君を愛することはない。という真面目王子を女たらしに仕立てないといけないらしい
アルビナは和平の証として隣国に輿入れした王女である。
オリーブ色の地味な髪、珍しくもないブラウンの瞳。
幸い、顔立ちだけは母に似たおかげでそれなりに整っていたが、背が高くどちらかといえば凛々しいアルビナに可愛らしさなど縁遠い言葉であり、惜しまれるような掌中の珠として慈しまれたわけでもない。
父である王は馬鹿な欲をかき、自ら戦を仕掛けておきながら、不利とみるやあっさりと娘を差し出したのだ。
愚かな王である。
そしてアルビナも、あっさり差し出せる程度の王女であった。
相手は隣国の第二王子テオバルト。
地味なアルビナとは反対に、涼やかに輝く綺麗なアッシュゴールドの髪と王国の王族特有であるアメジストの瞳。鍛えているだろうことがひと目でわかるたくましい身体つきに反して、蕩けるような垂れ目が艶やかな美丈夫であった。
なにを隠そうこの人こそが、アルビナの母国を一捻りとばかりにあっさりと返り討ちにした戦の指揮を執っていたのである。驚くことに王立学園に通いながら並行して軍にも所属していたらしい。卒業したばかりの初陣ともいえる戦で、見事な采配。アルビナの父王は、世間知らずの若者と舐めきった結果、完膚なきまでに返り討ちにされたのだ。
つまり言ってしまえば、負かされた相手に許しを請うため捧げられるのがアルビナだ。
なんとわかりやすい立場だろうか。
輿入れとはいえ、この国は第一王子である王太子がまだ婚約者と婚姻をなしていない。彼らを差し置くわけにはいかないとのことで、アルビナの立場はまだ婚約者となるらしい。
そんな彼との初対面。
これが愚かな父の鼻をへし折った男かとまじまじと見つめたら、相手は一瞬意外そうな顔をした。だがとたんに眉間へ深くシワを寄せ、単身やってきたアルビナを前にして言った。
「私が君を愛することはない」
妻となるべくやってきた者の存在価値を、否定するような言葉である。
けれどアルビナは無言でうなずき、その言葉を受け入れた。当然だと思ったし、このような扱いは覚悟していた。
彼は馬鹿をしでかした隣国から、望んでもいない女を押し付けられたにすぎないのだから。
こうして二人は形だけの婚約をした。
愚かな国が攻めてこようとも、我らの王国が揺らぐことはない。
それを象徴するように、今年の建国記念パーティーは盛大に催された。
煌びやかに着飾った貴族たちがダンスに興じ、にこやかに談笑している様子は、国が攻め入られた事実など些細なことどころか、まるでなかったことのようである。
事実、大した痛手にはなっていないのだろう。
改めて、この国を狙うなどアルビナの父親はとんだ愚王である。悪いのはおのれだろうに、忌々しそうに隣国の悪態を吐きながら娘を送り出した顔を思い出して、鼻で笑った。
第二王子の婚約者となったアルビナは、現在すっかり壁の花となり会場の端に佇んでいる。
ひと際目立つ華やかな一団に視線を向ければ、その中心は幾人もの令嬢を侍らせたテオバルト。
まさにこの国を守った一番の立役者。
キラキラとした容貌が眩しい、まごうことなきアルビナの婚約者だ。
テオバルトは入場こそパートナーとしてアルビナをエスコートしたものの、建国記念パーティーが始まり最初のダンスを踊り終えたと同時に、仕事は済んだとばかりに離れてしまった。
とたんに群がる令嬢たち。そのひとりひとりと言葉を交わしては、目を合わせて優雅に微笑む。令嬢たちの頬は例外なく朱色に染まった。
豪奢なシャンデリアの光を反射させたアメジスト色の瞳は、角度によって濃淡を変え鮮やかなグラデーションに輝く。
それがどれほど美しいものかは、ことごとくぽうっと呆ける彼女たちを見れば一目瞭然。
