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悔いのない人生



なんてこった。

一体、何が起こっているのだろう。

とある病室で、光平が横たわっている。

その傍らで見下ろしている喜一の姿。

光平は、病院に運ばれて来てから、一度も目を覚ましていない。

その時、バタバタと慌ただしい足音がして、ノックも無しにドアが開いた。

「…光平っ!」

息を切らした陽二が、真っ直ぐにベッドへ駆け寄って来た。

「…どうして…何で光平が、こんな事になってんだ!?」

陽二が泣き出しそうな顔で喜一を見る。

「…どうやら、放火犯を捕まえようとしたらしいんだけど…殴られた時に、倒れて頭の打ち所が悪くて…」

喜一が切なそうに顔を歪めた。

「…もしかしたら、このまま意識が戻らない可能性も…」

「…嘘だろ?」

陽二は再び光平に視線を移す。

ただ眠っているだけに見える顔は、とても穏やかだ。

このまま目を覚まさないなんて、そんな事あってたまるか。

陽二は、そっと光平の頭を撫でた。

「騒ぎを聞いて、近所の住人が気付いてくれたから、すぐに救急車を呼ぶ事が出来たけど…犯人は逃走したようだ」

「正義感強いからな、光平…」

「如月さんの話だと、火を点けようとした痕跡が残っていたから、きっと光平はそれを目撃して…」

「如月さんは?」

「あとで来るはずだよ。今は現場に戻ってる」

「…死なないよな?光平」

陽二が言った。

喜一に向かってなのか、光平に呼び掛けたのか解らなかった。

そんな事になっていたのか。

やっと思い出した。

と、当の光平は思った。

しかし…。

光平は、病室の中でその光景を見つめていた。

俺、完全に自分の体から離れちゃってるみたいだけど。

光平は、喜一と陽二の間をうろうろしてみた。

二人は、気配すら全く感じていないらしく、ただただ暗い表情で、ベッドの光平を見つめている。

俺、本当にこのまま死んじゃうのかな…。

光平がそう思った時、背後で声がした。

「バカな事、考えてんじゃないわよ?」

びっくりして振り返ると、光平は更に驚いた。

そこに立っていたのは、母の知世だった。

「うわ!か、母さん!?」

「そう、母さんです」

知世が自信満々にそう答える。

「で、でもっ…じゃあ、やっぱり俺、死んじゃってるの!?」

すると知世は大きく溜め息をついて、

「あんたは、まだ死んでないわよ」

「じ、じゃあ…なんで…」

「それはよく解らないけど…命が尽きてないのは確かね」

あまりの展開に、光平はパニック状態だった。

「ところで光平、あんた犯人見たの?」

知世が尋ねると、光平は自分の記憶を辿って、

「うん…見たよ」

「そう。じゃあ、捕まえないと」

「え!?つ、捕まえるのっ!?」

「そりゃそうよ。そいつがまた何かするかもしれないし」

「そうだけど…」

もちろん、そんなやり取りが行われてている事など、全く気付いていない喜一と陽二は、深刻だった。

「なぁ、兄貴…」

陽二が呟く。

「犯人、見つけようぜ」

「え?…何言ってるんだよ」

「だって、光平がこんな目に遭わされたんだぜ?許せねぇだろ!」

その会話を聞いていた知世が、ハァーッと溜め息をついた。

「陽二は熱い男だから、きっとそう言うと思ったわ。ね?犯人探す流れになったでしょ!?」

「そう、みたい」

光平は、ちょっと嬉しかった。

普段は、面と向かって本心を言い合えなくても、ちゃんと自分は大切に思われているのが解るから。

二人の兄が、こんなに心配してくれている。

「…如月さんが来たら、相談してみよう」

喜一がそう言うと、陽二は落ち着かない様子で、病室を出て行った。

光平は、そんな陽二を逆に心配していた。

本当は、ここにいると伝えたい。

ここにいると言えば…。

光平は改めて知世を見た。

いくら母だとはいえ、五年前に死んだ人間と、何だか普通に顔を合わせて話すなんて。

自分の状況だって、受け入れがたいというのに。

夢にしては、リアリティがありすぎる。

その時、病室のドアが開いて、顔面蒼白の如月が駆け込んで来た。

「様子はどう?」

如月が心配そうに光平の顔を覗き込む。

「…変わりないです」

喜一の答えに、如月は頭を抱えて大きな溜め息をついた。

「如月さんの方は、どうです?」

「聞き込みを強化してる…まだ、これといった進展はないが…」

如月は、やりきれない顔をして、

「こんな時…自分が無力だと思い知らされる」

喜一は、じっと如月の言葉に耳を傾けた。

「事件を解決出来た時、犯人を捕まえた時は、それなりに達成感もある。しかし、それ以前に被害者を最初に見た時…いつも、どうして未然に防ぐ事が出来ないのかもどかくなる。悔しくて腹が立って仕方ない…いつも、いつも…!」

