4日目。否定螺旋と深淵の穴。
今回含めずにあと二話で終わるので、ちょっとネタバレ。
ラッキースケベなのは、どっちだったんだろうねぇ?
3/27 追記
本当は3/27掲載予定だったけど予約投稿ミスりました。この日からの後の話が全部一日ずれてやがった。ファッ●ン。
毎度思うけど、予約登校日時の年月は現在年月、日は今日の日付をデフォルトで当てといて欲しい。面倒ですかすみません。
心を抉る仄暗い棘。
相沢みやびは、夢の内容を覚えているタイプの少女だった。
正確には『夢ではない』とみやびは思う。それは、心の傷だ。癒されたくてたまらなくて、心が夢にまで出て見せてくる、自分にとって耐えがたいトラウマだ。
それは分かる。みやびは心理分析の本なんかもちょくちょく読んでいる。頭では理解している。分かっている。
『本の知識の齧り読みに意味はねーよ。必要なのは《納得》だ』
底意地の悪いクラスメイトは語る。
頭ではなく、心で理解し、魂で納得しなければ意味はないのだと。
本当の不良ってのは、ああいうのをいうんだと、みやびは思っていた。
「みやびちゃんは本当に駄目な子ねぇ」
子供の頃のみやびは、心が死んでいた。
少なくともみやびはそう思っている。みやびの母親は駄目な女の典型で、いわゆる『金持ちの愛人』を何人も作っていた。結婚はしていない。『パパ』が何人いるかみやびは把握していない。
姉はそういう母親を見てチャラチャラした感じの頭空っぽな女に育ち、みやびは母親と姉から『お前は駄目だ』と言われ続けて生きてきた。
今なら分かる。二人ともその生き方に劣等感を覚えていて、だからこそ自分より弱い存在を作って、それを見下さないと生きていけなかったのだと。
その弱者が……よりにもよって自分だというのが、なにより納得いかなかったが。
事情がある。なによりも切実な、自分たちが生きて行く上で欠かせない事情が。みやびもその事情を抱えていて、だからこそ母親と姉を否定できなかった。
「だからね、みやびちゃん。みやびちゃんのこともちゃんと考えてあるのよ?」
多少アホだったとしても、母親の愛は紛れもなく本物だったし。
「しょーがないっしょ。あたしらこうしないと生きていけないし。……みやびにはちょっとキツいかも分からんけどサ、彼氏とか作るのも悪くないかもしれないよ?」
頭が空っぽだったとしても、姉の気づかいは紛れもなく本物だった。
分かっている。頭で分かっている。けれど、心が納得してくれない。理解を拒む。
(分かってるのよ……そんなこと)
開き直ることはできない。
開き直って認めてしまったら、今まで自分がやってきたことを否定することになる。
(逃避だろうがなんだろうが、私が楽しいと思って続けてきたことだもの)
漫画に出会って自分は変わった。アニメに出会って心が蘇った。
こんなに素晴らしい物が世界にあったのかと、心の底から思うことができた。
絵を描くのは楽しかった。
人に喜んでもらえると嬉しかった。
絵を描く度に馬鹿にされる頻度が増えたが、もうどうでも良かった。自分が駄目なことは自分がよく知っている。今更のことだと割り切って、切り捨てた。
心は悲鳴を上げていたけれど、それを無視することくらいはできた。
心の痛みくらい、高校生なら無視できる。
でも、最近は魂の方が悲鳴を上げている。
最初は悪意だった。
発端は悪意で、害意で、それ以外のなにものでもなかった。
傷つけてやろうと思っていた。
『真の弱者とは己の弱さを認めることができない人間だ。とあるイタリア発音でのGEOGEO的な人間賛歌のラスボスは全員小物だ。小物だから容易く、容赦なく、呵責なく、躊躇いなく弱者を排除できる。小物だからこそ『抗いがたい欲求』が凄まじく精神エネルギーも強力になる。相沢さんは多分そういう小物にはなれない。『こうされると痛そうだな』と思うことができるから。強くて優しいんだと、僕は思う』
底意地の悪い言葉が蘇る。
唯一のもの以外はなにも介入できない漆黒の瞳を持つ少年は、嘲笑して語る。
