六章 夜の目
孫娘はずっとピクリとも動かずよく眠っている。
「そんなんじゃ立派な記者になれないぞ」
十八なのに背中に負っても全然重くない。確かまだ四十キロを切っているんだっけ。
遥か後ろでは屋敷のどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。あの様子なら解散は明け方だろう。
「にしても全然起きないな」
僕の号令で緊張が解けたのか、孫娘は飲み物を取りに行っている間にすっかり寝入ってしまっていた。昔から皆に図太い神経と言われていた通り、揺すっても呼んでも全く起きる気配は無し。結局昨日あれだけ楽しみにしていた御馳走はルザに折詰にしてもらい、早々と帰宅の途についている。まぁ、不死の連中の酒盛りは昔の一回で懲り懲りだから本番が始まる前には帰ろうと思っていたし、逃げ口上ができてむしろラッキーだったかも。
と、後ろから複数の人間の話し声が聞こえてきたので振り返る。
「あれ、君等も御帰還かい?」
「あ、エルシェンカ様。……デイシー!!」
カーシュは驚いた様子で孫娘に近寄る。
「ど、どうしたんですかデイシーは?」
「疲れて眠っているだけだよ。そっちのおじさんも相当みたいだね」
アレクが肩を貸している中年の男性はかなり足元が覚束無い。と言うか、既に目の焦点が合っていない。
「おい、親父!」頬を力一杯叩くが反応は無い。「ったく、あれぐらいで酔い潰れやがって。何が酒豪だよ」
「大丈夫かい?」
「え、ああ。別に平気ですよ。親父潰れるのも早いけど治るのも早いんです」
「そうそう。俺等がほろ酔った頃には復活してますから」
「へえ。便利な体質だね」感心しながら孫娘に伸ばされた手をさり気無く払う。
「もっと経験を積んでからだね」
弁解しておくが別に僕は彼が嫌いな訳ではない。むしろ成長すれば孫娘に相応しい頼もしい青年になると期待を掛けている。ただ、今はまだ駄目だ。危なっかしくてとても任せる気になれない。
「調査部の仕事は明日からだから程々にしておきなよ」
「この二人が暴飲しなければ大丈夫です」
アレクは自信たっぷりに言い、「じゃあお休みなさいエルさん」
「うん、ゆっくり休みなよ」
三人を見送って再び家路を急ぐ。
日はとっくに沈み、政府館の角を曲がった先の森は暗がりになっていた。魔力の光を浮かべて近くを照らす。
(さて……誠、大丈夫かな)
この時期の精神状態で急に部下が何人も、なんて大変だとは思うけれど、あれからもう二百年だ。いい加減気持ちの整理を着けてくれないと。勿論、あいつが今すぐ帰って来れば万事解決するのだけど。
下につく者がいれば彼も少しは前向きな気分になってくれるだろう、そう思ってワザとギリギリの試験を課して結束を高めるよう仕向けた。僕の見る限り効果の程はあったようだ。ただ誠の気力にまで結び付いたかどうかはこれから観察してみないと分からない。
(まあ……大丈夫だよね、多分)昔から面倒見は良い……いや、どちらかと言えば面倒を見られる側か?おや、まあ。
玄関の鍵を開け、明かりのスイッチを点けて中に入る。今夜は夕食はいらないと言ってあったので家政婦のお嬢さんは掃除だけして帰ったようだ。いつもなら僕が帰宅する八時ぐらいまでいて、六時に帰ってきたデイシーと一緒に夕食を摂ったり原稿の校正に付き合ったりしてくれている。寮からシャバムの学校に通っている学生さんで労働時間は授業が終わった後。奨学金制度を受けてはいるが、遊ぶ小遣い目的で応募したらしい。寮生とは言え生活するには何かと物要りだろう、特に女性は。
「うぅん………」
孫娘は小さな口をモゴモゴさせている。既に夢の中で御馳走をたらふく食べているのかもしれない。
「やれやれ」
家族の中でこの七代目程大物の素質を備えた者はいない。事故に遭った両親はごく普通だったのに、この子の代で突然僕と肩を並べる程の魔力が現れた。聖族の血はほとんど残っていないにも関わらず、紛れも無くその力は本物。幼い頃からの記者と言う夢が無かったら魔術師にしたいぐらい。