如月は目を真っ赤にしながら、震える手で光平の頭に触れた。

「光平に何かあったら…俺は犯人に何もしないでいる自信がない…」

「如月さん…落ち着いて下さい」

喜一の言葉に、如月が顔を上げる。

「…君は冷静だな」

すると喜一は、少し強い眼差しで如月を見つめた。

「見える物が真実とは限りません」

そう言った喜一の瞳にも、確かに怒りの感情はあった。

「ねぇ、光平」

知世の声に、自分が泣きそうになっていた光平が、慌てて振り向く。

「何?」

「直人って、いい男でしょう?」

知世はニコッと笑った。

「さすが、私が惚れただけの事はあるわ」

知世は満足そうである。

「…そりゃあ、いい人なのかな?とは思ってるよ?まだ、父親だっていう実感はそんなに無いけど…」

光平は、少し言いにくそうに答えた。

「それは向こうも同じよ。でも、直人はちゃんと愛情を持って、あんたを見てるわ。そう思うでしょう?」

知世は、笑顔でその光景を見つめながら言った。

光平は照れ臭くなって、頭を掻いた。

「よし、行こうか」

知世が言う。

「え?行く、って…まさか、あの世…?」

光平がびくびくしながら知世を見る。

「違うわよっ。犯人探しに、よ。どうせ今のあんたは、眠らなくても平気でしょ」

「で、でも…今、ここから離れて大丈夫!?」

「大丈夫っ。私を信じなさい」

知世はニッコリ笑うと、光平の手を取った。

「そういえば、陽二に会いましたか?」

喜一が、ふと思い出して尋ねる。

「ああ、ロビーに座ってた。でも…声を掛けられる雰囲気じゃなかったよ」

喜一は、フッと息を吐いて、

「如月さん、僕も陽二も同じ気持ちです。出来る事があれば、何でも協力しますから」

「解ったよ…ありがとう」

如月は少し微笑んだ。

それが、ひどく無理をした笑顔だと、喜一にはよく理解出来た。



翌日。

仕事を終えた喜一が病室へやって来る。

光平の容態は相変わらずで、何の反応も無いままだった。

本当にこのまま…もし命が助かったとしても、一生目を覚まさないなんて事になったら…。

喜一も悔しさが込み上げてきて、思わず拳をギユッと握った。

その時、昨夜と同じように、廊下から騒がしい足音が近付いて来た。

陽二か?

