10.
ポツ…ポツ…ポツ___
早朝、まだ薄暗く雨音だけが聞こえる廊下をゆっくりと歩くレアナの背中は、教科書通りの綺麗な曲線を描いていた。
そんなレアナの横では雨が何度も窓に当たっては流れをくり返し、漂う哀愁が必死に硬くする彼女の心をつついてくる。
「………」
キラキラと流れていく窓を眺めているとふとその後ろへと焦点が合い、そこには昨日一人で昼食を取った庭園が見えた。
色とりどりの季節の花が植えられる隅に小さなドーム型の屋根があり、あの下で豪華なサンドイッチと美味しい紅茶を頂いたわね…なんてムクムクと思い出していた。
「………ふぅ〜」
勝手に進む思考を遮るように小さく震える息を吐き、レアナは朝食へといつの間にか丸まっていた背中を伸ばしまた歩き出した。
ガチャ___
「奥様、おはようございます」
「…おはよう」
扉の前に立っていたジルに挨拶を返し、恐る恐る部屋の中へと入る。
「おはよう」
「おはよう…ございます」
部屋の中から聞こえたいつもの低く鼓膜を揺らすような声に少しホッとしながら、ジルが引いて待つ自分の席へと向かう。
「では、失礼致します」
用意が済むと二人だけとなり、いつもの朝食が始まる。
「………」
「………」
はずが、彼の手は止まったまま動かない。
そうなると先に食べるわけにも行かず、レアナも一緒になって止まった。
ザァー___
冷たく静かな空気が流れ、次第にまたレアナの耳にはさっきより強くなった雨音が聞こえてくる。
食欲は全くないが何もしないよりは手を動かしていた方が楽なのに、とレアナはチラチラとアルマンの様子を伺う。
「………」
「ッ………」
あぁ、今日も旦那様は素敵ね…って昨日あんなにもう期待してはダメだと、何度も抑える練習をしたでしょ?同じ空間にいるだけでこんなになるなんておかしいわ。
レアナは真っ直ぐ真剣な顔で俯きピクリとも動かないアルマンに一瞬見惚れ、緩みそうになる頬にキュッと力を入れまた背筋をスッと伸ばした。
でも…やっぱり私なにか失礼な事をしてしまったのかしら…
ひらひらが嫌だとか言ってしまったから?それとも
躓いて転ぶなんて淑女にあるまじき姿を見せてしまったから?いや触られるのが嫌だった?でも席を立つ時は彼から手を差し伸べたわよね?…
なんて昨日から何度もくり返す思考の渦にレアナはまた飲み込まれていく。
「………」
「昨日はすまなかった…」
「え…?」
アルマンは俯いたまま、ぼそりとつぶやいた。
「あ、いえ…気にしておりませんわ」
なるべく感情は表に出さず、レアナは澄ましたようにあえてサラッと流して答えた。
「………そうか」
「ええ…」
………ん?なんだか寂しそうに見えるのは気のせい?
と心の中で首を傾げているとまたアルマンは話し出した。
「あ…では今日にでも庭で昼食を共に…」
「今日…ですか?」
「あ………」
思わず窓の外を眺めるがさっきより強まった雨風はより激しく窓に打ちつけていた。
「この天気では…無理だな」
「そう…ですね」
雨音と一緒に入ってくる低い声にそう返しながらその姿に焦点を合わすと、彼の大きな身体はさっきより一回り小さく見える。
「………ふっ」
見るからに肩を落とし、もし彼に黒い耳や尻尾が生えていたならシュンと垂れ下がっているだろうなと容易に想像できる姿に、思わずレアナは吹き出しそうになりなんとか小さく抑えた。
「天気のいい日にでも、またお誘いいただけるのをお待ちしております」
彼に避けられたわけではないのかな?本当にただお仕事があっただけなのかも…
なんてやっと気持ちを明るい方へ持って行けたレアナはそう言いながら小さく微笑んだ。
「あ、あぁ…さあ、冷めないうちに食べよう。これは昨日獲ってきたばかりの新鮮なものだ」
「ありがとうございます」
アルマンは少し表情を和らげ次々と肉料理をレアナの皿に盛っていく。
そういえば昨夜は狩に行っているとジルが言っていたわね。狩も仕事なのかしら…?
