5話
ミミックは、赤ん坊の泣き声が外に漏れださないように殻を固く閉ざしていた。
次第に泣き声は小さくなっていき、やがて泣き疲れて眠りに落ちる。
静寂が戻ったのを確かめてから、ミミックはゆっくりと動き出した。
しかし、以前のようには進めない。
ぺたり。
ぺたり。
短くなった身体を、少しずつ前へ出しては大きな殻を引っ張る。
ちぎれてしまったせいで、厚みも力も足りない。
まるで湿った布を引きずるような、鈍い動きだった。
ミミックは考えていた。
なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。
なぜこの赤ん坊を守るのか。
今までの長いミミック生において、たくさんの宝を守ってきた。
金貨。
宝石。
武具。
魔道具。
数えきれないほどの価値あるものを抱え、守り、奪わせなかった。
それがミミックという存在だった。
それらを守る理由は、いつも単純だった。
”宝”だったからだ。宝箱である以上、守る。
それが本能だった。
それ以上のことはミミックにはわからない。
奪おうとするもの、壊そうとするものを食い止め、防いできた。
ミミックは”宝”を守ってきた。
果たして、この赤ん坊を宝と呼べるのか。
宝は静かなものだ。
宝は何も求めない。
宝は満たしてくれる。
だが、この赤ん坊は違う。
空腹になれば泣く。
寒ければ泣く。
抱いてやらなければ泣く。
何もなくても泣く。
こちらの苦労も知らずに、わがままに泣き続ける。
静かとは程遠い。
常に何かを求めている。
こちらが満たしてやらないといけない。
守る意味はどこにある。
守らなければならない理由は、どこにもないはずだ。
ただ負担だけが積み重なり、消耗だけが残っていく。
守る理由がないのなら――
手放してしまえばいい。
そうすれば、すべて終わる。
危険を引き寄せることもない。
削れた体を引きずる必要もない。
空腹を満たしてやるために動き回る必要もない。
静かな宝箱に戻れる。
何も変わらない、いつもの自分に。
赤ん坊はまだ寝息を立てている。
今なら――できる。
ゆっくりと、殻をわずかに開いた。
隙間から外気が流れ込み、内側の温もりが揺れる。
ほんの少し、体を傾ける。
身体が短くて、もう抱えることはできないが、この丸っこい体だ。
少し押し上げればすぐに転がっていくだろう。
それだけのこと。
それだけで、すべて終わる。
ミミックはさらに体を傾けた。
殻の内側で、重みが移動する。
柔らかなものが、わずかに滑る感触。
「……んぅ」
そのとき。
赤ん坊が、ミミックの内側を小さな手でつかんだ。
最後まで、わがままな奴だ。
ミミックはそう思った。
弱い。簡単に外せる指だ。
ほんの少し力を込めれば離れる。
揺らせばほどける。
払いのけることなど、いくらでもできる。
――それなのに。
ミミックは、頭の中で理由を探していた。
払いのけられない理由を。
金貨や宝石なら、こんなふうに手間取ることはない。
しばらく沈黙が続いた後、ミミックはやがて蓋を閉じて、再び進み始めた。
思い浮かんだいくつものテキトーな理由――
そのどれが自分を止めたのか、もう分からない。
だが、不思議とそこに後悔はなかった。
ぺたり。
ぺたり。
進んでは止まり、
止まっては、また進む。
時間の感覚は曖昧だった。
どれだけ動いたのかも分からない。
ただ、空気が少しずつ湿り気を帯びてくる。
岩の匂いに混じる、やわらかな青の気配。
苔の匂いだ。
ぺたり。
ぺたり。
やがて地面の感触が変わる。
硬い石ではない。
わずかに沈み、ひんやりとした柔らかさ。
見慣れた緑が、ゆっくりと広がる。
