1.残光
バン!
扉を叩く大きな音で意識を取り戻す。長い間ぼんやりしてしまっていたようだ。外からクスクスと笑う声が聞こえて、彼女らが来たことを悟った。彼女らというのは、このジェラール公爵邸の主でわたしの夫であるクラウス・ジェラール様付きの侍女3人組のことだ。わたしが2ヶ月前、こうなってから…なんと子供じみたことだろう、毎日わたしを嬲りに来るのだ。フィーネは自分の痣だらけの体を掻き抱いて、声を殺して泣いた。懐かしい夢をみていた。「夢」といっても不眠を患っているのだから幻覚の方が正しいのではないか。いや、それはどうでもいい。早く扉を開けなければ。ふらつく体を起こして扉を開ける。
「やっと開いたぁー」
「おそいよぉ、男・爵・令・嬢・サマっ」
「やめなよ〜、あはは、ほら可哀想じゃん」
「……」
懐かしい夢をみていた。
「ねーお前何してたの?」
「そうだよ、私たちのこと待たせて。お仕置きだよね?ね?」
俯くと脳がジクジク痛んで、正常な思考を奪っていく。どうしようもなく眩しい夢に縋った。今と比較して苦しくなるだけだからと思い出さないようにしていた、懐かしい日々の思い出。ネモフィラの花畑。リヴェルト、リヴェルト、ヴェル…笑顔で送り出してくれた彼は、今のわたしを見たら一体何を思うだろう。
「なにボーッとしてんの」
「…っ痛」
不意に腹を蹴られて思わず後方へよろける。床の冷たい感触に、どうしようもない不快感を覚えた。
「まじでさァ、お前、死ねよ」
太腿、腕、次々に蹴りを入れられる。この暴力には抵抗してはならない。さもないと、「クラウス様と、彼の貴族界で関わりのある人々に、お前が自殺を試みたことを告げ口する」と彼女たちに脅されているからだ。「魔力を失った状態のお前を、俺の情け容赦で屋敷に置いてやっているのだから、絶対に迷惑だけはかけるな」と言われていたのに、わたしが本当に愚かだったから。生活に耐えかねて、愚かにも自死を試みて、それを失敗したところを彼女らに見られてしまった。妻の自殺未遂など、旦那の名誉に非常に大きく関わることは言うまでもない。クラウス様に見捨てられたくない一心で、彼女らに従っているのだ。
狭い部屋に、笑い声と鈍い音が響く。
「魔力無くなったアンタとかまじで本物のゴミだよ、生きてる価値無い。なんでここにいるのよ」
何十回も聞いた言葉。自分でもそう思う。
「なんでアンタがクラウス様の嫁の座に居座ってるわけ?ホントありえない」
俺の評判に大きな傷が付くからと、離婚を渋られたのはわたしの方だ。情け容赦とは何なのか、結局自己保身じゃないか。あれからもう2ヶ月も経つ。あの人は何を考えているのだ……いや、違う。この件において、悪いのはわたし一人だ。彼に責任を転嫁してはいけない。
「絶対あたしの方がクラウス様に相応しいのに。コイツなんなの」
「ミーナはずっと好きだったんだもんねー?クラウス様の地位しか見てないこいつと違って」
その通りだと思った。確かミーナは子爵家の四女、わたしよりも家の爵位が高いのだ。わたしがいなければ、ミーナとクラウス様が結婚する未来も確かにあったのかもしれない。
でもわたしだって好きだった。クラウス様のことが。初恋だった。だって、あんなに優しくて、
――フィーネ様は、本当に彼のことが好きなのですか?