喜一がそう思った時、いきなりドアが開いて、息を切らした陽二が入って来た。

あまりにも昨夜の展開と一緒で、喜一はデジャヴかと思った程だ。

「兄貴っ、光平、死んでないっ!?」

意表をついた第一声に、喜一は思わず光平の脈を取ってみた。

「死んでないけど?」

すると陽二は安心したように大きく息を吐くと、椅子に倒れ込んだ。

「あ〜…良かった」

「何だよ、縁起でもない」

「だって、光平が憑いてたんだよ」

「は?」

「トイレに行って鏡見たら、俺に憑いてた」

陽二の言葉に、喜一はしばし沈黙した。

理解に苦しんだあげく、出た言葉は、

「元気だった?」

すると、今度は陽二がじっと考えてから、

「うん、割りと」

と、答えた。

おかしなやり取りだと、二人は充分に解っていたが、陽二もどう説明したら良いのか解らなかった。

「整理しよう」

喜一が冷静に言う。

「光平、どんなだった?」

「どんな、って…いつもと同じように生意気そうな顔で俺の背中に乗っかってた」

きっと今も光平が傍にいるなら、陽二をひっぱたきたくて仕方ないだろうな、と喜一は思った。

「で、何かジェスチャーしてるんだけど、何だかさっぱり。声が聞こえる訳じゃないし」

喜一は、ふと思い立って、光平の枕元の棚に置かれた私物に触れてみた。

「…何も見えないな。死んでないから」

「残念」

今の会話は、さすがにダメだろ。

と、喜一は思った。

「…光平、何が言いたいんだろ」

喜一が考え込む。

「そんなの、犯人の手掛かりに決まってんじゃんっ!」

と、光平は声を上げた。

もちろん、届く訳がない。

「仕方ないわね」

知世が呟く。

「しかも、陽二くんにしか憑けないみたいだし。どうしてかな?」

光平は不思議そうに自分の体を見下ろした。

「それは、あんたが半死半生だからじゃないの?完全に死んじゃえば、喜一にだって憑けるかも」

「えぇ!?」

光平がおろおろし始めると、知世は背中を叩いて、

「しっかりしなさいよっ、こうなったら、伝え続けるしかないんだからっ」

光平は情けない顔をした。

「そういえば」

喜一が口を開く。

「如月さんが家に来る事になってたんだ…戻らなきゃ」

喜一は光平を見つめると、

「また明日」

と、言った。

陽二は、そっと頭を撫でた。

それを、実は全部見てるなんて、光平は意識が戻っても、恥ずかしいから絶対に言わないでおこう、と思った。


日向家には、如月と一人の男性警官が待っていた。

「今日、初美ちゃんじゃないのか」

陽二が少しがっかりしたように呟く。

「彼は、光平が襲われた地域の交番の岩井だ。若くて、真面目な男だ」

岩井と紹介された警官は、二人に頭を下げた。

「光平の様子はどうだい?」

如月が、気になって仕方ないという顔で尋ねる。

「変わっていませんけど…安定はしています」

喜一が答える。

「でも、大丈夫な気がする」

そう言った陽二を、全員が見る。

「だって…見るたび、陽気に挨拶してくるから…」

陽二がぶつぶつ言うと、喜一が咳払いをして、

「それで、お話というのは?」

「はい、実は…」

話し出したのは、岩井だった。

「ここ最近、急に私の担当する地域の治安が悪くなったようで…弟さんは、善意でして下さった行動で、被害に遭われた…大変、申し訳なく思っています」

岩井は丁寧に頭を下げて、

「この数ヶ月で、空き巣の被害が多発していたんです。何しろ、お年寄りが多くて、皆さんひどく怯えていまして…」

「もし犯人が同じ人物だとすると、エスカレートしていく可能性があるな」

如月が補足した。

「我々も、パトロールを強化しようと、巡回を増やしました。不審人物の目撃談も出てきまして…」

「光平も見たかもしれない犯人でしょうか?」

喜一が尋ねる。

「その可能性はあります。弟さんの意識が戻られたら、すぐにでも照合したいと思うのですが…」

如月が手帳を取り出して、

「黒のパーカー、スウェット、大きなマスク。身長は…喜一くんより少し低いくらい」

「え?僕規準ですか?」

すると如月が、

「何しろ、目撃者もお年寄りだからね、自動販売機のこの辺、って感じの話から、俺たちが割り出した身長だけど」

「若い男だったそうです。それも不明瞭ですが、あくまでイメージだそうです」

岩井が言った。

その時、如月の携帯が鳴った。

「ちょっと失礼」

如月が席を外す。

「犯人は、愉快犯かな?」

陽二が喜一に問い掛ける。

「個人を狙ってる訳じゃないと思うから、そうかもしれないな」

喜一が冷静に答える。

それを見ていた岩井が、

「あの…立ち入った事をお伺いしますが…」

二人が同時に岩井を見る。

「如月さんの…お身内なんですか?」

すると喜一が少し考えて、

「正確に言うと…血縁なのは弟の光平だけです」

「…そうですか」

「はっきり言えよ。息子だって」

陽二があっさりと言った。

「え!?…如月さん、独身だと思ってました」

岩井が驚いた顔をする。

「独身ですよ。子供はいますけど」

喜一も、隠す必要がないと思い、さらりと言った。

「では、尚更…今回の事件には、熱が入るでしょうね。こっちも責任重大です」

岩井が納得したように頷きながら言った。

「おい、岩井。行くぞ」

如月が戻って来る。

「何かあったんですか?」

喜一が尋ねる。

「殺しだ」

全員の顔つきが険しくなる。

岩井が慌てて立ち上がる。

「お前の管轄だ。独り暮らしの老人が遺体で発見された」

「如月さん、僕達も行きます」

喜一も席を立つ。

「現場近くで、待ってますから」

そう言った喜一の言葉の意味を理解した如月は、喜一の肩をポンと叩いた。

まるで、頼むよ、とでも言いたそうに。


車内で待っていると、数十メートル離れた現場から、如月が駆け足で近付いて来るのが見えた。

如月は後部座席を開けると、喜一の隣に乗り込んだ。

「事件に関係無さそうで、咄嗟に持って来れたのは、これくらいしか…」

如月はそう言って、数珠を差し出した。

「おい、如月さん、なんだよ、そのセンス」

振り向いて、陽二が言う。

「意外とこっそり何か持ち出すのは、大変なんだぞ?あんな現場で」

と、如月が抗議した。

その間に、喜一は早速意識を集中させ始めた。

毎日、仏壇に向かって、この数珠を使っていたのだろうか。

最近の出来事であろう光景が、数々見えて来た。

「如月さん」

喜一が目を開ける。

「この人、最近、空き巣の被害にも遭っていますか?」

「そんな事も見えたのか?」

如月が驚いた顔をする。

「確か…さっき岩井が言ってた。三日前に被害届を出したばかりたって」

「荒らされた部屋が見えました。あと…毎日、色んな人と会って話してるようですね」

「ああ、独り暮らしだが、お喋り好きだったらしい。顔見知りが多いせいで、遺体の発見も早かったんだろうな」

「近所の人が見つけたんですか?」

「夜になってもカーテンは開いたままで電気も点いていない。気になった近所の住人が訪ねてみたら…」

「死んでた、て訳か」

陽二が思わず手を合わせる。

「あとは…印鑑ですね」

「判子?」

陽二が聞き返すと、

「うん。判子以外に印鑑で思い浮かぶもの無いけど?」

と、喜一が無表情で言った。

「印鑑を使おうとしてたのかい?」

如月が尋ねる。

「はい。取り出そうとしていて…それが最後の光景です」

「印鑑を取りに行って…後ろから絞殺された、って事だ」

如月が納得したように言う。

「印鑑って、何に使おうとした…」

陽二は喋りかけたが、ふとルームミラーを見て、

「また光平が俺に憑いてる」

と、溜め息まじりに呟いた。

「光平、どうしてる?」

喜一が聞く。

「元気に挨拶してる」

「なんだ、それ」

その会話を聞いていた如月が、

「光平がいるのか?」

と、辺りをキョロキョロ見回す。

「何か知らねぇけど、俺の周りをチョロチョロしてるんだよ」

陽二が、じっとミラーを見つめる。

「でも、死んだ訳ではないみたいなので」

喜一も、その状況に慣れてきたらしく、当たり前のように言った。

「何か言いたそうなんだけどなぁ…」

陽二は悩んだ。

「おっと、そろそろ現場に戻らないと」

如月が慌てて、

「また連絡するし、病院にも行くよ」

そう言うと、車を降りて駆けて行った。

「印鑑って、何に使ったんだろ」

陽二が、帰り道を運転しながら聞いてきた。

いつものように後部座席に座った喜一は、

「宅配…書留…」

と、窓の外を眺めながら呟いた。

「最近あの地域で、急に犯罪が多発するようになった、って言ってたじゃん?それって、あの辺りの住人に独居老人が多いって解ってる人間が、犯人って事?例えば、郵便配達員なら…」