「もうすぐベッドに入れてあげるからね」
しかし本人も折角の才を生かさないのは勿体無いと考えたのだろう。休日は大抵僕と半日魔術の練習を行っている。彼女が得意とするのは癒しと光の攻撃魔術。最近は取材に役立ちそうな物は無いかと訊かれたので身を守る防御魔術を習得中。二日目にして早くも完成形に入っている。
薄暗い廊下を抜ける最中、ふと昼間リュネと話した事を思い出した。魔術科学に応用可能な旧き魔術について。僕の持っている魔術書の中に確かそんなのばかり集めた物があったと思う。
一瞬立ち止まり、考えて。「ごめんね」孫娘に一言呟いて彼女の部屋と別方向の書庫へ歩き出す。
気になると他を顧みない癖はいい加減改めた方が良いと分かっているが、家系だろうかデイシーは僕以上の没頭癖の持ち主。一度のめり込んだら本人が納得してこちらに帰ってくるまで周りは何もできない。(三歳頃積み木を十時間ぶっ通しで遊んでいて母親、六代目に泣き付かれたのが皮切り)だからまぁ、一時間ぐらいなら仮に目を覚ましても笑って許してくれるだろう、同じ悪癖を持つ者同士。
書庫の扉を片手で開けて照明を点ける。昔はランプや蝋燭で照らしていたが、今は魔術科学の応用で蓄積した魔力を家中の照明器具に使用できるようになった。ただ、残量をしばらく確認していなかったからかいつもの半分ぐらいの光量。明日業者に電話しないと。
孫娘を書き物机に寄り掛かるように座らせ、折詰を隣に置く。中のサンドイッチを摘みながら書棚の間を進む。因みに書庫の蔵書は三年前古書屋と一週間掛かりで整理した時点で約一万冊。大半は地下室で、この書庫に出ているのは二千ぐらいのはず。
(あ、この本か……また時間作って読みたいな。もうすぐ新作が出るって誠が言ってたし)
ぱらぱら、ばたん。
(そう言えばあっちに新聞社の今年の観光ガイドが積んであったな。僕はデイシーが作っている時に散々見たし、明日クレオに一冊渡そう。うん)
とことこ。
(しまった!この本買ってたんだ。読んでないと思って先週新刊で買っちゃったよ。あー、片方誰かにあげようかな)
書棚から飛び出た広告を取り出す。
(へえ、龍商会の古書市今週末なんだ。時間は何とか作れるかな?去年は買いまくって……あー、まだ奥に積みっ放しだ。ちゃんと読んで整理したいけど、一昨年のも積読状態なんだよね……うーむ)はっ!
「こんな事している場合じゃなかった。えっと、魔術書が入ってるのは」
危うく一晩中いる所だった。本当僕にとって本のある場所は危険区域だ。
「見ちゃ駄目だ。早く戻らないとデイシーが風邪を引くじゃないか、大体夕食がまだだ」
必死に自分に言い聞かせながら歩く。自制心自制心。
ようやく目的の棚に辿り着いた時には少し息さえ上がっていた。タイトルは覚えていたので探すのに一分と掛からなかった。ぱら。
「うん、これだ」
脇に挟もうとしたが、何故か既に三冊も持っていたので入らなかった。全部両手で抱えて運ぶ事に。
帰りは知識の誘惑より食欲と孫娘への心配が勝り容易に脱出できた。
「ただいま」
行った時と同じ姿勢で眠るデイシーに声を掛ける。彼女を背負って折詰と本を持つのは若干大変だというのにはたと気付く。
「先にデイシーかな……よっ」
ガチャンッ!
「!?」
硝子の割れる音。それもこの書庫のどこかでだ。
「ごめんね」
抱えかけた彼女を降ろして、音がした方向へと歩き出す。
(泥棒?明かりが点いているのに気付かなかったのかな)
にしても妙だ。沢山ある侵入口からわざわざこの部屋の窓を選ぶなんて。大の大人なら硝子を取り除いて相当窮屈な思いをしないと入れない。かと言って木の枝や石が当たったとしても外はそよ風程度しか吹いていない。
「あれ……?」
ブゥン、と音がして照明が一斉に切れた。そんなにギリギリの魔力だったのか?
