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アンダーグラウンドの聖域  作者: 水前寺鯉太郎


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第7話:記憶の写本、空間の偽造

第7話:記憶の写本、空間の偽造


佐藤健一の脳は、高田邸の敷居を跨いだ瞬間に超高解像度のシャッターを切る。

壁に掛かった抽象画の数ミリの傾き、大理石の床に転がった豊のトイカーが指し示す方角、雷斗が読みかけで書斎に伏せた本のページ番号。それらは意識的な努力を介さずとも、フルカラーの「映像」として脳内のストレージに永久保存される。

しかし、彼にとってその映像は、現実の物質界に吐き出さない限り「未完成」な幽霊に過ぎなかった。

深夜、ひだまり荘のボロアパートの一室。健一は、高田邸での一分一秒を、一言一句違わぬダイアログと共にノートへ吐き出していく。

【14:22:かよ夫人、キッチンにて独り言。「また請求書が……」。声調は通常より3Hz低い。長期的な経済的不安の兆候。】

【15:10:雷斗氏、帰宅。玄関マットで右足のかかとを三回叩く。新しい強迫観念の発生。外的なストレス要因の増加。】

机の上に積み上がった数十冊のノート。それは高田邸の「完璧なコピー」であり、世界で健一だけが持つこの巨大な城の**「残酷な取扱説明書」**だった。彼はペンを走らせることで、高田家の人々のプライバシーを文字通り「解体」し、彼らの肉体と精神を紙の上に固定していく。


美咲は、健一が心血を注いで書き上げたそのノートを、建築設計図ブループリントとして用いた。

「健一、雷斗さんが帰宅した直後、もっとも長く視線を固定する場所を教えて」

健一は目を閉じ、脳内のアーカイブを検索する。

「……玄関から入って三歩目、右斜め45度。そこに飾られているバカラの花瓶の背後に落ちる影だ。彼は無意識にその影の長さを基準にして、自分の帰宅時間を脳内で校正している。彼の正確な時間感覚の拠り所だ」

美咲はその「影」を操るために、天井のダウンライトの角度を専用の工具でわずか1度だけずらした。

健一の記録に基づき、住人の無意識のルーティンを、原子レベルの精度で少しずつ狂わせていく。

数日後。帰宅した雷斗が玄関で立ち止まり、困惑したように額を拭った。

「……何か、おかしい。時間が、ズレているような気がする」

影の長さがコンマ数ミリ変わったことで、彼の脳内時計がわずかに狂い始めたのだ。サヴァン的な正確さを持つ健一の記録があるからこそ可能になった、物理法則を悪用した「精神への精密攻撃」。

雷斗は、自分が住んでいる空間が、自分を拒絶し始めているような、底知れぬ孤独感に襲われていた。


ある夜、健一がいつものようにノートを整理していると、過去の自分の記述に鋭い違和感を覚えた。

彼の映像記憶は嘘をつかない。だが、その「解釈」に綻びが生じていた。

【半年前の記録:地下室の勝手口、鍵穴の周囲に0.1mm以下の微細な摩耗。】

【昨日の記録:同じ箇所に、新しい、より深い放射状の傷跡。】

健一の内部のデータが警鐘を鳴らしている。

自分たち佐藤家以外に、この家を「物理的に弄っている」人間が他にいるのではないか?

彼は恐怖に震えながらノートを遡った。一年前、高梨がこのバイトを自分に譲った日の会話。高梨の視線の動き。微かな手の震え。あの時、高梨は「上級国民の家」だと言って笑ったが、その瞳の奥には何があった?

「……高梨。お前、何を僕に押し付けたんだ? この家には、僕たちが来る前から何かが『いた』のか?」

健一は、自分が書き溜めてきた膨大な記録の中に、自分たち以外の「寄生者の足跡」が、ノイズのように紛れ込んでいる可能性に気づき、背筋が凍った。自分たちが完璧に支配していると思っていた空間に、自分たちを観察している「誰か」の視線が混ざっている。


美咲の卒業後の「仕事」は、もはや狂気の領域へとエスカレートしていた。

彼女は、健一のノートにある「高田家の本来の姿」を、少しずつ「佐藤家が呼吸しやすい形」へと上書きしていった。

壁紙の裏側に薄い断熱材を仕込み、地下の冷気が地上へ漏れないように細工する一方で、特定の通気口を閉じ、雷斗の書斎にだけは微かな「不快な風」が流れるようにした。

床下収納の奥には、地下室へ直結する小さなダクトが通された。

それはもはや「模様替え」ではない。高田邸という巨大な生物の神経系を抜き取り、佐藤家の身体に合わせて再配線する、生体移植手術だった。

「健一、もうすぐよ。私たちの『聖域』が、地上を飲み込むわ」

美咲は、リビングの中央に、健一の記憶にある風景を本物そっくりに模した「偽物の壁」を指差した。その裏側には、母・よし江が家事の合間に、誰の目も気にせずくつろぐための、隠された特等席パーラーが完成していた。

リビングに雷斗が座っている時、そのわずか15センチ背後の壁の中で、よし江が同じように高級な茶を啜っている。空間の偽造が生んだ、背徳的な共生だった。


しかし。

サヴァン的な記憶力を持つ健一だからこそ、たった一つの、致命的な「ミス」に気づいてしまった。

指導の合間にリビングを横切った際、彼の脳が警告音を鳴らした。

中央のガラステーブルに置かれた、雷斗がお気に入りの、ずっしりと重いクリスタルの灰皿。

その位置が、健一の記憶にある「定位置」から、左斜め後方へわずか2ミリだけズレていた。

父・誠ではない。彼は雷斗の機嫌を損ねるのを恐れ、灰皿には触れない。

母・よし江でも、美咲でもない。彼女たちは「2ミリのズレ」が健一をどれほど苛立たせるかを知っている。

もちろん、潔癖な雷斗が自らその完璧な配置を崩すはずもない。

健一は、全身から汗が噴き出すのを感じながら、自分のノートを広げた。

この家には、自分たちが掌握していない「盲点ブラインドスポット」が、依然として、執拗に存在する。

それは、るかが言っていた「逃げ道」の住人なのか、あるいは高梨が遺していった「呪い」なのか。

健一は震える手で、ノートの余白に、自分自身への警告としてこう書き加えた。

『未知の変数、X。彼は、僕たちがこのノートを書いていることを知っている。そして、僕たちのノートを読み、その記録を嘲笑うかのように、わざと現実を2ミリだけ動かしている。』

窓の外では、春の嵐が近づいていた。

佐藤家が心臓部まで乗っ取ったはずの高田邸。しかしその毛細血管の先で、何かが、健一たちの知らない拍動を刻み始めていた。

寄生の物語は、支配者同士の血を洗う、未知の領域へと引き摺り込まれていく。

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