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黒いもやがいる。妖だ。
表で出会ったときにはもっともやが濃かったのに、今は遠くに居ても目鼻立ちがはっきりと見える。目許が窪んでいて鼻筋が合って、唇が少し開いている。強い猫背で足元ははっきりと見えない。
如月国に来たらもう安全だと思ったのに、ここでも妖に怯えないといけないのか。
やはり魁星と一緒に帰れば良かったのだろうか。でもこれからずっと一緒に帰ってくれるわけじゃない。友達でもない、昨日今日会ったばかりの人なのに、ずっと守ってくれるという保証なんてない。でも異能を使いこなせる自信なんてもっとない。
妖の首がぐりんとこちらを向き、笑った。
「リカ、おかエり、リカ」
ネジ式の機械のようにカクカクとした動きで、凛の方へ歩いて来る。足が震えた。
凛には妖と戦う能力はない。戦えない以上は逃げるしかないので、全速力で来た道を戻る。足が震えて何度も縺れた。
背後から息遣いを感じる。生ぬるい吐息が耳やうなじに掛かっているのを感じる。
「リカ、リカ、苦しイ、リカ」
凛の全力疾走はそれほど長くは続かなかった。喉が痛い。息が苦しい。
悲鳴を上げたかったのに、声が出ない。ポケットからスマホを取り出そうとしたが、手が震え落としてしまった。そのスマホを拾おうとして思いっきり転んだ。
背後から妖が覆いかぶさって来る。妖の吐息が耳に掛かる。気配は冷たいのに、吐息だけがやけに生暖かかった。
「リカ、」
指先からどんどん冷えて来る。目の前が段々暗くなって、周りの音も聞こえない。
「私は、……理花じゃない……」
如月国に渡れと言った父のことも、大切に預かると言った築のことも、平気な顔で隣にいる魁星のことも。如月国も董子も。何もかも。
何もかも。
「凛!」
駆け寄って来た誰かが凛を抱き起す。遠くから声が聞こえて、意識が引き戻されていく。
「凛! 大丈夫か?!」
段々と体温が戻って来て、目の前が明るくなる。凛を抱き上げていたのは魁星だった。
「魁星……」
「待ってろっていったじゃん! 何で待ってなかったんだよ?」
魁星は怒っていると思った。上げた顔を見ると、怒りよりも強く悲しみが滲んでいて、凛は戸惑った。それは演技をしているように見えなかったからだ。あまりにも苦しそうな顔で、まるで本当に凛のことを心配しているように見えてしまったからだ。
「どうして、……ここにいるって分かったの……」
「董子が教えてくれたからだよ……」
魁星の肩越しに董子が立っているのが見えた。
「どうして……」
董子は自分のことを嫌っていると思っていたのに、どうして、と凛はますます戸惑った。
「凛さんが一人で帰るのが見えたから、すぐに魁星さんに伝えたまでです」
相変わらず董子は澄ました微笑で答える。八つ当たりだと分かっても、腹が立った。
「董子は私のこと、嫌いでしょ」
「嫌いになるほど貴方のことを知りません」
「だって、嫌な言い方してたじゃない」
少しだけ、董子の笑顔が崩れる。
「表から来た私のことを馬鹿にしてるでしょ」
「……そんなの、表の人だって、裏のことを馬鹿にしてるじゃない。凛だって裏なんかに連れて来られてって悲観ばかりして、こちらが歩み寄っても馴染むつもりもない癖に!」
董子の言葉が心に深く刺さる。
確かに凛には思い当たる節があったのだ。
父に言われたから仕方なく如月国に来て、築の用意した家に住み、魁星に連れられて大学に通う。その優しさの裏には、理花の代わりに禍の王を封印する人柱にされるからだと勝手に思い込んで、そして全てを拒否しようとした。
でも敵ばかりではないのかもしれない。現にこうやって、魁星も董子も心配してくれている。
「そうか……。ごめんね、董子」
魁星へ視線を移す。
「魁星も、助けてくれてありがとう。ずっと私のことを心配してくれていたのに、信じられなくてごめん」
如月国に渡って来てからずっと張りつめていた気が、ようやく切れたがした。
魁星に抱き止められたまま目を閉じる。
「何が何だか分からないことばかりで、怖かったんだ。表での常識が通じないことばかりだし、家族もいなくて……。でも、誰を信じたら良いか分からなくて……」
涙が一筋、凛の頬を伝った。
「それはたぶん、境界を渡って来たからじゃないか。表と裏の狭間は、異能がない者が渡ると酷く気分が落ち込み、精神をやられるらしいから」
異能を持たぬものが如月門をくぐり如月国に渡ろうとすると、精神を侵され、最悪の場合は自ら命を絶つものや精神を侵され気を狂わすものもいるという。
そもそも異能のないものは、境界により如月国そのものを認知できないので、渡れる渡れない以前の問題ではある。
「そうなんだ。だから、異能のない者は如月国に来られないって……」
「凛は異能に慣れてないから影響されちゃったとか。そういうことじゃないかな。異能を持ってるから、いずれ良くなるはずだよ」
異常な気分の落ち込みに理由が見つかり、凛はほっとした。
「良かった……」
「そんなに悩んでいたなんて、気が付かなくてごめん。不安だったよな」
魁星の悲しそうな表情で凛を見下ろした。
こんなに心配してくれている人がいるというのに、まるで如月国で独りぼっちにさせられたと思い込んで、八つ当たりをして。子供みたいなことをしてしまった。
「まずは魁星と董子を信じてみようと思うよ」
「別に私のことは信じなくても良いから。表の人は嫌いだし」
董子はツンとそっぽを向いてしまった。言葉には棘があるが、口調には棘を感じなかった。
いつまでも魁星に抱き止めて貰っているわけにはいかないと思い、立ち上がろうと両足に力を込める。しかし足どころか体の全てに力が入らなかった。
「ごめん。立てない……」
「俺が連れて帰るから、寝ていいよ」
そして凛はお言葉に甘えて魁星の腕の中で眠ってしまったわけだが、気が付いた時にはきちんと家のベッドで眠っていた。
周囲を確認すると、枕元に雪野がいた。
「気が付きましたか。具合はいかがですか」
「少し怠いですけど大丈夫です」
「それなら良かった。お水を持ってきますね」
少しだけ頭が重かったが、妖に襲われたときと比べればだいぶ調子は良かった。