五章 夜宴
一週間、僕達は寸暇を惜しんで書類を処理した。そして、約束の日の午後四時三十分。
ペタン。
「百……三十四枚目……やった、とうとう」
判を押した誠さんの手が今にも力尽きそうだ。
「お父様、やりましたね!私達勝ったんです」
「あ、ああ……」貧血と疲労のためか声が虚ろだ。
「安心するのはまだ早いんじゃないかい?」
僕等の達成感を打ち砕くかの如く、エルさんが例の鞄を手に執務室へ入ってくる。
「僕ちょっと勘違いしてたみたいでね。ほら、この鞄。ここに小さなポケットが開いているだろう?」
「ま、まさか!」
慌ててそこに手を入れて中の物を出す。紛れも無い一枚の書類。
「二百六十“九”枚の半分は百三十四・五枚。まだ約束には〇・五枚足りていないね」
「屁理屈だわ!!あなた最初に二百六十八枚って言ってたじゃない!インチキにも程があるわ!!」
「そうですよ!何々ですか・五って。それって数に入るんですか!?」
「入るとも。君らが抗議した所で規定数不足なのは誰が見ても明らかさ。さあ、まだ三十分あるけどどうする?降参するかい?」
「でも大お爺様~、たった三十分でできる仕事なんてもうありませんよ~」
最初の夜、全員で短時間で終わりそうな書類を掻き集めたんだ。後残っているのは時間が掛かったり人手の必要な物ばかりのはずだ。
「クレオ君」
誠さんは僕を真っ直ぐ見て、「その書類をしましょう」
「え、でももし難しい仕事だったら」
「大丈夫です。全員で取り掛かればきっと。開けて読み上げて下さい」
僕は一度大きく深呼吸した。
(この世界の神様、どうか僕等の努力を無駄にしないで下さい!!)
バッ、と紙を広げる。
「…………え?」
「どうしました?」
これはどういう事だ?
「せ、聖王代理、小晶 誠は以下の者を連れて不死の屋敷へ赴く事。クレオ・ランバート、アレク・ミズリー、デイシー・ミラー、ルザ・デュシス、カーシュ・ニー。なお一人でも欠けてはならない」
顔を上げる。皆どう反応していいか分からないと言った表情をしている。
「何よそれ」ルザさんが口を開く。「巫山戯ているわ。本当に正規の書類なの?」
カーシュが僕の横から覗き込む。「そうみたいだぜ。サインは入ってる……けどこれ、エルさんのサインですよね?」
「僕のだったら不満かい?」
「真偽はともかく、それなら三十分でできそうだな。とにかく行こうぜ、時間が無い」アレクが一番にドアを開けて廊下に出る。
「そうです皆、取り合えずお屋敷に行ってみましょう~」
僕等は急いで政府館を出た。大勢で道を走っているので流石に擦れ違う人達が驚いていた。程無く屋敷に到着し、誠さんがチャイムを押す。
「誰か、いませんか!?」
何度かドアを叩くが中からの反応は無い。
「ヘレナさん!オリオール!……おかしいな、この時間なら誰かいるはずなのに」
ノブに手を掛けるとあっさり回った。
「留守なのに鍵が開いてる……?」
「あと二十分」
「皆さん、入りましょう」
エルさんの言葉に急かされて屋敷の中へ足を踏み入れる。玄関ホールには誰の姿も無い。
「不用心極まりないわね」
僕は食堂のドアへ寄り、「留守中に泥棒が入ったのかもしれません。一階から皆で調べていきませんか?」と提案した。
「そうですね。扉は私が開けましょう。危険かもしれませんから」
誠さんが僕の横に来て、ノブに手を掛ける。
「クレオ君は少し下がっていて下さい」
「はい」
言われた通り一メートル程離れる。
「御苦労様」
「どういたしまして」誠さんに聞かれないように囁き返す。
キィィィ………。
一歩踏み込むと、割れんばかりの拍手が起こった。
「え……??」
朝まで無かった幾つかの丸いテーブルには長机と共に絢爛豪華な料理が乗せられている。天井から何本も煌びやかな布がディスプレイされていた。
屋敷の人達は勿論の事、政府館の職員や不死の人達、それに何と!驚くべき事にシルクさんとリサさんもいた。皆夜行着らしい礼服を着て着飾っている。
「LWP調査部発足おめでとうございます誠さん!」
「クレオ君?」