そして時間が許す限り令嬢たちをダンスに誘い、見事なリードで華麗に踊る。
どう見ても女性の扱いに慣れている完璧な王子様。
その中でも、蜂蜜色したふわふわのブロンドを揺らす、ひときわ可憐な女性がテオバルトの腕にしなだれかかった。
彼女はテオバルトと同じく今年王立学園を卒業し、一学年上の第一王子が在学中は三人で交流することもあったという侯爵令嬢らしい。
「婚約者であるアルビナ様はよろしいの?」
これみよがしに令嬢が問えば。
「それより君と今を楽しみたい」
などとテオバルトが微笑み、柔らかなブロンドをひと房手に取ると耳元で何事かを囁く。とたんに令嬢の頬は赤くなる。
そして、我が物顔でテオバルトの隣を陣取る彼女は、ついっとアルビナに視線を流すと勝ち誇ったような顔で口角を上げた。
もはや婚約者の存在などあってないようなもの。
テオバルトに群がる令嬢たちは誰一人として、アルビナの存在を気にかけてなどいない。
敗戦国から差し出された王女など、取るに足らない格下の相手としか思っていないのだ。
「ご覧になって。今夜も壁の花が咲いているわよ」
「せっかくのパーティーですのに、もったいないわ」
「あら、そう言ってはお可哀相よ。ダンスも相手がいなくては踊れないのですから」
扇で口元を隠しながら、それでも聞こえるようにヒソヒソとした貴族たちの声があちこちで囁かれる。
「テオバルト殿下もあのような可愛げのないご令嬢なんて……お可哀相に」
「和平の証に、なんて言っておきながら、大方無理に押しかけてきたのではなくて?」
「まあ、はしたない。ダンスすらまともに誘っていただけないのにねぇ」
嘲りを隠し切れない声と、意地悪く細められた目がアルビナに突き刺さる。だが、それでも凛と背筋を伸ばしたまま婚約者を見つめ続けた。
国王陛下夫妻並びに王太子とその婚約者が退席するまで会場に留まり、アルビナは散々令嬢たちと戯れたテオバルトとともに退場した。
そうやって第二王子を独占する身の程知らずな敗戦国の王女を、人々は不快を隠さずに見送るのだ。
これが二人の常である。
ドレスを脱ぎ、寝衣に着替えたアルビナは侍女を下がらせて寝室のベッドに腰かけた。
建国記念というだけあって、とても盛大かつ長いパーティーであった。ふぅと息を吐き出してサイドテーブルの水差しとグラスを手に取ったところで、ノックの音が響く。
「どうぞ」
返事をすれば、開いた扉の向こうには、つい先ほどまで令嬢たちを散々侍らせていたテオバルトが立っていた。
同じく正装からゆるい寝衣に着替えた婚約者は、部屋に入ると真っすぐベッドに向かってアルビナの横に腰掛ける。
「飲まれますか?」
「いただこう」
ふたつ並べたグラスに水を注いで片方を手渡したら、テオバルトは一気に飲み干した。
無言で空のグラスを差し出してくるのでおかわりを注げば、それもまたあっという間に空になる。
かと思えば、ガックリと項垂れた。
「おつかれさまでした」
テオバルトの手から空いたグラスを抜きとり、丸まった背中をポンと叩くと「はあああぁぁ」と大きなため息が聞こえた。
息をすべて吐きつくすかのような、長いため息である。
屍のようにだらりとした身体に憐憫すら感じるほどの沈黙のあと、項垂れていた顔がゆるりと持ち上がった。令嬢たちを魅了してやまなかった優雅さと妖艶さが相容れるアメジストの垂れ目が、すっかり光を失った半目状態でアルビナを見やる。
「今夜の私は、どうだっただろうか……」
力尽きたような声にも、もはやなんの覇気もなかった。
「そうですね、頑張ってはおられましたが……まだ甘いですわ」
「あ、あれでも甘いか……!」
アルビナの評価に、ショックと言わんばかりに目を見開き、絶望したように両手で顔を覆ってしまうテオバルト。
