9話
首無しの鎧は、青い光が腕の形を再形成するのを待たずに走り出した。
魔獣の子に乗って逃げる赤ん坊の元へ。
ミミックはそれを阻止しようと身体を伸ばすが、ひらりと躱される。
追いかけようにも、ミミックでは追いつくことはできない。
瞬く間に、鎧とミミックの距離は大きく離れてしまった。
魔獣の子は必死に走る。
赤ん坊を落とさないように、四本の足で苔を蹴る。
しかしその短い脚では逃げ切ることはできない。
鎧は前傾のまま加速していく。
肩口から溢れる青い光が尾を引き、まるで彗星のように距離を詰める。
あと数歩。
それだけで赤ん坊に手が届く。
鎧は右肩から溢れる光を強めた。
肘の関節が形を取り、続いて手首、手のひら、指先へと輪郭が結ばれていく。
半透明の青い右腕が、ついに完全な形を成した。
あと一歩。
赤ん坊と魔獣の子の影に、鎧の影が重なる。
その瞬間――
前方から、さらに巨大な影が落ちた。
鎧の影すら飲み込む、圧倒的な質量。
次の刹那、衝撃。
空気が弾け、鎧の身体が宙を舞った。
そのまま広場の縁へと叩きつけられ、石壁に激突する。
轟音。
壁面がひび割れ、破片が崩れ落ちる。
「ブモオオオオオォォォ!!!!」
大きな咆哮が広場を揺らす。
魔獣の子と赤ん坊の前に立つその巨体。
この広場の主――母のお出ましだ。
その広い背には厚い苔を纏い、大地そのものが佇んでいるよう。
湾曲した角は低く構えられ、その瞳はただ一心に鎧を射抜いていた。
壁にめり込んだ鎧へと、母魔獣は踏み込む。
巨体に似合わぬ速度。
地を蹴った瞬間、苔が抉れ、湿った土が飛び散る。
突進。
鎧は急いで体勢を立て直し、身体を横へ投げ出した。
ズドンッ!!
魔獣の角が、先ほどまで鎧のいた壁を粉砕し、轟音と共に破片が四方に飛び散った。
鎧は転がりながらも、滑るようにして立ち上がる。
そして、右腕と同様に左肩から溢れる光を強め、形を作る。
魔獣はすでに鎧をにらみつけ、踏み込む準備ができている。
鎧は呼吸を持たないが、代わりに、早くなった光の明滅を整えるように肩をゆっくりと上下させた。
素早く光を整えると、少し湿った地面にどっしりと体重を置き、低く体勢を落とす。
剣を振る構えではない。
両足を開き、重心を沈め、半身をずらす。
左手、左足を軽く前に、右手、右足は後ろに。
掌は握らず、自然体に見える。
魔獣が唸り、前脚に力を込める。
次の瞬間、巨体が弾けた。
苔が抉れ、湿った土が跳ね上がる。
角を低く構えたまま、一直線に踏み込む。
速い。
その質量からは想像できない速度。
鎧は動かない。
引きつける。
さらに、引きつける。
角が目前に迫る。
その瞬間――
魔獣の突進は鎧の方向から直角にずれ、壁に激突した。
相手の力を利用する武術。
遥か昔に、多くの冒険者が残していった、遺産といったところか。
石壁が砕け、苔と粉塵が宙に舞う。
角は深くめり込み、巨体が一瞬、止まった。
触れたのは、ほんの刹那。
力は競わない。
受け止めず、
押し返さず、
ただ流す。
母魔獣は頭をふるい、再び突進した。
巨体はまた逸れる。
地面を抉り、壁を削り、
湿った広場を震わせる。
三度目。
四度目。
突進は、すべて空を切る。
荒い呼吸が重なる。
それでも母は止まらない。
背後の小さな影を守るため、
脚が震えても、踏み込み続ける。
だが、それも長くは続かない。