すかさず僕の横からレティさんが花束を持って現れる。
「聖者様、これ皆の気持ちです!」
「あ……ええ、綺麗なお花をありがとう、レティさん」
相手を蕩けさせる様な微笑みを浮かべて両手で受け取る。束の間ぽぅっ、としていたレティさんは慌てて皆の中に隠れてしまった。
「皆さん、我が調査部のためにこんな盛大なパーティーを開いて頂き本当にありがとうございます。あの、何と言っていいのか正直分からないのですが、これから精一杯頑張ります」
「恐らく今日は後世歴史に残る日になるだろう。無礼講だ、皆でこの良き門出を祝おうじゃないか」
一際の歓声と共に僕等は散り散りに引っ張られる。僕の場合はヘレナさんとレティさんだった。
「はい、クレオ。シャンパン注いでおいたよ」
「ありがとう」
ヘレナさんからグラスを受け取って二口で飲み干す。甘くてちょっと咽喉の奥が熱くなった。
「どうクレオ?私も飾り付け手伝ったんだよ」得意気にレティさんが言っていると、後ろから人の間を縫ってオリオール君、それに同い年ぐらいの男の子女の子が団子になって現れた。
「あ、皆」
「レティちゃん、今日はお祭りだから私達も夜更かししていいんだって!」
「ほんと!?」
「ほんとほんと!ねえオリオール君?」
サファイア色の髪をポリポリ掻き、「うん。でも大人から門限は十二時までって言われてるからね。まだ明るいし、取り合えずそこの料理を食べてから街に出ようよ」
「うん!じゃあまたねクレオ!」
子供達がわらわらとビュッフェの揃ったテーブルに群がっていく様が何だか可愛い。
「あ!あれは」
皿に料理を乗せる子供達の横にいた見覚えのある後姿。彼が止まった先にはアレクとカーシュが料理を片手に立っていた。
「お久し振りですシルミオさん」追い掛けて挨拶する。
「お、クレオ。少し逞しくなったんじゃないか?上手くやってるか?」
ビールをグビッ、と一口。既に飲んでいるのか顔が真っ赤だ。
「はい。どうしてシルミオさんがシャバムへ?」
「どうもエルさんが密かに呼んだらしいぜ。着いたのは昨日の夜だそうだ」
「はは、息子が出世してくれて嬉しいぞ。アレク、母さんには俺からちゃんと今朝報告しておいたからな」
「んな事知らせなくていいって。それよりそれ何杯目だよ、脚がフラフラだぞ呑んだくれ。そっちの椅子に座ってろよ」
「ああ、よっと」
テーブルに据えられた椅子に腰をどっかりと下ろす。
「にしても孝行息子だなぁ。母さんの墓にあんな立派な百合」
「……親父。俺が供えたの蒲公英だぞ」
「え?」
「間違えたな」
「え、いやその……マジで?」
僕とカーシュは口に手をして笑いを噛み殺す。
「あ、こらそこの若人共笑うな!誰だってそれぐらいの間違いあるだろうが」
「名前ぐらい確認してから墓参りしろよ……しゃーねー、明日帰る前に一緒に行くか。カーシュもどうだ、親父さんの墓参り。確か同じ区域だったよな?」
「そうだな、偶には行くか」
お墓……エレミアも郊外に墓地があった。死んだ人を埋める所は見た事ないけど、地面から木の十字架が沢山生えてて少し怖かったのを覚えている。
「いやぁ、しかし流石都会は酒が違う。どれを飲んでも美味い、なあカーシュ」
「そうっすねおじさん。あ、折角なら不死族伝来のナイト・ブラウンも飲んでいきます?キリリと辛くてお勧めですよ」
「ほー、頂くとしよう。ところでカーシュ。少し見ない間に大きくなったなぁ、すっかりイケる口か?」
「俺よりよっぽど。おい、あんまり飲ますなよ。宿まで連れて行くのが大変だぞ」
「そうだな、下手にここで酔い潰れられると命の危険がある。おじさん、ここで飲むのは程々にしといて下さい。不死の連中に魂持ってかれるまで飲まされますから。あ、何なら今日は俺の家で飲み明かしましょう。アレクも来るか?」
「げぇ。飲兵衛二人とか?いーけど飯食ってからにしようぜ。……あ、おいクレオ」
アレクが奥の方を指差す。「あそこ、早く行って来いよ。誰にでも声を掛けれるのは主賓の特権だぞ」
何があるのか確認しないまま背中をドンッ、と押された。そちらによろけながら進んで、ドスッ!