『だから気を付けろよ……強くて優しい人間が悪意を持ち続けるのは難しいんだぜ?』
なに言ってんだコイツ。アホか。と、その時は思った。
しかし……今になって思い知る。
(私は、自分を強いとも優しいとも思わない。底意地の悪いクズだと思う)
そう言われてきた。そう思ってきた。そう生きてきた。
だから『そう』なんだろうと、思う。
それでも。
(……クズでも、最低じゃないつもりだった……)
自分は最低だった。
悪意で彼をこんな場所に閉じ込めた自分は、本当に最低だったんだと、思った。
「……末期だ」
俊介はその日、自分の股間と話す夢を見た。
身なりは騎士然とした偉丈夫で、彼は夢の中で「我が名は砲塔ムラクモ。我が主よ、お前はいつ私と共に戦ってくれるのだ?」とか、訳の分からないことを言っていた。
まだ四日目なのに、色々と限界だった。
昨日も一昨日もそんなことを思っていたような気がするが、奈落は果てしなく深い。
「まぁ、いいや……とりあえず風呂だ」
ここに来てから、風呂にばかり入っている気がする。
俊介はランニング後にシャワーを浴びるのが日課になっているが、それはあくまで汗を流す程度の軽いもので、某不思議なポケットからアイテムを出してくれる青いタヌキの漫画に出てくる源義経の嫁のような名前の女の子のように、毎日風呂に入る趣味はない。
ないはずなのだが、ここに来てからは度々入らないと気が済まなくなっている。
バスタブにお湯を張り、服を脱ぎ捨て、冷水で体を流してから風呂に入る。
冷水は冷静にならない股間の息子への制裁である。
「……匂いなんだよな。やっぱり」
部屋に充満する香気。理性をバリバリ引き剥がすなにか。
風呂に入るとそれが消えたような気がする。追手の追跡を撒くために、浅い川を横断して匂いを絶つ狼のことを思い出し、それと同じようなもんかと考える。
「まぁ……いいや。風呂以外にもこっちには秘策があるからな」
消臭剤とアロマテラピー用の香炉と香水。少し値段は張ったが、買い物に出た時にデパートにあった専門の店舗でこっそりと色々買ってきた。お金はコンビニで下ろした。最近のコンビニは色々と充実していて、本当に助かったと俊介は思う。
消臭剤はトイレと寝室に設置済み。香炉はこれから使う。
お洒落をしたがらないみやびでも、アロマテラピーくらいは許容してくれるだろうという目算があった。
「あと六日。これで勝算が見えてきた」
ここまで来ると意地である。二次元三次元の争いはどうでもいいのだが、俊介としては『新田俊介という男は女の子を襲ったりしない』というところを、相沢みやびという女の子に見せなければならない。
故に、勝利以外は許されない。これは己に課した使命なのだ。
ここに至って俊介は恥のことごとくを捨てた。とにかく、是が非にでも、なにがなんでも、遮二無二であっても勝たねばならない。
「…………ん?」
と、そこでふと気付く。
ドタドタとした、大きな足音が響いてきた。それは慌てた様子で徐々に風呂場に近づいてきた。
足音は風呂場の前で止まり、その人物は風呂場に入るためのドアノブを『ガチャガチャッ!』と、盛大に鳴らした。
大きな音と共に、嫌な予感が背筋を走り抜ける。
「に……新田君? ちょっと……一刻も早くトイレ行きたいんだけど……」
「わ、分かった。ちょっと待ってろ」
だいぶ切羽詰まった声だった。時間的余裕はあまりないと悟る。
風呂場とトイレは同じ部屋にある。本来なら風呂場とトイレを隔てる扉には擦りガラスのような不透明の材料が使われるはずなのだが、普通の透明なガラスが使われている。
トイレを使えば風呂の中がはっきり見える。この部分だけ欠陥住宅だった。
お互いにブッキングしないように気をつけていたのだが、さすがに『朝風呂のような短い入浴』と『突発的な腹痛』には対応できない。
バスタオルで適当に体を拭いて下半身にタオルを巻き、着替えを手に持ち外に出た。
パジャマ姿のみやびが、唖然としてこちらを見ていた。
次の瞬間に、顔が真っ赤に染まる。
「なっ……なんて格好してんのよっ!?」