「うう。やはり私には向いていない……」
「ですが、やるしかないのでしょう? 言い出したのはテオバルト様ですよ! さあ今夜も練習いたしましょう!」
めそめそする婚約者に活を入れ、アルビナは気合を入れて立ち上がった。
*****
「私が君を愛することはない」
初対面で告げたテオバルトは、直後――信じられない行動にでる。
「申し訳ないが、今はできないんだ」
その言葉が偽りではないことを証明するように、深く頭を下げたのだ。さすがにこれは予想外で、アルビナは目を見張る。
突然攻め入ってきて、ちょっと反撃したら慌てて撤退したあげく和平などと言って押し付けられた王女に、テオバルトが頭を下げている。さすがに動揺を隠せなかった。
「あの……自分で言うのもなんですが、このような厄介者に対して頭を下げる必要などありません」
しかも第二王子たる者が、だ。
少なくともアルビナの国では人に頭を下げるような王族はいない。
「大丈夫だ。人払いはしてある。それに、あなたも決して望んで来たわけではないだろう? こんな、敵国にひとり放り出されるようなこと……ひどい扱いはしないと誓おう、と言いたいところだがそうもいかないのが心苦しいんだ」
――いい人だ。と、素直に思った。
おそらく、これまで出会ってきた誰よりも誠実な対応を、彼はアルビナにしようとしてくれている。
ずっと張りつめていた心の奥に、じわりとなにかが込み上げる。
「せっかく婚約者となったのに、申し訳ない」
「いいえ。ですが、一体どういう――」
「私は、女性を侍らす女たらしとやらにならなくてはならないのだ……!」
「………………はい?」
なんだかおかしな言葉が聞こえた気がした。
うっかり間抜けな声が出てしまったが、本当に今なにを言われたのかが理解できなかったのだから仕方がない。
目の前ではテオバルトが切羽詰まった顔で唇を噛んでいる。
「おんな、たらしに……ですか?」
「そうだ。女性の扱いに慣れた、女たらしにだ……!」
聞き間違いではなかったらしい。
並々ならぬ決意を込めた声で告げてくれるが、その内容はやはり意味がわからなかった。
この人は一体なにを言っているのだと心から思ったし、顔にも出てしまったのだろう。テオバルトは心苦しそうに顔を歪めた。
「ええと……差し支えなければ、理由をお伺いしても?」
「ああ、もちろんだ。むしろあなたには知っておいていただきたい」
そうして事情を聞いてみれば、理由は第一王子である王太子とその婚約者のためであった。
王太子の婚約者は派閥など諸々を考慮した結果選ばれた伯爵令嬢なのだが、政略で結ばれた間柄とはいえ二人は大層仲良く相思相愛であるらしい。
それは良いことであるとアルビナが頷けば、そうだろう!? と興奮したテオバルトに二人がどれほどお似合いであるかを力説された。なかなかお熱いカップルのようであるし、瞳をキラキラさせるテオバルトはとても……いや、だいぶ兄想いのようだ。
だが、容姿・内面ともに優れた第一王子は弟だけでなく令嬢たちにも大変人気がある。
すでに婚約をした今でも。だ。
特にひとりの侯爵令嬢が傾倒しており、王立学園時代も付きまとい、婚約者である伯爵令嬢にもきつくあたっていたらしい。
しまいにはその侯爵令嬢の振る舞いに同調した者まで出てきて、在学中はなかなか荒れたのだとか。
このままでは大切な婚約者である伯爵令嬢の心身が参り、婚約解消になってしまうのでは……と王太子は危惧し、王家としてもかなり頼み込んで婚約した手前、解消は避けたい事態。
ここで兄のために立ち上がったのが、第二王子であるテオバルト。らしい。
なんとか学園内の令嬢の興味だけでも惹かねばと奮闘したようだ。