………ヴェルにこう尋ねられたのは、いつだったっけ。そうだ、クラウス様と初めて二人で会った日の夜。あのときは自信を持ってそうだと言えたけれど、今は…
「アンタなんでここにいるのよ、消えろ」
なんでここにいるんだったっけ、わたしをここに繋ぎとめていたのは、わたしのクラウス様への恋心だ。でも、
「死ね、不細工!寄生虫め、下衆野郎」
絶対にこんなに苦痛を感じてまで、抱き続けなければいけないような想いでは、ない。
……もういいか、もういい、どうでも。
これで最後だと力を振り絞って、横に立っていたミーナの足首を、右足で強く蹴る。
「いった…!?」
ぼすんとベッドに倒れたミーナは瞠目し、その他2人も驚きで一瞬たじろいだようだった。その隙を見て、痛む脇腹を抱えながら部屋の奥の両開き窓を目指す。
「ちょ、待ちなさ…」
「何!?あいつ!」
窓を開けると冷たい夜風が頬を撫でた。2階。左の植木に飛び移れば、降りられないこともない。大丈夫。ここで失敗したら、それまでの人生だったという事だ。窓枠に足を掛ける。
「おい、お前……!」
誰かが連れてきたのか、クラウス様が部屋の前まで来ていた。けれど、躊躇うことはない。
「今まで大変ご迷惑をおかけしました。全ての責任は、身勝手なわたしにありますわ」
窓枠に完全に飛び乗る。ちらりと木を見やる。窓からざっと…1m程。どれだけ体が鈍っていようと、この距離を飛べないわたしではない。
「社交界で、とんでもない毒嫁に当たってしまったとお伝えください。その他のご要件は、申し訳ありませんが、わたしの実家、アルデンヌ男爵家宛に手紙を書いてください」
「おい、何をしようと…!」
「何やって!」
「必ずお返事すると約束しますわ。今まで本当にありがとうございましたーっ!」
窓枠を蹴って飛び出した。
「きゃあ!ちょっと!?」
「おい!」
太い幹に左腕を絡めて、そのままずり落ちる。草の感触がして、足の裏が地面に着いた。ほんとうに、降りられた…
「ちょっと!クラウス様っ」
「……いや、追うな」
「はあ!?」
窓の上から話し声がするけれど、関係ない。門を抜けてしまえば街が近いから、逃げられるはず。「追うな」って、やはりわたしのことを厄介払いしたかったらしい。いや、もういい。うちに、帰ろう。門を抜け外に出る。街の大通りの方に、昔ヴェルと二人で邸を抜け出して街へ行くときに、よく乗っていた馬車のマルセルおじさんがいるはず。手持ちがないから後払いになるけれど、しょうがない。冷たい空気の中、裸足で覚束無い足を懸命に動かす。屋敷にはきっとヴェルがいるはず。わたしの護衛騎士だったのだから、そのままアルデンヌ男爵家辺りで警護をしているのではないだろうか。帰ろう、帰ろう。もう5年も会っていないのだ。無性にヴェルに会いたい。
暫く街には来ていなかったけれど、目新しいところと言えば道が舗装されているところくらいで、景色は昔とさほど変わりなかった。痛む全身を懸命に動かし、大通りへ向かう。眼鏡屋の手前のあたりに確か…
「あった、」
昔と同じように馬車が停まっていた。
「マルセルおじさん!」
「…おお、お客さん、んん?もしやフィーネちゃんか…?」
「覚えててくれたの?嬉しい、フィーネよ」
「もちろんだよ。いや、それよりどうしたんだ?その痣と…」
「ごめんなさい、ここでは言えないの。大急ぎでアルデンヌ男爵邸まで届けてくださらない…?」
「…ああ、分かったよ。聞かないでおく。それと寒いだろうから、毛布を」
「え?……あ」
漸く自分の姿を客観的に意識した。痣だらけで裸足。自慢だった栗色の髪だってぼさぼさになって絡まっている。纏っているものはネグリジェと下着のみだった。
「ありがとう。それと、本当に申し訳ないのだけど、」
「運賃かい?昔っからずっと後払いじゃないか。忘れたとは言わさないが、今更そんなこと気にしないよ。常連さんだからね、数年振りの」
「……ありがとう」
「ほら、早く乗りな」
「うん」
カタカタと馬車が揺れる音と、風を切る音。懐かしくて思わず笑ってしまった。
