惑なあだ名つけてくれたもんだ。
そんなこいつが俺のところに来るのは、英語の朝ドリルの答えが載っている教材をいつも家に置いてきているからだ。こいつは英語ができるくせにドリルの答えは丸写しするのだ。
俺は机の中からその教材を引っ張り出して渡し、言う。
「おはよう、まりお。今日もご機嫌で何よりだ。親友との約束をすっぽかして行ってきたデートの成果はどうだったんだ?」
有間利音。それがこいつの名前だ。あだ名の「まりお」はアクセントは「お」に来て、漢字で書くと毬雄になる。いや特に意味はない。ちなみにこいつは一昨日、彼女との予定ができたとか言って俺との予定をドタキャンしてきた野郎だ。
その有間はちっとも悪びれた顔もせずに「うん、すまんかったね」とかお前はどんな年齢の奴なんだと突っ込みを入れたくなるようなセリフで謝ってきつつ教材を受け取り答えを写し始める。
つまり俺の机と鉛筆を使って。
「しょーじ、いい加減シャーペン買ってよ。俺、鉛筆好きくないし」
「いや自分のクラスに帰れよ」
そう、こいつは実は別のクラスの奴だ。しかも隣ですらなく、三つも離れたクラス。一年のときに一緒のクラスだったため、なにかと俺に絡んでくるのだ。
「冷たいなーしょーじー。一昨日のお前とのデート、キャンセルしちゃったから怒ってんのか? たった今謝ったばっかりじゃんかー」
「何がデートだ怒るぞコラ」
「ほらやっぱり。ずばり、妬いてるんだろ」
びしっと鉛筆を俺の眼前に突きつけて言う有間。
とりあえず俺はその鉛筆を取り上げて筆箱の中にしまい、違うものを渡す。
カチ。有間がなんの疑問も抱かずにそれを使って一つ答えを書き、ぎゃあっと悲鳴を上げる。
そりゃそうだ何しろボールペンだからな。
俺はシャーペンは持ってないし。
「しょーじ、修正ペンっ」
「ちなみに俺は修正ペンも持ってないし」
「うわぁああ……これやだよ目立つよ絶対、めちゃくちゃ不自然じゃんよ」
「あー、ほら、それなら特別に俺の消しゴムを貸してやるから、全部ボールペンで書き直したらどうだ? それなら目立たないだろ」
「ありがとうしょーじ、とっても素敵な提案だ」
なんだか気持ち悪いくらい爽やかな笑顔。
しかしまあとりあえず俺は有間に消しゴムを渡し、自分のプリントに取りかかることにする。
消しては書き消しては書く有間が、顔を上げずに話しかけてくる。
「なあしょーじ、俺の知り合いに、一昨日の昼頃、俺ん家のほうの駅前のショッピング街でお前を見たって奴がいるんだけどさー」
俺は曖昧な返事をして頷く。
まあなんの面白みもない事実だからコメントのしようがないわけで。
「そいつがさ、お前が駅前にいるのが珍しいもんだから、ひそかに後を尾行たらしいんだよな」
みきキッ。
力を入れすぎたのだろうか、鉛筆の芯が潰れて欠けてしまった。
俺は自分の顔がひきつっているのを感じた。
何故ならば、駅前から尾行ていたということはつまりその後デパートでの俺の行動も見ていたということであり……。
「誰だその変人ストーカーは」
尋ねた声まで強張っていた。
「一組の佐藤だ」
「……なるほど、あいつならやりかねないな」
理系のくせに新聞部に入っている佐藤。眼鏡もかけていないし専用のカメラも持っておらず、口数が少なめのあっさりタイプな性格は一見すると新聞部というイメージではないが、侮るなかれ、奴は携帯カメラで写真を撮りまくり、ターゲットに気付かれぬうちに記事を書き上げる。
全校生徒に恐れられている男だ。
「で、佐藤が言うにはデパートでお前がミラクルを起こしてくれたんだと」
その標的に自分がなる日が来ようとは……。
「まあ、あまりにも現実味がないもんだから、記事にはできないって言ってたけどな?」
もう周りから奇人扱いされて、そのうち登校拒否になるしか――。
ん?
「記事にしないって、それ、えーっと……なんでだ?」
「んー、だって、なんか怪奇現象起こしたんだろ? 佐藤が言うには、駅前のデパートでお前がなんだかわけが分からないが叫んだあと、ずっと目で追って見ていたはずなのに、いつの間にかお前のことを見失ってたって。で、しばらく探してみたら、お前は階段から落ちてて救急車で運ばれるところだった、と。――幽霊にでも遭遇したのか?」
幽霊。
そうだったのならどれほど良かっただろう。俺には幽霊は見えないから、遭遇したとしても全力でスルーできたはずだ。
しかしあれは幽霊ではなくて――。
「あれはだな……」
そこで俺は今日初めて、二列向こうのその先の、窓のほうに目を向けた。
いや正確には、窓のほうにいる、普通の者には見えないそいつに、目を向けた。
窓枠に座ってじっとこちらを見ているそいつは、実体を持つ者ではなかった。
窓が開いていないので、窓枠には座れるほどの幅がないのだ。しかしそうやって座っているということは、ガラス窓を透過してしまっているわけで。
幽霊? いや違う。俺には幽霊は見えない。
翼。
――天使。
そいつは俺が見ているのに気が付くと、にこにこと笑いながらこちらにもの凄い勢いで手を振ってきた。
俺はため息をつく。
「……本人いわく、恐怖の大王らしいから」
「え? 何それ新手の芸人?」
俺は首を振ってまたそいつを見る。
黒い翼。かすかな青い光を放っているそいつは、エンジェルよりも一つ上の階層――ルキフェルだ。
姿こそエンジェルによく似ているが、ルキフェル「光を生む者」は、そのすべての階級の天使が翼に光をまとう。
光を吸収するだけのエンジェルとの、絶対的な差。ルキフェルは自ら光を作り出していて、光り方が強くなるほど階級が高くなるのだ。
そして一昨日俺が遭遇して、今こうしてじっと俺を見つめているそいつは――。
――第一ルキフェル。もっとも神に近い者。
翼の光が弱いように見えるのは、もはや放っているのが可視光ではないからだそうで、その不可視光のごく一部が自然に崩壊することで青色の光が放たれているらしい。
そしてそれが一昨日俺が、存在しないと思っていたルキフェルの答え。
俺の知る限りでは、本来ルキフェルの翼の色は純白だ。それは一定の光を放つようになるまでは翼は光を反射するので白く見えるためで、階級が上がると徐々に光を吸収し始める。――しかし、放っている光は吸収しきれないので、反射する。だからルキフェルの翼の色は放っている光の色と同じ系統の色になる、と。
つまり緑の翼を持つルキフェルは赤い光を放ったりはしないし、光が弱いルキフェルだからといって灰色の翼をもったりはしない。
しかし。
光が強くなり過ぎて不可視光を放つようになると、俺には反射しているであろうその色が見えないわけだから、翼は黒く見える、と。
黒い翼のルキフェル。
たぶん他の、鳥か何かの動物がこいつを見たら、さぞかし威厳のある光を放っていることだろう。その言動はともかく。
というか紫外線って……。
本気かそれって有害じゃねえか大丈夫なのか。
――と思いきや、天使というのはこの世に「いるけどいない」存在なので大丈夫なんそうだ。物質的な干渉は滅多にしないらしい。
そもそもこいつのように不可視光を放つような高位のルキフェルなんてそこらにほいほいといるものでもないし。
有間が考え込むように頬に指を当ててうーんと唸る。
「それにしても、恐怖の大王ねー……。どこかで聞いたことある気ィするけど、それってなんだっけ?」
「十六世紀のノートルダム医師が出した未来予想図に出てくる怪物だ」
俺がそう答えると。
ずん、と背中に重みを感じた。
「本人を前にして怪物とは失礼だねそーしくん。ぼくってば君の守護天使なのに――つまり君は自分の守護天使を怪物呼ばわりしているわけだよ?」
そいつは俺の背中に体重をかけていた。
窓はすり抜けるくせに、どうして俺に触ることができるのかと思うが、まああまり気にしないことにしておいて――。
うん。
俺は無視。
「ほら、俺たちが生まれた年に騒がれてたっていう、予言書の中の世界終末節だ。東京に恐怖の大王が降りてくるってやつ」
「東京? あれってデマじゃなかったっけ、中世のお医者サマが東京のことなんか書くわけないし」
確かに。言われてみればその通りだ。俺の勘違いだろうか。
なにしろ俺が東京にいたころの話だから、勝手に恐怖の大王が「東京に来る」のだと解釈していたのだとしてもおかしくない。
「あの、無視ですかそーしくん」
もちろんだとも。
「で、しょーじはその恐怖の大王とやらに驚いて悲鳴を上げたわけなんだ? まあそこまでは一応それでいいとして……、どうして階段から落ちる羽目になるのさ」
「どうしてって、普通に逃げ出したらこいつ……いや、その、恐怖の大王が追いかけてくるもんだから、全速力で振り切ろうとしたんだが、夢中になっててうっかり階段を踏み外したってわけで。そんな、別段と面白いことはまったくないぞ」
「へ~……、それは、しょーじ頭とかは大丈夫? 別の意味で」
なにか、ものすっごく引っ掛かるような言い方だ。
つまり階段から落ちて頭とか打たなかったか、と心配しているのではなく、恐怖の大王とかわけの分からない幻覚を見るなんて頭がおかしくなったんじゃあないか、と心配しているわけか。
「ぼくはわけの分からない幻覚ではないんだけど」
ルキフェルがむくれた顔でそう言った。
……いや、ちょっと待て。
俺は今、何も喋ってないぞ。
がたん、と俺は立ち上がってそいつの肩をつかんで揺さぶった。
「お前っ……、今、俺の考えてることを読んだのかっ」
俺は思う。
心が読めるとか、考えが分かるとか。
守護天使が宿主の思考を通して周りを認識するってことは、その宿主の考えが分かるということだと薄々勘付いてはいたが、実際にそうされるとかなり困るというかプライシーの侵害なんじゃないかと俺は思うわけで。
「だって、ぼくはそーしくんの守護天使だもの。力を使っているわけではなく、勝手に思考が流れ込んできて、分かっちゃうんだよ。そこらへんは妥協してもらわないと」
えー。
せめて、あからさまにあなたの思考読んじゃってます的な発言は控えてほしいというかなんというか。
そいつは頷いた。
「善処するよ」
「いや、だから、そういう発言が問題なんだって――」
と。
「しょーじ?」
そこで有間の声で俺ははっと我に返る。
しまった。
よくよく考えてみれば有間には天使なんてものは見えないのだから、俺は空気と格闘しながらわけの分からないことを喋っているように見えるはずで、いやそれはつまり俺がおかしくなったという疑惑に拍車をかけることになるんじゃないのか、と。
もう遅いとは思ったが、俺はぱっとルキフェルから手を離して席についた。
「……見なかったことにしてくれ」
「何が?」
「え、だって俺今、その、……独り言とか言ってただろ?」
きょとんとした表情で首を傾げる有間。
「独り言? だってしょーじ、今、そこの誰かと話してたじゃんか」
「誰か?」
俺はルキフェルのほうをまじまじと見る。
見えているのか、これが?