代わりの光を浮かべようとした時、書棚を挟んで何か、歌のような物が聞こえてきた。
――お眠りよ可愛い坊や、お眠りよ安らかに――
僕は声の方へ駆け出した。棚の間を確認しながら走り抜け、それがいるはず空間の無を見、
――お眠りよ永久に――
囁く声に振り返り驚愕した瞬間、何かが書棚に飛び散る音がして、照明が点いた。
大お爺様の声が聞こえた気がする。
「う……ん……」
目を開ける。辺りを見回すまでもなく家の書庫だと分かった。新旧のインクと紙の入り混じった、小さい頃から包まれて鼻腔に染み付いた安心する匂い。
「大……お爺様~?」
隣には白い布に包まれた箱と四冊の本。箱からは微かに食欲をそそるグレイビーソースの匂い。どうやら私が眠ってしまったので大お爺様も料理を詰めて帰ってきたみたい。本は仕事の資料に使う、のかなぁ?観光ガイドなんて何に使うんだろう?
「……変だな~」
一度はここに戻って来たはずの大お爺様の姿が無い。再び書物の誘惑に駆られて?有り得ない話ではないが何か違う気がする。
「ああ、そうだ~」
普段首から下げている水晶のネックレスを外し、チェーンを右手で親指ごと握り込む。魔力の触媒にと自分で買った物だ。
深呼吸、深呼吸……。
「生命を遍く照らす神の御光、我に血族の居する場を視させよ」
水晶が白く光り、視界がぐうっと書庫の奥へと引っ張られる。幾つもの棚の間を風のように抜け、倒れた大お爺様を発見した。
「う……デイ、シー……」
私が視ているのを魔力で感じ取ったのかお腹を押さえながら顔を上げる。
術を解いてその場所まで走って行った時、大お爺様は既に身体を起こして棚に寄り掛かっていた。反対側の棚には上の方までハッキリと斜めの真新しい血飛沫が付着している。
「お、大お爺様!一体誰がこんな事」
脇腹の傷は幸い深くはないけれどまだ血が止まっていなかった。大分出血したのかさっきまで元気だった大お爺様の顔は蒼白だ。
「すぐ楽にするね。――神の恩寵、この者に癒しを」
輝く水晶を掲げる。傷口が上下からピタッとくっつき、痕も無く綺麗に治る。
「流石僕の子孫だ。感謝するよ、デイシー……」
「傷を塞いだだけで大袈裟な。電話して来るね。急いで病院で内臓検査してもらわないと~」
「……病院には行かない」
大お爺様は棚にしがみつくようにして立ち上がる。
「デイシー、この事は内緒にしてくれ。誰にも話さないで」
「え、え……?な、何で?これは立派な傷害事件です。警察と政府館に報告して犯人を捕まえてもらわないと次の被害者が」
「次は無い、多分。……『あれ』が無関係な者を襲うはずがないんだ」
棚伝いに歩き出した大お爺様の後に続く。
「犯人を見たの!?もしかして大お爺様が知っている人?」
「……机の本と折詰を持って来てくれないか。デイシーもお腹が空いているだろう?僕も空腹過ぎて眩暈がする、まるで強盗に襲われて急性貧血を起こしたみたいだ」
「大お爺様、はぐらかさないで」
「おや。今気付いたけれど、いつもの語尾の間延び癖が出ていないね。動転してる?そりゃそうだ」血だらけの服を摘み、「悪かったね。すぐに着替えるよ。さて、さっきの所は業者に電話して綺麗にしてもらわないと」
「大お爺様!!」
前に立ち、両手を精一杯伸ばして行く手を阻む。
「本当の事を教えてくれないならここは通しません!本気なんですから!」
「――過去の亡霊さ」
お爺様の手が私の頭を力無く撫でる。今まで見た事の無い寂しげな笑み。
「……明日は休暇を取るよ。保存パックで輸血しても傷で体力が消耗している。一日休めば大丈夫だから。デイシー、皆には風邪で熱が出ているとでも言っておいて」
