8話
苔の上を、小さな影がふたつ、追いかけ合っていた。
数日前に赤ん坊はハイハイを始めた。魔獣の子と遊び始めたのがきっかけだろう。
最初はトコトコとしていてかわいらしかったが、今では爆速ハイハイで追いかけっこをしている。
ぱたぱたぱたっ、と湿った苔を叩く音。
前を走る魔獣の子が、わざと少し速度を落とす。
振り返り、鼻を鳴らす。
「あぅ!」
赤ん坊が速度を上げた拍子に、少し躓いてしまったが、すぐに何事もなかったかのように体勢を立て直し、再び前へと突き進む。
転んだことよりも、追いつけないことのほうが悔しいらしい。
両手が苔を強く叩き、膝が滑る。
それでも止まらない。
魔獣の子が弾むように横へ跳ぶ。
赤ん坊も方向を変える。
少し大回りになるが、諦めない。
「あぅあぅ!」
声を上げながら、一直線に迫る。
広場の入口付近まで来たところで、魔獣の子がぴたりと止まった。
鼻をひくりと鳴らし、耳を立てる。
赤ん坊も、つられて動きを止める。
湿った空気の向こう。
薄闇の奥から、硬い何かが擦れる音がした。
カシャン…カシャン…
金属のこすれる音。
鎧を着た人間の足音に似ているが、その音は妙に軽い。
苔の外から一定の間隔でその音は近づいてくる。
やがて、薄闇の縁に、鈍い光を返す影が浮かび上がる。
錆を帯びた鎧。
人の形。
しかし、肩より上が存在しない。
首の無い鎧の魔物。
首の断面は黒く空洞で、そこに脈を打つようにぼんやりと青い光が時折滲む。
首無しの鎧。深層屈指の力を持つ魔物だ。
このダンジョンが今ほど静かではなかった時代、数多くの上級冒険者を屠り、その屍の上で己の剣技を磨き続けてきた。
ミミックが宝を求めるように、この鎧は力を求める。
カシャン。
湿った広場に踏み込むと、鎧の魔物は立ち止まり、空洞の奥の光を明滅させながら、ゆっくりと胴を巡らせて気配を探る。
その異様な圧に、少し離れた場所にいたミミックが身体を引きずって向かって来る。
その瞬間、鎧は剣を抜いて構えた。
隙の無い洗練された佇まい。
剣先はミミックではなく、赤ん坊に向いている。
カシャン、と一歩踏み込むと同時に、鎧の魔物の剣が、ためらいなく振り下ろされた。
鈍い光を引き、空気を裂く軌跡が、真っ直ぐに赤ん坊へ落ちる。
その一瞬、時間が凍りついたように静まり返る。
だが次の瞬間、柔らかな影が地を這った。
ずるり、と伸びたミミックの身体が赤ん坊の腰を絡め取り、苔ごと強引に引き寄せる。
剣先は空を裂き、湿った地面を深く抉った。
「あぅっ!」
短い声が揺れ、赤ん坊の視界がぐるりと回る。
抱き込まれるように、柔らかな闇の内側へと回収された。
カシャッ…
鎧は再び剣を構え、踏み込む。
次は迷いのない連撃が振り下ろされる。
縦、横、斜めと重なる刃の軌跡が、湿った空気を震わせながらミミックの外殻へ叩きつけられた。
硬質な音が連続し、火花が苔の上に散る。
本来、ミミックの殻は容易には裂けない。
石壁に擬態するほどの強度を持つそれは、並の刃なら弾き返す。
だからこそ、今まで数多くの宝を守ってくることができた。
事実、最初の数撃は浅い白痕を残すだけで止まった。
だが鎧は止まらない。
同じ箇所を、正確に、執拗に打ち続ける。
金属と殻がぶつかるたび、鈍い衝撃が内部まで響いた。
ぴしり、と細い線が走る。
なぞってようやくわかるほどのわずかな亀裂。
それでも確かに、表面が削れ始めていた。
ミミックは赤ん坊を奥へと押し込む。
内側を厚くし、衝撃を分散させる。
それでも剣は、同じ一点を狙い続ける。
亀裂は徐々に広がっていく。
カン、と甲高い音が弾ける。
今度は明確に、欠片がひとつ剥がれ落ちた。
連撃が止む。
鎧の内側で、青い光が強く脈打つ。
やがて、ゆっくりと剣が振り上げられた。
無駄のない構え。
次は、決定打。
大振りの一撃。
ゴンッ!
