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2.双眸に映るのは

結局また一睡も出来ずに一晩中蹲っていた。顔色も酷いらしく、朝餉を配膳しに来たアリスにかなり心配された。

魔力を失ってしまった事には、ここにいても尚慣れない感覚として残っている。元からあまり高等な魔法は使えなかったけれど、ほぼ20年間体に満ちていた魔力の存在感がまるごと失せたのは、中々に苦しいものがある。そんな思考に呼応するように、全身に植え付けられた痣が痛んだ。

……でも、大丈夫!今日はやるべき事があるのだ。切り替えないと、悲しいことはなるべく忘れて、切り替えないと、やっていけない。


ひとつ。クラウス様との離婚の手続きを済ませること。

今朝方届いた手紙を読んで、向こうで起こっている手続きについて大体理解した。こういう時は仕事の早い人だ。サインの済まされた離婚届が同封されていた。空欄にサインを書いてすぐに手紙を送ったので、今夜には離婚が成立しているだろう。そして、手紙の最後の方には、「今後の金銭の援助は一切行わない」とあった。当然のことである。


そこでふたつ。お金をどうにか稼がないといけない。母の薬代は生半可な仕事の給料では払えない。使用人の人件費と、食費、邸の維持費、税金…碌に経営の教育を受けてこなかったから、どこのお金を削げばいいのかなんて分からない。いっそ、わたしが娼館で働くのは…いや、無しだ。それ程稼げるとは思えない。やはり、また金銭的援助をしてくださる方を探して、籍を入れるしか…机に散らばった縁談の釣書を眺める。社交界でわたしの噂はとっくに広まっているだろう。確実に良縁は望めない。


「エドモン伯爵…」


この人は確か、妾が何十人もいる50代の伯爵だ。舞踏会で女に囲まれている、小太りな彼の姿を見たことがある。わたしのような丸顔の女が好みなのだろう。異常な性癖があるとかないとか、女絡みの悪い噂も絶えないが…事業に成功して、かなりのお金を持っているようだ。事業に将来性もあるし、金銭的援助という面でなら彼が1番良い条件だと思った。そもそも、条件、などと選べる立場ではないのだ。


…彼からの求婚を、受けよう。我が家を存続させるには、これしかない。アリスや他の使用人達にそう伝えて、承認の手紙を出す。これで、大丈夫。ぼすりとソファにもたれる。エドモン伯爵のところでは、あんな扱いを受けなければいいけど…そんな保証はなかった。彼のお膝元は、どう考えても良い環境であるとは言い難い。ぎゅっと目を瞑って、顔を両手で覆った。静かに息を吐いた。これで、大丈夫…


ぼんやりとする脳が、無意識的に足へと信号を送る。ゆるゆると立ち上がった。ああ、そうだ、あそこに行こう。このままではきっと壊れてしまう。空はほとんど暗くなっていたけれど、構わず一人で邸を飛び出した。行先はひとつだけ。あの青い花園へ。西の通りを進んだ先、わたしたちの秘密基地だった場所へ。


ネモフィラの咲き誇る花畑は、驚くことに、幼い頃と同じ姿でそこにあった。夜風が花弁を持ち上げて、ゆらゆらと揺らがせている。草むらをかき分けて、小道の辺りに座り込む。花の爽やかな香りがした。ぎゅっと膝を抱え込み、考える。これからどうなってしまうのか。どうすればいいのか。


「う、ぅ…」


地面に水滴がおちる。一人でいるとだめだ。嫌だ、泣きたくないのに。


がさり、

「…?」


ふいに草の上を歩く音が聞こえた。背筋が凍って、直ぐに涙を袖で拭う。誰かいるのだろうか。どうしよう。不用心にも、一人でここまで来てしまった。がさり、確かに近づいてきている。月光に反射するその黒い影は背の高い男性のものであった。暗くて容貌は全く見えないが、視線を感じる。こちらを見ている。


「だ、だれっ――」

「フィーネ様……?」

「……っえ…」


影が更に近づく。その声に聴き覚えがあった。

恐る恐る顔をあげる。夜の闇にさらりと溶ける黒髪に見覚えがあった。彼の琥珀色の目が驚きに見開かれる。


「ヴェル、ヴェル…!?どうしてここに?」

「俺は、いや、フィーネ様こそ、なぜ…」

「ええと、ふふ、色々あってね」


かなり背格好が変わっているけれど、間違いなくリヴェルトだ。立ち上がって背を比べてみると、彼の成長を肌で感じた。

会えて嬉しい。今までどこにいたの。そういえばね。言いたいことは山ほどあったけれど、口から出てくるのは他愛もないことばだった。


「すごい、すごく背が伸びたのね。もう背伸びしても届かない」

「フィーネ様」


ヴェルは伺うようにこちらを見る。咄嗟に目を逸らしてしまった。無理しているのがバレたら嫌だった。何が、会えたら話を聞いてもらおう、だ。結局彼の前では見栄を張ってしまう。


