16.
「だ……旦那…様?」
シン…とした空間にレアナの小さな声が響く。
「すまない…君を怖がらせたくない…すまない…」
それよりも弱々しい彼の声は、空気を重く細かく震わせた。
「すみません…ここを偶然見つけてしまって…勝手に入ったのは私です。申し訳ありません!」
「ッ!………」
大きな身体を震わせながら小さく小さくする彼の姿に、レアナは胸の辺りがキュッとして思わずそう声をかけ腰を持ち上げる。
しかしそれはさらに彼を壁へと追いやらせてしまうこととなり、レアナはどうすればいいのか階段の前で進むことも下がることもできず戸惑っていた。
「だ、旦那様はここで何をされていたのですか?…あ」
薄暗い部屋に今度は似合わない高くふわふわとした声が響く。
私ったらなんてことを聞いてるのよ!そんなの…
とりあえず気分を変えようとなるべく明るい声で話しかけるが、咄嗟に出たにしても内容があまりにも酷すぎる。
でもまさかあの噂は本当なの?まさか旦那様がひ、ひとを…
「………ん?」
焦点を奥から手前に変えるとそこには横たわる人…ではなく、鹿や猪などの動物が床に転がっていた。
「俺は…動物の血を得ることで強い肉体と力を手に入れてるんだ。これが…"女神が俺に与えた力"だ」
「………女神様からの贈り…物?」
「贈り物だなんて思ったことは一度もない…こんな力…しかしこの地を、この国を守るためには必要なのだ…」
「………そう…だったのですね」
チラリと黄金の瞳と目線が重なるが、すぐに逸らされたそれはまた暗闇に消えていく。
レアナはなぜかそれに寂しさを感じ、これ以上彼が怯えないようにと優しくそう声をかけた。
「様々な噂が流れているのは知っている。俺は人の血が欲しいと思ったことは今まで一度もなかった…でもこの姿を見て怖がらない人などいない。それに君は…」
「私は怖くありませんわ」
「………え?」
「さっきは驚いてしまいましたけど、今は怖いだなんて思っていません。だって…旦那様はとてもお優しい方ですもの…」
「………」
その言葉通り、レアナの中に恐怖なんてものはすでになくなっていた。それよりも彼のためにできることはないかと、彼の震えをこの両腕で止めてあげられたら…と考えていた。
「誰しも秘密の一つや二つ…いや何個だって持っていますわ。わ、私にだってあります!」
レアナは咄嗟に目の前に落ちていた自身の本を掴み、両腕を目一杯前に突き出しそう叫んだ。
「私は子供の頃からこの本が、ベルアニームが好きなんです!自然溢れる美しい国と、動物と人が融合した凛々しく美しい姿に憧れているんです!特にライオンなんてまさに美しくて………」
ペラペラと本をめくりアルマンに向けお気に入りのページを笑顔で見せつけるが、その途中で自分が犯している大きな過ちに気づきそのまま固まってしまう。
私ったらなんてことを言っているのかしら…ついこの間までベルアニーム相手に命をかけて戦ってきた旦那様に向かってこんなことを言うなんて…
「あ、いや…申し訳ありません!国境を守る旦那様のつ、妻でありながらこのような事を…」
音を立てて本を勢いよく閉じ、同じ速さでぎゅっと両目を瞑ると急いで頭を下げた。
あぁ、もう…励ますどころか不快な気持ちにさせてどうするのよ!
