5.少年は其れを知る
少年は、煌々と輝くシャンデリアから目を逸らした。
眩しかったからではない。ただ、目の前で可憐に微笑む少女の容貌を、目に焼き付けねばならないと思ったのだ。
「わっ、す、すみませんフィーネ様」
「もぉー」
少女に目を奪われているうちに、足がもつれてしまった。
何を隠そう、今は王宮主催の舞踏会の最中である。デビュタントを迎えていない12歳の少女とその護衛である少年の覚束無いダンスは、ホールのはずれの方でひっそりと行われている。剣と魔法のことばかり考えてダンスなど踊ったことがない少年には、少々難しいものではあるが。
「ふふふ、ほら。いち、に、さん…」
「……」
手を繋いでいると、さわぐ心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。少女の栗色の髪がふわりと舞う。
「すみません、もっと練習しないと」
「じゅうぶん上手よ?でもそれなら、わたしが練習台になりたいな」
「…っありがとうございます」
「ふふ、将来のお嫁さんの前で困らないように、最っ高のエスコートをおしえてあげるね」
ユーフォニアムの音色が強く響く。少女がくるりとターンして、ドレスが大きくはためいた。どうしても、目を離すことが出来ない。
「…おれは結婚なんてしません」
「えぇ〜、それじゃ一生わたしの護衛騎士よ」
もしそうなったなら、どれだけ幸せだろうか。曲が止まる。ありもしないことを考えて、少年は徐ろに手を離した。
――
フィーネ様の満面の笑顔を見たのはもうずっと昔の事だ。今日は久々に外に出て疲れたのか、彼女は普段よりも早い時間に魔法を求めに来た。ごめんね、と笑って。
腕の中のその寝顔を見つめる。こんなに力無く笑う人ではなかった。腕に感じる重みは軽すぎる。あの日から数日経ち、大分生活に慣れてきているように見えるが、やつれた印象は消えていない。
ゆっくりと、慎重に、彼女をベッドに下ろす。毛布を掛けて、静かに部屋を出た。
動悸が止まない。心臓を優しく握りつぶされているような感覚。これまで、嫌になるほど彼女から贈られてきたものだ。深く息を吐いて、脳の奥で醜く燻る感情を蹴散らした。
帰路につく際の彼女の様子はおかしかった。まるで、再会した当日に戻ってしまったかのように思えた。彼女は笑う方法を忘れてしまったのではないか。ほんの少しの違いかもしれないが、過去と現在を比較すると、今の彼女の笑顔は明らかにぎこちなさを含んでいた。それについて彼女が悪いと非難する訳では決して無いが、心からの笑顔を取り戻してほしいとは思う。
それを俺が出来たなら良い。かつて俺が彼女に笑顔を与えられたように。
――――
フィーネ様に初めて出会ったのは、俺が10歳、彼女が11歳の時だ。今となれば、あの頃の俺は不躾の塊だったと思う。しかし、彼女はそんな俺にまで慈悲を与え、俺の心に根差した外傷をそれはそれは丁寧に、少しずつ癒していったのだ。
辺境の山奥の小さな村で、魔力を持って産まれてしまった俺に、当時の村人達は甚だ恐怖したことだろう。独自性の強い封鎖された村の中で、超常現象を引き起こすおぞましい子供がどんな扱いを受けるのかなぞ、言うまでもない。
物心つく前から地下深くに幽閉されて育った俺は、その辛い環境を当たり前だと信じて疑わなかった。1日1回の食事を配膳された後、祟りを鎮めるための呪文のようなものを、延々と聞かされていた。「お助けください」とか、「厄災」とか何とか言っていたと思う。言葉はそこで覚えた。おそらく彼らは、俺が産まれたことを祟りとして扱っていたのだろう。悪臭の酷い、汚い地下牢の中で呪文を唱えて、本当に祟りが鎮まるとでも思っていたのだろうか。
ある日突然、飯の配膳がぱたりと止んだ。とうとう殺すつもりになったのかと覚悟して3日ほど経ち、瀕死の状態で横になっていたのを、当時の第三騎士団に救助された。この3日間で村は魔獣に襲われて大きな被害を受けていたらしく、俺以外の村人らは全員、逃げたのか殺されたのか分からない状況だったという。皮肉にも、地下牢に監禁されていたことで俺は殺されずに済んだ。当時の俺には理解できない事であったが。
外に出たのは初めてだった。俺は10歳にして初めて、空気というのは流れるものだということを知った。母親の遺書を読んでもらって初めて、自分の名前がリヴェルトであることを知った。俺を孤児院に送る話が出ていたようだが、俺が魔力を持っていることを知った当時の騎士団副団長、つまりフィーネ様の父親が、騎士として俺を引き取ることになった。当然剣など握ったことはなかったが、彼はそれでも構わなかったらしい。母親が病気で寂しい思いをしている一人娘に、心の拠り所をつくってやるのが目的だったのだと、彼が亡くなる前に聞いた。俺が常識を持っていたから良かったものの、大切な一人娘に偶然拾った俺を宛てがうという判断は如何なものかと思った。