「これ、ってもしかしてもしかしなくてもぼくのことを言ってるのかなそーしくん」
俺は無視。
しかし有間のほうに向き直ってみると、またうーんと唸って考え込んでいる。そしてしばらくしてからあれっと首を傾げた。
「誰かって、いやいや確かに誰かいたはずだけど、――しょーじ、誰と話してたんだ?」
「……見えてない?」
ルキフェルが言う。
「いいや、彼には『見えていることになっている』よ、そーしくん。彼はぼくを半分しか認識できないんだ。ちゃんと姿を見ているはずなのに、しばらくすると忘れる――でも半分しか認識していないから違和感を感じない、と」
夢の中の人物を見ているような状態か?
自分の隣にいた人物が次の瞬間にいなくなっているのにそんなことは関係ないってくらい全力でスルーで内容が進行したり、ちゃんとした普通の人物と話していたはずなのに目が覚めてみるとその顔をよく覚えていなかったり。
「って、お前は俺の守護天使のくせに俺以外の奴に干渉していいのか?」
いや俺の経験からすれば守護天使の影響なんて微々たるものだから、そうたいしたことはないとは思うが。
「んー、でもそれ、ぼくの能力ではないよ?」
「え」
「昨日もそうだったけど、きみは無意識に力を使っているらしいね。きみがぼくと話していても不自然ではないようにぼくを他人の意識下に半分具体化させつつはっきりとは認識できないようにさせている。それなりに違和感がないようにちゃんとコントロールできているようだから、てっきり自覚しているものだと思っていたけど、……もしかして気付いてなかった?」
俺はわけも分からず呆然としたまま気のない返事をする。
つまり俺は街中で普通にこいつと話していても、やだーあの人ひとりで何わけの分かんないこと喋ってんのー? とはならないわけだ。
それはそれで安心なのだが、俺みたいなごく普通の高校生がそんな人離れした力を持っていてどうしろというのだろうか。俺は今後普通に大学に進学して民間企業に就職して、定年退職したら老後を家でまったりと過ごすつもりで、この力を何かに役立てようという気はないのだし。
……いや、あまり役に立ちそうな気はしないが。
「失礼だねそーしくん。ぼくと会話できるということは世界の真理を知る機会を与えられているということでもあり、きみはこの世界で至高の存在ともなりえるわけだよ」
「そんな悪徳商法じみた宣伝文句は信用できないっての」
俺はため息をつき、考える。
そもそも世界なんてものは人ひとりの手の届く範囲で支え合っていれば充分だ。無理に一人にすべて支えさせようとするもんじゃあない。
世界中すべての人を救えるのはきっと神サマくらいなのだろうが、そうしたって所詮人以外のものに負荷が押し付けられるだけだ。そんな不安定な世界は創られるはずがないから、俺たちはどこかで何かを妥協しなければならないのだ。
そして負荷のすべてを取り除くことはできなくとも、最小限に抑えることはできるはずだ、と俺は思う。それを考えているのは探せば世界中にいるし、決して少数派ではない。不可能ではないはずだ。
ふっと。
ルキフェルが柔らかな笑みを浮かべた。
「うん、そうだね。それを知っているから、そーしくんはこれからの未来においてもその通りにできるだろうね」
なかば独り言のようなその呟きを、俺ははっきりと聞いたはずだが、その言葉の意味はよく理解できなかった。
訝しげな表情で見る俺にルキフェルはにこにこと笑いかけてはぐらかす。
尋ねようにもなんと尋ねていいのか分からなかったから、俺はいったん口を開きかけたが、そのまままた閉じて黙り込んだ。
「しょーじー」
恨みがましい声。
会話の外に置かれていた有間が両手で机を叩いてずいっと身を乗り出す。
「だァーからっ! さっきから二人で何話してるんだよ。怪しいぞー俺という恋人がありながら何二人だけの世界醸し出しちゃってるんだよ。浮気かこらー」
「俺は浮気はしないしお前は恋人じゃない」
そんなに俺を変態にさせたいのかこいつは。
俺はため息をつく。
こんなたちの悪い冗談を連発しまくる有間のくせに、よく女との仲が続くものだと俺は思う。
というかこんな中途半端に認識させてしまうのならいっそ何も見えないようにできないものだろうか。
不便だ。
ルキフェルが言う。
「そこはまだ慣れてないから無理としか言いようがないね」
……不便だ。
ため息。
「まりお、お前にはこいつがどんなふうに見えてるんだ?」
俺は有間に聞いてみた。
「どんなふうって……、んー、普通?」
普通ってなんなんだ普通って。
しかし少なくともこいつがいかにも天使然としてたまに翼をぱたぱたとやっていることに違和感を感じているということはないらしい。
というか有間がこいつを夢の中にいるような状態で見ているというのなら、中途半端に意識しないでさっさと忘れてくれたほうが嬉しいのだが。
「んー、でも彼、むしろぼくのことを深く認識し始めているようだよ。なんとかしないとぼくを天使として識別できるようになるかもしれない」
それは困る。
……いや、困るのか?
よく考えてみれば、俺はいつでも守護天使が見えるが、そうしたところでそうたいした利益も損害も受けていない。
人々の中には幽霊が見える者もあるのだから、天使が見えたってそれほど困らないのではないか?
と、俺は思ったのだが。
「そーしくんっ! それはかなり本気で間違っているよ!」
ぽかぽかとルキフェルが俺の頭を叩いた。
「そーしくん、きみはかなり特殊なんだよ? 幽霊が見える人々っていうのは世間一般に認知されているけど、天使が見える人なんてものは本気の本気で少数派なんだから。しかもきみはぼくと会話ができる、そして彼はそのことを認識している――つまり彼がぼくを天使だと識別すれば、彼の世界観は根底から覆されるんだよ」
俺の頭はぽかぽかと叩かれている。
「きみの器はぼくのような高位の守護天使がつくくらいだから大丈夫だけれど、他の人では基本的に、人生で世界観が揺らぐような重大なことが起こると守護天使がその人を世界に適応させるような措置をとるわけで」
俺の頭は激しくぽかぽかと叩かれている。
「その手段のもっとも簡単なものが、人生を強制的に終了させることでっ」
俺の頭はもうなんだかもの凄い勢いでぽかぽかと叩かれている。
「つまり彼の寿命が短くなる可能性があるわけだよ。これはきみにとっては間接的な殺人だとも言えるからきみは――」
「っだぁああ! どうせ叩くなら肩を叩けっての。縮むわ! ついでに脳細胞が死んであほになるわっ」
と俺。
「頭皮が刺激されて髪がふさふさになるかもしれないじゃん?」
これは有間。
いや、まだそんなことを心配するような年齢ではないし。親もそんなに禿げやすい体質ではないようだし。
「そーしくん、彼、ぼくたちの会話の内容を聞けるようになってきているようだけど。きみは本気で彼を見殺しにするつもりなのかな」
そう言われても。
こいつから意識を逸らせば認識力がリセットされたりするのだろうか?
「うん? まさにその通りだよ?」
「えらく簡単だなおい!」
まあそのほうが都合がいいといえばいいのだが。
俺は教室にかけてある時計を見る。予鈴にはまだまだ時間があるが、もうそろそろ他の生徒も来るだろう。
というわけで俺は有間の気を逸らさせるためにルキフェルとは関係のない話を振ってみる。
「ああ! あんなところにいかにも心霊写真に出てきそうな血みどろな幽霊がっ!」
お約束な言い回し。
がたっと椅子から立ち上がってしゃきーんと指は教室の天井の端っこのほうを指し。
「しょーじ、そんなみんなの注目集めてどうすんの」
俺は、沈黙。
すまん俺が馬鹿だった。
そろそろと静かに座りなおし、うなだれた。周りからの痛い視線をひしひしと感じて、俺は軽率な行動をとったことを後悔した。
……まだ人数が少ないことは救いか。
「ちなみにしょーじが言ってるのは単なるしみだかんね。校舎の老朽化に伴いストーブのすすけむの排気に使われているパイプに隙間ができて黒ずんでいるだけで」
いやそんな知的な説明はいらねえ。
俺はわざとらしく咳払いをして話を変えた。
「というかまりお、お前、答え写すためにこんなに時間かけてるなんてもったいないと思わないか? 英語だけは得意なのに」
「いや実に有意義だと思うけど」
そんな馬鹿な。
俺が疑いの眼差しを向けると有間は笑いをこらえるような表情をして顔をそむけた。
なんだ?
