3.少女は揺らめきに眠る
結局アリスにすこぶる叱られた。案の定、皆大騒ぎだったらしい。使用人たちは隣にヴェルがいることに驚愕し、彼と何か話したそうにしていたけれど、彼は丁寧に会釈をするのみでわたしの後ろを離れなかった。
「いいの?積もる話も多いでしょうに」
「ええ。それはまた追追に」
二人で廊下を歩く懐かしい感覚を噛み締めているうちに、かつてのヴェルの部屋へとたどり着いた。扉を開けると、生活感の無いひんやりとした空気が外へ流れ出た。
「俺がここを出たときと殆ど変わっていない。懐かしいです。テーブルの位置まで同じだ」
「でも片付いていて綺麗でしょ?皆仕事が丁寧なのよ」
「あとで礼を言っておきます。あと…その、フィーネ様、おばさまのご容態はいかがですか?」
ヴェルがこちらを振り返って問う。「おばさま」とはわたしの母のことだ。
「安定してる。帰ってきてからお話はできてないけれど、体調は悪くなさそうよ」
「それは何よりです」
彼は棚に置かれたままの本やインクの固まったペンを手に取って、懐かしそうに笑った。そして「確かここに」と、デスクに備え付けられた引き出しから白い便箋を取り出した。
「手紙を書き終えたら帰ります」
「え、泊まってくれてもいいのよ。もう遅いし。アリスたちもきっとそのつもりだわ」
「お気持ちはありがたいのですが、遠慮します。これをポストに入れる必要もありますし」
「そう…わかったわ。気をつけてね」
そう答えた声が思ったより寂しさを孕んでいて、自分でも少し驚いた。何となく後ずさる。すると後ろの扉から、ひょこりとアリスが飛び出した。
「お嬢様、お風呂の準備が整いました」
「わ、ありがとう。ちょっと待っててね。すぐ上がるから」
デスクに向かうヴェルを置いてお風呂へ。脱衣所の時計を見ると、時刻はもう22時を回っていた。今部屋で手紙を書いているであろうヴェルのことを考える。わたしの問題に付き合わせてこんな時間まで引き留めてしまって不甲斐ないと思った。けれど、それを口にしたらきっと彼は全身全霊で否定してくれるのだろう。ふと、服を脱ぐ手を止めた。どうしてヴェルはここまで優しいのだろう。結婚なんて、わたしだったら何でもない人となんて出来ない。正直、彼にあれ程の忠誠を誓わせるほど、何か特別な事をした覚えがなかった。
…万が一、億が一、もしかして、もしかすると、それ以外の感情があるのかな………いや、やめよう。流石に有り得ないし、この立場で図々しいにも程がある。きっと彼の真面目で誠実な性格によるものだろう。本当に、身に余る部下を得たものだ。
目を閉じると、頭がグラグラする感覚があった。不眠を患ってから、いつも大体こうなのだ。流石にいい加減寝ないといけない。寝なきゃだめ。そのためにもゆっくり湯船に浸かって、身体を温めないと。風呂の扉を開けた。
ヴェルの部屋に戻ると、彼はもう既に手紙を完成させていた。その上でわたしが帰ってくるのを待っていたという。
「ありがとうね、ヴェル」
「ええ」
「じゃあ、わたしはもう寝るわ。帰り道、気をつけてね」
「はい」
優しく笑って相槌を打つ彼に、お返しとばかりに笑いかけて踵を返そうとした瞬間、グラリと視界が傾いてふらついた。これは、まずい…特に酷いときの症状だ。
「フィーネ様!?大丈夫ですか、俺に掴まってください」
「う、ん、ごめんね」
慌てて駆け寄って来てくれたヴェルの左腕で全身を支える。急に、頭が割れるように痛い。いや、急ではない。兆候はあったのだ。さっきからずっと痛かった。気づかないようにしていただけで。
「う゛ぅ…」
「こちらの椅子に座れますか?すぐ医者を――」
「や、待って…大丈夫だから!不眠なの、眠れてないだけ。よくこうなるの。慣れっ子よ」
「は…、もう、貴女はいい加減頼ることを覚えるべきです。眠れないことがこの症状を引き起こすのですね?」
「うん……」
「…不躾ですが、フィーネ様の寝室はどちらですか?」