「リヴェルト君は一緒じゃないのか」
「ヴェル?」
聞き返してからすぐに納得した。この馬車に乗る時はいつも一緒だったから、おじさんがそう尋ねるのも当然だった。
「おじさん、わたしが結婚したのは知ってるでしょ?そのときに護衛騎士の任を解いたから、嫁いだ先には一緒に来てないの」
「へえ、それはまた何で?」
「…?何が?」
「あんなに仲が良かったのに、喧嘩でもしたのかい?」
「ああ、喧嘩別れじゃないの!こっちにも腕の立つ護衛はいるし、何よりヴェルが嫌だって言ったから…ほんとに喧嘩別れじゃないのよ?嫌われた訳でもないと思いたいけど…」
「そうかい」
「でも家に帰るのは5年振りだから、ちょっと緊張してるわ。ヴェルと離れたのが、彼が…えーと、わたしの1個下だから…17のときだったの」
「ふーん。今は22?か」
「どんな風になってるのかしらね」
「そんなに変わってないんじゃないか?」
「そうかしら」
「男なんてそういうもんだ。今度俺にも見せてくれよ」
「ふふ、もちろん。また3人で会いたいわ」
おじさんと話すのは楽で良い。ふと会話が途切れた。気まずくならない沈黙は心地がよく、窓の外から見える星を眺めた。そういえば、クラウス様は星が好きだった。ああ…生活において、自分の思考において、彼が存分に侵食していることは否めなかった。ずっと好きだったのだから仕方がない。深く呼吸をして、ぼんやりと、なぜこんなことになってしまったのかを考え始めた。
わたしはアルデンヌ男爵家の長女として生まれた。貴族界において、その代生まれた子供の中で他の誰より注目を浴びていたのはわたしだったという。理由は単純で、魔力を持って生まれ、その魔力の量が通常より多かったからだ。国の神父様が言っていた。当時のわたしは全く分かっていなかったけれど、魔力は、魔法を使うに値する、神に選ばれし人間のみが授かるのだと。そしてそれは人間全体の0.1割にも満たないと。貴族家の間では魔力を持つか否かで、優劣の差が顕著に現れる。魔力を持つ人間が、より神に近いと考えられているからだ。また、魔法はさまざまな力をもたらす。魔力を持つ者は、先駆者が遺した魔導書を読んで懸命に懸命に勉強すれば、理論上はどのような魔法でも身につけることができるという。
だから、評判のため、事業に魔法の力を利用するため、理由は多種多様であるが、多くの貴族家が生まれてすぐのわたしと婚約する権利を欲した。騎士団の副団長であった父の人望も相まってか、わたしは階級の低い男爵家の令嬢であるにもかかわらず、かなりの縁談が届いたそうだ。父はせめてわたしが15になるまでは、と交渉し、随分彼らを待たせた。そして数年経っても縁談の申し出を取り消さなかった家の中から選んだという。その中でも1番好条件だったのが、ジェラール公爵家のものだった。
父にとって婚約の決め手となったのは、やはり彼らからの手厚い金銭的援助だろう。わたしの母が、わたしが9歳のときに難病に罹患し、高額の薬を常用することになったのだ。みるみるうちに金が消え、家の没落を危惧した父は取り急ぎジェラール公爵家との婚約を決めた。ジェラール公爵に泣いて礼を言う父を、わけも分からずぼんやりと眺めていたのを覚えている。最先端の技術と巧みな経営で、安定した商業を営んでいた彼らにとっては、婚約してからの毎月の援助に費やす金など端金であったろうが。といっても決して少ない額ではなかった。それ程までにわたしを欲していた理由なぞ、当時のわたしには知る由もなく、年上のお兄さんと結婚することが決まったのだ、とふんわりとした解釈で受け入れた。よくある政略結婚だ。
初の顔合わせはそれから数年経った後だったか。初めてクラウス様を見たときは、精巧な絵画のような美しさに息を飲んだものだ。あの稲妻が落ちたような衝撃を、今でも思い出せる。すぐに彼が運命の相手だと悟った。今考えると、大きな間違いではあったが。