「なあに?」


彼は苦しげにわたしの腕を凝視していた。しまった、と思った。痣を隠していなかった。


「ああ、ごめんね。見苦しいでしょ?」

「何があったのですか…!」

「大丈夫よ」

「返事になっていない、答えてください。それとも俺は話すに値しない人間ですか」

「……ヴェルは相変わらず綺麗ね」

「誤魔化さないで。お願いです。俺を頼ってください」

「………………」

「………」

「……聞いてて、快い話ではないの。それでも良い…?」

「勿論。貴女の気が済むまで」


…ヴェルはいつもこうだ。わたしの頭の中でぐちゃぐちゃに絡まった葛藤を、いとも簡単に解いてしまう。あどけなさの欠片も無い端正な顔がこちらを見ていた。姿形は変わっているのに、こういうところは全然、全く変わっていない。


わたしは結婚してからこれまでのいきさつを全てヴェルに話した。クラウス様のこと、魔力のこと、暴力のこと…途中何度も嗚咽が込み上げて、上手く話せなかったけれど、彼は急かすことなく、ただ静かに聞いていた。


「…ごめんね、こんな」

「…いえ、本当に、長い間お疲れ様でした。気の利いた事が言えず、申し訳ございません」


そう言ったきりヴェルは黙ってしまった。やはり、聞いていて楽しい話ではないからか。何かを堪えるような顔をして強く拳を握っていた。


「…いいの、もう大丈夫だから!そう、新しい嫁ぎ先も決まったのよ」

「……………誰に」

「エドモン伯爵よ」

「何故彼を?伯爵の黒い噂が事実である事を、貴女が知らないはずがない。フィーネ様、大丈夫ではないでしょう」


優しい声色。鼻の奥がツンとして、涙が溢れる。どうしてもヴェルに見られたくなくて、思わずその場にしゃがみ込んだ。


「………お金。言い方がわるいけど、お金の援助があるなら誰でも良かったの」

「…そうですか」

「うぅ、どうしよう…嫌だよ、ヴェル…」

「……」

「わた、わたし、ごめんね、どうすれば。もう限界なの」

「…フィーネ様」

「助けて、助けて…」


はじめて吐露した本音は、哀しいほど惨めな色をしていた。精一杯手を伸ばして、ヴェルの手に触れた。節くれ立ってかたい、騎士の手だった。それに応えるように、彼もわたしの手を優しく握る。暫く沈黙したあと、ヴェルが小さく息を吐いたのがわかった。手を握る力が少しだけ強まる。


「フィーネ様、俺と結婚してください」

「………………えっ」


聞き間違いだろうか?あまりの驚きに一瞬涙が止まる。頭が追いつかなくて、堪らずヴェルを見上げた。


「え。け、結婚?ヴェルと?」

「はい。俺と結婚しましょう」

「え、ええ?あの…」

「金銭的援助があれば誰でも良いと仰いました。誰でも良いなら俺でも良いはずです」

「いや、その」

「お金の事なら問題はございません。望むだけの額をお支払いします」


ヴェルがそう言うなら大丈夫なんだろうけど…いや、そういうことではなく。


「だ、だめよ」

「何故です」

「い、いや…逆にいいの?わたしと結婚して」

「はい」

「えぇ…」


ヴェルは握る手の力を更に強めて、わたしを引き寄せる。


「俺を救ったのは貴女です。これまでの恩をお返しさせてくださいませんか」


まっすぐ瞳を射抜かれる。琥珀色の虹彩がわたしをとらえた。


「恩って、わたしは大した事なんかしてな――」

「しています。部下として主への恩返しは当然のことですよ」

「う、ええ…」

「どうか、お願いです。俺では不満かもしれませんが、少なくともあの伯爵よりかは常識を持ち合わせています」

「不満なんてことないわ。でも、ヴェルは本当にいいの?わたしと夫婦になるのよ?……あなた自身の意志と人生を大事にしてほしいわ」

「大事にした結果のことです」

「そ、そう…」

「何も恋愛結婚をしていこうというわけではないのですから、安心してください。ですが、今はどうか俺を受け入れてください。このままでは貴女が壊れてしまう」


ヴェルが真剣な声で、言う。恩返し…本当に、いいのだろうか。正直、わたしに断る理由なんてなかった。なんて良い部下を持ったのだろう。わたしがこんなに幸運で良いのだろうか。こわごわと彼の目を見る。


「で、では、お願い…します」

「はい」


ヴェルは安心したように顔を綻ばせて、わたしの手を離した。


「それでは、伯爵の求婚を拒否する旨を手紙で伝えましょう。なるべく早く」

「わかったわ。本当に、ありがとう」

「ええ、気にしないでください」



まだ気持ちが追いついていない、夢の中にいるような心地だった。夜風が随分冷たく、ごうごうとさざめいている。辺りはもうすっかり暗くなっていた。


「…そろそろ、帰るわ」

「送らせてください」


彼はわたしの手を取ってエスコートする形で、ゆっくりと歩き出した。こうするのも久々で、なんだか変な感じだ。そのすました顔は、隣を歩くわたしに先程プロポーズをしたとは思えないほどに涼しいものだった。