事実、俺は初対面のフィーネ様に随分と攻撃的なご挨拶をしたと思う。あれには彼も溜息をついたはずだ。
あの頃、忌み嫌われてきた自分自身と自分の魔力に価値を見出されたとて、はいそうですかと受け入れることなど出来なかった俺は、常に全てに苛立ち、絶望していた。邸の応接間に目を輝かせながら入ってきたフィーネ様の、綺麗に手入れされた髪をひと目見た時、俺は彼女が嫌いだと思った。
自分と同じく魔力を持って生まれたというのに、どうして生まれる場所が違うだけでこんなにも贅沢な暮らしをしているのか、と頭が沸騰したのを覚えている。先に魔力を持つ少女であると聞いていたにもかかわらず、そこで何かが爆発してしまったのだ。頭に湧いたその感情を、そのまま何の罪もない彼女に半ば叫ぶように連ねて蹲った俺を、彼女はどんな目で見ていただろうか。それは今でも分からないが…彼女がそのとき俺にかけた言葉は一言一句覚えている。
「わたしはリヴェルト君の辛さも、今までされてきたことも、ぜったいに理解できないんだと思う。ごめんね。でも、君がこれからさみしくなったり辛くなったりしないように、寄り添うことならきっとできるよ。お願い、わたしをそばに置いてくれない?わたしが幸せにしてあげる」
是非注釈を付けたい。11歳の少女が、ただの彼女の護衛騎士、しかも初対面の男に放った言葉である。彼女は今でも常々、「わたしはヴェルに何も与えたことがない」と言っているが、これを「与えた」と言わずして、何を「与えた」と言うのだろうか。綺麗事や絵空事ではなかった。かつての俺はその言葉に救いを見出した。本当に、手の平返しが早く単純な人間だと思う。しかし初めて、人のことを綺麗だと思った。そして彼女は有言実行を果たした。毎日を俺と共に過ごして、日常の些細な喜びを俺に分け与えて、常に俺を尊重して。日に日に、俺が今まで見てきた景色の中で1番美しいものは、彼女の笑顔なのだと納得する日が多くなっていった。俺に人間としての視野を与えたのは彼女だった。
その頃は彼女に与えられてばかりだと思っていたが、時を経て思い返してみると、俺は与えられたと同時に奪われてもいたのだと悟った。あれから今まで。俺はどうしても、彼女に焦がれて堪らない。彼女の事となると、脳をごっそり持っていかれてしまったように、何もままならなくなる。恋をしてしまったのだと気付くまでに、随分時間を要した気がする。初めて会ってから1年程経った後に自覚した。そしてそれから4年程後に、当然の如く、手酷く失恋することになるのだ。
自室のベッドに横になる。両腕からフィーネ様の感触が消えるまで、冷静でいる必要があった。失恋とは名ばかりなもので、あれから12年が経った今でも、その感情は肥大化し続けている。もうどうしようもない。しかし、俺を信頼しきっている彼女を裏切るようなことはしてはならない。今は、俺が彼女を庇護している立場なのだ。彼女へ恋を仄めかすようなことがあってはならない。もしそうしたならばきっと、彼女は俺に同じものを返そうと努力してしまうだろう。それは俺の本意ではない。彼女がただ、何のわだかまりもなく笑顔でいてくれるならそれで良かった。
フィーネ様の初恋を見届けたあと、帰りの馬車での彼女の嬉しそうな笑顔を見て「クラウス様とフィーネ様は、本当に結婚するのだ」という実感がふつふつと込み上げていた。顔合わせの際後ろの方で待機していた俺は、一部始終の全てを見ていた。顔を赤らめて緊張しながら話す彼女は見た事が無かった。彼女から見れば、俺もあんな風だったのだろうか。
「ああ、ヴェル、どうしよう、寝癖は付いてなかった?姿勢は悪くなかった?」と焦っている彼女を見て、どうしようもない敗北感に埋め尽くされた。婚約者のクラウスという男はフィーネ様よりも一回り歳上で、26歳だということを後で知った。笑顔を作り慣れた、柔和な印象を与える顔。俺とは何もかもが違った。
フィーネ様の邸に来てから5年が経って、体力と、剣の腕と、魔法の扱いについてはかなり成長したと思うが、学だけは無かったものだから、頭が良いというその男を真似して必死に勉強をした。振り向いてほしかったのかと言われればそうなる。結局告白する勇気も自身も何も生まれては来なかったから、その点においてはこの勉強の日々は無駄だったと思う。彼女も、彼が勉学が出来るから惹かれているわけではなかっただろう。
