透明人間
達磨のようにふとった女が、夜道を歩いていると、つけられている気配が。
振り返る――誰もいない。
また進む――誰かに見られている気がする。
足音はしない。
「だれ?」
突然、振り返る。
誰もいない。
それを幾度くりかえしても、まだ女は、家に辿りつけなかった。
それでも何とか、自宅の前に来る。そして、
「いるのはわかってるんだからね!」
と最期、来た道に、人差し指を向けた。
すると、声がした。
「すいません」
謝罪なのか、要求なのか、わからなかった。
「何が目的なの?」
声は、空を、木霊した。
「あのですね、わたしは透明人間なのですが」
もったいぶって言ったつもりだったが、
「あっそう」
と、効果はなかった。
二人は互いに、拍子抜けしていた。
「で、何か用?」と女が、つま先で、苛立ちを表わすと、
「すいませんが、透明人間にならない薬がほしいのです」
女は、薬学の研究者だった。
「なんで?」と女。「透明になりたいっていう性犯罪者は大勢いるだろうに」
「贅沢な悩みであることは分かっています――しかし、楽しいのは最初だけ。あとは他人に無視される苦しみだけしかありません。そしてそれに、耐えられないのです」
「わたしは無視されたって平気」
「わたしはそうじゃない」
「生意気」
「とにかく、わたしはもう、透明人間でいたくないのです。話は少し前にさかのぼります――」
「昔話は結構です。ところで、透明人間になる薬の作り方は知ってるの?」
「わたしは知りませんが、昔、わたしに薬をくれた博士のドキュメントがあります」
「見せてみて」
「古代ギリシャ語ですが」
「日本語じゃなければ大丈夫」と女。「とにかく、持ってきて」
次の日、チャイムが鳴ったから出ると、山積みになった書類が、宙に浮いていた。
「じゃ、そこに置いといて」
命令通りに、置かれた。
そして女は、金になる本職に支障をきたさない程度に、ドキュメントを読んだ。
ついに解・透明剤が完成した。
「できた」と呟くと、
「そうですか。ありがとうございます」
と声が来た。
女は、誰もいない研究室を見回した。
どうもずっと、部屋に、はりついていたらしい。
気味が悪い?――女は、そうは思わなかった。実際、実験中も気配は感じていた――のに、それを防ぐ手を何も講じなかったのだ。まぁ手などないし、見えないのだから、どうしようもないのだが。
「これですか?」
と声が続く。
女は、錠剤を見、頷いた。
そして、机に乗ったその薬が――宙に浮き――そして――消えた。
とつぜん、部屋に閃光が走った。
女は、目を掌で覆った――わくわくしていた。
光は一瞬で――目が慣れた。
「わたしが見えますか?」
という声がする。
瞬きをしてから、覆いを取り除いた。
「ええ。見えるわ」
「どうですか?」
「どう――って」
女の顔は、愁いを帯びていた。
部屋には魔法の解けた王子様が――いなかった。
そこには、世界で最も醜い顔をした男がいた。
とびっきりの笑顔で。
「良かったね――透明が解けて」と女。
半分本心であり――自分の功績に対するプラウドを基盤としたそれに――戸惑っていた。
透明人間だった男は、すぐに背を向けた。
部屋の隅にある、鏡の中の自分を見るのに忙しいようだ。
ひどく満足気だ。
その背中を見た女は、安堵した――外見の批評を要求されなかったこと――「まぁまぁ」と嘘をつかずにすんだこと。しかし、口から洩れる安堵の隙間には、落胆が確実にあった。しかし、すぐに、これでいいか、と手を打とうとする打算が取って代わった。
「本当にありがとうございました――それでは」とドアに向かう元・透明人間。
「ちょっと待った」と謝礼を望む女。
それに気づかず、
「本当にありがとうございました」と感謝を与える男。「この恩は、一生忘れません。それでも、一生が終わる前に、一刻もはやく、女をつかまえなくては! それでは」
そのままドアを抜ける――とき、男は振り返った。
女は、部屋にいた――胸をときめかせながら。
「あ、わたしの友達の分もよろしく」
女が振り返ると、机の上に乗っていた錠剤の残りが、ひとつ、ふたつ、と宙に浮かぶ――と、忽然と消えた。
酒場で、女が寄って――たかって――愚痴を言う。
「どうして世の中には、いい男がいないの?」
その傍には、透明人間がいる。
元・研究者の女。




