2.はじまりの詩
ペラ___
「………とってもきれい」
高い木の上に登り、一冊の本をペラペラとめくっているのは幼い頃のレアナである。
隣国との戦争の最中、権力志向の強かった父親が叙爵され、男爵家の御令嬢として急に始まった勉強勉強の目まぐるしい日々…。
少女はその慣れない喧騒からたびたび逃げ出し、本の中で今までのように自由で楽しい時間を過ごしていた。
この物語の舞台となるのは、大昔に女神が造られたとされている大国 "イディール"。
ここで生まれたほとんどの国民は"贈り物"と呼ばれる女神からの祝福が一つ与えられる。
それは探し物を見つけたり、傷を癒したりと大小様々だ。
しかし、レアナは周りから祝福を授かれなかった"女神から見放された子"と言われている。
「あぁ…私、ベルアニームに生まれたかったわ…」
少女がため息をこぼしながら眺めるその本には、爽やかな緑の香りや穏やかな川のせせらぎが聞こえてきそうな美しい自然に囲まれた城や街の様子が描かれている。
"ベルアニーム" それは今まさに自国と争い合っている国であり、イディールとはまた少し違った贈り物のようなものが存在する、隣に位置する国である。
この国の民は皆、ある特徴を持って生まれるという。
「はぁ〜…なんて立派な牙なの?あぁ、かっこいい…」
レアナがそう漏らしながら手を止めたのは、首から上がライオンの姿となっている青年の絵が描かれたページ。
このようにその人によってある動物に似た格好に変化し、その威力や特徴を自分の能力として扱うことができるというのが隣国ではあり、ライオンや豹など猛獣の凛々しさや力強さに憧れをもつ少女はそれにとても魅力を感じていた。
「レアナ!アナタまたそんなところに登って…」
「え!?…あッ!」
「危ないッ!!!」
バキバキバキッ___
急に下から声をかけられ飛び跳ねたレアナはバランスを崩し、高い木の上から真っ逆様に落ちていく。
「レアナッ!大丈夫!?ごめんなさい、私…」
「お姉ちゃん…大丈夫だって!いつも言ってるでしょ?」
がしかし、その小さな少女の身体は硬い地面に強く叩きつけられることはなく、なんてことない様に笑いながら起き上がる。
「でも枝に当たって傷だらけじゃない!早く手当てをしないと…」
「こんなの舐めておけば治るわ」
「もう…」
祝福がないと言われているレアナだが、彼女はちゃんと贈り物を授かっていた。
「少しだけ身体を浮かすことができるだなんて…こんな時くらいしか役に立たないんだから」
ふとジャンプをした彼女と地面の間には、よくよく見るとわずかな隙間ができている。身体を浮かすことができるというのはすごいことだが、彼女の場合は地味過ぎて皆浮いていることに気づかないのだ。
隠しているわけではないが、かと言って胸を張って言えるほどでもないため、このことはレアナと彼女の姉しか知らない。
「ほら早く戻りましょう!血が出てるわ。痛くはない?大丈夫?ごめんなさい驚かせてしまって…」
さっきからずっと心配そうに見つめるのはレアナの3つ上の姉、ベアトリスである。
彼女は女神から最高の美を贈られたと言われるほど美しい容姿を持ち、レアナも時々隣で美しく輝く姉に目が眩むほどである。
「レアナ…またこの本を読んでいたの?お父様に見つかったら怒られるだけじゃ済まされないわよ?」
「だってこの本好きなんだもの…」
今起きている戦争はまさにこの本に書かれた隣国、ベルアニームの侵略によって始まった。穏やかな気候で育つ豊富な食物もそうだが、鉱物にも恵まれている自国イディールは何かと周りから狙われやすいのだ。そして今まさにベルアニームから奪われようとされているのだが、この国には女神の祝福を持つ選ばれし最強の騎士が揃っているため、今まで一度たりとも脅かされたことはない。なので今回の戦争も自国の勝利は確実だと言われていた。
