3
虹村宅を出発して、晴可は静かに目的地を目指して歩いていた。
凛のふりをして、旧みずかね製薬研究所へ向かう。もっと安全で確実な方法があったかもしれない。しかし確実な方法を取るには、希世史や青華が絡んでいるということに証拠がなさすぎる。それに凛を危険に晒すわけにはいかない。ならば凛の気配をさせながら、晴可が自ら出向くことが適当だと判断したのだった。
そもそも晴可には、今回のこの事件で青華側が本気で凛を仕留めようとしているとも思えなかったのだ。様子を伺っているだけのように思える。本気で凛に会いたいと、希世史や青華が思っているのであれば、もっと簡単な方法がある。だからこそその真意が分からず、恐ろしかった。
道の途中に、未認可の児童養護施設エデンが見えた。トタン張りの屋根は錆びていて、建物にはツタが絡まっている。それはエデンだけではなくて、周りの民家もそうだ。
月夜見町は路面電車が通り、新しい建物があり公共施設もあって、最新の設備も完備されている。それら二つの町の差をまざまざと目にして、晴可はやるせない気持ちになる。
妖がこの状況を良いものとしているのであれば構わない。けれどこうして問題が起きている以上は、このままにはしておけないだろう。
「織春殿下」
低く掠れていながら、良く響く声だった。いつの間に現れたのか、前方約五メートルのところに男がいる。
ソフト帽を被りスリーピーススーツを着て、左手には紳士杖を持った長身痩躯の男。目深に被ったソフト帽のせいで表情が見えないが、左の頬に三つ並んだ黒子だけは確認できた。
「藤原希世史……」
「こんにちは、殿下」
希世史が、一歩一歩と近づいて来る。
彼からは、腐る直前の果実のような、咲き誇った後に散りゆく花のような、甘ったるい匂いがする。
「どうして、貴方がこんなところに?」
「殿下がいらっしゃるのに、出迎えがないのは失礼でしょう」
こちらの作戦は全て、お見通しということか。虹村宅にいる凛と魁星のことも、既に彼らは気づいているのかもしれない。
ならば隠し立てするのも、もう無駄なことか。
「お気遣いいただきありがとうございます。僕がここに来ることを知っているのならば、僕の言いたいこともお分かりですね」
「殿下が命じるならば、私は何でも致しますよ」
希世史は恭しく頭を下げた。妙に演技がかった身振りに、胡散臭さを覚える。
「では僕の友人たちを返していただけますか」
「勿論。お返しいたしますとも」
希世史の唇が笑みを象る。口元から上はよく見えない。
含みのある笑みに、晴可は心底ぞっとした。それはただでは大河も誘拐された妖たちも返して貰えないと、直感的に分かるものだった。
「殿下、行きましょうか。旧みずかね製薬研究所へ向かう途中だったのでしょう」
希世史は晴可に背を向ける。歩き始めた希世史の後を、晴可は警戒をしながら着いて歩く。
「そんなに警戒をしなくても、何も致しませんよ」
希世史は肩を竦めた。
「では何故、妖を誘拐したのですか」
先を歩いていた希世史は、ぴたりと足を止め、振り返った。
「信じて頂けるか分かりませんが、この件に私は噛んでおりません」
ソフト帽のつばを掴み、目深に被りなおす。
角度としては顔が見えてもおかしくはないのに、鼻先から上が陰になって全く見えない。
「エデンの施設長は、藤原希世史に会ったと言っていたようですが、それは貴方ではないのですか」
希世史は晴可から視線を逸らし、エデンのある方へ視線を向ける。
「私ではありません。この辺りをうろついていたのは認めますが、誘拐事件には噛んでいませんよ。本当です」
「だとしたら、青華が藤原希世史を名乗って、事件を起こしていたということですか」
「それは分かりません。私はやっていない。言えることはそれだけです」
希世史が本当のことを言っているのかは、分からない。本当にやっていないのかもしれないし、晴可に嘘を言っているだけなのかもしれない。
晴可はじっと希世史の横顔を見つめた。鼻筋がすっと通っていて、美しい横顔をしている。
「だったら、今、陛下に連絡をしても良いですか。助けに来て欲しいって」
鎌をかけたつもりだった。希世史は平然とした様子で言葉を返す。
「ええ、勿論。構いませんよ。連絡してください」