「み、なみの、一番奥、よ」
「わかりました。失礼します」
そう言うと彼は大きな掌でわたしの前髪をかき分けて、額に触れた。そして何かブツブツと呪文を唱えたあと、わたしを伺うように見おろした。頭の中でぶつんと音がして、一瞬でおびただしい眠気が襲ってきた。
「ぅ…」
「差し出がましいようで恐縮ですが、貴女に睡眠魔法をかけました。数分のうちに眠れるはずです」
「ぇ…ぁ、ありがとう……何から何まで」
そう言う間にも、脳がどんどん働きを弱めていく。体の中がヴェルの魔力で満ちてゆくのを感じた。
「気にしないでお休みください。明日の朝、また来ますね」
そう言ったヴェルがわたしを横抱きにしたところで、ふっと意識が遠のいた。ゆらゆら揺れる感覚があるから、わたしの部屋まで運んでくれているのだろう。安心して眠りに落ちる久しぶりの感覚に身を委ねて、ゆっくりと目を閉じた。
――――
まどろみながら目を開ける。どうやら、本当に眠れたらしい。気怠い身体を寝返らせると、静かな部屋に響く時計の音が聞こえた。時計の針は、午前11時を指していた。
「えっ」
予想よりもずっと長く寝てしまっていたようだ。ヴェルが今日の朝にまた来ると言っていたのを思い出す。待たせていたらいけない。はやく身支度を済ませないと。ほどなくしてアリスがやってきた。やけに気合いの入ったヘアメイクを施されながら話を聞くと、やはりもうヴェルは邸に着いているらしかった。部屋を出て応接間の扉を開けると、ヴェルが紅茶のカップを片手に微笑んだ。
「おはようございます」
「おはよう!ねえヴェル、ありがとう。久しぶりに眠れたわ」
「それは良かったです」
「何だか世界が綺麗に見える。こんなに調子が良いのは久々!ヴェルのおかげよ」
彼は満足そうに目を細めてこちらを見ている。軽やかに走って向かいのソファに座った。
「睡眠魔法ってすごく難しいのに、いつの間に使えるようになったの?」
「はは、努力したんです」
睡眠魔法など精神に干渉する魔法は、ただ魔力を込めて放つ攻撃魔法とは異なり、緻密な魔力の操作が必要となる。それが有り得なく難しいのだ。魔力が消える前のわたしにも、それはからっきし駄目だった。
「ヴェルはすごいのね」
「恐縮です…それより、」
ヴェルとぱちりと目が合う。
「フィーネ様はもう貴女自身の力では眠れないのですか?」
「…そうなの。どうしてか分からないけど」
「明らかに心労によるものでしょう。貴女には休息が必要です」
「うう、やっぱり?寝れるように頑張るわ」
「…いえ、そうではなく。俺を頼れば良いのですよ」
「え?」
「俺の魔法で眠れたではないですか。俺が毎日貴女に魔法をかけます」
わたしの目を真っ直ぐ見たまま告げる。その瞳は、この言葉が本気のものだということを自明に告げていた。
「…本当にありがとう。もう、頭が上がらないわ」
口を尖らせて言う。するとヴェルは満足気に表情を緩め、小さく息を吐いた。
「…それでは、一つ俺の我儘を聞いていただけませんか」
「もちろんよ。何でも言って」
「俺は、貴女の夫です。伯爵との婚約破棄と、俺達の結婚の手続きが今朝方完了しました」
「う、うん、そうね」
ヴェルは昔から仕事の早い人だ。でもまさか、わたしがスヤスヤ寝ている間に全て終わらせてしまっているとは。
「その…フィーネ様、俺の屋敷で暮らしませんか?」
「えっうん、いいの?」
「はい、その方がきっと安全です」
「それは…願ってもないことだわ。暮らしたい」
「ええ、」
ヴェルは僅かに瞠目してわたしを見た。
「どうしたの?」
「いや、断られるかと思っていたので」
「断るわけないわ。何ならそれ、わたしの我儘になりそうな我儘ね」
「ふふ、なりませんよ。では準備が整い次第、直ぐに行きましょう。皆にも伝えます」
「あ…確かにそうね」
わたしたちの結婚をわたしの家の使用人に伝えないのはありえない。しかし…
「り、理由はどう説明すべきかしら。経緯をそのまま伝えていいと思う?…ちょっと不純よね」