静かだ。
何も動かない。
いつもと同じ、湿った静寂がそこにある。
中央では広場の主が子どもにミルクを与えている。
ミミックは、その光景をぼんやりと見ていた。
視界の端が、少しずつ暗くなる。
焦点が合わない。
身体を動かそうとしても、力が入らない。
ちぎれた部分の感覚が遠い。
重さも、痛みも、曖昧になっていく。
苔の冷たさだけが、ゆっくりと体に染み込んでくる。
……もう少し。
あと少しだけ動けばいい。
そう思う。
だが、その「少し」が遠い。
ひどく遠い。
殻の内側に意識を向ける。
小さな重み。
かすかな体温。
規則正しい寝息。
それを確かめて――
安心したのか、
それとも、ただ力が尽きただけなのか。
視界がさらに狭くなる。
音が遠ざかる。
吸いつく音も、呼吸も、苔の匂いも、
すべてが水の底へ沈むようにぼやけていく。
……少しだけ。
ほんの少しだけ、休む。
そう思った瞬間、
ミミックの意識は静かに沈んだ。
――次に目を覚ましたのは、赤ん坊の泣き声がひどくうるさかったからだ。
鋭い泣き声が、殻の内側を震わせる。
意識が、ゆっくりと浮かび上がった。
……やわらかい。
殻の上に、何かがふわりと乗っている。
わずかに身じろぐと、
それがするりと滑り落ちた。
――苔だ。
湿った柔らかな苔が、薄くミミックを覆っている。
そして、そのすぐそばには、
寄り添うように、苔の魔獣が静かに横たわっていた。
赤ん坊の泣き声がまた強まる。
ぼんやりとした意識の中で、ほとんど反射のように赤ん坊を抱き上げた。
いつものように魔獣の腹に近づける。
しかし届かない。
届いたとしても、かなり不安定になってしまう。
そこでミミックは思い出す。
自分の身体が、ちぎれてしまっていたことを。
元の形に戻るまで、およそ二週間。
それまでは、抱いて授乳することができない。
ミミックはしばらく考えた後、赤ん坊を下ろし、代わりに自分の体を魔獣に近づけた。
そして、魔獣のミルクを身体の中に取り込み始めた。
もちろんミミックが飲むためではない。
十分な量を溜め終えると、ミミックは殻の内側へ意識を向けた。
抱き上げることはできない。だから、そっと身体の一部を伸ばし、小さな口元へ触れさせる。
すると、大きな泣き声をあげていたその口が、本能のまま吸い付いた
静かな吸う音が、かすかに続く。
ミミックは動かず、ただそれを支え続けた。
――ちゅ、ちゅ……
小さな吸う音が、途切れない。
いつもなら、途中で止まるはずだった。
すぐに力が抜け、眠りに落ちてしまう。
だが今回は違った。
赤ん坊は止まらない。
吸う力は弱まらない。
眠りに落ちる気配もない。
ただ、飲み続けている。
眠りに落ちたのは、ミミックが蓄えたミルクを飲み切ってからだった。
最後の一滴まで吸い終わっても、しばらくは口を離さずにいたが、ゆっくりと意識が沈むと同時に離れていく。
小さく息を吐き、胸がふわりと上下する。
泣き疲れた顔ではない。
沈むような眠りでもない。
頬はわずかに丸みを帯び、口元がゆるんでいる。
指先が、きゅっと殻の内側を掴む。
力は弱いが、確かに温かい。
赤ん坊がやつれていたのは、ミルクの質が合わなかったからではない。
この広間に舞う胞子――
基本的には無害だが、耐性のない生物を緩やかに眠らせる性質を持つ。
赤ん坊はその影響を受け、十分に飲み切る前に意識を落としていたのだ。
殻の外では、今も淡い胞子が揺れている。
だが内側には届かない。
そんな理屈を、ミミックが知るはずもない。
それでも。
そのぬくもりの中で、赤ん坊は確かに眠っていた。
初めての、満ちた眠りだった。