ポケットからスマホを取り出して、錦織へ連絡を入れる。普段ならば彼がワンコールで電話に出ることは殆どないが、桃源町に乗り込むことを伝えていたので、この日はすぐに出た。
「もしもし、……晴可?」
こちらの様子を伺うような錦織の声に、晴可は一度小さく息を吸った。
予定では、晴可は青華に捕まり、魁星か凛から如月国宮内庁へ連絡を入れる予定だった。
しかし状況が状況であるから、魁星や凛から連絡することは期待できないし、如月国宮内庁は伏見晴可が籠目織春であるということは知らない。
こうするしかなかった。
「予定が狂いましたが、僕が危機的状況であることは間違いありません。予定通りに、よろしくお願いいたします」
「……分かった。すぐに向かうように手配しよう」
電話が切れた。
希世史は穏やかに微笑んでいる。慌てた様子は一切見えない。
「では旧みずかね製薬研究所へ行きましょう。恐らく、殿下のお探しの方たちはあそこにいますから」
希世史は再び足を踏み出した。
分からないことがあり過ぎる。罠かも知れない。けれど大河が、凛や魁星も、旧みずかね製薬研究所にいるというのならば、ついて行くしかない。
「貴方が何をしたいのか、分かりません」
「私は如月国を救いたいだけですよ」
「如月国を救いたい? 僕からすると、貴方が如月国を救いたいと思っているようには見えません」
如月国を救いたいという希世史の言葉に、晴可はひっかかった。
希世史は五百年に一度、禍の王の封印を解く。そのために数多の時を渡り、さまざまな節目に現れては人々を惑わす。その行動は晴可から見て、希世史が如月国を守りたいと思っているようには到底思えなかった。
「では殿下にとっては、そうなのでしょうね」
「どういう意味ですか」
「私と織春殿下は、分かり合えないという意味です」
拒絶するような言葉なのに、希世史の口調は随分と柔らかい。
希世史がどういうつもりでいたとしても、最終的な目的は禍の王の封印を解くことであるというのであれば、晴可は阻止をするだけだ。
如月国と希世史は分かり合えないままここまで来ている。それに終止符を打つ方法は、きっと相互理解なのだろうけれど、そんな方法はあるのだろうか。もしも和解する方法があるのならば、晴可とてそうしたいと思っている。
「ならばどうして分かり合えない僕の希望を、聞くなんて言うんですか」
「今回は、利害が一致すると思ったからですよ」
旧みずかね製薬研究所が見えて来る。
「利害?」
「この事件を聞いて、私も祝福の花のことを助けようと思っていました。そして陛下もこの事件の鎮静化を望んでいる。相互の利害は一致していますでしょう。ですから、協力をしたのです」
やはり目的は“祝福の花”か。もしも希世史が凛や如月国に何かをするつもりならば、相打ちになったとしても討ち取るつもりだ。
まだこちらは何もしていないのに、旧みずかね製薬研究所から、青華の下っ端たちが血相を変えて飛び出してくる。よくわからないが、旧みずかね製薬研究所で何かが起きているようだ。
「既に何かが起きているようですね」
希世史はすらりと杖から刀を取り出した。どうやら彼の持っている杖は、仕込み杖だったようだ。
飛び出して来た男たちを目掛けて、宙を切る様に刀を振り被る。すると男たちは鋭い風に打たれて、まるで切られてしまったかのようにその場に倒れ込んでしまった。たった一振りで、五、六人いた青華の下っ端たちは一網打尽にされてしまったのだ。
噂には聞いていたが、希世史の凄まじい戦闘力に驚きを隠せなかった。
「さあ殿下、中に入りましょう」
扉を開いて施設の中に足を踏み入れる。長い間使われていなかったせいか、埃っぽくて薄暗い。
先に中に入って行った希世史は、ふと楽しそうに笑った。
「おや、随分暴れたようだね」
希世史の視線の先には、大河と凛がいた。凛は怯えた様な顔をしている。
晴可は何か言いたくて口を開いたけれど、言葉は出て来なかった。あまりにも希世史が嬉しそうな声を出したからだ。
「はじめまして。君が凛だね? 会いたかったよ」
先ほどまでとは明らかに違う。まるで愛おしい恋人にでも話しかけているかのような、どろりとした甘くて色っぽい声だった。
「貴方は……誰ですか……」
凛の声は震えている。
「私は、藤原希世史。貴方に会うために、時を渡って来たのです」