「わっ!」
黒いドレスの開いた背中部分に思わずしがみ付く。
「ん?クレオ殿?」
顔を上げて仰天した。
「ご、ごめんなさい!!僕シルクさんに迷惑掛けたかった訳じゃなくて、アレクが」
慌てて手を離して後ろを振り返るがどこにもいない。悪戯するだけして逃げたようだ。
「アレク殿?」
彼女は高い身長を生かして周りを見渡し、「席を外しているようだが」と教えてくれた。
「ああ、挨拶が遅れた。政府防衛団の一員として、クレオ・ランバート殿。調査部就任心からお喜び申し上げる。ほら、リサも一言」
「お、おめでとうございます、クレオさん」
シルクさんと揃いのドレスを着た彼女は耳を真っ赤にしながら言ってくれた。快活な笑いを上げるシルクさん。
「二人共ありがとうございます。ドレス、とっても良く似合ってますよ」
「そ、そうかな……私は後ろが開いているから別のにしたかったんだけど、クレオさんがそう言ってくれるなら」
小さな蝶の金のネックレスが首の下で光る。
「僕も何かお洒落してくれば良かったですね。こんな美人二人に囲まれてしまうと迫力負けしてしまいます」
はは、また笑われた。
「世辞を言っても何も出せぬぞ。それにそのままでも充分内面から輝いているではないか。なあリサ?」
「うん。クレオさんはいつも素敵。でも美人は少し言い過ぎかも」
ふふ、唇を綻ばせてリサさんも笑う。花が咲くような可愛らしい笑顔だ。
「また仲間ができる日が来るなんて……思わなかった」
セピア色になりかけた写真、私が一番幸せだった頃が写った宝物。
「…………厭なのに」
皆死んでしまった。――あの人がいない私を置いて、いなくなった。
もう何も持ちたくなかった。全部勝手に指の間から零れ落ちていってしまうから。
ルザ、あの子は私に似ていた。大事な人達を失った絶望に引き付けられて、せめて彼女が死ぬまで生きていられる私が傍にいようと思った。更なる悲しみに打ちひしがれる事が分かり切っていても心を閉ざした彼女を、いや自分を放っておけなかった。凄く身勝手な理由、あの子が投影されている事に気付いたらきっと激しく詰るだろう。
クレオ、アレク、ルザにデイシー、それにカーシュ……皆前途ある若者だ。だから余計に辛くなる。
「厭だな……この時期は、本当に」
あの時と同じ季節の空気を吸うと、一人が堪らなく怖くて恐ろしくて―――死ねないのに死にたくなる。
「い……たいよ……苦、しいよ……」
写真を手放し、胸を押さえてベッドの横に蹲る。
「どうして………皆どこかへ行っちゃうの……?私も連れて行って欲しかったのに……」
何千回と流した悲しみで私はとっくの昔に溺れてしまっている。
「ねえ……私もう二百年も待ったんだよ……?毎日あなたの代わりにここを守って……もう充分でしょ……?」
カーペットに落ちた写真のあの人はずっと笑ったまま。
「限界だよ……!!待ち過ぎて待ち過ぎて、私は………」
何度気が触れて欲しいと願ったことだろう。日が昇る度、夜を迎える度、戻って来てくれなかったと絶望して、儚い希望を持ち続けた二百年間。私の精神は、とっくに壊れてしまっていた。
「う……あぁ……」
まただ。感情が黒く塗り潰されていく感覚と、消える身体感。
そして意識の消失。