「お父様が探してたわ。今日はお食事のマナーをお勉強するんですって」
「え!やった!美味しいご飯が食べられるの?」
「いいえ、メニューは変わらないわ。ナイフやフォークの使い方を学ぶの。」
「えぇ〜そんなのブスッと刺してパクッと食べればいいじゃない」
「それではダメよ。ちゃんとした淑女になるためには頭から指先まで気を配らないと…って先生はおっしゃっていたわ。」
「むぅ〜そんなに気を遣っていたら何を食べたって美味しくないわ!」
「美味しく食べるのも大切だけれど、綺麗に食べることも大切なのよ…」
自由を好むレアナにとって貴族の仲間入りをすることは大変喜ばしいことでも何でもなかった。
姉にとってもそれは同じことの様だが、姉は決して父に反抗することなく、いつも慎ましく真面目に言われるがままそれらをこなしていた。
きっとこの時からすでに、自分の立場をちゃんとわかっていたのだろう。
それから月日が経ち、少女達がお互い励まし合いながら立派な淑女へと成長する頃、長く続いた戦争も予想通り自国イディールの勝利で終わりを迎えた。
そんなある日…。
「ベアトリスの結婚が決まったぞ」
いつもより豪華に感じる夕食をお淑やかに味わっていると、二人の父は上機嫌でそう告げた。
遂にこの時が来たか、とレアナは急に飲み込みづらくなった柔らかいステーキをごくんと音を立てながら喉の奥へと押し込んだ。
「承知いたしました。それで私はどのような方の元へ…?」
音もなく手を止めたベアトリスは、いつもと変わらない穏やかな笑みをゆっくりと父のいる方へと向けた。
「ドゴール辺境伯だ。こんな良い縁談は滅多にないぞ!」
「ッ!?」
「………そう…ですか」
"ドゴール辺境伯"
その名を聞いてレアナは思わず立ち上がりそうになったが、ベアトリスの先回りした視線によってそれは止められた。
バンッ___
一気に味のしなくなった豪華な夕食をさっさと済ませ、レアナはすぐにベアトリスの部屋へと飛び込んだ。
「そんな…姉様そんなのダメよ!あの最恐と言われるドゴール辺境伯に嫁ぐだなんて!」
と言っても私たちの意向なんて関係のないことで、姉は仕方ないといつものように父の決定を受け入れるのだろうとレアナは思っていた。それでも、飛び込まずにはいられなかった。
「そうね……………私…こんな結婚…したくないわ…」
「えっ………お姉…ちゃん…」
レアナは思いもしなかったベアトリスの言葉に、いつもの笑顔崩れる切ない表情に、目の奥がカッと熱くなった。
「なんて言ったって仕方のないことね…」
「……そんなことないわ…なにか…なにかあるはずよ…」
すぐにいつもの小さな花の咲いたような笑みを浮かべるベアトリスにますますレアナの視界はぼやけていった。
「レアナ…なぜそんなに泣くの?私は大丈夫だから…きっと…きっとだい…だいじょう…っ…うぅっ…」
「大丈夫なわけないっ!うぅっ…なぜ?なぜお姉ちゃんがそんなっ…」
「ごめん…ごめんねっ…今だけっ…今だけは許してもらえるかしらっ…」
ギュッ___
レアナは思わず駆け寄り、震えるベアトリスの身体を同じ様に震える腕で力いっぱい包み込んだ。
初めて見る姉の泣き顔はぼやけてよく見えなかったが、そんな時でも姉の顔は儚く綺麗だと、レアナは心の隅で思った。
そして…
「そうよ…この結婚を回避する方法がきっとあるはずだわ…」
「そんな…無理よ。お父様には逆らえないわ…」
「………姉様?」
「なに?」
「この家を捨てて生きるのはどうかしら?」
「この家を…捨てる?」
「私たちなら、それができるかもしれない…」
レアナの頭にパッと浮かんだこと、それは…
「姉様が飛び降りてしまえばいいのよ…」
「…………え?」