しかし、俺は彼に嫉妬して、対抗心を燃やしている部分が大いにあったから、彼が全くの善人ではないことに気がついた。彼のフィーネ様を見つめる瞳の奥は、驚く程に冷たかった。嫌な予感がしていた。態度に出ていたかは分からない。それとなく、彼女に聞いてみた事もある。畢竟俺の嫉妬ゆえのこじつけだと結論付けた訳だが、今となっては、それは正しい予感だったのだと思う。
ふと、彼女と舞踏会でダンスを踊ったときのことを思い出して、彼女が結婚してしまったら自分はどうするのだと戦慄した。もう駄目だろうと思った。彼女が傍にいないと、きっと俺は生きていけない。彼女がいないと笑うことすらできない。どうしても顔が強ばってしまうのだ。5年間で刷り込まれていったものは、それ程までに大きかった。5年もの間、彼女はずっと同じように眩しく、無邪気で、可憐で、誰に対しても隔てなく愛情を注いでいた。そんな彼女が、俺と二人で街へ出かけたり秘密基地に行ったりする時間が楽しいのだと言って笑っているとき、俺はずっと背中から殴られているような心地だった。
頭がぐらぐらした。彼女が俺に与える愛は、結局その他大多数に与えるものと何ら変わりない種類のものだということに、漸く気が付いた。俺が嫁ぎ先へはついて行かないことを知った彼女は少しだけ驚いて「たまに顔を出すからね」と笑うだけだった。
結婚式の日程が決まって、ドレスの型録を手に俺の部屋へやってきたフィーネ様は、「これを着ることになったの」と嬉しそうに笑っていた。手を伸ばせば届く距離。クラウスは応接間のテーブルを隔てなければ彼女と接することはできないが、俺と彼女を隔てるものは何も無いではないか!俺なら―――
そうして初めて、自分から彼女に触れようとした。あと1cmもないくらいの距離まで手を伸ばして初めて、自分の理性の崩壊を悟った。もはや、彼女と共に毎日を過ごすことは不可能だった。丁度いい、早く奪ってしまってくれ、と祈るような気持ちで残りの日々を過ごした。
しかし完全に投げやりになることは出来なかった。彼女の父親が急逝したのだ。結婚の1週間前だった。彼女は、気丈に振舞って、大丈夫!大丈夫!と常に言っていた。彼女を1番に支えてやるべき婚約者は、彼女の前に現れなかった。
深夜、亡き父親の部屋の前で啜り泣いていた彼女をみつけた。声をかけると、下の方を向いて髪で顔を隠して応えた。泣いていたのを誤魔化す方法は、昔から変わっていない。
両親に覚えがない俺はどう接すれば良いのかわからず、一晩中隣に座っていた。最初は遠慮した彼女も、暫くすると堰を切ったように泣き出した。
結婚前夜、数日前までずっと泣いていたのが嘘のような笑顔で俺の前に現れた彼女は、いいものあげる!と手を差し出した。それは真っ白いシルクのハンカチで、よく見ると右下に金色の刺繍がしてあった。刺繍というよりかは、ぐちゃぐちゃと言った方が正しいかもしれないくらい不格好なものだ。だというのに、それを受け取った途端に、このまま彼女を攫ってしまいたいという願望がずるずると復活するのを感じていた。
「ヴェルのイニシャルなんだけどね、なんかぐちゃっとなっちゃった。気に入らなかったら捨てずに誰かに譲ってね?頑張ったんだから」
たしかそう言っていた。大事にしますとか薄い返事をしたのを覚えている。明日が来ないよう願ったが、来ないはずもなく結婚式は開かれ、俺は美しく着飾った想い人の姿を頭に焼き付けた。虚しいほどに呆気なかった。
彼女はその日からクラウスの屋敷で暮らすことになっていた。誰もいない彼女の部屋を使用人たちが掃除しているのを見て、喪失感が胸をうずめた。手の中のハンカチからは彼女の優しい香りがした。白百合の芳香。それが脳の奥をつんざいて、治ることのない風穴を空けたようだった。
もはやここを去るほかなかった。辞表を提出し一人邸を出てから呆然と国外へ向かっている最中に、魔獣に襲われた。それを倒したところ、偶然その場面を見ていたユーグが俺を騎士団へ招き入れて今の職を得た。
最近になってようやく、俺はもう二度と彼女の笑顔を見ることは出来ないのだということを、受け入れ始めたところだった。あれから5年の間、彼女のことを忘れようと仕事に没頭する毎日を過ごしてしていたにもかかわらず、彼女のことを思い出さない日は1日も無かった。あのハンカチを肌身離さず持ち歩いていないと、気が狂ってしまいそうだった。どうしようもなくなったときは度々、あの花畑に訪れた。いい加減にしなければ、これで最後だ、と再三自分に言い聞かせたが、そこに向かう衝動を止められはしなかった。