彼は少し考える素振りをしてから、わたしに視線を寄越す。
「俺が偶然再会したフィーネ様に惚れて、熱烈にアプローチしたということにしましょう」
「逆の方がいいんじゃない?その、わたし今社交界ですごい悪評を流されてるはずよ。ヴェルの評判が悪くなっちゃう」
「造作もないことです。できるだけ貴女に負担をかけたくありません。これも俺の我儘です」
「もう、わたしに都合のいい我儘ばっかり」
ヴェルは少しだけ眉を下げて笑う。
「まあ、あとは適宜うまくやりましょう。行きますよ」
「えっ、もう?」
「はい。もうです。荷物を準備していただけますか?必要とあればこちらでも何なりと用意しますので」
「分かったわ」
ヴェルは外套を身につけて、目に掛かった黒髪をさらりと横に流した。
「じゃあ荷物を用意したら、みんなに伝えに行きましょ!任せて、今からわたしたちはラブラブ新婚夫婦よ」
「はは、頼もしいです」
そう言うと、彼はこちらに手を差し出した。
エスコートの意なのだろうが、その手にそのまま抱きついて腕を組む。
「こうした方がいい」
見上げた先の彼の瞳は、わたしのみを写している。ほんの少し、彼の纏う空気が揺れたような気がした。深呼吸をして、応接間の扉を開けた。
――――
「わたしたち、結婚することになったわ」
「「えぇえええぇえ!?」」
荷物の準備を終えて広間に着いた瞬間放たれた言葉に、使用人たちは驚きで声を荒らげた。
「えぇ!?いや、恋仲だったんですか!?」
「ええそうよ。つい昨日からね」
組んだ腕をぎゅっと抱きしめる。
「そ、その、伯爵の件は…?」
「彼との婚約は破棄したの」
「俺が久しぶりに会った彼女に心を奪われて、すぐにプロポーズしたんです」
わたしのぎこちない演技に、ヴェルがすかさず補足する。淡々とした口調はいつものとおり冷静なもので、話に妙な説得力を持たせている…案外上手くいくかもしれない。
「や、やるなぁ……お嬢様、おめでとうございます」
「お二人とも、おめでとうございます!」
「ふふ、ありがとう」
彼らの祝福に笑って応える。ヴェルも軽くお辞儀をした。
「その、母が起きたら言っておいてくれる?せっかく戻ってきたばかりだけど、ヴェルのお屋敷に住むことになったの。急な話でごめんね」
「いえいえ、お任せください!」
驚きに目を見開いていたアリスが笑顔でそう答えると、興奮冷めやらぬまま他の使用人達と話しだした。雇用主の突然の告白に驚いたようだが、どことなく、リヴェルトなら大丈夫だろうという雰囲気になっている。
「大丈夫みたいね」
「ええ」
ヴェルも頷いて優しく微笑んだ。
「では、俺たちはもう行きます」
「また顔を出しに来るわ。本当にありがとう」
彼ら一人一人に挨拶をして邸を出たあと、ヴェルの呼んだ大きな馬車に二人で乗り込んだ。扉を閉めると、どっと緊張が解けた。
「よかった、バレなかったわ。名演技じゃない」
「はは、フィーネ様こそ」
組んだ腕を離して、椅子にもたれる。
「これからよろしくね、ヴェル」
「はい」
二人で馬車に揺られるのも本当に久しぶり。またマルセルおじさんに会いに行かないと。ちらりと横を見る。ほんの少し近づけば届く距離に彼がいるのが嬉しかった。滑らかな黒髪が太陽の光に反射してきらきら輝いていた。
「着きました」
「わ…」
ヴェルの屋敷は想像以上に大きかった。わたしの邸の2個分?いや、庭も含めると…
「フィーネ様。お部屋を用意してありますので、案内します」
「ああ、ありがとう」
ヴェルの手を取る。洒落た鉄扉を開いて中へ入ると、彼の趣味なのか、花があちこちに飾られている廊下が広がっていた。
「すごい、綺麗ね」
シャンデリアに暖色の光が灯っている。あたたかな雰囲気なのに、人の気配が全く無いのに気がついた。
「使用人は雇っていないの?」
「ああ、魔法で大抵はどうにかできるので。ほんの数人しか雇っていません」