「風呂入ってたんだから仕方ないだろ! それより早くトイレに行け」
「っ……う、うん……ありがと」
俊介と入れ替わるように、みやびはトイレに入った。
みやびが戻って来る前に着替えを済まさなければいけない。そう思った俊介は、とりあえず使われていない食卓に向かう。
(しかし……これはある意味幸運だぜ。不運だが、最悪じゃない)
立場が逆だったら最悪だっただろう。男なら下半身にタオルを巻くだけで済むが女の子はそうもいかないのだ。本当に最悪……みやびの入浴を横目にトイレを済まさなければならないという事態にもなりかねなかった。
わりとドタバタしたものの、いつもと違って精神的動揺は少ないのもいい。
「今日は、ついてるのかもしれないな」
心の底から、そんな風に思った。
ここにみやび以外の他人がいれば、彼の目のヤバさに気づけたのかもしれないが、残念ながらこの場所には、俊介とみやびしかいないのだった。
朝食はカツサンドだった。
「このカツサンド旨いな」
「……朝っぱらから、よくそんな油っこいもの食べられるわね」
みやびはカツサンドには手を付けず、牛乳だけ飲んでいた。
風呂場の騒動は色々と話し合った結果、お互いに細心の注意を払うということで落ちついた。防水カーテンを買う等の案も出たのだが、昨日の今日で買い物に行くのは面倒だという、みやびの意見に圧された。
カツサンドをよく咀嚼して飲み込み、俊介は口を開いた。
「風呂場は絶対に欠陥だよな。百歩譲って、ぎりぎりでも擦りガラスだろ」
「もしかしたら、『作った当人』にとっては、欠陥じゃないのかもね」
「……いや、確実に欠陥だろ、あれは」
「世の中にはね、お脳を煮沸消毒しなきゃいけないような、熱病に浮かされたスカポンタンがいるのよ。新築ではしゃいで変な部屋作ったり、新婚ではしゃいで計画性なしにポンポン子供作ったり、最初の子供でテンション上がって変な名前付けたり。熱してようが冷めてようが、どちらにしても脳がイっちゃってるんだから迷惑な話よ」
「なんか嫌な思い出でもあるのか?」
「私の部屋が母親デザインで、天井から壁、地面に至るまで全面ショッキングピンクだったの。しかも色を変えようとすると母親が泣くの。高校に上がるまでは我慢してたけど、中学の頃はあまりにウザくて何回か包丁で小突いてやったわ」
「包丁で小突くってちょっと刺さってんじゃねぇか! 怖えぇよ!」
「新田君はそーゆーのはないんでしょ? 羨ましいわね」
「いや……ないって決めつけちゃうのはいかんと思うぞ……」
「健康的な高校二年生でサッカー部員が、私以上にキッツい思い出とか持ってたら、世界に絶望して泣いちゃうかもしれないわね」
「妙なプレッシャーをかけるのはやめてくれ」
子供の頃のことはあまり思い出したくなかったが、一番嫌だったことを口に出す。
「えっと、ウチの両親は共働きでな、全然家に居つかないわ、子供放ったらかしにして海外にいくわで、えっと、こういうのは、ネ……なんだっけ……とにかく、そ」
「うん、大体分かったからもういい」
「ちょっと言葉に詰まっただけで話をぶった切りやがった!?」
「ネグレクトは立派な虐待よ。どのくらい立派かというと、ドメスティックバイオレンスよりグレードが上の虐待。少なくとも私はそう思うわ」
きっぱりと言い放ち、みやびは肩をすくめた。
俊介は少しだけ眉をひそめて、口を開く。
「いや、そこまでじゃないだろ? 放って置かれただけだぜ?」
「それは、両親に放って置かれても大丈夫な環境だったからそう言えるのよ。多分、おじいさんやおばあさんが、新田君の世話をしてくれたんじゃないかしら?」
「……まぁ、そうだけどさ」
「ラッキーだったじゃない。一つ二つ間違えていたら、如月君みたいになってたわよ」
「………………」
その言葉は、あまりに重過ぎた。
俊介の友達こと、如月与一の上半身には無数の傷がある。それが尋常ならざるなにかの痕跡なのは間違いないのだが、本人は『侍みたいで格好良いだろ? 子供の頃にやんちゃし過ぎたせいでこうなっちゃったんだよね』と嘯くばかりだ。