しばらく待ってみたが、有間は笑いをこらえたまま何も言わない。
それどころか。
「そんなことよりしょーじ、結局そいつは誰なんだよ」
――話を蒸し返しやがった。
ため息。
うまくいっていると思っていたのに。俺の有間をルキフェルから意識を逸らさせよう作戦は見事に失敗に終わったらしい。
俺は恨めしげに有間を上目遣いに見上げる。
「しぶといなお前も」
というか有間のためにやっているというのに。
「……しつこいな、ではなく? しぶといな、ってそれまるで俺がなんか大変なことしてるみたいじゃんか」
実際その通りなのだが。
しかしまあルキフェルに直接話しかけようとはしないところを見ると、短期間はそうたいして人の認識力というのは鋭くならないのかもしれない。
「それでもともかく念のために彼をどうにかしておかないと」
「だぁああっ分かってるって。でもいったいどうやってまりおの意識を逸らさせろって言う――」
と。
俺がルキフェルに話しかけているのをいいことに、有間があからさまに不審な動きをする。
……いやいくら俺が横目にしか見てないといっても自分の手元にあるプリントがすり替えられそうになればさすがに気付くからな?
「まりお、ひとのプリントをさりげなく取っていくな。お前にゃ自分のやつがあるだろう自分のが」
それに答えて有間が芝居がかった口調で言う。
「んー何を言ってるんだいしょーじくん。君のプリントはそっちだろう? ほらちゃんと名前も書いてある」
「わー本当だー。……って、なんでボールペンで書いたプリントに俺の名前書いてるんだよ! てめえ、有間っ!」
「いやんしょーじが俺を本名で呼んでくれた」
俺は有間をぶん殴ろうと拳を振るったが、有間は立ち上がりにくい姿勢で座っているにもかかわらず器用にそれを避けるとさっと距離をとって言った。
「ナイスボケをありがとうしょーじ、俺もお前のこと愛してるぜ」
「待て」
俺もがたんと椅子を引いて立ち上がる。
しかし俺がそうやって行動に出たときにはもうすでに有間は教室を出んとしているというこの素早い対応はまったくどうしろと。
「また昼休みに来るから、今回はこれくらいで勘弁してやろう。そいつのこと、どう弁解してくれるのか楽しみにしてるから」
「いや待て有間、俺のプリントは」
「それじゃあまたな、アディオースっ」
「有間ぁあああ――っ!」
俺は叫んだ。
***
そう、俺がそいつから逃げ出して階段から足を踏み外して病院に運ばれたらしいあと、目が覚めたのは真夜中だった。
何故病院に運ばれた「らしい」のかというと、俺が目を覚ましたときには見慣れた天井が目の前にあって見慣れた布団がかかっていて見慣れた部屋にいて、つまり要するに俺は目覚めたそのとき自分の家のずばり自分の部屋にいたからだ。
あとで俺の両親に聞いてみたら、医者が「異常なしです」と言ったため入院費が惜しいというのでさっさと家に連れ帰ったのだそうだ。医者がなんともないってんだから別にいいじゃないか、というのが彼らの言い分だ。俺はこんな超アバウトな両親をとっても尊敬している。それはそれは本当に。
それで。
そうやって俺が目を覚まして辺りを見回すと、そいつは俺の机に腰かけていて、俺のことを見つめていた。
俺はそいつが長いことじっとそんなふうに見つめていたのも、それが当然のことだということも「知っていた」。
あれほど感じていた恐怖心が嘘のようにどこかに消えていて、俺はどういうわけだかそいつが俺の守護天使だと知っていて――それでもあえてそいつに俺が何者かと尋ねると、そいつは答えた。
一番初めに創られた天使、第一ルキフェル、――神に最も近い者。
そして、俺の守護天使なのだと。
どうして俺なんだ?
俺は純粋な疑問としてそう聞いた。
だって、理由が思いつかない。俺はごく一般の高校生で、なんの力もない。ただ、守護天使が見えるは見えるが、それにしたって幽霊とか妖精とかが見えるファンタジーな能力者に比べれば可愛いものだ。
俺は他人の守護天使が見えるが、そいつらには俺のことが「見えていない」のだ。
夢中になる。いや、回りが見えない、と言ったほうがいいだろう。守護天使は守護している者の行動を通してしか他の者を認識することができない。俺が視界の中心にいる者の守護天使しか見えないのと同じようなものだ。直接つつきでもしない限り、そいつらは俺を見ることができない。――しかし天使は物質としての実体を持たないので、触れることすら不可能というわけで。
つまり、不干渉。いてもいなくても同じ。
俺は守護天使によって人の器を見分けることもあるにはあるが、それだって普通に接していれば分かるものだから、たいして重要ではない。
それにあれは、あの出会いは。
……何か理由があるにしても、顔を見るなり絶叫して逃げ出すような奴――つまり俺のことだが――が守護するに値するとは思えない。
だから。
どうして俺なんだ。俺なんかで合っているのか、と。
しかしそいつは俺の問いに少し首を傾げると、答えた。
「きみはぼくを畏れたから」
見えるだけではいけないのだと。
力ある者におそれを抱くことは重要なことなのだとそいつは言った。
だから俺はそいつが守護天使としてそばにいることを受け入れることにした。
まあ、俺が承諾しなくてもそいつはすでに俺の守護天使だったのは知っていたが。俺自身の心の中できちんとしておきたかったのだ。
そしてそいつは俺の質問につらつらと答えてくれた。
ルキフェルなのに翼の黒い理由もいちいち俺が知っていることから全部懇切丁寧に教えてもらったし、神に最も近い者なんて言っているくせにどうしてこんなところにいるのかも説明してもらった。
「天界にはぼくの片身がいるんだ。その名はミカエル。創造主がこの世界を創られたときに、ぼくは自分の身体を二つに分けて天界に一方を置いてきたんだ。ぼく自身はこの世界を守る任を任されたから」
つまりお前はミカエルと同一なのか? 俺はそいつにそう聞いた。
しかしそいつは首を振って、そうでもあるけどまったく別のものでもある、と言った。
片割れのほうはとある存在の力によって補完されていて、だからこそそちらはミカエルという特徴を持つようになったのであり、自らの身体の一部として機能しているわけではないのだと。
……ともかく。
そいつは天界から降りてきてからずっとこの世界の中心で眠っていたそうだ。
そして、目覚めたのは、俺が生まれた年。
世界を守るといっても、たいしたことはしなくていいらしい。そいつは強大な存在だから、こうやってここにいるだけで世界の均衡を保つ役割を果たしている。
目覚めてまでやるべきこと。
それはヨーロッパのどこかの国のノートルダムという名の医師が書いた予言書に詳しく載っていて、そいつはその通りにしてきたという。
すなわち、万物から畏れられる天使の長である第一ルキフェルは、マルスの世界に天使の月「エンジェル・ムン」を再建してきたのだと。
分かりやすく言えば、そいつは神サマの命令で、そのうち火星に進出するであろう俺たち人類が困らないように、火星の衛星に天使たちが住まう異次元世界をつくり直しておいたのだと。
――つくり直した。
なにやら以前にもそんな世界をつくったことがあるような表現のしかただが、それというのも昔――数十億単位の昔だが――つくっておいた異次元世界は、力が足りなくなって完全に機能を停止してしまったという経緯があるからなのだそうだ。
火星に見つかる生命の痕跡は先代の月が正常に動いていた時代のものだという。
まさか天使なんてファンタジーな存在からそんなサイエンスフィクションまがいな話が聞けるとは思わなかったが。
ともかくそいつはその役目を終えて、天使の月の完成として起こったその年のグランドクロス以降、自由になった。
それまでのようにどこかで眠っていることもできた。
しかしそいつは、人の、守護天使になりたい、と神サマに頼んだそうだ。
そして、ちょうどそのときにはそいつがつけるような器――俺が生まれていたので、そいつは東京へやってきたのだという。
多分、必然だったのだとそいつは言う。
そいつが目覚めて地上に上がってきたその年の七月に、俺もまた生まれていたから。
そもそも日本という土地柄は、大陸棚が多くぶつかり合っていて世界の裂け目が多いため、上がってきたそいつの力をもろに受けたから。
そして多分、俺はもとは死んだあとに天使になるような器だったから。
必然的に。
俺はそいつの影響を受けて、そいつが守護天使につけるような器になったらしい。人の守護天使が見えるなんて特殊な能力も、そのせいだ。
俺は天使になるための潜在的な力を使ってそういった器をつくったため、もう死んだあとに天使になることはないらしいのだが……いや、天使なんてものは俺には似合わないしなるつもりも毛頭ないから、そのほうが良かったのだろう。
そうして俺の守護天使になることに決めてからそいつは俺を探したのだが、ついに見つけることができなかったという。
そいつはできあがった世界を見るのは初めてだったから。