「何で……私、そんなに頼り無い?」
あらゆる事を教えてくれた偉大な賢者、両親も祖父母も曾祖父母もそれ以前の御先祖様達の誕生と葬送に参加し、同じ時間を過ごしてきた人。
「私にだって真実を知る義務があるんだよ。大切な大お爺様の事だもん……」
その時、お爺様の纏っていたオーラが消えて見えた。見た目通りの年齢の青年はふっ、と唇を綻ばせる。
「やっぱり、デイシーは僕に似ているよ。君には何でも教えたくなる」
そして不意に耳元で囁く。
「え……?」
お爺様は眉を顰め、「くれぐれも内緒にね」と忠告を付け加えた。
「ど、どうして、何で??」
事実同士が全然結び付かない。
「で、でも調べてみる。私なら記事の参考にするって言えば怪しまれずに色々聞いてこれるし」
「いいの?」
「信じたくないけど、大お爺様を、襲った理由知りたいから」
「僕もだ。何故今になってああなったのか。
いいかいデイシー?まずは君の友人達に最近変わった事が無かったかそれとなく当たるんだ。真実を得る極意は決して焦らない事。特にルザは勘が鋭いからね、妙な態度だと気取られる。……やっぱり友人を欺くのに抵抗があるかい?無理はしなくていいんだよ」
「欺いてないよ。大お爺様が黙っているのは今はまだ伝えても皆を混乱させるだけだからでしょ?言うべきならちゃんと言うんだよね?」
「なるべくならね。僕の方でも探りを入れてみるよ、当事者だし」嘆息し、「やっぱり、僕は間違ったのかもしれないな……」そう呟いた。
二人と食べるビュッフェディナーは最高に美味しかった。料理もさる事ながら姉妹とのお喋りが楽しくて楽しくて。
「クレオさん、人間と同じように食べて大丈夫なの?」
リサさんの質問に、イムおじさん特製バケットを口に入れようとしていた手が止まる。
「?この世界の機械人形は食べ物を摂らないのですか?」
「喋ったり物を食べたりできる人型機械なんてこの世界ではまだ無いの。ボタンで動く普通の機械はオイルと電気で動くけど、クレオさんは何の動力を使っているの?」
「えっと……食べ物を分解して作られる熱エネルギーと太陽光発電が主な動力源ですね。余ったエネルギーはバックアップ用の電池に保存されています。人間の脂肪と同じような物ですね。皆さんと違って僕の場合は中のメーターでしか確認できませんけど」
そう説明するとリサさんは唇を尖らせた。
「クレオさん、それは嫌味ですか?」
「えっ?僕、何か悪い事言いましたか?す、済みません」
「リサ。まだこの前のを気にしているのか?」
「だ、だって先生、少し頬がふっくらしてきたねって、女の子に対してデリカシーが無さ過ぎると思わない?」
「単に健康になりつつあると言う意味だと思うがな。とにかく八つ当たりは止めなさい。あとクレオ殿」
小さなグラスに入ったカクテルなる物を一口飲み、「女性と話す時はその、なるべくエネルギーの話題はしない方がいいぞ。特にこう、幾ら食べても体型は変わらないとか……ううむ、私も段々腹が立ってきた」
シルクさんは呟きながら括れた腰の辺りをにゅっ、と摘む。
「お姉ちゃんはちょっとぐらい贅肉付いててもいいよ。すぐ消費できるもん」
「むぅう……この肉さえ無ければもう一サイズ下が着られるのだが」
渋面。よっぽど悔しいようだ。僕としてはどんなドレスでもシルクさんが着てくれるなら百五十パーセント満足なのに。
「やはり夜勤で食事が不規則になるのが良くない。うむぅ、その点クレオ殿は何時食べても全く影響無しとは……むぅぅ」
僕への眼差しに頻度を増して影が現れているのは錯覚だろうか?