一度、度胸のある女子に傷跡を触れていたが、彼はちょっと嬉しそうだった。
俊介はその時『如月はマジもんの変態だ。俺は勝てない』と心底思った。
(……甘かったよ、如月)
むしろ、スケベ心をオープンにしているぶん彼の方が変態じゃないのかもしれない、と俊介は認識を改めている。
(今だってこんな風にちょっと真剣な話をしている時に、チチやら尻やら太ももに目が行きまくっているし、妄想し放題だ。あまりに変態過ぎて自殺したい気分だぜ……)
男子の反応としても、明らかに行き過ぎであることは自覚していた。
俊介の考えてることはさておき、みやびは苦笑混じりに肩をすくめた。
「例えば、この空間から私と娯楽を取り上げて、食事を全部乾パンにしたら、今よりも相当キツくなるっていうか、心が壊れそうな気がするでしょう?」
「……まぁ、そうなんだろうけど、今も結構いっぱいいっぱいだぜ?」
「三つ子の魂百までって言われるくらいに、子供の頃に受ける刺激っていうのは本当に大切なのよ。放って置かれた『だけ』なんてことは、絶対にないわ」
「色々考えてるんだな……」
「考えるだけ、だけどね。現実には私には彼氏もできないし結婚も無理。他人事だから好き放題言えるのよ。親の気持ちは、結局親にならなきゃ分からないしね」
「………………」
達観した意見だった。少なくとも、俊介がほんの少しだけイラつく程度には。
欲情とかではない、出所が良く分からないイライラを抑えつけ、話を続ける。
「みやびは、好きな男とかいねぇの?」
「は? なによいきなり……やぶから棒に」
「いやいや、大したことじゃねぇんだ。なんていうかこう……その気になって頑張れば、もしかしたら彼氏くらいできるかもしれないぞ? 別にそんな気はなかったけど告白されちゃって付き合ってたら好きになったってパターンも、よく聞くし」
「好きな男子ねぇ……」
難しい表情を浮かべて、みやびは腕組をする。
少しだけ思い悩んで……口を開いた。
「好きな人は特にいないし、彼氏も要らないわね」
「……なんでさ?」
「できるんならしてみたいわよ。恋愛とか結婚とか。でも、私みたいなブスが恋愛なんてしても、上手くいくわけがないって、私自身が勝手に思い込んでるからね」
あっさりと、極々あっさりと。当たり前のようにみやびはきっぱりと言い切った。
その『当たり前さ』に俊介は絶句する。
本気になればできるなどという言い訳ではない。本当は心の底から望んでいるのに『自分には無理』だと、はっきり認めてしまっているのだ。
無理だという確信があるから、自分でなにかをしようとは、到底思えない。
「私の場合は新田君の逆で、親が私のことを所有物だと思い込んでいるタイプの人間だったわ。ペット感覚って言えばいいのかしらね。そんな人間に駄目だ駄目だと言われ続けて生きてきた。自分で本当に楽しめたのは絵のことだけ。恋愛なんて絶対に無理だと思って今まで生きてきた。……多分、これからも変わらないし、変えようとも思わない」
「……でも、自分で変わろうと思えばいくらだって……」
「如月君にそれを言って酷い目に遭ったの、忘れちゃった?」
「っ!?」
喧嘩をした。俊介は勝った。女子からの評判はすこぶる悪くなった。
喧嘩をした拍子に足首を捻って大会に出場できなくなったことを、俊介は思い出す。
「高校デビューとか、大学デビューって言葉があるでしょ? なんでそんなことをするのか考えたことはない? だって『変わろうと思えば今すぐでも変われる』んだもの。どうして節目に自分を変えようとするの? でも、それは簡単なことよ。『いつやるの?』と聞かれて『今でしょ』って答える奴は大抵リスクを理解しない大馬鹿野郎。逆に言えば開き直ってリスクを考えない馬鹿になれば誰だってできるの。例えば、私がお洒落をしたとして綺麗になったとしましょう。控え目なお化粧をして人の注視に耐えられる容姿になったとしましょう。みんな褒めてくれるかもしれないわね。人当たりや雰囲気も良くなるかもしれない。もしかしたら彼氏だってできちゃうかもしれない……けれど、逆のことだって考えられるわ。ブスがお洒落して媚を売り始めた。○○君のことが好きだったのにあんなブスに取られた。あの子が遠い所に行っちゃって私は隣にいる権利はない。そんな風に思われるかもしれないわね。『変わる』ってことは、そういうリスクを背負うってことよ。変わったことをして叩かれるより、弱いまま見くびられた方がいい……強くなる覚悟も自分を変える度胸も、私にはないもの」