神サマに言われてこの世界に来たときにはまだ隕石がどかどかとぶつかり合っているような時代で、そいつはその後すぐに中心のほうに潜ってしまったから、人という存在は他の天使たちから送られてくる思考の信号でしか知らなかったという。
不慣れなそいつには東京の人口はあまりにも多すぎた。
生まれてすぐの頃ならば病院を片っ端からあたれば見つけられただろうが、果たすべき仕事をしていたそいつにはそれは無理な話で、というかその頃にはまだそいつは守護天使云々という希望など持っていなかったし、――そいつが探し始めたという頃には俺はすでに退院していたはずだ。
それならば神サマにでも聞けばいいではないかと俺は思うのだが、自分が守護するものを自分で見つけられないようでは守護天使ではないとそいつは主張した。
妙なこだわりだと俺は思う。しかしそいつがその頃に俺を見つけていたとしたら、今頃は――今頃は? やっぱり想像できない。
ともかくそいつが俺を見つけられないうちに俺の一家は東京から引っ越してしまい、そいつはまだそれから十年ほど東京で俺を探していて、ついで全国を周り、ここに至って俺を見つけたわけだ。
これは必然的な出会いだと。
――しかし俺は思った。
天使になるはずだった力を使って今の俺になったということは、俺はどうすべきなのだろうと。俺が死んだあとにするはずだったことをなさなくていいのかと。
使命感からではなく単なる義務感からだが。
話の最後にそんな疑問を投げかけた俺に、そいつはこう言ってきた。
「天使になって最初にすること? そうだなー、意外かもしれないけど、たいていは守護天使になるかな。次元が違うからぼくにすら見えないのだけれど、そこらの物すべてにも守護天使がついているんだよ。ガーゴイルたちがね」
つまり。
「――つまり、天使になって最初にすることは、じっとしていることで……うん、ざっと百年から一億年くらい、ひたすら我慢していること、かな?」
すみません俺、天使をなめていました。
***
――昼。
「誰だこいつを誘ったのは……」
俺は頭に手を当てつつ言う。頭が痛かったわけではないが、押さえていたら本当に痛くなってきた。悩ましい。至極不条理。俺には平穏はないのか。
「誰が誘ったわけでもないんだなこれが。俺がしょーじと昼飯を食べるって言ったら、勝手について来たんだ」
有間が佐藤を指し示して言った。
佐藤。
もちろん佐藤なんて名字の奴はたくさん――俺としては佐藤よりも斎藤とか鈴木とか渡辺のほうがよっぽど多いと思うのだが――いるが、こいつは取り扱い要注意の佐藤、つまり例の一組の新聞部の佐藤だ。
確かに佐藤は有間の友人だが、こいつは一昨日俺を新聞のネタにしようとした危険人物で、そんな奴を平気で連れてくるとはいったい――、ああもう、どうして有間はこう鬼畜なのだろうか。
「お構いなく」
あからさまに刺々しく喋っている俺のその態度を見て佐藤が片手を少し挙げてそう言った。
いや、構わないわけにはいかないっての。
「心配しなくとも自分は一度あきらめたネタは書かないことにしている」
佐藤が言う。
「……まあ、フェイントをかけて油断させることはあるけど」
まったく意味がない。
「しょーじ、佐藤は悪い奴だけどさ、うかつに怪奇現象に遭遇したとか言いふらしたりするような馬鹿じゃあないから、そこらへんは信用していいんじゃね?」
悪い奴って。
仮にも本人を前に言ったりしていいことなのか?
俺が佐藤のほうをうかがってみると、さすがは情報収集に優れた新聞部員で有間の友人で理系の佐藤、その発言は軽くスルーすることに決めたらしく、さっさと弁当を広げて箸を手にとっていた。
「一応言っておくと、これは俺の机だぞ佐藤。……いや、公共物だけど」
「知っている。つまり現在の所属が厚紫にあると言いたいんだな」
……物分かりが良くて助かる。
しかし、昨日の今日で俺に接触を試みてくるとはずいぶんと怪しい。
というかこれが俺の机だと知ってなお遠慮する気がないとはどういった思考回路をしているんだ。
いやそれよりも。
「……まりお、俺の弁当を広げる余地がないように見えるんだが」
「そうだね、気合いでなんとかするといいよ」
いやいやお前が隣の机を持ってくるとかしろよ。
俺は心の中で突っ込みを入れた。
ため息。
仕方ないので、俺は弁当箱を手に持って食べることにする。どうして自分の机をこいつらに提供しなければいけないのかと思うのだが、それは有間と有間の友人なのだからと仕方がないと思って観念するしかない。
俺が弁当をつついていると、佐藤はぽつりと言ってきた。
「好奇心だ」
……何が?
黙々と食べる佐藤。
いや何を言いたかったのかさっぱり分からない。
ふと、ルキフェルが俺の肩を人差し指でつついてきた。
「そーしくん、ちょっといい?」
俺はそいつに引っ張られて弁当箱と箸を持ったまま立ち上がった。
「なんだ――」
ガンッ、と頭蓋骨を伝って俺の耳に響くほどそれはもろに入った。
膝。
何者かが前のほうから飛んできて、俺の顔面に直撃してきたのだ。
前から来れば俺は後ろに倒れるわけで。
俺は後ろの机に手を――左には弁当を持っているので右手だけだが――ついて踏ん張ろうとしたがあえなく空振り、その机をも巻き込んで転倒した。
ずわしゃっ。
昼休みとはいえ机の脚が床を擦る不快音――プラス俺が思いっきりずっ転ける音は想像以上に凄まじいもので、俺はクラス中の注目を集めた。
――というか俺は弁当箱を持って立ち上がったはずなのに、しかも机に手をつこうとしていたときにもしっかりと持っていたはずなのに、今、左手が空になっているのはいったいどういうことだ。
しかもその左手の指が明らかに木製の床ではないべたっとした感触のものの上にあるのは、というかこの物体は――。
「……べ」
弁当。俺の昼飯が。
しかもどうしてこうもたいそう都合良く――いや、都合悪く、親がこれでもかと言わんばかりにぎゅうぎゅうに詰めていたはずのご飯がよりにもよって俺の手元に落ちて崩れているんだ。
「しょーじ、保健室行ったほうが良くね?」
「保健室?」
いやそこまで精神的なダメージがひどいわけではないのだが。
俺がそう考えているとルキフェルが「違う違う」と首を振って言ってきた。
「そうじゃないよそーしくん。血が出てるんだよ、鼻血。そりゃあもう大出血」
「え」
その言葉に俺はなんら意味もないのにほとんど反射的に、何故だか思わず下を向いてしまった。
物理の法則。重力は地球の核のほうに、つまりは下向きに働く。
ぼとぼとっ……。
もちろん血も下に落ちる。
「うわー……、厚紫くん、うちらそこ片付けておくから保健室行ってきなよ」
クラスの女子がありがたい言葉をかけてくれたので、俺は血が垂れ落ちないように右手で鼻をおさえながら立ち上がり、机の横にかかっているかばんの中を漁ってティッシュを取り出した。
血みどろ。
とりあえず手持ちのものをすべて使って拭くが、とてもそれだけでは足りそうにない。
確か教室のどこかに箱ティッシュが放置してあったはずなので、俺はそれを探して辺りを見回した。
と。
――木村さんと目が合った。
ただし一瞬だけだ。
そりゃあ理由もなく視線がかち合えばなんとなく気まずくもなるだろう。
木村さんは真面目だから、多分、手伝ったほうがいいのか何もしなくていいのか迷っていたのだと俺は思う。しかし内気なのでクラスに作られている女子のグループに入りにくいから、手伝おうにもどう動いていいのか分からず、結果、ただ傍観することとなってそれを俺に見られた、と。
いや、べつにハブられているわけではない。
そこはさすが高校生で、周りも授業などでグループを作るときにはきちんと木村さんを輪に入れているし、入れるときにはそれなりに好意的に接しているようだ。
しかし、手伝う気が少しでもあるのなら思い切って行動してしまえばいいのにと俺は不思議に思う。手伝ってくれれば普通に感謝するのに、と。
まあ、人は少なからず自分で自分に対する固定観念を作ってしまうものだから、なにか突飛な行動をとろうとしても難しいかもしれないが。
ともかく俺は目的のものを探してあちこちを――動き回れば鼻血がぼたぼたと落ちて被害が広がるので、その場に立ったまま、見回した。
「しょーじー、これ?」
いつの間にか教卓のところに移動していた有間が言った。
手には箱ティッシュを持っている。
まさしく俺が探していたものだ。
教卓の中に入っていたらしい。盲点だった。
有間がこちらに向かって軽く放り投げてきたので、俺はそれを受け取って礼を言うと、ぼたぼたと止めどなく流れ出る血の対処にあてた。
普段はふざけているくせにこういうときに限って何も言っていないのにきちんと察してくれるから、有間め、なかなかどうして、にくい奴だと俺は思う。
「しょーじ、あとでジャージも持っていってやるから、さっさと保健室に行ってきな」
と有間はここでポーズをつけて、「あとは俺に任せろ」
芝居ぶった口調。
任せられる気がしないのは気のせいか?