「兄上が無事に婚約者と結ばれるまで、この私が二人に近づくすべての令嬢を引き受ける……! 学園を卒業した今、次は社交界の令嬢すべてをだ……!」
彼の次なる目標は、王太子の周囲に集まる令嬢すべてなのだそうだ。これはなかなか大規模である。
「それで女たらしなのですね」
「ああ。だからあなたには兄上の件が落ち着くまで迷惑をかけるが――」
「いいえ、かまいませんわ。むしろそのような時期に、国が大変なご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません」
継承問題にも関わる微妙なときに、隣国からのちょっかいなど煩わしいことこの上なかっただろう。
(ああ、だからこそあそこまで大胆な攻めで叩きのめしてくれたのかしら)
聞いた話では、それは苛烈なまでの勢いで父王は返り討ちにされたらしい。その話の裏にあっただろうテオバルトの苛立ちを感じて、改めて申し訳なくなる。兄想いの彼にとっては、まさにそれどころじゃねぇ。な、心境だったに違いない。
なのに、テオバルトこそ痛ましそうな目でアルビナを見やる。
「なにを言う。我が国にはほぼ被害などなかったのだ。上に立つものがあのようでは、そちらの国こそ苦労するだろうに。あなただって、この戦のせいで私などに輿入れすることになったのだろう? ひとり他国で肩身の狭い立場に立たせることとなってしまい、本当にすまない」
母国ですらかけてもらえなかった優しい言葉に、鼻の奥がツンとした。
アルビナも抱いていた父への黒い感情を、テオバルトが忌憚なくはっきりと口にしてくれてなんだか胸がスッとする。同時に、真摯な彼の人柄に触れて、なんの目的もなく輿入れしてきたアルビナの中で、わずかながらやる気の炎が灯った気がした。
居住まいを正すと、しっかりとテオバルトと目を合わす。
「とんでもございませんわ。その計画、わたくしにもどうか協力させてくださいませ!」
「なんと……え、いいのか!?」
ドンと胸を叩いて宣言したアルビナの姿に、テオバルトは目を丸くして驚いた。
言っておきながら、簡単に受け入れられるとは思っていなかったのだろう。確かに和平のためにと輿入れしてきた相手に向かって、「愛することはない」のひとことはなかなか酷い。
しかし、アルビナにしてみれば良い方向に予想外。
「むしろありがたいお言葉に感動しております。わたくしはもっとこう……見向きをされることもなく放置され、忘れ去られるのだろうと思っておりましたので」
「そんなことをするわけがないだろう!?」
驚愕するテオバルトにアルビナこそ驚き、思わず笑う。
「ならば、よろしくお願いいたしますね」
どのみち、他にやることもないのだ。ならば誠実に向き合ってくれた婚約者の力になろうではないか。
すっかり肩の力が抜けてしまったアルビナを、テオバルトは呆けたように見つめていた。
そして後日、王太子とその婚約者を紹介してもらった。
王太子は、まさにこれぞテオバルトの兄であると納得できる人物であった。それでいて優しさだけではない、将来国を背負う者としての威厳に圧倒された。婚約者である伯爵令嬢も、少し会話をすればその聡明さは明らかである。
二人は愚かな国の王女であるはずのアルビナをにこやかに迎えてくれ、気遣い、今回アルビナが協力することに感謝の言葉を惜しまない大変な人格者であったのだ。
テオバルトが絶賛するのもわかる似合いの二人であり、その日の夜は王太子カップルの素晴らしさについて二人で遅くまで熱く語り合うほどに陶酔した。
彼らを無事に夫婦にするため、アルビナとテオバルトの『女たらし計画』は始まったのである。