「へぇ…そうなのね」
魔法で日常生活のほとんどをどうこうできるなんて、相当勉強したんだろう。また魔力の量もかなりのものであるはずだ。ヴェルの大きな背中に続いて階段をのぼる。騎士団の外套がひらひら靡いていた。
「俺の自室はこちらに。書斎がもう1つ階段を登った先にあります。基本的にそのどちらかにいることが多いです。トイレはあちらです」
ヴェルはゆっくり歩く足を止めずに説明した。そして突き当たりまでたどり着いた後こちらに振り返った。
「ここがフィーネ様のお部屋です。もしお気に召さないようでしたら、別の部屋もご用意できます」
案内された部屋は広すぎず狭すぎず、丁度いいくらいの広さだった。また、家具も華美過ぎないのが良い。
「もう、お気に召すわよ。ありがとう」
「それは何よりです。では、俺は自室へ戻りますので。夕食まで好きなようにお過ごし下さい。魔法が必要な時は俺に」
「うん」
ヴェルを見送って、扉を閉める。そして早速大きくてふかふかそうなベッドに飛びついた。ふんわりと反発する羽毛の感覚すら楽しい。今まで生きてきて、一番安心できる空間かもしれない。それは言い過ぎか。
その後も屋敷の中を探検してひたすらにはしゃいだ。途中この感動をヴェルにも伝えたくて彼を連れ出したくらいだ。仕方ないですね、と笑うヴェルが懐かしくて、わたしもたくさん笑った。
――――
それから、1週間。ヴェルとの蜜月はとても充実している。大好きなお花の手入れができて、ヴェルと同じ食卓でご飯を食べられて、ちゃんと眠れる。眠るときのヴェルの魔法はとても繊細だ。脳にじんわりと彼の魔力が染みていくような、あの魔法。毎日騎士団の業務を終えた後だというのに、嫌な顔ひとつせず施してくれるのだ。何かお返しをしたい気持ちでいっぱいだけれど、「最低7日間は休むことだけを考えてください」と言われてしまったので仕方がない。今日で7日目。20時。そろそろ彼の退勤時間だ。ヴェルが帰ってくるのを窓辺で小説を読みながら待っていた。
「ふわぁ…」
欠伸をする。本は5分の1程読んだところで既に飽きてしまっていた。やはり活字は苦手だ。ヴェルの書斎には大量の本棚に分厚い本がびっしり詰まっていた。その殆どが魔導書か難しそうなものばかりで、その中でも読みやすそうなミステリー小説を選んでみたものの…結果は言うまでもない。
「あっ」
ヴェルが屋敷の門を通るのが見えた。本を元の位置に戻し、玄関までかろやかに駆ける。
「おかえりなさいっ」
ヴェルは玄関先まで迎えに来たわたしを不思議そうに眺めて応えた。
「ただいま帰りました」
彼が部屋に戻るのに同行しようと隣を陣取った。
「ヴェル、めでたいわよ。今日で結婚7日目の記念日!約束覚えてる?妻として何か手伝わせて」
「めでたいですが…7日間というのは、7日目も含むのですよ」
「…」
ヴェルの目をじっと見つめる。
「……体調にお変わりは?」
「ないわ」
「生活に不自由は無いですか?」
「ない」
「無理はしていませんか?」
「してない」
ここ数日で分かったことは、上目遣いで押し通せば大体の場合折れてくれるということ。
「…仕方ありませんね」
やっぱり。してやったり、と笑うと、ヴェルもわざと大袈裟に顔を顰めた後、堪えきれないように笑った。
「…では、明日、俺の騎士団に顔を見せに来ていただけますか?公的に結婚したからには、形式通りに挨拶をする必要があるのです」
第三騎士団。ヴェルが通うそこに興味がある。それに初のお返し!断る理由は無い。
「分かったわ、任せて!」
ヴェルの肩をぽんと叩いてグッドサインを作る。
「助かります。ありがとうございます」
「じゃあ、早く寝た方が良いわね。今日はもう寝るわ。ヴェル、魔法をかけてくれる?」
「はい」
身を乗り出して、頭をヴェルの方へ向ける。ほぼ習慣化された夜のルーティーンである。
結局、7日間みっちり休まされたことに気がついたのは、魔法をかけられたあとだった。