やがて、その一歩が鈍る。
踏み込みが浅い。
角の軌道が、わずかに甘い。
青い光が、静かに強まる。
鎧は、今度は引かない。
迫る角を、
半身で外しながら、
深く踏み込む。
左掌が首元を払う。
同時に、
右の拳が――
母魔獣の胸の中心へ、
寸分違わず突き込まれた。
衝撃は、爆ぜない。
内へ、沈む。
巨体が、止まる。
一拍遅れて、
足元から力が抜けた。
母魔獣は膝を折り、
湿った地面に崩れ落ちる。
その目に映ったのは、背を向けて歩いていく鎧の姿。
その先には怯えている、”二匹の我が子”。
鎧の手が赤ん坊たちに伸ばされた瞬間――
「ブモオオオオオォォォォ!!!!!」
咆哮が広場を裂いた。
倒れ伏していた母が、砕けた石を蹴散らし、立ち上がる。
鎧は驚いたように振り返り、即座に構えをとる。
また同じことの繰り返し。
さっきと同じ突進。
さっきと同じ結末。
鎧はそう思っていた。
魔獣が鎧の間合いに入る寸前。魔獣はぐっと、突進の方向を下に切り替えた。
地面に角が深く、深く突き刺さる。
湿った土を噛み、
苔ごと抉り上げる。
鎧の足元が、
崩れた。
踏みしめていた地面が、
爆ぜるように隆起する。
次の瞬間、
地面ごと、鎧は空へ投げ出された。
遅れた。
逃げようにも踏み込む足場がない。
体勢を整える間もなく、
落下する。
その軌道を、母は見逃さない。
踏み込み、
角で鎧の胴を弾き飛ばす。
鈍い衝撃。
鎧の身体は再び壁へ叩きつけられ、
再び石に深くめり込む。
今度は、構える暇を与えない。
母は一拍も置かず、
地を蹴った。
砕けた床を踏み砕き、
一直線に、突進する。
壁にめり込んだ鎧に踏み込む足場などない。
それでも、拳を突き出して抵抗するが、
この母に単純な力勝負で敵うはずもなく。
青い光が散り、
石壁がさらに砕ける。
そして――
ダンジョン全体を揺らすほどの衝撃と共に、
鎧の身体は壁を突き破り、背後の石室へと叩き込まれた。
鎧は転がり、
砕けた石の山に埋もれる。
崩落の音が、ゆっくりと収まる。
広場では、母魔獣が荒い息を吐いていた。
すぐに振り返る。
子らは無事か。
怯えながらも、
二匹は身を寄せ合っている。
無事だ。
母は一歩、近づく。
鼻先を寄せ、
土と血と石粉の匂いの中に、
我が子の匂いを確かめた。
魔獣の子は母の周りをすりすりと歩き回り、赤ん坊は胞子の影響で足元に抱きつきながら寝てしまっている。
母魔獣は赤ん坊を口にくわえ、いつもの場所へ帰りだす。
その背後で影がうごめく。
崩れた壁の向こう。
首のない鎧が、
ゆらりと立ち上がる。
運よく空間がぶち抜かれたおかげで、
圧し潰されずに済んでいた。
石室の床。
転がる一本の剣。
刃は欠け、
錆に侵され、
とうに役目を終えたなまくら。
だが。
鎧の手に握られれば、
それで十分だった。
ぎり、と鉄が鳴る。
青い光が、
刃へと流れ込む。
鎧は一歩、踏み出す。
無防備な背中。そこに向かって。
しかし、もう片方の足が出ない。
なにかあたたかいものにつかまれている。
振り返るとそこには大きな宝箱。ミミックが追い付いた。
箱の中から伸びる舌のような身体が鎧の足を引きずり込もうとしている。
鎧は足を掴むそれに剣をふるった。
そしてひびの入った殻の中心へ――
赤ん坊が大きな音を聞いて目を覚ました。
少し離れた場所に、蓋が割れ、黒い体液を流しているミミックがいる。