*****
まだ婚約者という立場上寝室は別々なのだが、テオバルトが夜に訪れてくることをアルビナの立場で断れるはずはないし、周囲からも暗黙の了解として受け入れられている。
どのような意味で受け入れられているかなど、考えるまでもなく下品な意味合いだろうが、それで良かった。
それで下衆な噂が流れようが今は都合がいい。むしろテオバルトの方がいい顔をしなかったが、アルビナが取り合わないので諦めたようだった。
「さて。では今夜の建国記念パーティーを振り返ってみましょう」
「あ、ああ。いつもすまない、助かる」
おかげで、こうして毎夜反省会かつ勉強会を開催できている。
真面目な顔でビシッと人差し指を上げれば、同じく表情を引き締めたテオバルトが深く頷いた。
「しっかりとご令嬢たちひとりひとりと目を合わせ、微笑まれてましたね。誰も彼もうっとりしていましたわ! 練習したかいがありましたよ、テオバルト様!」
「あ、あんな感じで良かったか!?」
「ええ、これに関しては満点です! その宝石のようなアメジスト色の瞳を活かさない手はありませんもの」
アルビナからの合格判定に、ホッと胸をなで下ろすテオバルト。その姿はいまやまるで、緊張した面持ちで教師から下される評価を待つ生徒である。心なしか背筋もびしっと伸びている。
パーティー会場でこれでもかと令嬢たちを魅了したこなれた女たらしの面影など微塵もない。今夜の振る舞いは、すべてアルビナの指導の賜物であったのだ。
「……ですが」
「で、ですが――!?」
ここからが本題だとばかりに変わった風向きに、テオバルトの顔には緊張が走る。
「ラベンナ嬢の髪を手に取って、なにをささやかれていたのですか?」
このラベンナ嬢こそ、学園時代は王太子に付きまとい、今夜の建国記念パーティーでは我が物顔でテオバルトの腕にしなだれかかっていた、蜂蜜色の髪をふわふわと揺らす侯爵令嬢だ。
そして二人が掲げる『女たらし計画』一番のターゲットだった。
彼女の父である侯爵は、隠しているつもりだろうが野心の強い人物である。そのためこれ以上の権力の集中を避けてラベンナ嬢は王太子の婚約者候補から早々に外された。だが、本人は大層王太子にご執心だったらしい。
現在はテオバルトの努力とアルビナの指導のかいあり、ようやっと『女慣れした第二王子テオバルト』の熱心な追っかけへと鞍替えしてくれたところだ。
「今夜のラベンナ嬢は綺麗に髪を結い上げていただろう? だから良く似合うと褒めたんだ。ちゃんと耳元で声を抑えて伝えたぞ!?」
一番大事な誉め言葉は、耳元で本人にだけ聞こえるように。というアルビナの教えを守ったことをアピールしてくるが、足りぬとばかりに首を振る。
「ええ。その仕草は完璧でしたわ。どこからどう見ても、女たらしでしたし、耳元への囁きは本人の優越感と周囲の想像を掻き立てます! ですが、アクセサリーはご覧になりましたか? 今夜のラベンナ嬢は新しいネックレスを身に着けておられましたわ」
指摘したら、見逃していたのだろう。テオバルトはハッと息を呑んだ。そして心底悔しそうに唇を噛む。
「くっ……それは気付かなかった」
「しかも、身に着けていたのは人気店の流行りのデザインでした。ここを褒めてあげればご令嬢の心をさらにわし掴みでしたわね」
「ドレスだけでなく、装飾品の流行りも追わねばならぬのか……女心とはなんと奥深い……」
打ちひしがれたようなテオバルトは、項垂れながらもベッド横の引き出しから分厚い手帳とペンを取り出して、サラサラとメモを取っていく。
なんとも真面目な第二王子はアルビナとの作戦会議の度に、こうして『女たらしのなり方』なるものを書き記しては実演しているのだ。この手帳もいつの間にか半分が埋まろうとしている。
「けれどダンスは文句なしに美しかったですわ」
