第15話:記録の終焉、あるいは空白
第15話:記録の終焉、あるいは空白
崩壊を始めた高田邸の轟音と、足元をすくう泥水の濁流。パニックに陥った雷斗が、ずぶ濡れのまま健一に掴みかかろうとした、その瞬間だった。
「地獄へ落ちろ、雷斗!」
絶叫と共に、背後から山岡が跳ねた。水飛沫を上げ、その手に握られた重厚なバールが、物理法則を無視したような凄まじい速さで空を裂く。
「逃げて!」
健一の叫びは、鈍い破壊音にかき消された。山岡のバールは、雷斗の側頭部を正確に捉えた。崩れ落ちる雷斗。その拍子に、跳ね返ったバールが、間に割って入ろうとした健一の額を強打した。
視界が、真っ赤に染まる。サヴァン特有の、秒間数千フレームで情報を処理する健一の脳が、初めて「ブラックアウト」を起こした。最後に脳に刻まれた映像は、狂ったように笑う山岡と、瓦礫の隙間からこちらを冷たく見つめる高梨の、不敵な微笑みだった。
「警察だ! 全員、動くな!」
遠くでサイレンの音が響き、浸水したリビングの窓を蹴破って、特殊部隊がなだれ込んでくる。狂乱状態の山岡は、返り血を浴びたままバールを振り回したが、数人がかりで水の中に押さえつけられた。安藤は抵抗せず、ただ泥水の中で虚空を見つめていた。
「健一! 健一、しっかりして!」
美咲の悲鳴が聞こえる。父・誠と母・よし江が、意識を失った健一を抱きかかえる。しかし、彼らの前には無情な現実が立ち塞がっていた。
「佐藤誠さんですね。不法侵入、および住居占拠の疑いで同行を願います」
救急隊員に運ばれる健一の横で、父と母の手首に冷たい手錠がかけられた。高田邸という「聖域」に寄生していた佐藤家の虚構は、雷斗の流した血によって、あまりにも凄惨な形で暴かれたのだ。
その喧騒の渦中、夫の無惨な姿を目の当たりにしたかよは、悲鳴を上げることすらできず、その場に崩れ落ちた。彼女の精神は限界を超え、そのまま深い昏睡状態へと陥った。
翌朝。病院のベッドで健一が目を覚ました時、最初に目に入ったのは、病室のテレビに流れるニュースと、サイドテーブルに置かれた朝刊の1面だった。
【高級住宅街で凄惨な殺人事件 元共同経営者と元運転手、不法占拠の家族を逮捕】
デカデカと掲載された写真には、中央から折れ曲がり、無残に崩壊した高田邸の姿があった。記事には、雷斗が山岡によって殺害されたこと、安藤が数年前から地下に潜伏していたこと、そして「家庭教師」を装って入り込んでいた佐藤家が、家全体を「寄生」し、構造を改造していた事実が克明に記されていた。
そして記事の隅には、夫を殺されたショックで精神を病み、別の病棟へ緊急入院したかよの近況も短く触れられていた。彼女はもはや、現実を認識することすら叶わない廃人のような状態だという。
健一は、激しい頭痛に耐えながら記事を読み進める。しかし、どこを探しても、「高梨彰人」と「高田るか」の名前がない。あの夜、確かに現場にいたはずの二人。高梨が健一をこの家に送り込み、るかが鍵を閉めた。その事実だけが、公式な記録から綺麗に消え去っていた。
「……あのノートだ」
健一は気づいた。自分がアパートに書き溜めていた14冊のノート。あれが証拠として警察に押収されていれば、高梨の共犯関係は立証できるはずだ。だが、看護師に預けていた自分の持ち物の中に、ノートは一冊もなかった。
「先生。起きたんだね」
病室のドアが開き、るかが入ってきた。喪服のような真っ黒なドレス。その瞳には悲しみなど微塵もなく、ただ冷徹な満足感だけが宿っている。
「パパは死んじゃった。ママもあんな風に入院して、もう二度と戻ってこれないって。……だから、パパの遺産、全部私のものになったよ。高梨さんが上手くやってくれたの」
るかは、健一のベッドの横に座り、彼の脳を支配するように囁いた。
「佐藤家の人たちは、みんな刑務所。先生だけは、私の『証言』のおかげで、無理やり働かされていた被害者ってことにしてあげたよ。ねえ、感謝してね?」
健一は窓の外を見た。自分たちがかつて住んでいた地下室も、美咲が夢見たデザインも、全ては瓦礫の下に埋まった。だが、佐藤家の「寄生」が終わったわけではない。
高梨とるか。
真に冷酷な「主」と「観察者」によって、健一は今度こそ逃げられない**「記憶の檻」**に閉じ込められたのだ。
健一の脳内。崩落した高田邸の映像が、ゆっくりと再構築されていく。しかし、その設計図の「主」の欄には、もはや高田雷斗の名はない。
佐藤健一は、震える手でシーツを握りしめた。彼の驚異的な記憶力が、これから一生かけて記録していくのは、血塗られた富と、それを嘲笑う高梨たちの、終わりのない支配の風景だった。
エピローグ
数年後。更地になった高田邸の跡地には、以前よりもさらに強固で、窓のない、巨大な黒い邸宅が建っていた。
その邸宅の奥深く、陽の光の届かない「最深部」の一室。一人の男が、壁一面を埋め尽くさんばかりの精密な文字で、ノートを書き続けている。
その部屋の管理者は高田るか。そして、その背後で糸を引くのは高梨彰人。
彼らが望む「完璧な記録」を紡ぎ出すために、男――健一は、自身の脳を削り続ける。
彼の記憶の中にだけ、あの雨の日に始まった、家族の「寄生」の全てが、そして狂気の末に壊れていったかよの叫びが、今も鮮明な映像として生き続けている。