「それを言うなら、新聞配達だって、そうだ。何より、一番怪しいのは地域に住んでる人達って事になるぞ」

「…ったく」

陽二は苛々したように悪態をついた。

「早く光平、起きねぇかな〜」

「俺だって、そうしたいよ!」

と、助手席の光平が叫んだ。

「言いたい事が伝わらないのが、こんなに辛いと思わなかった」

光平は面白くない顔で、後部座席を向いた。

「兄弟とはいえ、難しいのね。雰囲気で伝えるのは」

知世が喜一の隣で、呑気に言った。

「でも、良かったわね。普段は当たり前な事が、実はものすごく貴重だ、って解って」

知世はニッコリ笑った。

「そりゃそうだけど…」

「でも、喜一は偉いわね。ちゃんと直人に協力してくれてる」

母が如月を、直人と呼ぶ事に、光平は違和感を感じていた。

母も女だったのだと思うのと同時に、その母と愛し合った男が、本当に自分の父親なのだと、念を押されている気分になる。

「ねぇ、陽二は相変わらずモテてる?」

「モテてる、って言うか…遊んでる」

「そう。陽二は中学の時からモテモテだったから、いつか、デキちゃいました、結婚しまーすって言ってくるんじゃないか、ドキドキしたわ」

知世が笑いながら言った。

「だけど、陽二なりに色々あったと思うのよ?根はいい奴だからねぇ」

「それは解ってるけどさ」

「それに、あんたは…」

知世が光平を見る。

「ちょっと頼りなかったけど、今はちゃんと強くなった。強くて優しい男になった」

光平は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「さて、病院に戻りましょうか」

「え!?…家に帰っちゃダメ?」

「ダメ。よく解らないけど、ダメだと思う」

「えー…なんだか寝てばっかりの自分見てたら、具合悪くなりそうなんだよね」

光平が文句を言うと、

「そもそも、具合が悪いから寝てるんじゃないの。とにかく帰るわよ」

光平は渋々頷くと、

「兄貴、陽二くん。また明日ね」

と、届かぬ声を発した。



翌日、喜一は仕事が休みだった。

そのため、朝から光平の病室を訪れ、ずっと読書をして過ごした。

ちょうど午後一時になった頃、誰かがドアをノックした。

「どうぞ」

喜一が顔を上げると、そこに初美の姿があった。

初美は、いつもの雰囲気と違って、普段着だった。

スーツ姿に見慣れていた喜一は、髪をアップにしてフレアスカートの女性らしい出で立ちの初美が、一瞬誰か解らないほどだった。

「具合は、いかがですか?」

初美は心配そうに光平のベッドへ近付いた。

「…目は覚ましてませんが、危険な状態になる事もないようです」

喜一も一緒になって、光平の顔を伺う。

「あの、これ…」

初美が花束を差し出す。

「ありがとうございます」

喜一は、それを受け取ると、

「今日はお休みですか? 」

「はい。仕事の時はなかなか時間が作れなくて、早く伺いたい気持ちはあったんですけど…」

「ご無理なさらずに」

喜一はそう言って、初美をじっと見た。

初美は、またドギマギした。

喜一はメガネをかけているが、その奥の瞳は意外に大きくて睫毛も長い。

喜一には、自分の目が魅力的なんて自覚は全く無いだろうが。

「あの子、喜一の事が好きなの?」

二人を見ていた知世が尋ねる。

「きっと、そうなんだけど…初美ちゃん自身もいまいち気付いてないというか…」

光平の答えに、知世が二人を見つめて、

「で、喜一の方はどうなの?」

「兄貴は全然。あの二人、恋愛は苦手みたいだし。陽二くんは、初美ちゃんの事、大のお気に入りなんだけどね」

「複雑ねぇ」

そんな会話をされている事など気付く訳もなく、喜一達は色気とはほど遠い事件の話をしていた。

「印鑑、ですか?」

「はい。被害者は印鑑を取りに室内へ戻って、後ろから襲われているようです」

「…もし、相手が宅配業者なら、警戒はしないでしょうね」

「犯人が配達を本業としてるかも解りませんけどね。成りすましの可能性もあります」

そう言って、喜一が再び初美を見つめる。

何だろう?

やっぱり、この格好は似合わなかっただろうか。

初美がそんな事を気にしていると、

「藤野さん、身長は何センチですか?」

と、喜一が聞いた。

「え!?」

初美は戸惑いながら、

「160センチ、です。確か」

と、答えた。「もっと高く見えますね」

「あ、それは…」

初美が髪に手をやって、

「髪型のせいです、きっと」

喜一は納得したように頷く。

「如月さんは、どこまで捜査を進めてるんでしょうね」

「確認してみますか?」

「いえ、藤野さんは非番なんですよね?僕が後で聞きますよ」

「私は構いません。喜一さんのお役に立てるなら」

初美はそう言ってしまって、急に恥ずかしくなった。

警察官として職務を遂行するのは当然です、くらい言うべきじゃないか。

「お、お花、活けて来ますねっ」

初美は花瓶と花束を持つと、慌てて病室を出て行った。

喜一は、窓から階下を見下ろした。

様々な人達が病院を出入りする様子を、じっと眺める。

「喜一、何か思い付いてるみたいね」

知世が呟く。

「兄貴は頭がいいし、直感が冴えてるから。俺の事を見えるのが陽二くんじゃなくて兄貴だったら、すぐに犯人の事も伝わるんだろうなぁ」

残念そうに光平が言った時、初美が戻って来た。

「藤野さん、すみませんが…」

「はい?」

「僕は、ちょっと如月さんに会いに行って来ます」

「え?あの…」

おろおろする初美を残して、喜一は足早に病室を出て行った。

「じゃあ、俺も行って来る」

光平が知世に向かって言った。

「どこ行くの?」

「犯人のヒントがある場所に、連れて行けるかも。ちょっと頑張ってみる」

明るい表情の光平を見て、知世はニッコリ微笑みながら、

「よし、行ってらっしゃい」

と、光平の背中を押した。


病院の外へ出て、如月に連絡をしようとすると、陽二から電話がかかって来た。

「もしもし?どうした?」

「何だか知らないけど、光平が俺の後ろで、めちゃくちゃ暴れてんだよ。何かあったのかと思って」

「暴れてる?…こっちは何もないけど?」

「…ったく、一体なんなんだよ」

「…今、そっちに行くよ。待ってて」

喜一は電話を切ると、タクシーに乗り込んだ。

光平は何かを伝えたがっている。

そして、今ならきっと絶好のタイミングなのだ。

そう思う事に、確信は無かったが、自信はあった。

店の前に到着すると、陽二が入口の端で、そわそわしているのが見えた。

喜一の姿を見つけると、すぐに駆け寄って来た。

「兄貴っ、どうにかしてくれよ」

陽二が頼りない顔で言った。

そして、喜一は陽二が鏡を手にしている事に気付く。

「…何、それ」

究極のナルシストにでもなったのかと思ったが、陽二の答えは違った。

「だって、鏡越しじゃないと、光平の事見えないんだもん」

「光平、どんな感じ?」

「うん、元気を通り越して、おかしいくらい」

陽二が鏡を見て、

「なんか、あっちを指差してる」

「そっか」

喜一はパッと明るい表情になって、

「光平、犯人が誰なのか、伝えようとしてるのかも。連れて行って貰えばいいんだ」

「連れて…どうやってだよ?」

「お前が鏡を見ながら移動すればいい」

その言葉に、陽二は絶句した。

そりゃあ俺だって、自分の顔は嫌いじゃないが。

周りの人間は、どうだ?