「なあリサ。私の身体にもどうにか電池を組み込めないか?」
「シルクさん突然何言い出すんですか!!?」
「だってなあクレオ殿。体型は女にとって死活問題だぞ。鏡を見る度絶望物なんだぞクレオ殿」
いやいやいや、非の打ち所なんてどこにも無いボン!キュッ!ボン!だ。逆にその発言が世の全ての女性に失礼ですシルクさん。
「そうよクレオさん!女の子は皆一度は脂肪吸引に憧れる生き物なの!太らないクレオさんには関係の無い話だけど!」
リサさんのどこに吸い取るだけの脂肪があるんだ……?シルクさんなんてどこに針を入れても筋肉しか吸引できないような気がする。
「生体に電池を入れるのは無理だけどお姉ちゃん知ってる?最近胃の中に余分な栄養を食べてくれる寄生虫を入れるダイエットがあるんだって」
「ああ、確か同僚が言っていたな。しかしあくまで噂だろう?」
「違うよ。総合病院で重度の肥満患者にやっているんだって。満月の夜、地下の保管室に忍び込んだ新聞記者が見たらしいの。お医者さんがピンセットでミミズみたいな虫を患者の口に入れてたんだって。気になった記者が翌朝患者さんを訪ねると!何と別人みたいに痩せてたんだって!」
「凄いな!」
「でしょ!?デイシーちゃんの連載コラムで今度載るんだって!」
「デイシーさんの……?」それなら信憑性はあるだろう。「屋敷でも新聞取ってますし、今度読ませてもらいます」
「そう言えばリサ。先月の夜間ウォーキングダイエットは不評だったらしいぞ。私も暇を見つけて一週間程挑戦したが逆に腹が減って夜食で太ってしまった」
「お姉ちゃんいつの間に!?私も起こしてくれたら行ったのに」
「ううむ……やり方がマズかったのか?コラム通りなら一晩で頬がこける程痩せるはずなのだが」
何だか嫌な予感がする。
「シルクさん。因みに訊きたいんですが」
「ん?何だ?」
「そのウォーキングダイエット、どうやるんです?」
「ああ、日付の変わる頃に共同墓地の入口からスタートして約一時間後に戻って来るよう中を一通り回ってくるだけだ、簡単だろう?」
「それだけで痩せるんですか?」
「いや。コラムでは墓の下から沢山の幽霊が出てだな、それに驚くと痩せるのだ。私の時は幽霊共は休みだったらしく全く出て来てくれなかった……そうか、それが原因か」
どこから、どう、どのぐらいまで突っ込めばいいのか。取り合えず明日デイシーさんに会ったらコラムの方向性を変えるようそれとなく進言しよう。二人を含むコラムの愛読者が病院で窃盗で集団逮捕されないために。
「話している内に随分食べてしまったな……ううむ……………っ!?」
突然、彼女はフォークを置いて立ち上がった。真っ直ぐ入口の方を見て、「二人はそのままいなさい。すぐ戻る」と言い残して席を立ち人混みに消えて行った。
「ど、どうしたんでしょうか?」
「……おじさんが帰ってきたみたい。お姉ちゃんのお父さん」
「シルクさんの?」
「あの慌て方は多分そうだと思う」
リサさんは首を横に振り、「私とお姉ちゃん全然似てないでしょ?本当の姉妹じゃないの」
「おじさん、連合政府でないどこかの国の騎士団に勤めてるんだって。仕事が忙しいらしくてお姉ちゃんに会いに来るのは月に一回ぐらい」
「じゃあシルクさんと似たような職種ですね。どんな方なんです?」
「女の子が好きで大酒呑みで………何だか得体が知れない人」
「?」
「家に来ても仕事の話しないし、それに……お姉ちゃんも父親と娘って感じじゃなくて、言葉にできないけど違和感がある感じ……」一度だけ見た寂しそうな顔を思い出す。「正直怖いの、あのおじさん……お姉ちゃんも、好きじゃないみたい」
「リサさん、こっそり見て来たら駄目でしょうか?」
「え……私も気にはなるけど、いいのかな……お姉ちゃんは待っててって言ってたし」
「なら僕が行って後でリサさんに教えるならどうです?怒られるのは僕だけって事で」
くすっ。「クレオさんって大胆だね」
「そうですか?」
「そうだよ。うん、お姉ちゃんに見つからないようにお願い」
エレミアでは三日に一度はディーさんが思い切った行動をしてハラハラしていたものだ。ボビーとあの人を助けに服のまま川に飛び込んでずぶ濡れになったりとか。それに比べたら自分から動くだけ全然マシだ。