「ありがとう…あとその、ひとつ聞いてもいい?」

「何でしょう」

「ヴェルはどうしてここに来たの?もうアルデンヌ邸では働いていないんでしょう?」

「……散歩に。胸中を落ちつけたいとき、たまに来るのです」

「へぇ…じゃあ、ヴェルとここで会えたのはとんでもない奇跡ね…ふふ、嬉しいわ、本当に」

「俺も、ここで貴女に会えて喜ばしい限りです」

「あ、それと、どうして何にも言わずに去ってしまったの?わたし、ほんとにびっくりしたんだから」

「……はは」


困ったように笑う。彼が言いたくないときの癖である。月光が照らす横顔も、やっぱりあの頃と変わっていない。


「まあ、いいわ。また会えたんだし…あとその、結婚の手続きはどうすれば」

「俺が全てやります。何なら伯爵への手紙も俺から出します。その方が穏便に済むでしょう」


いや、あの頃とは少し違うかもしれない。随分と頼り甲斐のある青年に成長してしまったようだ。ぼんやりと彼の目を見上げながら、疑問を投げかける。


「ねえ、ヴェルって一体何者なの?穏便ってどういうこと?」

「ああ、ええと…俺は今、国立第三騎士団の団長として務めていまして。騎士爵を頂いたので、伯爵家よりも爵位が高いんです」

「えぇ……!?え、ほんとに!?」


国立第三騎士団とは、文字通り国が設立した3つ目の騎士団のことである。わたしの父が所属していたところだ。国中に出没する凶暴な魔獣の退治、討伐を職務としている。昔父が、魔獣は攻撃魔法を込めた刀で斬らないと殺せないから魔力を持つ人間しか第三騎士団には入れないのだ、と言っていた事を思い出した。そんな精鋭の部隊で団長ということは、つまり、相当凄いということだ。


「第三騎士団長ってかなりすごいわよね?ヴェル強いの?」

「それはもう強いです」


彼の剣においては自信満々な性情を思い出す。あれからどのくらい剣技に磨きがかかっているのだろうか。


「ふふ、頼もしい。わたしのこと守ってね…ああ、いや、ごめんなさい、もうこんなこと言える立場じゃないわよね。男爵家の女に敬語を使わなくてもいいのに」

「主と従者の関係に、身分の差など介入しないでしょう」

「するわよお」

「俺の忠誠は変わりません。俺の主は後にも先にも貴女だけです」

「…ありがとう」


少し足を早めると、ヴェルがいつものとおり歩幅を合わせて続いた。


「伯爵へのお手紙、お願いしてもいいかしら」

「ええ」

「それなら今日は久しぶりにうちに来ない?あなたのお部屋、空き部屋のままなの」

「いいのですか?」

「うん、きっとみんなも喜ぶわ」

「ありがとうございます」


彼は形の良い目をすっと細めて笑った。懐かしい笑顔。ヴェルがいるだけで、なんでこんなにも安心できるんだろう。言いようのない感情がゆらりと湧き出て、冷たい空気に舞う。


「…わたしね、ヴェルがいて幸せ」

「……はい」

「だからヴェルにも幸せでいてほしい。自分を捧げすぎないで、わたしがヴェルのために出来ることがあれば、何でも言ってほしいわ」

「ありがとうございます。こちらこそ、まず第一に俺のことを頼ってくださいね」

「ふふ、ありがとう。立場的にあなたを縛ってしまうことは避けられないけど、なるべく迷惑をかけないようにすごすから」

「その必要はありません。迷惑など気にしないで好きなようにお過ごし下さい」


ヴェルはきっぱりとそう言い切った。彼は、ずっと優しい。部下として、寧ろ家族として、一番に大切な彼のことを見上げる。彼となら大丈夫だと思った。こんなに安心した気分になるのは、いつぶりだろうか。


「ふふふ」


思わず笑いがこぼれる。ヴェルの手を握った。


「これからよろしくね」

「…はい。こちらこそよろしくお願いします」


夜風がふわりと花の香りをここまで運んだ。彼もそれを感じたのか、ふたりで顔を見合せた。


「冷えますね」

「そうね」


邸が見えてきた。そこでふと思い出す。


「黙って出てきてしまったから、もしかしたら大騒ぎになってるかも」

「何やってるんですか?」

「一緒に謝ってくれる?」

「…わかりました」

「えへへ、じゃあ早く行きましょ」


弾かれたように走り出す。握った手をそのままに、ひたすらにふたりで夜道を駆けた。

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