レアナは昨夜、部屋から絶対に出ては行けないとジルに言われたのをぼんやりと思い出した。なんでも旦那様は月に1度夜に狩をし、そんな時は気が立っていて危険だと使用人でさえ廊下を歩くことは許されていないらしい。
「って旦那様あの!…さすがにそんなには…」
「ん?あ、あぁ…そうだな」
気づけばいつかのようにてんこ盛りにお皿に盛っていくアルマンをレアナは急いで止めた。
「………すまない。これは私が食べるとしよう」
「ふっ…ん"ん!…いえ、自分でやりますので大丈夫です」
「あ、あぁ……そうか」
またしゅんとするアルマンに吹き出しそうになるのをすぐに飲み込み、レアナは背筋を正し薄く笑みを浮かべながらお皿を受け取った。
*******
コンコン___
「…入れ」
「失礼致します………」
「………………なんだ」
入ってきたのに一言も発さないジルに、アルマンは顔を上げずに一瞬だけ口を開いた。
「………あのお話は奥様にされたのですか?」
「ん?庭での昼食の話か?こんな雨が降ってるんだ。できるわけないだろう…」
「それはそうでしょう…」
「………次晴れた日にと…約束はした」
「それは結構なことですが、それではありません」
「ならなんだ!」
アルマンはとうとう重たい顔を上げ机の向こう側にいるジルを睨んだ。
「これのことです」
「あぁ…それか」
ジルの手には小さな手紙が握られていた。
「それは………いい」
「ご夫婦で、と招待されています」
「私だけで行くからよい」
「奥様が行かないとおっしゃられたのですか?」
「………」
「ちゃんとお話はされておいた方がいいと思いますよ?」
それは先の長い戦争で出会った戦友からの誘いの手紙だった。
「どうせアイツが俺の結婚を面白がっているだけだ。俺だけならいいが、彼女を見世物にさせる気は微塵もない」
アルマンは少しだけ沸いた怒りを抜くように台詞と共に息を吐いた。
「旦那様…」
「なんだ」
「最近いかがされたのですか?奥様を大事になさるのはとても喜ばしいことですが急に…」
「別にそんなつもりは…」
「しかし、約束を破るのはいただけません」
「な!…あれはしかたなく…」
「そんなことでは嫌われてしまいますよ?」
「た、確かに今朝はあまり笑ってはくれなかったが…」
「なんなんです?あんなに質問攻めにしてたと思ったらランチの約束をすっぽかすなんて…あ、もしかして押してダメなら引いてみろ的な感じですか?」
「な…ん?お、押して?」
ジルの話にしゅんとしていたアルマンはついて行けない話の流れに顔を上げ眉を落とした。
「旦那様…あれでは押したことにもなっておりませんよ。もっと押して押してこちらの好意を見せてから引くのです。旦那様のはただただ嫌われるだけです。ただでさて見た目が威圧的なのに…」
「な!な…俺は…嫌われたのか?」
またしゅんと身体を小さくするアルマンにはベラベラと話すジルのその先は全く聞こえていないようだ。
「それに…」
「なんださっきからうるさいぞ!まだなんかあるのか!」
「それに昨夜はまだ前回から1ヶ月も経ってないのに急に狩に行くと言われて驚きましたよ。前回が不十分でしたか?最近奥様がいるとそわそわと落ち着かない様子でしたしなにか…」
「ッ!…」
グオォー___
部屋の中に一瞬低い咆哮が轟き、その振動で家具がカタカタと揺れる。
そしてそれを発したアルマンの口元には大きく伸びた鋭い牙が2本飛び出していた。
「…失礼致しました」
「ッ…いや、すまない」
「私は慣れていますので…しかしここでは他のものに聞こえますのでお控えください」
「あ、あぁ…」
すぐに牙を引っ込めるアルマンにジルは頭を下げるが挙動はいたって冷静で、本当になんてことないように振る舞っている。
「とりあえず、あのお話は奥様にちゃんとお伝えください。それとランチのお誘いもですよ」
「あ、あぁ…わかっている」
「では失礼致します」
「………」
アルマンは雨に濡れる窓をしばらく眺め、また書類に顔を落とした。