俊介の背筋に冷たい汗が流れて、ざわりと寒気が走った。
怒っているのか泣いているののか、曖昧な笑顔を浮かべて、みやびは言葉を続ける。
「まぁ……お前の勇気のなさが全部悪いって言われればその通り。返す言葉もないわね。私の弱さが原因よ。母親も他人も関係ない。自覚してるし分かってる。でもね……そういうことを言われると、お前の髪を恒久的にチリチリにしてやるから、今と同じことをもう一回言ってみろとは思うわ」
「無理にオチをつけんでも……」
「チリチリにしてあげましょうか?」
「俺に矛先を向けるな! あと、みやびも言うほどチリチリじゃねぇだろ!」
「くっくっく、甘いわね。これはわざと長く伸ばして重力様の力を借りることによってウェーブがかかっているように見えるだけで、ショートカットとかにするとえらいことになるわよ。爆発オチになるわよ」
「重力様って……ロングは似合ってるしいいんじゃねぇの?」
「髪を褒められたのは初めてね。船幽霊とか色々言われてきたけど」
「マジでごめん許してください! 出来心だったんです! 未だに思い出せないけど、ホントごめんなさい!」
「ひしゃくをくれないといたずらしちゃうぞ♪」
「可愛く言ってるけど、渡そうが渡すまいが殺すつもり満々だよなそれ!」
「都市伝説系の怪談ってわりと殺すつもり満々じゃない。赤マントとか、口裂け女とか、テケテケとか、ジョーズとか、エ●リアンVSプレ●ターとか」
「途中から怪談じゃねぇし、最後のが絶望的すぎるんだよなぁ……」
「根暗なこと話したらお腹空いちゃったわ。私のぶんのカツサンドまだ残ってる?」
「いや、もうないぞ。最後の一つも一口齧っちゃったし」
「一口なら大丈夫よ」
「あ」
ひょい、と俊介の手から食べかけのカツサンドを取り上げ、食べかけであることを気にした風もなく、もぐもぐと食べ始めるみやび。
はしたないし風情のない間接キスなのだが、俊介は心の中で溜息を吐いた。
(……毎度思うんだが、みやびサン隙多過ぎねぇ?)
代謝がいいのか暑がりなのか、みやびは基本的に薄着だ。Tシャツやタンクトップ、ホットパンツといった服装を好むため、俊介にとっては目の毒である。
服装を除いても女の子として『雑』な部分が多く、今のようなことを平気でやる。
勝負のためにわざとやっているのなら大したものだが、そんなことができるタイプではないことは、短い付き合いでも把握できた。
(『勝手に思い込んでる』って言ってたけど……自分が女の子として意識されるわけないとか、本気で思ってやがるんじゃねぇかな)
自然体過ぎて色々困る。
もちろん、ここを乗り切れば俊介にはあまり関係ない話になるのだろうが、せっかく友達になったのだから、今後も仲良くしていきたい。
(話してて楽しいというか、一切気負わなくてもいいから気楽というか……)
仲良くしたい理由は色々あるが、おおむね『楽しいから』という大海に流れ着く。
単純な自分に溜息を吐きつつ、俊介は口を開いた。
「みやび。昨日面白いもの買ったんだけど、使っていいか?」
「TE●GAかなんか?」
「そんなもんがデパートに売ってるかァ! 下ネタ過ぎて引くわ! そうじゃなくて……えっと、個室にこもってると鬱々としちゃうからさ、アロマポット買ってきたんだ」
「……私の体臭が臭いなら、面と向かって言ってくれてもいいのよ?」
「臭くねーしそういう意図のもんじゃねぇし! ったく……単なる気分転換だよ。気分転換の度に外に出るのも面倒だし、部屋の中で簡単にできそうな気分転換を考えたんだ」
「へぇ、どうやって使うの?」