ああ、あのとき、父も使用人も、誰もがクラウス様との結婚を喜んだ中、ヴェルだけが彼との未来を憂慮していたっけ。鋭い目でクラウス様を睨んでいたっけ。彼は聡いから、こうなる事を予期していたのかもしれない。いや、だから、悪いのはクラウス様ではないのだ。わたしが今こうなっているのは……
目を瞑る。彼との関わりは、何も最初から地獄だったわけではない。結婚してから2年後くらいまでは、わたしのことを蝶よ花よとばかりに丁重に扱っていたというのに。まあ、彼の家がわたしを手に入れた目的は、他でもなく跡継ぎを産ませるためだったのだから仕方がない。
魔力を持つもの同士が儲けた子供は、魔力を持って生まれる確率が莫大に跳ね上がるのだ。100%と言っても過言では無いくらいに。そしてその子供の魔力量は、親のそれに遺伝するのだから、より家の地位を強固に、磐石なものにするための神の子を産ませるのは、わたししかいないと考えていたようだ。クラウス様も相当な魔力の保持者で、誰もがその祝福を期待した。しかし彼らの計画は破綻した。わたしが5年も子供を授からなかったゆえに。
結婚して2年経った頃、これは流石におかしい、と医者に診断を受けたときのクラウス様の血の気の引いた顔は忘れられない。あれから全てが変わってしまったのだ。わたしは体質的な問題で、子供を授かることが難しいらしかった。先天性が何とか、とにかくかなり難しいだろうと、渋い顔の医者が言っていた。
さあ、何ということだ!跡継ぎが出来ないぞ!そのためにお前と結婚したのに!父上にどう説明すればいいんだ!とんだ欠陥品を寄越してくれた!とまあ溜まりに溜まった鬱憤をぶつけられ、その日を最後に、わたしは屋敷の使用人寮の隅の狭い部屋へと追いやられた。それからずっとずっと考えていた。わたしのせいだ、わたしのせいじゃない、どうしてこんなことに。ずっと日が当たらない角部屋で、魔法を使う仕事をしていた。腕時計に魔力を込めて電池が切れないようにするだとか、宝石を内側から輝かせるだとか。次第に満足に眠れなくなっていった。「クラウス様が他に女を作った」、「やっぱりあの女とは渋々結婚したのだ」と、侍女たちがひそひそ話すのを偶然聞いてしまったことを切っ掛けに。
それからまた3年が経った頃だ。朝起きたら異様に目眩がして、バチンと音が鳴ったかと思うと、わたしの中の魔力が完全に尽きてしまった。本来なら、眠っている間に湧水のように回復していくものを、眠れなくなったせいで、回復機能が壊れてしまったようだった。それを知ったクラウス様や侍女達の反応は言うまでもない。神から見放されたわたしには、もはや全く以て価値がない。見る間にわたしへの苛烈な虐めが始まった。全てわたしの自業自得である気もするし、そうでない気もする。しかしもう疲れ果ててしまった。
目を閉じていると、全身の痣がじわじわと痛みを主張してくる。ゆっくり目を瞬いた。どうしようもなく惨めで、視界が歪んだ。もしかしたらここで眠れるかもしれないと思っていたけれど、だめだったみたい。
「リーリアさんの容態はどうなんだ?いや、答えづらかったらいいんだが」
思考をぶつ切る。もうこんなことを考えるべきではないのだと思った。精一杯繕った声で、おじさんに答える。
「安定しているみたいよ。前に手紙で聞いたわ」
「それは良かった」
リーリアとはわたしの母の事だ。もう数年はベッドに寝たきりになっている。最後に話をしたのはいつだろうか。昔のことすぎてあまり覚えていない。ああ、でも…寝たままで返事をしてくれなくなった母を見て、毎日のように号泣していたわたしの寂しさを埋めるために、父がヴェルを雇ってくれたんだっけ。護衛騎士としては使い物にならないような10歳の少年が来てからは、寂しくなかった。自分と同じように、魔力を持って生まれた男の子。本物の弟のように可愛がったものだ。
「……」
クラウス様と結婚する直前に、父が急逝してしまったとき…あのときもヴェルがいちばんに慰めてくれた。物陰でこっそり泣いていたわたしをすぐに見つけて、何時間もそばに居てくれたんだっけ……帰ったら、少しだけ話を聞いてもらおう。