ずっと自分の姿を、わざわざ持っている鏡に映しながら歩いてる奴を見たら、どう思う?

「…兄貴、隣にいてくれるんだろうな?」

「え?隣じゃなきゃダメか?」

やっぱり。

他人の振りをしようと思っていたに違いない。

「何だよ。一緒に行くんだろ?」

「でも、ナルシスト男と友人だと思われるのは、正直嫌だ」

陽二が、ピクリと片方の眉を上げる。

「あっそ。じゃあ行かない」

喜一は少しの間を空けると、

「バカだなぁ。僕が本気で言ってると思ったのか?冗談に決まってるだろ」

絶対に嘘だな。

と、陽二は確信していたが、

「じゃあ、早退させて貰って来るから待ってて」

と、店へ戻った。

いつか、喜一がどんな男か、絶対初美に教えてやろう。

陽二はそう心に誓った。


「あー、疲れた」

陽二が、ぐったりとして言った。

事件現場の近くに、二人はいた。

ここまで来ると、鏡の中の光平は、やっとOKのサインをして見せたのだ。

「そもそも、あの時…光平は何でここに来てたのか考えてたんだけど」

喜一が言う。

「美容室で取引きのあるウィッグの問屋が近いんだな」

陽二も思い出したように頷くと、

「もしかして、光平は犯人に覚えられたかな?」

「…どうかな。住んでいる訳じゃないから、そうそう犯人と出会う事は無かっただろうけど」

「でもさ、犯人が光平に顔を見られてるって知ったら…」

その言葉で、喜一は神妙な顔になると、

「まずは如月さんに連絡しよう」

と、電話を取り出した。


もう、すっかり日が暮れた頃、待ち合わせした場所に如月が車で現れた。

意外にも普段着だった。

「あれ?如月さん、休みだったの?」

陽二が問い掛ける。

「ああ。病院に行ったら、藤野に会ったよ」

そういえば、任せっきりにしたままだった。

と、喜一は今更思い出した。

「如月さんも、スーツじゃないと雰囲気違いますね。藤野さんもですけど」

その言葉に、陽二がすかさず反応を見せた。

「も、って、初美ちゃんの私服、いつ見たんだよ!?」

「今日。光平のお見舞いに来てくれて」

「なんだよ、俺、色々損してるな。初美ちゃんの技だって、まだ見てないのに」

陽二は拗ねた顔をした。

「そんな事より…如月さん、これから岩井さんのいる交番に付き合って頂けますか?」

「え?いいけど」

「岩井さんにも、お願いしたい事があるんです」

「兄貴、全然教えてくれないんだけど、何か計画があるみたいなんだ」

陽二が更に拗ねた顔をする。

「全員揃ったところで説明するから、待ってろよ」

喜一がなだめるように言う。

内容が明確にならないと、陽二の機嫌が治らないため、三人は如月の車に乗って、交番へ向かった。

その夜は、ちょうど岩井が勤務だったらしく、三人が到着すると、丁寧に頭を下げて挨拶をした。

「お願いというのは…」

雑談は必要ないと判断していた喜一は、座るなり落ち着く間もなく切り出した。

「如月さん、この地域に頻繁に出入りしている宅配業者と、その担当者を探して下さい」

「犯人の目星がついてるのか?」

「ええ。一応、男性も女性もリストアップして貰えますか?」

「女もかよ!?」

陽二が驚いて、

「犯人、兄貴くらいの身長なんだろ?男じゃねぇの?」

「そうとは限らない」

喜一は岩井の頭を指差して、

「帽子」

すると、岩井が感心したように頷く。

「帽子じゃなくて、違う物でも、身長はごまかす事が可能だからな」

「なるほど」

如月も納得した。

「で、岩井さんにお願いしたいのが…」

「はいっ」

岩井が姿勢を正す。

上司に命令される訳じゃないんだから、そこまで固くならなくても。

相手は一般人の素人だぞ?