「えっと……説明書によるとだな、香炉の下に専用の蝋燭を置いて香炉を温めるらしいんだ。香炉には水と好みの香水を入れておく。香水が蒸発して良い匂いになるとか」
説明しながら、香炉に水と香水を入れて蝋燭に点火。
程なくして、良い匂いが漂ってきた。
「おぉ……良い香りね。これは意外といいかもしれないわ。うん、こういうのは好き」
「ほ、他にもお茶っ葉でもいけるみたいだな」
みやびの何の気ない『好き』という言葉に、反応してしまう俊介であった。
内心の動揺を押し殺しつつ、俊介は言葉を続ける。
「たまには、自分が関心のない方向に目を向けるのもいいのかもな。こういう風に得をすることもあるし」
「お脳がパーンッってなるお薬みたいな嗅ぎ方だけど……うん、いいと思う」
「どうしても毒を吐くのはやめられないのか……?」
「気分を害したお詫びに、私の楽しみをお裾分けしてあげる。実は、昨日お茶を色々買ってきたのよね。お菓子もあるから、後で一緒に食べましょう」
「お菓子? ああ、お茶と一緒にお茶菓子も買ったのか」
「違うわ。新田君が早々に寝ちゃった日は暇だったからクッキー焼いたのよ」
「なにそれ超女の子っぽいじゃんっ!? そんなことできるなら言ってくれよ!」
「なんで言わなきゃいけないのよ……疲れるからあんまり作らないし、お菓子類って砂糖とかバターとか、ものすごい量ブチ込むから色々怖くて」
「クッキー以外は……なんか作れるのか?」
「ケーキとかタルトとか作ったことあるけど。肝心なスポンジやタルトの土台は既製品だから自慢にもなりゃしないわね」
「いや、それ普通にすごい」
「その気になれば誰でもできるわよ。分量守っていれば楽勝だもの」
思い付いても自分では作らず、結局既製品で済ましてしまう。
その気になることがどれだけ難しいことか、自分で語りながらも自分でやったことはさりげなく否定する。
(自己嫌悪に自己否定……俺もよくやるけどさ)
悪循環のスパイラル。誰もが陥る深い穴だ。
それでも、みやびのそれは自分なんかよりよっぽど深い穴なのだと、俊介は感じた。
お茶を飲み、お昼を食べ、ちょっと遊び、お菓子を食べてお茶を飲み。
そんな風に二人でまったりと過ごした。
勝負もなにもない。勇み足で気分転換することもない。何も考えずに時間を浪費し、楽しいことをしてそれを無駄だと思わない……充実した時間だった。
少なくとも、俊介はそう思っている。
充実ついでに幸運だったのは、夕飯が俊介の好物の焼き肉だったことだろう。
「薄々感づいてたけどさ、なんか精の付くメニューばっかりじゃねえか?」
「スッポンの時点でお察しくださいって感じだけど……メニューを決めてるのは私じゃないからなんとも言えないわね。私はもっとサラダとか食べたいわよ」
「……いや、みやびは肉を食うべきだ」
「今、胸を見て言わなかった? 確かに大平原だけど……」
「胸に限定はしてねぇよ。っていうか、昨日持ち上げて思ったけど、みやびは軽過ぎだ。もうちょっと栄養摂って肉を付けてもいいと思うぞ?」
「まぁ……確かに標準より少ないけど……って、ちょっと待って。持ち上げてってどういうこと?」
「酒飲んだ後に寝ちゃって起きそうになかったから、俺が寝室まで運んだんだよ」
「……そういうことはもっと早く言ってくれない?」
顔を赤らめて、みやびはよく焼けたタンに塩を付けて口に放り込む。
どうやら、恥ずかしがっているようだった。
「昨日は、なんかちょっと飲んじゃったけど、アルコールには弱いのよ……。不覚だわ。眠ったまま運ばれるなんて、親にもされたことないのに」
「はっはっは。俺も女の子をお姫様抱っこしたのは生まれて初めての体験だったぜ」
「初めてが私で悪ぅございましたね……」
みやびは、よく焼けたカルビを乱暴にたれにつけて、白飯に乗せてかき込んだ。
小さいながらも食欲は旺盛らしい。まずそうにサラダを突かれるよりはよっぽどいいと俊介は思い、自分も肉を頬張る。
「うめぇな! やっぱり肉は最高だぜ!」