「そろそろ着くよ」
「ほんと?ありがとう。着いたらすぐお金を持ってくるから」
「いや、お代は要らないよ……何か事情があるんだろう?そんなところに集るほど野暮じゃないさ」
「…本当に、なんとお礼を言ったらいいのかしら」
「またご利用してくださるだけで十分だよ、ほら、着いた。次街に来た時もよろしくな」
「うん…また」
マルセルおじさんはわたしが降りたのを見届けると、来た道を引き返していった。馬の足音が遠ざかっていく。5年ぶりの我が邸を見上げ、息をついた。やっと、帰れた。鍵は持っていなかったから、呼び鈴を鳴らす。
「お嬢様…!?どうされたのですか!?」
門を開けた使用人のアリスが目を見開いてこちらを見ている。アリスの纏う柔らかい雰囲気は、ここを去った日と全く変わっていなかった。それに少し安堵感を覚え、無意識に微笑んだ。
「アリス、ただいま。ごめんなさい、連絡もなしに」
「いえ、それよりお嬢様、どうしたのですか?痣が…」
「ごめんなさい、我儘を聞いて?先にお風呂の準備をしてほしいわ」
「はい、ただ今」
アリスに案内され、邸の中へ入る。使用人達はわたしの突然の帰宅に驚いたようだが、温かく迎えてくれた。
かつての自室へ導かれ、ソファに腰掛ける。
「では、私はこれで。お風呂の用意ができたら、またお呼びしますね」
「ありがとう、アリス」
アリスはひとつ礼をして、扉を閉めて去っていった。
ずるずるとソファにもたれかかった。
変わりない使用人達の姿を見られてよかった。お風呂に入ったら、母に会いに行こう。
「……」
ヴェルはどこにいるのだろうか。玄関からわたしの部屋までの廊下にはいなかった。すぐに会いに来てくれるものだと思っていたから、少し拍子抜けだ。
かち、かちと、時計の規則的な音だけが響く。難しいことは明日考えよう。今日はもしかしたら、眠れるかもしれない。
「お嬢様、お風呂のご用意ができました」
「ありがとう、今行くわ」
1つ息を吐いて、扉を開けた。
風呂の鏡に映る自分の姿を見て項垂れる。どこもかしこも、青く内出血した痣だらけで嫌になる。少し目線を上げると、随分痩せてやつれた印象を与える顔と目が合った。薄らと笑ってみる。皆が驚くわけだ。昔のわたしはもっと笑うのが上手だった。寝たきりの母も、こんな娘の姿を見たら思わず飛び起きてしまうかもしれない。
脱衣所へ出ると、ふかふかのバスタオルと昔使っていた寝衣が置いてあった。やはり痩せたのか、その寝衣は昔よりも大きく感じた。
ぺたぺたと廊下を歩く。母の部屋は3階の南だ。扉を開けて中を窺うと、眠っている母が見えた。不思議と落ち着いた気持ちになって、ただいま、と呟いてから扉を閉めた。廊下は冷えるから、自室へ戻ろう。いや、その前に、アリスに尋ねる事がある。彼女の自室にいるだろうか。いや、この時間ならまだ給仕室にいるかもしれない。階段を降りて、給仕室のドアをノックする。「はあい」と元気なアリスの声が聞こえたと同時にドアが開いた。
「お嬢様!どうされましたか?」
「その…ヴェルは、どこにいるの?」
「…彼から聞いていらっしゃらなかったのですか?」
「なんのこと?」
「リヴェルトさんはお嬢様が屋敷を出た翌日にここを辞めたのです。行方は誰も知らなくて」
「えっ…そう、なの?」
頭が、真っ白になった。
「お嬢様にはお伝えしているものだと…」
「いや、知らなかったわ。ごめんね、変なこと聞いて」
「いえ…」
アリスにふっと笑いかけて踵を返した。頭が、頭がまたぐるぐると回りだした。ヴェル、ヴェル…
ベッドに入ってもやはり寝付けなかった。いずれクラウス様から届くであろう手紙のこと、お金が全く足りないということ、ヴェルがいなくなってしまっていたこと、悩み事、その全てが脳を駆け回る。
「ぅ…」
頭が割れるように痛かった。この世の全部から逃げ出してしまいたくて、布団を思い切り被ってきつく目を閉じた。
拙い文章ですが、よろしくお願いします