正面玄関から屋敷を出、辺りを見回し背高のイブニングドレス姿を探す。
「クレオ、右手の林の中だ」
胸からのグリューネ様の囁き声に従ってそちらに近付く。
「……な、頼む」
樹々の間から赤い髪の男性がシルクさんに頭を下げているのが見えた。想像していたよりずっと若い、二十代後半ぐらいに見える。腰に下げた立派な金の剣には綺麗で複雑な紋様が刻まれていた。あんな物を帯刀していると言う事は多分騎士の中でも高い地位なのだろう。
「お前が手を貸してくれりゃ簡単に片付く。な?」
「……直接手を下すのは御免被る」普段とは全く違う厳しい声。
「分かっている。今回は別動隊がいるんだ、情報提供してさえくれれば後はこちらで全部やる」
「あの男、本物なのか」
「ああ、奴等にはうってつけだろ?」
シルクさんは沈鬱な表情を浮かべて「ああ、捨て駒にもな」と吐き捨てた。男性は「手厳しいな相変わらず」ケケケ、と昏い笑い声を上げた。
「子飼いは彼だけか?」
「言うようになったな。流石俺の娘。ああ、今の所はな。そうそう増やせる物でもねえし」
「……娘になった覚えはない」
これが久し振りに会う親子の会話……?シルクさん身体中から敵意を滲ませているし、普通じゃない。
「あの女の子はまだ生きてるのか?」
「お陰様で」
「へえ、しぶといな。医者の話だと生きられるのは精々数年のはずだろ?お前の面倒見がいいからか?」
「さあな」
話しているのはリサさんの事?幾ら血の繋がりが無いとは言え冷淡過ぎではないだろうか。
「約束は違えていないな?リサの両親は」
「ああ、お前の言いつけ通りにしている。……時々名前を呼ぶぐらいで後は大人しいものさ。何ならまた会いに行けばいい」
彼はフン、と鼻を鳴らし、好戦的な目をはっきりこちらに向けた。
「訊きたい事があるならこっちに来いよ、クレオ・ランバート。俺もお前と挨拶しておきたい」
その一言にシルクさんが驚愕した。
「クレオ殿……!いつからそこに」
「す、済みません、どうしても気になって」
叢を避けて二人の近くへ寄る。お父さんはニイ、と笑い、「素直な奴は好きだぜ、男は嫌いだが」と言う。
「どうした、びびってるのか?俺みたいないい男を前にすりゃ当然かもな」
おかしい。この人に見られていると脚が勝手に震えてくる……。
「シルクが世話になってるそうだな。父親として礼を言おう。これからも仲良くしてやってくれ」
「は、はい」反射的に応える。
「でだ。何でも訊けよ、ほら」
「じゃ、じゃあ……リサさんの御両親について教えて下さい。どうして親子が離れて暮らしているんですか?」
途端お父さんは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「はっ、そんな事か。おいシルク、説明してやりな。俺は時間だ、もう帰る」この人、自分の言いたい事だけ言って人の話を聞かないタイプだ、横暴過ぎる。
「なっ!?そんな無責任な」
「じゃあな」
彼は手を上げたまま林の奥へズンズン進んでいき、すぐに見えなくなってしまった。
沈黙。
「あ、あの……シルクさん、戻りませんか?」
まるでこの世の終わりにいるような顔の彼女にはどんな質問も尋ね辛い。
「リサさんを待たせたままです。今頃心配しているかも」
「……あの子の両親は獄中だ」
「ゴクチュウ?」
「父が法を犯した二人を監獄へ入れた。もう生きて会う事は無い。リサには死んだと伝えてある」
「そ、そんなに重い罪なんですか?でもせめて面会ぐらいさせてあげても」
「禁止されている。それに……終身刑の二人に会った所であの子が悲しむだけだ」
沈鬱な表情。拳がブルブル戦慄いていた。
「いや、あれは極刑よりも……いや、何でもない。他に訊きたい事はあるか?」
非常に躊躇われるが、もう一つだけはっきりさせておきたい。
「御両親は何の罪を?」
二人が犯罪を行った時、リサさんはまだ幼かったはずだ。心臓に持病のある彼女を置いてまでやっていた罪とは。
「ある種の反逆罪……とだけ言っておこう。父はそう言った者達を捕えるのが仕事だ。連合政府とは別の組織でな」
「じゃあ、さっき手を貸すとか言っていたのも反逆者を捕まえるために?」
「………そうだ。シャバムでの情報提供を頼まれた」
話す度にシルクさんの顔から生気が無くなっていっているように見えた。
ドンッ!