あの日も、そんな日常のひとつに過ぎなかったのだ。そこに蹲る彼女を見つけるまでは。
夜風に揺れる栗色の髪を見たとき、遂に俺は幻覚が見えるようになったのかと疑った。濡れたヘーゼル色の瞳が驚きに見開かれながら俺を捉えて、思わず息を飲んでしまった。
5年前の面影は残っている。変わらずに美しく可憐であった。しかし、有り得ないくらいに痩せてやつれている。月光が照らす白肌には無数の痛ましい痣があった。
彼女は懐かしげに微笑んで俺の背が伸びたという話をした。待ち望んでいたはずの再会であるというのに、上手く言葉が出てこなかった。
限界だったのだろう。何があったのか問い詰めると、彼女は直ぐに崩れた。彼女は静かに泣きながら、事の顛末を俺に話した。
どうして、と思った。何故彼女がこんなに苦しまなければならない。クラウスへの怒りもその侍女らへの怒りも勿論あったが、それよりも彼女がこんなことになっているというのに、のうのうと日々を生きていた俺は何なのだと強く思った。俺が悲劇を気取っている間に、彼女はここまで追い込まれていたのだ。
彼女はごめんね、と笑った。その力無い笑顔は、夜の闇に霧散して消えてしまうかのように見えた。誇張でも何でもなく、このままでは彼女が死んでしまうと思った。
エドモン伯爵と結婚することになったのだと聞いて、一瞬だけ思考が飛んでいた。そこからは必死だった。とにかく彼女を安全なところへ。その一心で、渋る彼女を言いくるめて自分との結婚を約束させたのだ。
結婚をするにあたって、彼女に俺の恋を勘づかれることはあってはならない。彼女を助けるという大義名分を背負って、あとから欲望がひょっこり顔を出すといったことがないよう、徹底的に己を律することを誓った。
フィーネ様は不眠を患っていた。魔力を失ったという話を信じられないような思いで聞いていたが、それ程眠れていないのなら有り得ない話ではないと理解した。おびただしい悔恨に脳を侵されながら、応急処置を施した。とにかく迅速に事を進める必要があると思った。
日を追うごとに、彼女は安らぎを得ているように見えた。
最近は毎日眠れるのが嬉しいと笑う彼女に、何と言えばいいのか全く分からなかった。
できる限りの事はやれたと思う。ここ数日は、魔法を求めに来る彼女の顔は柔らかいものだった。では、今日はどうしたというのか。彼女の前でしか笑えなくなってしまったことを悟られたのだろうかと背筋を冷やしたが、恐らく、そういうことでは無さそうだった。弱々しいあの笑顔を思い出して、深く息を吐いた。
俺は魔法を使うことが出来る。人よりもずっと出来るという自負がある。人間の機能に干渉する魔法も、俺ならば完璧に使いこなすことが出来る。今夜彼女にかけた魔法は、いつもより少し強力なものだ。長く眠って良くなるものであるかは分からないが、短いよりはずっといい。彼女は「ごめんね」と繰り返していた。何も謝るべきことなど、していないというのに。
謝らなければならないのは俺だ。ああ、遂に、頭の中で暴走する恋慕を押し止められなかったのだ。
俺の屋敷へ来る際の少ない荷物の荷解きで、クラウスから贈られたネックレスを取り出す彼女を見た。見返りが欲しいとも、好きになって欲しいとも思っていなかったはずだが、そのときの俺は非常に焦った。
俺が魔法を使って彼女が眠れるようになったら、もしかしたら、魔力が回復していくかもしれない。可能性は0ではない。では、もし魔力が回復したなら?そこでもし、彼女にクラウスへの想いが残っていたならば――――彼の元へ、戻ってしまう可能性は?
俺はもう駄目になっていた。彼女を助けたい、なんてただの口実で、尤もな免罪符でしかなかったということに気が付いた。結局は己の、彼女を欲する欲望のままに動いていたのだと。しかし気付くのが遅すぎた。何と愚かなことだろう。再び彼女を手放すなど、出来るはずがなかったのだ。
俺は魔法を使うことが出来てしまった。沢山沢山勉強したから、人間の機能の働きを害する魔法だって、使うことが出来る。
俺が毎晩、彼女にかける魔法はふたつ。
1つは睡眠魔法、もう1つは魔力の回復を阻害する魔法だ。
もはや恋など生温い。理性を失った化け物だと思った。もうどうすることもできなかった。もうどうでもよかった。
フィーネ様が俺の傍にいてくださるなら、何でも…