「……………頭を上げてくれ」
「…あ、あの不快な思いをさせてしまい申し訳ありま…」
「………ふっ」
「へ?………」
言われた通り頭を上げ謝罪を続けているとアルマンは顔を上げ、大きな目を細めて柔らかく笑った。
レアナはそんな彼の笑みに胸の奥がグッと掴まれ、焦り暗くなっていた頭の中は一瞬で真っ白に染まる。
「別によい。そうか…あの国が好きなのか…」
「いやでもッ….」
「好きになるのは自由だ。それに秘密の一つや二つ…誰でもあるものなのだろう?」
「ひゅっ………」
今となっては友好国の一つだしな…なんて頬を片方だけ上げて笑うアルマンに頭だけでなく呼吸まで止まったレアナの顔はどんどん赤みを増していく。
な…急にあんな笑い方するなんて………ズルイわ…
そう思いながらももっと近くで見たいと、いつもの距離でいたいと無意識的にゆっくりと足が向かっていく。
「あの…」
「ダメだ!こっちに来るな…」
「え?………」
縮まった距離は彼が更に部屋の隅の方へ下がったことでまた広がっていく。
そしてまたレアナの胸にはまた暗い色が広がっていく。
「もう私は少しも怖くはありませんわ。大丈夫です」
「そうじゃない…」
また合わなくなる目線にレアナの体温はどんどんと下がっていく。
どうして?あそうか…私この前失敗を繰り返して旦那様とはずっと会えずにいたんだった…あそっか、私彼に嫌われて…
「私は今まで人の血を欲しいと思ったことはなかった…」
「そのことだったら私は気にしてなんて…」
「でも君は…"君だけは違うんだ"…」
「私だけ…違う?」
「今は満たされているからまだいいが…君の香りは…すぐにまた渇きを感じさせる」
え?どういうこと…?私は彼に…
「君の香りがすると、君が笑うたびに…俺はその首筋に牙を突き立てたくなる…だから俺に近づいてはいけない!」
「ッ!………なら私と食事を共にしてくれなくなったのは…」
アルマンにそう言われたレアナの頭の中に浮かんだもの、それは…
「私のことが…"嫌いになった"からではないのですか?」
レアナは自分でそう言っておきながら、この二日間のモヤモヤの正体がなんなのかわかりハッとした。
「そんな!君のことを嫌うなんて…むしろ…」
「私はこれからずっと…もう旦那様の側には行けないのですか?」
なぜかそう口にすると目の奥が熱くなり、胸が締め付けられたように痛み出す。
そうか…私は彼に嫌われるのが怖かったんだ…彼と共に過ごせないことが…
…………寂しかったんだ…
「ッ!俺が…怖くないのか…?」
「怖くなんてありません。私は元々、全てを捧げる覚悟でここに来ました。妻として至らない点は多々あるとは思いますが…」
「あぁ、そうか…そうだな。これでは支障をきたす」
「そ、そうです!夫婦としてやっていくには近づくなと言うのは無理です!」
たった今気づいたばかりの自分の気持ちがバレてはいけないと、咄嗟に最もらしい理由をつけてなんとか彼と一緒にいられる方法はないかと考える。
「しかし本当にいいのか?怖くないのか?私が噛みつけば君はきっと…」
「だからそんなこと気にしてません!」
「そ、そうか…」
レアナは心の中の不安をかき消すように強く言い放った。それは彼の牙が自身に向くことではなく、また彼に来るなと言われるのが怖かったのだ。
「どうすれば…私は旦那様のお側に行かれますか?」
「………満たされてすぐなら大丈夫だ。2週間くらいは…我慢できる」
「なら今は…そちらに行っても大丈夫ですか?」
言いながらもまた断られるんじゃないかと不安になり、ぎゅっと手にしていた本を抱え目線だけを上げて彼の様子を少し伺いそう聞いてみる。
「………君がいいなら、大丈夫だ」
「よかった…」
「ッ!………」
レアナはその答えにホッとし、思わず上がる頬そのままにゆっくりと彼に近づいていく。
「と、とりあえず…お隣に座らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、あぁ…ちょっと待ってくれ」
そう言うと彼は上着を脱ぎ、そこら辺にあった干し草をかき集めその上に広げて置いた。
「そんなことをしてはお召し物が汚れてしまいます!」
「別にたいしたことではない」
「………あ、ありがとうございます。では失礼致します」
なるべく隣のことは考えないようにしながらそこに座ると、ふわりとした感触の下に冷たい石畳の硬さが薄らと伝わってくる。
「………」
「………」
座ったはいいが気づいた途端に鳴り出した胸の音がうるさくて、レアナはまた頭の中と呼吸を無意識に止めてしまう。
「…………」
「…………」
「さっき…どこが好きだと言っていた?」
「え?………」
ドキッとして反射的に隣の方へ顔を向けるが、先に沈黙を破った黄金の瞳は私の顔ではなく、ギュッと胸の前で抱える私の手元の方に向けられていた。