「シルクさん!?」
突然樹の幹を拳で叩いた彼女は今にも泣き出しそうだ。上からはらはらと葉っぱが落ちてくる。指からじわじわ滲み出す朱の液体。そして、
「っ!!?」
逞しい両腕に包まれて、ドレスと服越しに彼女の体温が伝わる。
「クレオ………ああ……」
柔らかな胸の下に鍛えられた胸板を感じる。触れている僕の作り物の頬の皮膚にポツッ、と流れた温かい物。
「シルクさん」そっと脇の下に腕を入れて括れを掴む。香水の良い匂い。
「僕がいます、ずっと……傍にいますから、どうか泣かないで下さい」
悲嘆の原因は分からない。でも、目の前で気丈な彼女が涙を零していて、何かしなければと強く、ヒューズが焼き切れそうになるぐらい思った。
「私は卑怯だ……クレオ、お前はいずれ後悔するだろう。私と出会った事を……」
「シルクさん……?」
「何故こうなってしまったのだろう……私はただ、愛する者と共にいたいだけなのに」
エンジンが火を噴いた、ような気がした。全身が熱くドクドクと言っている。
それは、好きって事ですか……?僕と同じように。
「このまま時が止まってしまえば良いのに、そうすれば………っ!!?誰だ!!」
林の奥から放たれる、身体に感じられる程の冷たく暗い視線。悪魔以上の負の感情を持つ何者かが、僕等を見ている――。
「シルクさんは離れて下さい!」彼女の前に立ち、レイピアを何時でも抜けるよう構える。「誰です!出て来て下さい!!」
僕は生涯忘れないだろう。
闇の中から覗く真紅の両眼。ぞっ、と背筋が凍りつき、瞬間意識が飛びかけた。
目視したのはほんの三秒ぐらいだけど、体感的には数時間に思えた。
「い、なくなったみたいです……」
そう声を発した瞬間、大量の冷や汗が背中から吹き出し、歯がガチガチ鳴り出した。目の前が朦朧として、気が付いた時にはシルクさんに介抱されていた。
恐怖、だ。あの虚ろな目の奥には死、消滅がぽっかりと口を開けていた。僕の魂は恐れ慄き、惚れた女性の前でこんな有様を晒してしまっている。
「見ましたか……?」
「いや、赤く光る目しか見えなかった」
「僕もです」
僕の手を握ろうとしたシルクさんの手も細かく震えていた。彼女の心にも死が侵入したんだ。
「大丈夫です」大きな手を自ら掴む。
「クレオ殿……済まない。恐怖などとっくに無くしていたと思っていたのにな……情けない」
気丈に振る舞う事で崩れそうな自分と僕を支えようとする気概が見えた。
「あれが何であれ……危険な事だけは間違い無い。警備の者に付近を捜索するよう伝えないと」
「はい。え!?」
彼女は易々と僕を抱えて立ち上がる。
「ふむ、てっきり機械人形だから成人男性に比べて重いと思ったが、随分軽い」
「ぼ、僕歩けます!」
しかしシルクさんは「いや機械の調子は悪そうだぞ」と返した。
「えんじん、と言うのか、さっきから宛ら早鐘のように鳴っている。部屋で安静にして、治らぬようならリサに診てもらわないと」
今バクバクしているのはあの目のせいでは多分ない。腕を動かそうとしてうっかり手前の丸みを人指し指で突いてしまう。
「!?ご、ごめんなさい!」
「?どうした?」鈍いのか全く気付いていない。改めて指摘するのも躊躇われ、そのまま為すがままに林の中を運ばれていく。
屋敷の入口が見えた所でシルクさんは足を止め、「リサ!」と呼び掛けた。ドアホンの前に立つ彼女は寒いのか開いた背中を丸め気味。
「何をしている?そんな所にいると身体が冷えるぞ。心臓にも負担を掛けてしまうだろう?」
「お姉ちゃんとクレオさんがずっと戻って来ないから探しに行こうとしてたの。そ、それよりどうしたの!?」
玄関の二段を駆け降り、僕の傍に来て顔を覗き込む。
「クレオさん!どこか故障したの!?」
「い、いえ……ちょっと吃驚したショックでオーバーヒートを起こしかけて。もう少しすれば正常になります」
「何でお姉ちゃん抱えてるの!?」
「歩けないようだったのでな、運んで来た」
彼女は防衛団の鋭い目で周りを見回し、「二人は先に中に戻っていろ。警備の者に説明してくる」
「シルクさん僕も一緒に」
「駄目だ。リサ、クレオ殿を部屋まで送りなさい。後で迎えに行く」
「お姉ちゃん、何かあったの?」
「林の中で不審者を見かけただけだ、大した事はない。頼むぞ」
「……うん、分かった」
僕を降ろし、黒ドレスをはためかせて彼女は夜の闇へと消えていった。