しかしともかく俺は廊下に出て、保健室に向かった。
派手に転けたせいか身体のあちこちが痛み、少し歩きにくく感じる。
……というか、有間に言われて思わず従ってしまったが、鼻血ごときで保健室に行くのはどうかと思うんだが。
「そーしくん」
鼻血なんて放っておけばそのうち止まるものだし、というか放っておくくらいしか処置のしようがないし。
「そーしくん」
自然に出たものではなく何者かに膝蹴りを加えられたせいで出たものだから、さすがに今回は血の量が半端ないが、しかしそれほど大げさに騒ぐことでもないような気もする。
「そーしくん、気付いていないようだけど、足首を捻挫しているよ。今はなんともないけれど、明日には腫れて痛みが出る」
「え」
ルキフェルの言葉に俺は思わず歩みを止めた。
道理で歩きにくいわけだ。
机ごとひっくり返ったものだから、背中をぶつけたり、しりもちをついたりしていてあちこちが痛んで――ついでにこの鼻血騒ぎを起こしたりしていて、正直、足の痛みは軽視していたが、まさか捻挫しているとは。
「……って」
それより。
立ち止まった俺は、うしろに佐藤がついてきているのに気が付いた。
……てっきり教室でおとなしく弁当を食べているか、片付けを手伝っていると思っていたのに。いや、そう期待していたのに。
「佐藤。何か用か?」
「分からん」
分からんて。
「俺は、お前に謝らなくてはいけないような気がしたから」
俺は怪訝な顔をして佐藤を見た。
佐藤は歩きながら言う。
「道端に転がっているレジ袋が白い犬に見えたり、人が見えた気がして振り返ってみたら誰もいなかったりすることがあるだろう? 何かの部品が百円硬貨に見えたり」
歩いていく方向がちょうど俺が向かっているのと同じ方向なので、俺も佐藤のあとを追いながら聞く。
謝らなくてはいけないと言っているくらいだから、俺に付き添って保健室に行くつもりなのだろう。
佐藤から謝られる覚えなどないのだが。
「いや硬貨は単にお前ががめついせいだろう?」
俺は茶化してそう言った。
――いや佐藤ががめついかどうかなど知るはずもないが。
しかし佐藤は茶化してみた俺の言葉を軽くスルーして続ける。
「そういうのは単なる見間違いというのが正解なんだけど、しかしそれらが本当にそこにあった可能性があるという考え方を無視していいものだと思うか?」
無視もなにも、見間違いが正解だと言うのならそれ以上議論する余地がないような気がするのだが。
「……つまり?」
「つまり、それらは見間違いであると同時に、実は犬であったり人であったり金であったりするってことだ。本当は複数の形であるものが俺たちにはただ一つのものにしか見えないという状態にあるわけで――」
佐藤が振り向く。
「俺のほうから何かがお前の顔面に向かって跳んでいったのを見た」
一瞬、呆気に取られてから俺は佐藤の顔をまじまじと見つめた。
俺の顔に突っ込んできたのは何者かの足だが、俺たちのような一般人が、助走もなしに俺の顔の高さまで跳ぶような、そんな跳躍ができるわけはない。
しかもクラスの奴らも跳んできたものについてはなんら話題を振らなかったことからすれば、見ていなかった、見えなかった、――あるいは見えていたとしても違和感を感じなかった、というのが妥当な答えだ。
だとすればそれは人ではないわけで、俺だけに見えるとしたら守護天使だと考えるのが適当だ。
そして俺が立ち上がる直前に見ていたのは、佐藤。だからあれは佐藤の守護天使である可能性が高い。
普通ならば守護天使は他の者には干渉しないはずなのでどうして俺にぶつかってきたのかは分からないのだが……。
「見えるのか?」
俺が佐藤に聞くと。
「いいや違う。見えるわけがないだろうそんなもの。単なる見間違いだ」
と他人事のように返してきた。
どこまでが本気なのか分からない。
「なんだその疑わしい目は。こいつはひたすら本気だぜ?」
ルキフェルが俺に話しかけてきた。
――いや、ルキフェルはルキフェルだが。
そう、この強烈な光を放っているそいつはまごうことなきルキフェルなのだが。
緋い翼。
これは佐藤の守護天使だ。
しかもずいぶんと尊大な態度だ。両手を組んでふわふわと浮いている。
……なんで俺に話しかけてきているんだ?
「つまりだな、こいつの言う通り人はたまに別の次元を垣間見るんだが、たいていは見間違いとか気のせいとかと思うように処理する。だからこいつはそれに則って表向きは『見えないことにしている』ってわけだ。周りに、自分は怪奇現象が見えるだなんて言いふらすような馬鹿ではないからな」
「……俺に話しかけてるのか?」
「他に誰がいるんだ、おまえみたいな守護天使が見える変人が」
威張ったように腰に手を当ててそいつが言った。
佐藤に会うのはなにも今日が初めてというわけではないからなんとなく分かってはいたが、この、俺に話しかけてきている緋い翼のルキフェルは佐藤の守護天使だったはずだ。
そして俺の顔面に膝蹴りをしてきた鬼畜な守護天使も、こいつだ。
――よく分からんが、関わらないほうが身のためだな。
俺はそう判断し、さっさと保健室に向かうことにする。
「謝らなくていいぞ佐藤。こいつの行動はお前とはなんら――いや、そうじゃなくて、うん。別にお前の責任ではないし。教室に戻っていいぞ」
佐藤は少し首を傾げて思案するように俺を見ていたが、やがて頷いて「そうか」と言ってあっさりときびすを返した。
「ああこらてめぇ卑怯者ぉおおおっ」
緋いルキフェルがずるずると引きずられながら叫んだ。
ずいぶんと静かになった。
保健室に行くと先生に驚かれた。
意外とひどい様子だったらしく、鼻血と捻挫だけではなく、突き指と、口内にできた噛み傷を――佐藤のルキフェルに膝蹴りされたせいで自分で頬の内側を噛んでしまったらしい。舌を噛まなくて良かったと思う――つくっていた。
「喧嘩でもしたの?」
「いや、転んだだけなんで」
「……最近の子は風変わりな転び方をするのねぇ」
なにやらそこはかとなく疑われているようだが、ともかく捻挫のほうを見てもらって、冷やすものと鼻血を拭くための濡れタオルを受け取って椅子に座った。
俺はいつも鼻血は血が出なくなるまで鼻をかんで止めるのだが……最近それは非常識なのだと知った。
うん。あまり保健の先生を驚かせないようにしよう。
まったく、あの緋いルキフェルが突撃して来なければ今頃有間を退けて昼飯を食べていたはずなのに。
「ごめんねそーしくん。彼も悪気があったわけではないのだけど」
俺はルキフェルを見る。
「……知り合いだったのか?」
「多分。ぼくはずっと眠っていたから実際に会うのは初めてだけど、彼はぼくに頻繁に話しかけてきていた天使だと思う」
へえ、と俺は相づちを打つ。
「さっき初めて会って、目が合うなりいきなり抱きついてきそうな勢いでこっちを見てわなわなと震えていたから、思わずそーしくんを盾にしちゃったけど」
俺は呆気に取られた。
間。
「あのとき俺を立ち上がらせたのはそのせいかっ!」
俺が恨みがましい目で見つめると、そいつはばつが悪そうに「あはははは?」と苦笑いして俺から視線を逸らした。
まあそれ以上そいつを責めても仕方がないのでとりあえず俺はため息をついて、おとなしく濡れタオルを鼻にあてておくことにした。
「そもそもあいつはどうしてお前に飛びつこうとしてきたんだ? 守護天使は他の守護天使に干渉したりしないだろう?」
「うん、普通はそうだけど、まれにこういうこともあるよ。つながりの深い天使同士っていうのは別々の者の守護天使をしていても互いの存在を強烈に意識する。そーしくんは見たことない?」
「ないな」
しかしつながりの深い天使というのは分かる気がする。
たまにいるのだ。
何回も一緒に守護天使をしているけど、とか、またおまえと組む羽目になるなんて、とか、いつもいつも云々……と言っている守護天使が。
しかもそう少なくない頻度で見つかる。
一昨日、こいつと会う前に昼飯を食べるために入った店にいた美人にも、そんな様子の守護天使がついていたはずだ。
つまりそんなふうに同じ者の守護天使にならなかった奴が、こいつと佐藤の守護天使のような関係になるというわけか。
「そう。特に相手が異性である場合は運命の赤い糸で結ばれている、とも表現される」
佐藤が同性で良かった。赤い糸だなんて冗談じゃない。
「まあそーしくんの場合は少し特殊だよ。そもそもそーしくんは今までぼく抜きで――守護天使なしで過ごしてきたから、そういった影響は受けにくくなっているからね」
「お前が来てからずいぶんと天使に対する考え方が変わったと思うけど?」
まさか天使のお偉いさんがこんなのほほんとしたあほなルキフェルだとは思わなかったし。
「いや、もちろんぼくは影響力が凄まじいから、嫌でも干渉してしまうだろうけど。きみにはもうぼく以外の守護天使はつかないんだ」
ルキフェルは言う。
「きみは人として存在すると同時に物質として存在し、かつその他何重にもきみという存在がこの世界で承認されていて、それはぼくら天使以外の存在によって守護される。ここで言うなら幽霊とか妖怪とか八百万の神々とかね」
「……お前のところって一神教じゃあなかったか?」
「ぼくがそーしくんの言う宗教の天使ではないことくらい分かっているよね? その宗教ではぼくは悪魔ってことになっているもの」
「それもそうだな」
宗教なんてものは――宗教に限らず歴史その他もろもろのこともだが――たいていは一パーセント未満の有産階級がでっち上げる解釈だということを俺は知っている。
そこではどこぞの女神イスタルが悪魔アスタルテになったり「ディーヴァ」つまり輝きという意味の語からデビルという語が派生したりする。そういった根深い信仰の対象を完全に排除することは不可能だから、お偉いさんはそれらを意図的に、悪に貶めることにしたわけだ。
そんなことをせずとも「世界の真理たるなにものか」はそこらの神と同じ格であるはずがないのになと俺は思う。
というかそんなものの存在を人が理解し得るレベルまで下げてしまうとはそれこそ冒涜ではないかと。
俗物化というのは要するに二次創作、パロディ、あるいは腐化に似ていなくもなく、つまりあれか、お偉いさんは萌えを追及していてかつ萌えを民衆に布教しているすなわち萌えの伝道師であり――なんだ? 口元がにやにやしてならない。
「気持ち悪いよそーしくん」
「俺もそう思う」
とりあえず落ち着け、俺。
「んーつまり、天使なんてものは世界の一側面にしか過ぎないから、きみにつかなかった守護天使の分は他の次元のものがきちんと埋め合わせているってことだね。ほら、小さいころに虫歯の原因となる菌を親から移されなければ大人になっても虫歯になりにくいって感じの」
「嫌な例えだな」
しかも若干分かりにくい。
というかその理論でいくと人には守護天使はいなくても別段構わないということになる気がするのだが。
「うん、確かにいなくてもどうにかなると言えばなる。要するに虫歯菌に相当する有害な存在がつかなければいいわけで、なにも守護天使が絶対に必要というわけではない。他のもので例えるなら、食事でたんぱく質をすべて大豆で補おうという感じで頑張っているようなことになるけど」
肉なし? 魚すら?