振り下ろされる、その刹那。
苔を蹴って、小さな影が飛び出した。
魔獣の子が、ためらいなく一直線に跳ぶ。
低く構えた頭が、鎧の脛へ叩きつけられる。
鈍い衝突音。
金属と骨がぶつかり合う、重く乾いた響き。
衝撃で苔が舞い、湿った土が弾けた。
だが――鎧は、揺るがない。
踏み込んだ足も、構えた上体も、寸分も狂わない。
しかし、剣を振る手が止まった。
その一瞬。
ミミックは大きく殻を開いた。
次の瞬間、しなるように伸びた身体が鎧の腕へ絡みつく。
肘から先を柔らかい質感が一気に包み込み、刃ごと強引に引き寄せた。
ぎり、と金属が軋む。
鎧は踏みとどまろうとするが、足場は湿った苔。
重心がわずかに崩れる。
その隙を逃さず、ミミックはさらに奥へと引きずり込む。
鎧は咄嗟に剣を握る力を緩め、反対の手に持ち変える。
そしてミミックの中に深く突き立てた。
……貫いたのは黒いローブ。
そこに赤ん坊の姿は見えない。
空洞の奥で、光がわずかに揺らぐ。
湿った広場の端で小さな影が走っていた。
魔獣の子の背にしがみつき、赤ん坊は揺られながら遠ざかっていく。
ミミックは、鎧の腕を絡めとったと同時に魔獣の子に赤ん坊を託していた。
魔獣の子がそれを受け取り、迷いなく奥へと駆け出したのだ。
気配が離れていく。
鎧はそれを追おうと、一歩踏み出す。
だが、その足が完全に動くよりも早く――
ガン、と蓋が閉じた。
剣ごと、両腕を挟み込む。
硬質な縁が噛み合い、金属を締め上げる。
ぎちり、と鈍い音が鳴った。
鎧は引き抜こうとする。
だが殻は開かない。
内側から剣で致命傷を与えようとするが、ミミックは避けるでもなく、その身体で腕全体を圧迫してその隙を与えなかった。
ぎち、ぎち、と圧が増していく。
蓋の縁がわずかに食い込み、形が歪む。
歪む、歪む。
先ほどまで、驚くほど硬かった腕の鎧がみるみる歪んでいく。
そこで、ミミックは気づいた。鎧の隙間からあふれる光が弱くなっている。
力尽きたのか、引き抜こうとする力も弱くなっている。
そしてついに、鎧の中の光がふっと消える。
ガコンッ。
腕の鎧が潰れ、胴体から外れた。
光を失った身体は、糸の切れた操り人形のように地面に倒れる。
ミミックの中には、剣と両腕がずしりと残っていた。
――その直後。
倒れ伏した鎧の胴に、ぼう、と光が灯る。
それは再び、心臓のように脈打ち始めた。
どくん。
強く、ひときわ強く。
途端に、鎧全体へ光が奔る。
先ほどよりも濃く、鋭く、満ちるように。
がしゃり。
ゆらりと起き上がる。失ったはずの両手の位置には、すでに淡い光が集まり始めている。
空洞の奥で、半透明の霊体が静かに揺らめいていた。
あえて、自分の存在を弱めて腕を外させた。
長年にわたって、このダンジョンで培った戦闘の経験やセンスがあってこその判断だった。




