東宮
桃源町で起きた誘拐事件の後、織春はすぐさま開闢大学医学部附属病院へ連れて行かれた。外来で一通りの診察を受けたが、特に問題は見つからなかった。
病院で診察を終えた後、待ち構えていた錦織の侍従に声を掛けられた。
「晴可様。陛下がお会いしたいとおっしゃっておりますが、もしお身体に問題がなければお越し頂けますか」
深々と頭を下げて、侍従にお伺いを立てられる。便宜上、伺われてはいるものの、ほとんど強制と見て良いだろう。おそらく錦織は桃源町で何が起きていたのか、それからこれからのことも、織春の口から聞きたいということだろう。
体調に問題がないことが分かり、こちらとしても今すぐにでも錦織と話さなければならないとは思っていた。向こうから来てくれるのであれば、願ったり叶ったりである。
「構いません。行きましょう」
既に玄関先に車がつけられていた。織春が車に乗り込むと、運転手が車を発進させる。
事件後から休む間もなく錦織のもとへ向かうことになってしまった。全く慌ただしい一日である。
織春の乗った車は、籠目邸の玄関前に停車した。運転手にお礼を伝えつつ、車から降りる。
籠目邸の玄関先で錦織が待っていた。
「呼び出して悪かったね」
「いいえ、僕も話したいと思っていたので」
「そう? それなら良かった。どうぞ、中に入って」
錦織に促され、屋敷の中に足を踏み入れる。
「怪我はなかったか?」
「病院にも行きましたが、特に問題はありませんでしたよ」
「織春が無事で良かったよ」
会話をしながらリビングへと向かう。錦織と織春はソファに腰掛けた。
「それで、桃源でのことだけど」
錦織が本題を切り出す。空気がピリリと引き締まるのが分かった。
事件のあらましについては、織春から警察や如月国宮内庁にも一通り話したので、錦織も知っているのだろう。その辺りのことを飛ばして、核心の部分について切り出された。
「やはり藤原希世史が桃源にいたんだね」
「ええ、凛に対して、貴方に会うために時を渡って来た……と言っていました。すごく愛おしそうに、まるで恋人にでも話し掛けるように」
思い出すのは、凛と対面した時の希世史だった。
愛おしい恋人と再会したかのように、喜びに満ちた甘ったるいで言った。貴方に会うために時を渡って来たのです、と。
希世史は理花の婚約者だった男だ。希世史は凛を理花の代わりにしようとしているのだろうか。それともただ“祝福の花”を手に入れたいだけなのだろうか。
分からない。
「おそらく、狙いは“祝福の花”ということで間違いはないだろうけれど……」
どういう意味で凛のことを欲しているのであろうとも、希世史に彼女を奪われることはあってはならないことである。彼女を奪われるということは、如月国を奪われるということだと思っていいくらいだ。
「何にせよ、希世史にも青華にも、お前が織春であるということは知られているのであれば、もう“晴可”でいる必要はないだろうね」
あの場にいたものたちには、伏見晴可が籠目織春であることは知れてしまった。いくら口止めをしたとしても、人の口に戸は立てられない。晴可が織春であるということは、すぐに巷でも噂になってしまうだろう。
「織春が良ければ、もう東宮として公表をしようか」
現時点では、籠目織春が帝位継承順位第一位にあたる。一応、東宮という立場にはあるが、錦織に男児でも生まれれば織春はほぼ帝位を継ぐことはなくなる。
それに生まれてから今までずっと、帝室ではなく伏見家で生活をしていた。それゆえに織春は東宮と言われても全く実感がなかった。
「それは構いませんが、出来れば卒業するまでは伏見にいさせて欲しいと思っています」
「伏見に? 私は構わないけれど」
「ありがとうございます。卒業したら、必ず帝室に戻ります」
織春には在学中にしておきたいと思っていることがあった。
妖と人の間にある差別を解消して、生活格差を減らしたい。出来るだけ妖たちの生活の質を向上させたい。そのために帝室に帰れば出来ないことを、今のうちにしておきたいのだ。
もちろん織春だけで全てを解決出来るとは思っていない。しかし織春の立場だからこそ出来ることがある。自由に動けるときに出来るだけ種を蒔いて、誰かに引き継ぎたいと思っていた。
「きっと帰ってきてください」
「勿論です。帝室に帰って、お役に立てるように励みます」
「私ひとりでは手が回らないこともあるからねえ。織春が助けてくれるのであれば、私も心強いよ」
錦織はじっと織春の顔を見つめた。しばらく見つめ合った後、錦織はふと笑みを浮かべる。
「そうしたら籠目織春については、近々、如月国宮内庁から発表させるよ」
「構いません。今更、恥ずかしいような気もしますが」
籠目織春だと公表したら、取り巻く環境がどういうふうに変わるのか、少しだけ不安な気持ちになる。そして注目されるであろう、照れくささも少しだけ。
「そのうち慣れるさ」
「そうでしょうか」
幼い頃から帝になることが定められていて、二十四歳で帝位に就いた若き帝・籠目錦織。彼と比べると、織春は随分と自由にやらせて貰っていると思っている。
けれど妖の友人である大河の生きる世界をよりよいものにするために、出来ることをやっておきたい。
だからもう少しだけ、わがままを許して欲しい。
しかるべきときが来たら、きっと役目を果たすから。