と、気合いの入った岩井を見て、陽二は思った。

「ある情報を、この地域内で、出来るだけ多くの場所と人に拡散して頂きたいんです」

「じ、情報!?」

重大な任務を任される事に力が入り過ぎたのか、岩井の声が裏返った。

「今、如月さんに言いましたが、宅配業者の人の耳にも入るような施設や場所、あらゆる人に…犯人を目撃した唯一の人物が、もうすぐ意識を取り戻すらしい、と」

「え!?」

陽二が驚いて声を上げる。

「兄貴、光平を囮にするつもりか?」

「そうだけど」

喜一が、サラッと即答する。

鬼だな、と言おうとした陽二より先に、

「ひどいっ!」

と、如月が抗議した。

「もちろん、警護が出来るっていう条件の元で、ですけど」

「するさ、何がなんでもっ!」

如月が意地になって言った。

「では、光平の警護が整ったら、岩井さんに情報拡散の指示を如月さんが出して下さい。岩井さんは、如月さんから連絡があってから、お願いします」

「了解致しました」

岩井は、重要任務を任されたかのように、喜一に敬礼した。

帰りの如月の車の中で、喜一が尋ねる。

「今、光平どんな顔してる?」

すると陽二は、鏡に自分を映して、

「なんか、ちょっと不満そう。兄貴があんな事言うからだ、囮にするなんて」

そう言うと、クスッと笑った。

「如月さん、毎日病院に来てくれてるんですよね?看護師さんから聞きました」

喜一が言うと、如月は早口で、

「たまたま、捜査の途中に病院があるからだよ」

と言った。

照れる事ないのに。

父親なんだから、心配なのは当然だ。

喜一は、そんな如月の事を、光平が目覚めたら早く教えてやりたい、と思った。

だが、それは、光平自身が一番知っている事だった。

ほんの少し、顔を見てすぐに帰るような時間でも、如月は病院を訪れていた。

大丈夫、解ってるから。

光平はそう思いながら、ゆっくり姿を消した。

「さて…急いでやらなきゃならないな」

喜一が言った。


ある運送会社の運転手をしている男を、如月はずっと尾行していた。

男は、ホロ酔いで家路を歩いているところだった。

確か、男のアパートは、そろそろなはずだ。

その時、人影が急に飛び出して来て、男に向かって足を早めて行くのが見えた。

まずい。

如月は、全速力で駆け出した。

男が何かで殴り付けようと腕を振り上げる。

次の瞬間、如月が飛び掛かると、身を潜めていた他の警官も、応援に駆け寄って来た。

襲われかけた運転手は、突然の出来事でパニックになったのか、腰を抜かして座り込んでいた。

取り押さえた男の被っているフードを掴んで、如月は言った。

「残念だったな、岩井」

顔を晒された岩井は、驚愕の表情で如月を見た。

「お見事、如月さん」

近づいて来たのは、陽二だった。

そのすぐ後ろに、喜一もいた。

「弟をあんな目に遭わせた犯人が逮捕される瞬間が見れて、すっきりした。な?兄貴」

陽二がニッと笑う。

岩井は二人を見て、

「…どうして…」

と、震えながら言った。

「どうして、って…調べて貰ったんです。如月さんに」

喜一は落ち着いた声で、

「あの事件の日、あの地域に配達で回っていた運転手が誰か…って、聞いてきた警察官がいたかどうか」

喜一は、岩井を見つめると、

「二日後から光平の警護が始まると、如月さんに嘘の連絡をして貰いました。そして、あなたは明日、非番になっていますから…もうチャンスは今日と明日しかない。光平を殺すためには、警護が始まる前で、しかも普通に人が自由に出入り出来る昼間じゃなきゃ、目立ってしまう。だから、非番の時を狙うだろうと、僕達は思っていました」