無理だ。考えられん。よく生活できたな俺。
大陸のほうの国ではよくあることで、そういうふうに豆を肉の代わりにする厳格なベジタリアンの宗教が多いことも知っている。しかしだからといって俺にそれをやれと言われても無理だ。
まあ、そういったベジタリアンでも食べたら食べたで肉はうまいものだと感じるらしいが。
「埋め合わせられた分はぼくの守護天使としての力を弱めているから、そーしくんはあの緋い彼から本来受けるはずの影響は受けないことになるだろうね。もちろん彼にはぼくが見えてそーしくんのことも直接的に認識できて、あれこれちょっかいを出してくるだろうし、きみ自身の意思で彼に対して興味を持つ可能性もあるけど」
そりゃあ話しかけられれば話すだろうが、しかしあのルキフェルと佐藤はやっぱり別個の存在だろうと俺は思う。
うん、つまりそれが、影響を受けにくくなっているってことなのだろう。
と、がらっと保健室のドアを開けて人が入ってきた。
先ほど教室に戻ったはずの佐藤だった。もちろんどこか怪我をしてここに来たというわけではなく、手にはジャージを持っていてそれはつまり俺にジャージを渡しに来たということだろうと分かる。
有間め、なんで佐藤に託すんだ。
確かに有間は俺に対して、あとでジャージを持ってやるから、と言ったはずだ。
「そーしくん。有間くんは自分でそーしくんにジャージを持ってくるとは言っていないわけで、それならば佐藤くんにその役目を任せたとしてもそーしに対して嘘をついていたこ
とにはならないよ」
「んな細かいことを奴が考えるわけないだろう」
「そうか、それもそうだね」
ルキフェルはあっさりと納得して引き下がった。
「今日はどうしましたか」
保健の先生が事務的に佐藤に話しかける。
佐藤は周りを見回して俺を見つけると、手で指し示して言った。
「付き添いです」
「あら」
どうも中途半端だが、それが返事の代わりだったらしい。俺の親もそうなのだが、この年代の女性は皆こんな感じなのか? あとの文は察しろお前日本人だろ省略とか得意分野だろと言わんばかりに略す。それはもう容赦なく。
だからこの先生の会話もそこで終わりで、佐藤は俺のほうへやってきた。
それと。
「ミーカァアアアアルっ」
ルキフェルしか眼中にないと思わしき佐藤の緋いそいつが「あはははは」となんだその締まらない顔はと突っ込みたくなるようなにやけた笑みを浮かべ、その背後に漫画ではよくあるいったいどこから沸いたんだというような花を大量に撒き散らしつつ――もちろん幻覚だ――ソフトフォーカスな特殊効果で描写されそうな輝きを放ちながら、こちらに向かって駆けてきた。
俺はとてもとても、それはもうとてつもなく嫌な予感がした。
しかし俺が立ち上がって避ける間もなくルキフェルのやつがさっと俺の後ろに隠れたものだから、そいつに向かって突進してきていた佐藤の緋い守護天使は俺の存在に気が付かないまま突っ込んできて、それは当然ぶつか――。
ばごっ。
――る羽目になった。
「何しやがる!」
相当痛かったらしく、佐藤の守護天使が若干目に涙を浮かべながら俺の襟首をつかんできた。
……それが巻き添えくらって椅子から転げ落ちた怪我人に言う言葉か?
「ちょっとどうしたのあなた?」
保健の先生は怪我人の調査やら健康診断の結果やらを記入する書類を書きかけのままペンを置き、がたんと椅子を引いて立ち上がった。
驚かせてしまったようだ。
「な、なんでもないでーす」
俺は緋いルキフェルにつかまれたまま白々しく嘘をついた。
保健の先生には俺が襟首をつかまれているのを違和感ある状態として認識できないはずだ。
というかいい加減放せ。
「そーしくん、一応言っておくと、守護天使が心を読めるのは自分が守護している相手だけだからね」
「うわー……なんだその意味なしな赤い糸的な何かは」
というか苦しい。
「大丈夫か厚紫」
佐藤が手を差し伸べてくる。俺の襟首をしめていた佐藤の守護天使は俺から手を離して向こうへ――ルキフェルのほうへ行った。
「ミーカール大天使ー! お会いできてこうえ……」
さっとルキフェルが避けた。
ぐわっしゅあっ。
凄まじい音が響いた。見れば佐藤の守護天使が頭から棚に突っ込んで撃沈していた。
結構大きな音がしたにもかかわらず棚の中身が無事なのは物質としての実体を持っていないからだろう。
……それならば俺のこともこのようにスルーしてくれればいいと思うのだが、そこらへんのことはやはり赤い糸的な何かなのか? まったく、本当に役に立たない。
「いやーねぇ。ネジがゆるんでるのかしら。見てもらわなくちゃ。あなたたち、ちょっと勝手にしといてくれる?」
先生は眉をひそめてそう言って、保健室を出て行った。
多分、事務の人を呼びに行くのだろう。一人、そういうのが得意なおじさんがいたはずだ。
保健の先生が保健室を放っておいていいのかと思うが、聞くところによるとこうやって先生がいなくなるのはしょっちゅうあることで生徒も慣れきっているので別にたいしたことはないという。
まあ高校生にもなれば怪我の手当てくらい自分でできるし、骨折とか火傷するような重大な事故は滅多に起こらないので心配はないだろう。
それに、先生がしょっちゅういなくなるのはあちこちにがたがきている保健室のせいなわけで。うん、この校舎が古いのがいけない。
「厚紫」
「大丈夫だ。別にどうもしない」
俺は立ち上がってそう言った。
と言いつつ実はそれほど無事でもない。
そこで身体の半分ほどをめり込ませて沈黙している佐藤の守護天使のせいで、新たに頭を打つわ鼻血が逆流して口の中が鉄っぽい味になるわで最悪な気分だ。
おまけに吹っ飛ばされたタオルは床にぺしゃっと落ちて瀕死の小動物みたいにむごたらしいことになっているし。
俺はタオルを拾い上げて水道で洗い、ティッシュで床の血が着いている部分を拭いた。
あと、先生がいなくなったので、俺は鼻もかんだ。今回の鼻血はなかなかしつこいようでまだ血が止まっていなかったから、ティッシュには血が混じったが、――やはり口に逆流するよりはずっとましだと思う。
佐藤が俺にジャージを差し出してくる。
「ありがと」
俺はそれを受け取って着替え始めた。
佐藤は保健室の棚を見るでもなく壁に貼ってあるポスターを見るでもなく、ぼうっとしているのでもなく、――ただじっと、無言で俺を見つめていた。
居心地が悪い。
しかし佐藤は何も言わない。
「まりおが来ないとは意外だな」
仕方ないので俺から話しかけてみた。
「まりお?」
佐藤が少し首を傾げて聞いてくる。
「さっき教室でも聞いたけど、それはいったいどういう由来のものなんだ。有間のことなんだろう?」
「そう、有間利音、略してまりお。名前の真ん中をとってみた。漢字で書くとこう」
俺が人差し指で空中に毬夫、と書いてみせると、佐藤は「分からん」と首を振って「毬藻のマリか?」と聞いてきた。
その通り。
俺は頷いて「オは夫のオな」と言っておいた。
佐藤は言う。
「俺が厚紫にジャージを持ってきたのは、木村さんがジャージを有間じゃあなくて俺に渡してきたからだ。有間から、受け取ったんだから自分で渡してこいと言われた」
「木村さん?」
意外な人物の名が出てきた。
木村さんはこういう場合に自分から何かしてくるような性格ではないはずだ。
俺が考えていると佐藤は言ってきた。
「ジャージが見つからなくて探してたんだ。そしたら木村さんが差し出してきた。……厚紫お前、木村さんのロッカーにジャージを入れてたんだな?」
「……そうなのか?」
いやその通りなのだろう。
教室の後ろのほうにあるロッカーはたいていは物置として利用される。主にプリント類を詰め込み、終業式前にはそのままごみ箱行きだ。
ロッカーは一人に一つ与えられ、プリントの他に教科書やジャージや体育館シューズを入れるが、掃除用具入れの三分の一程度の大きさしかないその空間にそれらすべてが収められるはずもなく、だから空いていれば誰か他の者のところを拝借する。
空いているところというのは元々使用されていない余分なロッカーか、プリントを溜めず教科書も頻繁に持って帰る真面目な生徒のロッカーで。
それが――俺がジャージを入れていたロッカーが、木村さんのロッカーだったというわけだろう。
扉には番号が書いてあるだけでその主の名前を知る機会はあまりない。一応は出席番号順になっているから、よく行動を共にする友人のそれならばなんとなく分かるが、女子のほうはさっぱりだ。
だから俺もそれが木村さんのロッカーだと知って使っていたわけではなく――。
――いや、しかしともかく。
あとで謝っておかなくてはならないな、と俺は思った。
「ミーカール大天使、ひどいじゃないですか。今のはずきっときましたよ精神的にっ。おれの愛情表現はそんなにうけませんか、もしかして漫才とかは苦手ですか?」
佐藤の守護天使が突っ込んでいた頭を棚から出して言った。
いやうけ狙いなのかよ!
