2話
赤ん坊が泣いていた。
ミミックが巡回を終えて、ダンジョンの奥の定位置に戻った時だった。
短く、途切れ途切れだった泣き声が次第にギアを上げ、大きな声を上げて泣き始めた。
ミミックは長く生きているが、子育ての経験はない。そのため、なぜこの赤ん坊が大きな声を上げているのかよく分からなかった。
外傷はない。
内部の温度も一定だ。
圧迫も、落下も、異常な振動も発生していない。
それでも、泣き声は止まらない。
ミミックは内部をゆっくりと調整し、赤ん坊の様子を確認した。
小さな手足がばたつき、顔をくしゃりと歪めている。
原因は不明だったが、何らかの要求があることだけは理解できた。
ミミックは赤ん坊を内部の安全な位置に固定すると、静かに動き出した。
通路に出ると、ミミックはそこで動きを止める。
蓋を閉じ、金具を歪ませ、古びた宝箱になりすます。
ここは小さな魔物がよく通る場所だ。
しばらくして、かさりと乾いた音がした。
ネズミに似た小さな魔物が、壁伝いに姿を現す。
ミミックは、ただの宝箱としてそこに在り続ける。
距離が縮まった瞬間、蓋が静かに開いた。
内部から素早く軟体の体が飛び出し、小さな影は抵抗する間もなく取り込まれた。
ネズミをきゅっと絞め、動かなくなったものを中の赤ん坊に差し出す。
赤ん坊なのだから、大きなものは食えないだろう。
そう考えて、あえて小さな獲物を選んだ。
しかし、赤ん坊は泣き止むことがなかった。
口元に近づけても、顔を背ける。
触れさせようとすると、かえって声が大きくなる。
大きすぎたのか。と考えたミミックは、近くの石をどけて、その下にいた細長い虫を赤ん坊に差し出す。
だが、赤ん坊は虫を見た瞬間、身をよじらせて泣き声を上げた。
声は先ほどよりも鋭く、切迫している。
腹が減っているわけではないのか、とミミックは考えた。
だが、赤ん坊を改めて観察し、すぐにその考えを退ける。
口元。
歯が、生えていない。
噛むことができない。
引き裂くことも、すり潰すこともできない。
ミミックは、差し出していた虫とネズミを自分で食べて、思考を巡らせる。
では、この赤ん坊は、どうやって生きているのか。
生き物は、生きるために必ず食事を必要とする。
だが、歯のない時期の摂取方法を、ミミックは知らなかった。
赤ん坊は、泣き止まない。
その声は、次第に掠れ、力を失っていく。
放置すれば、危険だ。
ミミックはそう判断した。
知識が足りないなら、補うしかない。
ミミックは、他の生き物の育て方を思い出そうとする。
このダンジョンに住み着く人型の魔物。
人間に似た体を持ち、群れで生活し、子を育てる存在――ゴブリン。
彼らは、どうしていた。
分からないのなら確認すればいい。
ミミックは、ダンジョンの浅い層へと移動した。
石床はまだ崩れておらず、壁には簡素な松明の跡が残っている。
ゴブリンの縄張りだ。
ミミックは通路の端に身を寄せ、宝箱として動きを止めた。
蓋は閉じ、長く放置された遺物のように振る舞う。
ミミックが身を潜めている間、内部は静かだった。
赤ん坊は、いつの間にか泣き疲れて眠っている。
小さな胸が、かすかに上下していた。
泣き声が止まったことで、問題は一時的に遠のいた。
だが、眠りは、空腹を満たすものではない。目を覚ませば、再び泣き始めるだろう。
やがて、甲高い声と足音が聞こえてくる。
数体のゴブリンが、粗末な住処の前を行き来していた。
その中の一体が、小さな子を抱えている。
子ゴブリンは泣いていた。
甲高く、短い声を何度も上げている。人間の赤ん坊と同じだ。
だが、親は慌てない。
獲物を与える様子もなく、牙を向けることもない。
親ゴブリンは子を胸元へ引き寄せ、抱え直した。
他の個体より少したるんだその胸に、子の口元が押し当てられる。
次の瞬間、泣き声が止んだ。
食べている。
だが、それは噛むという行為ではなかった。
歯を使わず、獲物を引き裂くこともなく、ただ口元を密着させ、舌で胸を押すように吸い取っている。
液体だ。
ミミックは、その事実をゆっくりと反芻する。
歯のない時期の生き物には、固形の食事は適していない。
やがて、子ゴブリンの動きが緩やかになり、
力の抜けた体が親の腕に預けられる。
育て方は理解したが、それをこのまま真似ることはできない。
ゴブリンは警戒心が強く、巣に近づく者を容赦しないからだ。
ゴブリンに乳を分けてもらおうと、赤ん坊を連れて踏み込めば、敵と見なされるのは避けられない。
ミミックは、静かに後退した。
観察は十分にできた。
必要なのは、乳を与えられる存在。
そして、敵意を持たず、子を育てることを許容する魔物。
条件を満たす存在が、ダンジョンの奥にいることを、ミミックは知っていた。
敵意に敏感ではあるが、害意のない者には穏やかな魔獣。
一定の縄張りを持ち、近づく者を見極める存在。
敵意に敏感ではあるが、害意のない者には穏やかな魔獣。
一定の縄張りを持ち、近づく者を見極める存在。
ミミックは、その魔獣のことを思い出す。
毎年、同じ時期になると見かける光景があった。
魔獣が横たわり、その腹に、小さな影が寄り添っている。
身を寄せ、動かず、ただ静かに過ごす時間。
これまでは、休息か、体温を分けているのだと思っていた。
特別な意味を持つ行為だとは考えていなかった。
だが、今なら分かる。あれは、乳を与えているのだ。
あの光景は、そのためのものだった。
ミミックは、進路を定めた。
赤ん坊が目を覚ます前に、向かわなければならない。