喜一は、チラリと腰を抜かした運転手を見て、

「この人を犯人にしたてあげて、自殺でもしたように偽装するつもりでしたか?光平が殺されるより先に死んだ事がバレたらまずいので…山中に捨てるか海に…」

運転手は、それを聞いて身震いした。

「ご無事でなにより」

陽二がニッコリ笑って、運転手を見る。

完全に酔いが冷めてしまった運転手は、警察に保護され、パトカーに乗り込んだ。

「岩井…お前にも、ずっと尾行がついてたんだ」

如月の言葉に、岩井は涙を浮かべて、

「ち、違います…僕は少しでも、捜査が早く進めばと思って…それで、運送会社に、問い合わせを…」

如月は、ゆっくり首を振った。

「…今のお前の姿が、立派な証拠だ。続きは、署で聞く」

連行されていく岩井を見送りながら、陽二が言った。

「なんだかんだ、兄貴が一番無茶だよな」

「は?心外だな」

喜一が、横目で陽二を見る。

「だって、そうだろ。あの時、岩井に会いに行く前に、ちゃんと説明しておけば、如月さんだって慌てなくて済んだのに」

「だって、お前の機嫌が悪いから…とりあえず岩井に会うのが先だと思ったんだ。お前のせいだ」

陽二が、信じられないという顔をした。

その経緯は、こうだ。

あの日、岩井のいる交番からの帰り道。

車の中でいきなり喜一が言った。

「犯人は岩井です」

「え!?」

如月が思わずハンドルを切り損ねるほど、驚いた。

「光平が、俺達を交番まで誘導して来たんだ。それは間違いないんだけど…」

陽二が、半信半疑な様子で言った。

「如月さん、すぐに光平に警護をつけて下さい。それから、宅配業者への確認も大至急お願いします」

「…あ、ああ」

「あと、岩井が直近で非番になる日も調べて下さい」

喜一は、ミラー越しに如月を見ると、

「早くしないと、光平が死にます」

と、言った。

その時の事を思い出して、

「あれは、半ば脅迫だよ、如月さんにとって」

と、陽二が笑った。

「光平のため、っていう方が、如月さんも一層頑張ってくれるだろうと思ったから…」

喜一は、悪びれた様子もなく言った。

「ところでさ」

陽二が歩きながら、

「印鑑って、何だったの?」

「ああ…被害者は、空き巣の被害届を出した、って言ってたろ?岩井が犯人だとしたら、もう一度印鑑が必要になったとか何とか、それを口実にしたんじゃないかと思った」

「なるほどね。信用してた住人を…酷い野郎だ」

「とにかく」

喜一は大きく息をついて、

「あとは如月さんに任せて、僕達は光平の意識が戻る事を祈ろう」

そう言うと、陽二の肩に手を掛けた。


「良かったわね」

病室で、知世が言った。

「犯人、捕まったみたいじゃない」

光平は振り向くと、知世に向かって微笑んだ。

「でも、大変だったよ。どうやったら伝わるか解らなくて、とにかくあの交番まで連れて行かなきゃ、って一心で…」

そう言いながらも、達成感に満ちている光平を見つめて、知世は優しい笑顔を見せた。

「ねぇ、自分の言葉で相手に気持ちを伝えるって、素晴らしい事だと思わない?」

「…うん、そうだね」

光平が頷く。

知世は、光平の正面に立った。

「だから、これからは生きているうちに、ちゃんと言いたい事を言っておきなさい」

光平は、その言葉に少し寂しくなった。

母が亡くなった時、それ以降も、どれほど母と話したいと思ったか。

母の言葉が聞きたいと、どれだけ願った事か。

「母さん…この世に未練は、ある?」

光平は、少し聞きづらそうに言った。

「未練?…んー、無いわね」

知世はあっさり答えた。

光平は少し腑に落ちない顔をして、

「俺は…いや、きっと兄貴も陽二くんも、母さんと一緒に、まだまだ生きて行きたかったって思ってるよ?…母さんは、違うの?」

「それとこれとは別」

知世は、光平の気持ちを察すると、

「あんた達が、どんな人生を送るのか、傍で見ていられないのは残念よ?でも、未練じゃない。だって、あんた達は頼もしく立派に生きてるじゃない?だから…安心してる」

そう言って微笑んだ。

「俺は…」

光平は、言葉に詰まりながら、

「俺は、まだ…母さんが必要だよ?…まだ、たくさん一緒にいたかった…」

そう言った光平を、知世はそっと抱き寄せた。

「じゃあ、私を無くさないで」

知世は、優しく光平の頭を撫でた。

「喜一や陽二は、私の思いを受け継いでる。喜一も陽二も、私と同じだけ光平を愛してて大事に思ってる。だから、怖がらないで、あの子達を信じて、愛されてる自信を持って生きなさい」

光平の目から、ポロポロと涙が零れた。

知世が、体を離して光平を真っ直ぐに見つめる。

「あんたも、二人を助けてあげて。だから、死んじゃダメなの。きっと私は、それをあんたに伝えるためにここに来たんだわ。なんか…事件の事で、忘れちゃってたけど」

と、最後の言葉は、知世らしくおどけて言った。

「母さん」

光平は、顔をごしごし拭うと、呼吸を整えて言った。

「今頃になって、ごめん」

そして、笑顔を作ると、

「大好きだよ。産んでくれてありがとう」

知世が微笑んだ。

と、思った次の瞬間、光平は意識を失った。




うるさいなぁ。

光平の最初の感想は、それだった。

そして、それが自分を呼ぶ陽二の声だと解ったのは、やっと目を開けた時だった。

「わ!光平起きた!」

陽二が歓喜の声を上げる。

よくよく見ると、自分を見つめているのが陽二だけでなく、喜一、如月と初美の姿もあった。

「光平?」

喜一が静かに声を掛ける。

「…おはよ」

光平は小さな声を返した。

全員が、ホッとしたように顔を見合わせる。

そうか、俺は元に戻ったんだ。

「今朝、病院から連絡を貰ったんだ。光平の意識が戻った、って」

「なのに、駆け付けたら、お前が全然反応しないからさ、またどこか行っちまったかと思って心配したんだぞ!」

と、陽二が光平の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

光平が向けた視線の先に、嬉しそうに微笑む初美と、その横で今にも泣きそうな顔をした如月が見えた。

光平は、少し笑みを浮かべた。

「と、とりあえず」

如月が、気を取り直して、

「俺達は仕事に戻るよ。まだ、取り調べの続きもあるし」

すると陽二が、

「また報告に来てよ。初美ちゃんも、ぜひ普段着で」

と、言った。

忘れてなかったのか。

なかなか執念深い奴だ。

喜一は、そう思った。

「では、お大事に」

初美は、陽二の普段着発言には特に反応せずに、光平に言葉を掛けた。

「ありがとう…」

光平は礼を言うと、如月を見た。

「ありがとう、父さん」

如月が固まる。

喜一と陽二は、互いに視線を合わせてフッと微笑んだ。

みるみる如月の顔が歪んで、あっという間に泣き出してしまった。

「…き、如月さんっ」

初美がおろおろする。

「す、すまない、しかし…」

言葉につまる如月を見て、光平が呟く。

「…母さんに、言われたんだ…生きてるうちに、言いたいこと、言っておけって…」

「…母さんに?」

陽二が驚いて尋ねる。

「…夢かもしれないけど…会った」

「…そうか。良かったな」

喜一は優しい顔でそう言うと、初美を振り返って、

「藤野さん、如月さんをよろしくお願いします。大変でしょうけど」

と、泣き止まない如月を指さした。

「あ、はいっ、さあ、行きましょう、如月さん」

初美が如月を促す。

如月は名残惜しそうに、何度も光平を見て頷きながら、やっと病室を出て行った。

「確かに感動されるのは解りますが、これから取り調べが…」

初美の声が遠ざかって行くと、陽二はやれやれと息をついた。

「まだ、眠っててもいいよ?」

喜一が、一仕事を終えた光平を労う。

「ん、そうだね…」

光平は、ゆっくり目を閉じた。


日向家では、ささやかな光平の退院祝いが行われていた。

と言っても、普段の食事が少しだけ豪華な品揃えなのと、如月が持って来た高いシャンパンがあるくらいで、あまり日常と差はない。

初美がやや遅れている事に、陽二は少し不満そうだったが、めでたい酒のせいで、機嫌が直るのも早かった。

「ねぇ、犯人の動機って何だったの?」

陽二が尋ねる。

「祝いの席で話していいのかい?そんな話題」

如月が戸惑うと、光平が、

「俺も聞きたい」

「じゃ、いいか」

あの日、父さんと呼ばれてから、如月の親バカぶりが急に露呈し始めた。

今日も、光平に対しては、まるで付き合い始めたばかりの恋人のようにメロメロであった。

「如月さん、光平にライオンと闘って来いって言われたら、行っちゃいそうな勢いだな」

陽二がポツリと呟く。

「なんか言った?」

光平が陽二を睨む。

「いや。親父が息子を愛してるんだな、て事をしみじみ実感していただけです」

陽二はそう言って、シャンパンを飲み干した。

「警察官の犯行となると、如月さんも大変でしょうね」

喜一が陽二に酌をしてやりながら聞いた。

「そうなんだ…マスコミも嗅ぎ付け始めてる」

如月は溜め息をつくと、

「岩井は、警官になりたての頃、ある大きな事件に駆り出された事があった。人質立てこもり事件なんだが…」

「数年前のですか?確か、誰一人負傷者を出す事なく犯人は逮捕された…」

喜一の言葉に、如月が頷いた。

「岩井にとっては、理想的な事件解決だった。緊張と高揚、その充実感は言葉に出来ないくらいの喜びだったらしい。しかし、実際に仕事を始めてみると、岩井は交番勤務で、よっぽどの事がないと、大きな事件に関わる事がなくなった」