俺は心の中で突っ込んだ。
ルキフェルは少し困ったような顔をする。
「その洒落は心臓に悪いからやめたほうがいいと思うよ」
「善処します!」
佐藤の守護天使が姿勢を正して言った。
……それもうけ狙いか?
「それと、ミカエルはぼくではないほうのぼくだから、そこらへんのことは明確に区別しておいてくれると嬉しいな」
だったらどう呼べばいいんだ?
俺は少し首を傾げた。
こいつは一番最初につくられたルキフェルではあるが、こいつら天使の間ではルキフェルすなわち「光を生むもの」は固有名ではなく階層名であり、限定的にこいつを指すわけではない。
つまりペットの猫に猫という名前をつけるようなもので……いや、そういえば昔飼っていた猫は猫だったなと、――いやいやそれは昔のことで、うん、やはりおかしい。
佐藤の守護天使はなお言いつのる。
「でもミーカール大天使――」
「黙って」
黙った。
それはもう調教された犬のようで、なんだか俺はそいつに犬耳とふさふさしたしっぽが生えていて、ちぎれんばかりにしっぽを振りながら健気に指示を待っている幻覚が見えた気がした。
うん、まあそれはいいとして。
「……俺の顔に何かついてるか?」
俺は振り返って佐藤に尋ねた。
何故ならば、先ほどから佐藤はじーぃいっと俺のことを見つめているからだ。
教室に帰る気配もない。
記事はあきらめたと言っていたから少しだけ安心していたのだが、実は罠だったのか?
フェイントをかけることもあると言っていたし。
「ついてない」
「そこらへんにべったり鼻血がついているわけでもないよな?」
「違う」
「……一昨日のことを記事にするのもあきらめたんだよな?」
「ああ、書かない」
「だったらどうして俺に構うんだ」
沈黙。
いやそれは、とても重大な隠し事をしていてシリアスに顔に陰をつくって意味ありげにこちらを見て沈黙しているというわけでは決してなく、あからさまに何を言っているんだこいつはそんなことも分からないのか呆れた奴だなとでも言いたげな表情をしてぽかんと口を開けて沈黙している、というのが正解だ。
「普通、目の前で怪奇現象を起こされたら興味を持つだろう?」
佐藤はそう言った。
「うん、いや、まあ……えー?」
つまり記事は書かないが自分の好奇心を満たすために監視はする、と。
先ほど教室で「好奇心だ」とぽつりと呟いたのはそういう意味だったのか、と俺は思った。……あまりに唐突すぎたのでそのときはどういう意図でそう言ったのか分からなかったが。
佐藤は言う。
「今だってそうだ。厚紫、お前はたまに誰かと話しているようだけど、いったい誰と話しているだ? そこには――」
とルキフェルのほうを指差して。
「誰もいない」
俺は驚いて佐藤の顔をまじまじと見た。
そうだ、最初に気付いておくべきだった。
怪奇現象。一昨日、佐藤は俺を見失って不審に思った、と言っているが、……そんなことは起こるはずはなかった。
ルキフェルと出会ったあの場面では、普通の者ならば俺を見失おうがどうしようが、違和感を感じなかったはずなのだ。
俺が無意識にそう力を働かせていたはずだから。
単に初めてだから力を使い慣れていなかったのではないかという疑い方もできるが、ルキフェルいわく無意識で使っているとは思えない程度にはうまく力を出しているそうだから、その疑いは否定できるだろう。……と信じたい。
というかそもそもその場にいた他の者たちは、仮に俺のことをきちんと認識できていたとしても、いきなりふっと消えたように見えるようなおかしな見失い方はしなかったはずだ。俺は瞬間移動などしていないから、ただいきなり叫んで走り出したようにしか見えなかったはず。
つまり、佐藤の言うような怪奇現象は、佐藤自身しか見ていない。
そして今もこうして俺がルキフェルと話したりしているのに違和感を覚えるということは。
――おかしいのは佐藤のほうだ。
ルキフェルが言う。
「彼はもとから別の次元のものを他人より強く意識していたようだし、ぼくがそーしくんの守護天使になって彼の緋い守護天使と会ったことで強い縁ができたしね。だからそれに引きずられて彼もなんらかの力を発現したのかも」
なんてはた迷惑な。
「うん、ごめんねそーしくん」
「いや……うん、違うぞ、お前のせいじゃあない。そこの佐藤の緋い奴がいけないんだ」
俺は次に言われることも予想して、そう言った。
「緋い奴……?」
訊かれた。
俺は覚悟を決めて――。
「実は俺とお前は敵同士で俺は悪魔ルシファーの力を使って世界征服を企みお前はそれを阻止すべく選ばれた勇者だったんだが俺の奸計によりお前はルシファーを目視することができなくなったのだふはははは」
嘘八百を、威勢よくまくし立ててみた。ちなみにあごはやや上向きで左手を腰にあてて右手であらぬ方向を指差してなんかいかにも悪役という感じに格好もつけてみた。
沈黙。
乗りのいい突っ込みを期待したのだが、いかんせん佐藤には荷が重すぎたか。
また佐藤に呆れた表情でこちらを見られているのだろうなと俺は思って視線を戻してみたのだが――。
――外れた。
俺のその予想は、真剣な顔でこちらを見つめている佐藤の前で立ち消えた。
……今の話を信じたわけではないだろうが。
「策士の嘘には二割の真実……」
佐藤が俺を見つめたままぽそりと呟いた。
俺はぎくりと身を引いた。
敵同士、悪魔、世界征服、勇者。
その言葉に真実などないのに、この嫌な予感はなんだ、こんな稚拙な嘘から真実にたどり着かれるのではないかという不安は?
「どこまでが真実だ」
「どこまでって……全部でたらめだ。何を言っているんだ佐藤」
しどろもどろに俺は答えた。
そもそもどうして俺がそんな嘘をついてみたかというと、ルキフェルが、一般人は守護天使の存在を認識するような急激な人生観の変化が起こるとそれに対応するために寿命が縮む云々、と言っていたことが気になったからだ。
それと。
正直に話して天使の存在を否定されるのも――俺は嫌だった。
見間違いであると同時に実在する形。その可能性を否定してはならない、と佐藤は言っていた。
つまりは幽霊や妖精や天使や神サマなど、いると言えば佐藤はああそうかとすんなり頷いてくれるかもしれない。
しかしそれは、俺が言っては駄目だ。
佐藤が俺に、別の次元のものの存在を肯定していることを話したから。
今さっきそれを聞いたばかりだというのに、実は天使が見えるんだ、なんて言ったらおちょくっているようにとられかねない。
――案外あっさりと信じてくれる可能性もあるが。
いやいやいや。やはり駄目だ。
信じられてしまうならなおさら話せない。冗談言うなと一笑してくれなければ寿命が縮む。――もちろん、佐藤の。
「何かが見えることは、教室にいたときから様子がおかしかったから、間違いじゃあないはずだろうけどな。教室では有間は厚紫の様子のおかしさには気付いてなかったようだから、俺には何かが憑いていて厚紫にとって都合の悪い特殊能力がありそうなことも、多分本当だ。けど敵同士とか勇者とかいうのは本当に嘘。厚紫自身もそれはでたらめだと言っているし、それは俺の追及を逃れるためにあからさまな嘘をつかなければならなかったということで、つまり何か隠したいことがあるということだ。そして、ここに何故だか不自然に固有名詞が出てきているから、それが――」
俺は――いや、よく考えた。
うん。
大丈夫だ、ばれてはいない。俺はそう確信した。
「うんうん、なんとなく佐藤が考えていることが分かった。一応言っておくと、なんかのアニメみたいに悪魔を呼び出したなんてことはないからな。というか悪魔という想定も間違っているし」
佐藤がぐっと言葉につまったように口を結ぶ。
「よく分かったな」
これは佐藤のルキフェル。
「でも言っておくが、こいつはめっちゃ頭がいいからな。下手な嘘は逆効果だ。事態が悪化する前に助けてやろうか?」
「は? 助けるっていったいどうやって――」
緋い羽の守護天使がへっへっへ、と悪役的な笑みを浮かべてこちらを振り向いた。不気味。仮にも天使の端くれがそんな悪い笑みをつくっていいものなのか?