「体育会系の意見ねぇ……まぁ、そっちの方が健康的でいいと思うんだけど」
「みやびは運動とかしねぇの?」
「あんまりしないわね。する気もないわ。新田君が勉強する気がないのと同じように」
「ぐっ……的確な切り返しを……」
「新田君が勉強をするようになったら、私も運動するかもしれないわね」
「いや、みやびは絶対にやらない。というか……今既にやる気がない目をしてるぜ!」
「外に出て買い物するくらいならいいんだけどね。運動となると『お前は駄目だ。なにをやっても駄目だ。ウジ虫!』みたいに劣等感をもりもり刺激されちゃうのが難点」
「お遊び的な運動ならいいんじゃないか? 水遊びとか」
「同年代の連中と比べると貧層過ぎるので駄目です」
「実は泳げなかったりして?」
「なんで分かったのっ!?」
「……泳げないのか?」
「悪かったわね……正直、泳げないことを除けばプールは嫌いじゃないわよ。石村ちゃんとか卯月さんとか、結構すごいのよ。おっぱいぷるんぷるんなのよ」
「その情報は気になるけどとりあえず置いておこうぜ。泳げないなら泳げるようにちょっと練習してみよう……と、俺は思ったりするわけなんだけど、どうだ?」
「ギブアーップっ!!」
「いくらなんでも早過ぎるだろ!」
「へぇへぇ、すみませんねぇ。船幽霊なのに泳げないとか、ご期待に添えなくて本当に申し訳ないと思ってますよ。だからプールは勘弁してくださいお願いします」
「敬語で卑屈になりながらも態度は上からだし弱みを的確に突いてくるんだよな……」
「仕方ないでしょ、泳げないんだから」
「教えてやるから練習しようぜ」
「そんなこと言って私に酷いことをするつもりでしょう……エロ同人みたいに!」
「しねぇよ! むしろ現在進行形でみやびは俺に酷いことしてるよね!?」
「自分のことは棚上げする。人生の基本よ」
「ほほぅ……みやびサンにしちゃ随分と弱気だし強硬だな。分かった、そこまで言うなら俺も意地だ。俺が勝負に勝ったらプールに付き合ってもらおう」
「お金が欲しいんじゃなかったの?」
「あれは思い付かなかったから言っただけだから撤回する。言っておくが、一日や二日じゃない。高校に在籍してる間は付き合ってもらうぜ」
「……珍しく、強気ね。分かったわ。その条件で受けて立ちましょう」
「ひっひっひ、なんだかんだ言いつつそろそろ折り返しだ。明日で五日。みやび的にも、そろそろ厳しくなってきたんじゃねーの?」
「毎朝のようにテント張ってる男に言われても……」
「養豚場のブタを見るような目はやめろォ! 生理現象なんだから仕方ないだろ!」
「豚で思い出したけど、新田君のぶんの豚トロ食べていい?」
「また唐突な話題の切り替えだな……サラダとか食いたいとか言ってたわりには、一番油っこいもん食ってねーか?」
「サラダはせめてもの女の子アピール……と、言いたい所だけど、豚トロとハツとレバーと生野菜サラダは大好物なのよ。生野菜全般好きなんだけど一部の香草と、あとお肉のカルビはなんか苦手」
「じゃあ、カルビは俺が担当しよう。鳥焼くけどいいか?」
「ちゃんと火を通さないといけないから、鉄板の隅の方でよろしく」
「りょーかい」
楽しく和気あいあいと会話を交わしつつ、四日目は過ぎて行った。
特になにもなく、二人でだらだらとした日は……こうして終わった。
○ヤらない。理性で本能はコントロールできる。
○ヤる。本能の前では理性などクソ同然である。
最後の日は、唐突に始まる。
よつ●とのジャンボさんに彼女がいないのはどう考えてもおかしい。
ちなみに、お風呂とトイレを隔てるガラスを普通の透明なガラスにするというネタはド●ームハウスだか劇的●フォアアフターで仕入れたもの。クライアントの要望だかなんだか知らんけど、素人の要望を聞き入れると大抵ロクなことにならんという典型でした。
この物語、どうしようもない不条理を一つだけ用意したけど、それはこの状況を招きやすくしただけで、あってもなくてもどっちでもいい。
でも、あってもなくてもどっちでもいいものにこそ、人は悩む。
というわけで、続きは次回。