「…まさか、それが物足りなくて?」

光平が尋ねる。

「…あってはならない事だが、結論はそうだ。平和すぎる毎日が、奴の警察官としてのプライドを歪めて行った」

「平和である事にプライドを持つべきなのに…」

喜一が呟く。

「全く、その通り」

如月が頷く。

「小さくても事件は事件だ。住人達が不安がって、自分を頼って来る事が嬉しかったそうだ。それでも、殺人だけは犯すまいと思っていたらしいんだが…」

如月は、唇を噛んで、

「被害者が…空き巣の被害届を書いた時に、警察はあてにならない、犯人を捕まえられないくせに、と言ったせいで頭に血が昇った…岩井は、だったら自分が事件を解決すればいいんだ、と思った」

「犯人をでっちあげてまで?そうまでして、英雄になりたいのか」

喜一が静かに呟く。

「同業者として、恥ずかしい話だ」

如月が、少し怒りの色を浮かべた顔で言った。

「警察官でも、信用出来ない奴はいるだろ。人間なんだから」

陽二が、素っ気なく言う。

「後悔、してるかな?」

光平の問い掛けにも、

「悔やんでも手遅れだ」

と、陽二は冷たく吐き捨てた。

「…母さんも、そう思ったのかな…」

光平の言葉に、喜一と陽二が動きを止めた。

「なんだよ、それ」

陽二が怪訝そうに尋ねると、光平が少し瞳を翳らせて、

「母さん…この世に未練は無いって言ってた。もちろん、俺達が立派に生きてるから安心してるんだ、とは言ってたけど…もう死んじゃったから、未練なんか残しても仕方ない、過ぎた事は後悔しても遅い、って思ってるのかもしれないな、って…本当はさ、少しだけ期待してた。俺達といられないのが、心残りだって言ってくれるのを…」

寂しげな光平を見て、喜一と陽二は黙り込んだ。

すると如月が、

「きっと思ってるさ」

と、言った。

三人が如月を見る。

「でも、知世の性格だ。未練があるなんて言ったら、君達が辛くなる。もっと悲しませると思ってるんだ。君達と生きた時間が、目一杯幸せだったのは事実だから、そこに悔いが無いのは本心だろう」

喜一が、フッと微笑んだ。

「そうですね。死にたくなかったなんて言われたら、僕は辛いです」

「確かに。成仏出来てねぇんじゃないかって、心配になるな」

陽二が頷く。

二人を見て、光平も自分を納得させるかのように笑みを浮かべた。

そんな光平を見て、また如月はメロメロになっていた。

「ところで、光平」

陽二が向き直る。

「お前、俺に憑いてた時、いつも妙に元気な挨拶してたけど、あれって何?」

光平はしばらく考えると、

「…挨拶、て…あれ、敬礼だよ、敬礼っ」

「え?」

陽二が妙な顔をする。

「岩井が犯人だって解ったから、警察官が犯人だって伝えようとしてたのっ、敬礼して」

「お前…」

陽二が呆れた顔で、

「あれは、どう見ても…こんにちは〜って元気に挨拶してるようにしか見えねぇよ。センス無さすぎ」

そう言って、何度も額に当てた手を、上に挙げて見せた。

「敬礼だよね?父さん」

光平にそう言われると、当然如月は、たとえ間違っていても、肯定せざるを得なかった。

その時、チャイムが鳴った。

三人のやり取りを横目に、喜一が玄関へ向かう。

そこには初美が立っていた。

いつもとは違う、ワンピース姿で。

「すみません、遅れてしまって」

初美は恥ずかしそうにそう言うと、手土産のプリンを手渡した。

「ありがとうございます。どうぞ」

「あ!初美ちゃん!」

背後で陽二が感嘆の声を上げる。

「俺の言葉、覚えててくれたんだ!」

陽二は一気に目の前まで迫ると、じっと初美を見つめた。

「初美ちゃん、いらっしゃい」

迎えに出た光平が、陽二の襟首を掴んで引き剥がしながら、

「来てくれてありがとう」

と笑顔で礼を言った。

「陽二の言うこと、わざわざ聞いてくれたんですか?お仕事帰りで忙しかったでしょう」

リビングに戻ると、初美のグラスを用意しながら、喜一が尋ねた。

「…私も、光平さんの言葉で、少し思う事があって…」

初美が明るい顔で、

「生きてるうちに、と思いました」

一瞬、陽二が動きを止める。

「え?俺が生きてるうちに、て意味?」

複雑な顔をする陽二を、光平がまあまあ、と、なだめる。

「でも、そう思われたとしても、結果的には俺のため、って事だよね?」

食い下がる陽二に、初美が言った。

「私も、です。私も、生きてる間、後悔は少ないようにしようって」

初美が微笑んだ先に、喜一の姿があった。

当の喜一は、新しいワインを開ける作業に取り掛かっていて、全く三人を見ていなかったが。

こっちは、まだまだ道程が長そうだな、と如月は思った。

「改めて乾杯しましょう」

喜一が全員のグラスを用意する。

すると光平が、もうひとつグラスを用意して、知世の遺影の前へ置きに行く。

「よし、オッケー」

光平が戻って来ると、

「じゃあ、陽二。言って」

と、喜一が振る。

「こういう時は長男だろ、普通」

陽二がぶつぶつ言いながら、

「えーと…何だか、上手く行ったところと、そうじゃないところもあるけど…」

陽二がグラスを掲げて、

「とにかく、いい人生にしよう」

全員、その言葉に異議はなかった。





《第六話・完》

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