俺は後退り、身構える。
「厚紫?」
「そーしくん」
ルキフェルと佐藤が同時に声をかけてきた。
しかしそちらに構っている余裕はない。緋いそいつがいかにもこれから悪いことをしますよといった怪しい手つきで迫ってきており、俺の頭の中で危険信号がうぉんうぉんと発せられていたからだ。
「待て、待った、待ちやがれっ。こいつを止めてくれ、ルキ――」
緋いその天使は。
親指と人差し指をくっつけて輪を、他の指はぴんと立てた形で――まあつまりオーケーの指文字に似たような感じといえばいいだろうか――、俺のひたいにその右手を軽くあてた。
すとん、と身体がどこかに落ちていく感覚。
――暗転。
そして俺が目を覚ましたのは、日も傾いてきてあたりが鮮やかな橙色に染まっている時間だった。
俺は保健室のベッドに寝かされていた。
捻挫したほうの足にはタオル越しに氷嚢をあててあったのだが――いや、実際には少し足の上からずり落ちていたが――、取り出してみると、くにゃっと中身はゲル状に戻っていて、すでに常温になっているようなのが分かった。
起き上がって壁にかかっている時計を見る。
すでに、放課後。
つまり午後の授業はすべて欠席になったというわけだ。まあ皆勤賞を狙っているわけではないし、そもそも俺だってすでに一回や二回は風邪で休んだことはあるから、別に惜しくはないが、気絶の原因が佐藤の守護天使の使ったしょうもない技だというのが気に食わない。
……というか大丈夫なのか、あれは。身体に害とかはないのだろうか?
「大丈夫だよそーしくん。あれは単に相手の意識を奪うだけの技だから。本当は自分が守護している者以外に使うことは想定してないんだけどね。まあこの場合は運が悪かったと思ってあきらめるしかないというか」
「……とんだ災難だ」
俺はベッドのわきに揃えてある上履きを履き、仕切りのカーテンをしゃっと勢いよく開けた。
「あら、やっと起きたの」
さすがに保健の先生ももう戻っていたようで、こちらを見てそう言った。
ちらりと佐藤の守護天使がぶつかった棚を見てみると、なんともないけどとりあえず大げさに補強しておくぜ的な処置がしてあって、ご丁寧にも、長くてねじくれた釘で木切れをばってんの形に打ち付けてあった。
……というか棚の中身がすべて入れられたままなのだが、いったいどうやって取り出させるつもりなのだろうか。
まあいいか。
俺は常温に戻りきった氷嚢を先生に渡して礼を言った。
先生は俺から氷嚢を受け取って言う。
「はい、どうも。貧血ですね。もう授業は全部終わっちゃったけど、今、すぐに帰るかしら?」
「はあ」
俺は生返事をしてから、しかしふっと荷物のことを思い出して、これはまずいな、とぼんやり考えていた。
俺の学校では放課後しばらくしたら教室は施錠してしまうから、部活動に行ったり委員会の活動をしたりするときには鞄や制服などの荷物も一緒に持っていかなければならないのだ。
俺は昼からずっと寝ていたのだから、当然、荷物は教室に置いたままのはずで。
そういうときにはわざわざ職員室に行って鍵を取りに行かなくてはいけないのだ。そして荷物をとったら、鍵を返しにもう一度職員室へ、と。
ひたすら面倒だ。
しかし荷物がないと帰れない。
俺がそう考えていると。
「ああ、それから」
「はい」
「荷物のことなら心配しなくて大丈夫だからね。そこのベッドのわきにちゃんと置いてあるでしょう? しばらく前にお友達くんが持ってきてくれたんだけど」
ふと先生は思い出したようにそう言った。
「はあ」
見てみれば確かに俺の鞄が立てかけてあり、ご丁寧に制服まで詰め込まれていた。
ルキフェルが言う。
「鞄にぐちゃぐちゃに押し込まれていて袖が端から飛び出ているのがご丁寧にっていうのかな?」
「……それを言うな」
有間に器用さを求めようというのは少々無理があるというものだ。
いや、佐藤か?
よく分からないが、ひとの制服をこんなぐちゃぐちゃに詰めるのは女子がなせるわざではないだろう。
まあしかし、どうせ血を落とすためにクリーニングに出さなくてはいけないのだし、多少しわになっていても許せる……と思いたい。もっと気を使え、とは思うが。
俺は制服を引っ張り出してたたみ直し、鞄の中に財布や定期券や携帯電話が入っていることを確認した。これがあればひとまずは帰れるわけだから、まあ安心だ。
「ああ、ちなみに荷物を持ってきてくれたのは真面目そうな女の子と昼に来た子とは違う男の子よ、やたらと騒がし――元気な。ちゃんとお礼言っておきなさいね」
有間だ。
それと……。
――木村さん?
意外だ、予想外だ。しかしジャージの場所を教えてくれたのが木村さんだったらしいから、そう意外でもないか?
たいていの生徒は自分の机の横に鞄を引っかけておくのだが、机の中に何か入れておいたりする者もあるから、同じクラスの者に聞いてみないと分からないこともあるだろう。
木村さんが自らうっかり俺のジャージの場所を教えてしまったせいで、有間からどうせだからまた木村さんに聞いてみようと思われたに違いない。
俺も普段は木村さんに話しかけることはないが、木村さんが細かい気配りをする人物だということはよく知っている。周りに対しては人一倍気を遣う性格だし。
そう思って改めて鞄の中身を見てみると、俺がいつも持ち帰っている筆箱もきちんと入れられていた。さすがだ木村さん。
しかし今日友人から預かった漫画などは入れられていないようだ。残念。他のクラスの女子から友人を経由して借りたカオスな少女漫画で、明日には返す予定だったから――明日の朝ドリルは読書の時間に変更だな、と俺は思った。
「家のほうに連絡はしなくて大丈夫かしら?」
「はい、すぐ帰ります」
俺は鞄の中身を整えてそれを背負い、先生に礼を言って保健室を出た。
「明日、ジャージのことも合わせて木村さんにお礼を言わないといけないね?」
「うん、ちゃんと言うって」
ルキフェルの言葉に答えて俺がそう言うと、そいつはにこにこしながら俺の前を駆けていった。
なにか、嬉しそうだ。
「えへへ」
しかもにやにやしている。
「にやにやとは失礼な。そーしくんがぼくの名前を考えついてくれたから、ちょーっとしまらない顔をしているかもしれないけど」
「……やっぱりにやけているんだろうが。――って、名前? 俺が、お前に? いつどこで」
まったく身に覚えがない。
「そう。昼間、保健室で――ほら、佐藤くんの緋い彼に気絶させられる寸前に言ってたでしょう?」
俺はうーんと唸って、保健室での言葉を思い出す。
「待て?」
「そのあと」
「待った?」
「もうちょいあと」
「待ちやがれ?」
「――そのあと」
「こいつを止めてくれ?」
「そーしくん……」
「ポール」
わざとやってない? とそいつはぷーっと頬をふくらませてうつむき加減に呟き、はたと気付いたように顔を上げた。
「というかそんなこと言ってないでしょうそーしくんっ。ポールって誰なのさ!」
「昔飼っていたペットのラブラドールのポールだ。今はもういない。わんぱくだったからなあ」
遠い目で俺はルキフェルから視線を外した。
俺の様子を見てか、そいつは気まずそうに謝ってくる。
「あー……ごめんね」
いや、俺の家で飼っていたらそのはしゃいだ性格ゆえにやたらと小屋を抜け出して何度も何度も何度も何度も保健所の世話になるものだから、田舎――ここも充分田舎だが――のばあちゃんの家で引き取ってもらっただけだが。
うん、しっかりと健在。
「そーしくーん、ぼくのこと馬鹿にしてない?」
「すまん、長いこと有間と一緒にいたものだから全力でボケ役を買ってしまった。悪気があったわけではなく、なんというか、悲しい習性みたいな?」
「……これから突っ込みに磨きをかけておくことにするよ」
「ありがとう心の友よ」
はははと俺は空笑いをしつつ棒読みでそう言い、昇降口に向かって歩き始める。
それで結局、名前の話はどうなったんだ。
「だから、そーしくんが気絶させられる寸前に……」
「そいつを止めてくれ、ルキフェル?」
結局こいつのことはルキフェルと呼べばいいのか?
「違うよ、そーしくんは言い切る前に気絶したでしょうが」
ルキフェルは少々憤慨したようにそう言った。
えー。
やはり身に覚えがないので、俺はそれを思い出すためにぶつぶつと口の中で呟く。
「そいつを止めてくれ、ルキフェル。ルキフェル? ルキフェル、ルキ――」
「ストップ」
びしっとそいつが俺の眼前に人差し指を突き付けてきて、言葉を遮る。
――ルキ。
「そう」
そいつは言う。
「ぼくはルキだ」
そいつは――ルキは、にっこりと笑ってそう言った。
安直すぎる名だと思うが、まあいいだろう。
「ルキ」
ルキフェル、光を生む者。ルキは光という意味になる……はずだ、と俺の曖昧な記憶の中ではそうなっている。ラテン語なんぞ高校生に分かるわけがない。
しかしそんなことはまあ気にしないことにする。
「そうだな」
俺も言う。
「さっさと帰るか、ルキ」
昇降口。靴を履き替えた俺にそいつが手を差し伸べてくる。
俺はふっと笑って――。
「ないない、それはない」
差し出されている手をさわやかに無視。
ぽかんとしているそいつを置き去りにしたまますたすたと学校をあとにする。
うん、だって。小学生でもあるまいし? 誰がへらへらと仲良く手をつないで帰ったりするものか。
「そーしくーんこんな感動的な場面でそれはないっ――て、うわぁあああっ」
ずざざざざっと砂をかく音。背後には砂埃が舞い上がっていることだろう。そいつは守護天使の性質により、俺に引っ張られたわけだ。
「そーしくんっ」
ずるずる。
「ぼく、一応……!」
ずるずる。
「第一ルキフェルっ、なんですけど……っ」
俺は心の中でひそかに合掌し――。
無視した。