流れるようなリードで軽やかにステップを踏むテオバルトはアルビナも見惚れるほどで、飽きることないつまでも見ていられるのだ。
素直に褒めたら虚を突かれたような顔をして、頬を赤くした。女慣れした第二王子とは思えぬ顔である。
「ああ。毎晩アルビナが練習に付き合ってくれたおかげだ」
「おかげで、わたくしもダンスの良い練習になります」
そう、あの見事なダンスも血の滲むような練習のおかげであった。最初の頃はああだこうだと試行錯誤していたら、もつれ合いながらすっ転び、手足に尻にとあちこち打ち付けたものだ。
女たらしになるのも並々ならぬ努力が必要である。
「すでに女性を惹きつけてやみませんが、今夜はもう一歩踏み込んだ囁きを練習してみませんか?」
「もう一歩?」
「そうです。お見せした方が早そうなので、少し失礼いたしますね」
縁に座るテオバルトの前に回ると、アルビナは腰を屈めて片手をベッドに着いた。アメジストの瞳をわずかに見上げる位置に顔を合わせる。
「ア、アルビナ……!?」
近づいた顔に驚いてか、テオバルトが後ずさるように腰を引いた。けれど逃がさないとばかりにアルビナは更に寄って、ベッドに片膝を乗り上げる。
美丈夫の狼狽える様が愉快で、思わず笑みがこぼれた。すると、ゴクリと息を呑みこむようにテオバルトの喉が上下する。
こちらを凝視したまま動かぬ相手の手を、掬うようにそっと取って、指先に唇が触れるギリギリまで近付けて目を合わせた。とたんに赤くなるテオバルトの顔に構わず、ぐっと体重をかけて耳元に口を寄せる。
「今夜のあなたも、見惚れるほど素敵で困るわ」
吐息を吹きかけるようにささやき、そっと離れてから自信あふれるように口角を上げて、唇で弧を描いた。
目の前では赤面したままのテオバルトが、放心したようにただ見つめてくる。
「例えばこのように――」
「…………お、お……」
「テオバルト様?」
「おわわわわわああぁぁっ!」
「テオバルト様!?」
おかしな雄叫びをあげたテオバルトは両手で顔を覆ってベッドに頭から飛び込んだ。ギシッと天蓋付きのベッドが大きく軋み、二人の身体が一瞬宙に浮く。
「またですか!?」
慌ててシーツに埋もれる顔を窺えば、艶やかなアッシュゴールドの隙間から半泣きで顔面を沸騰させる様がチラリと見えた。湯気すら出そうな勢いだ。
「ア、ア、アルビナは、なぜそうも女たらしに詳しいのだ。心臓が、心臓が持たない……!」
「なぜと問われましても、兄がそうなので」
「え!? そうなのか!?」
「ええ、お恥ずかしながら。なので、これまでの私の言葉はすべて兄を参考にしています」
「そうだったのか……」
頷きながらも、ふとテオバルトの表情が曇る。
真面目なテオバルトは優秀なのだが、すぐに変なところを気にする節がある。おそらくまたそれだろう。
「なにが気になるのですか?」
「婚約者が女たらしでは、恥ずかしいか……?」
やはり、なにかと思えばそんなところが気になったらしい。が。
「……今さらです」
まったくもってなにを言い出すのかと思えば。
呆れたアルビナの言葉に、テオバルトがあからさまにショックを受けた顔をする。
「や、やはり恥ずかしかったのか……!?」
「そうではありません。落ち着いてください。そこを気にするのは、今さらだということですわ。それに王太子殿下のためと決めたのでしょう? 私が恥ずかしいかなどは関係ありません」
初対面であんなにキリッと『二人に近づく社交界の令嬢をすべて引き受ける』などと言っていたというのに。
「それはそうなのだが……あのときは、あまりにもアルビナの立場を無視したことを言ってしまったと思ってな……」
シュンとするテオバルトは、やはり誠実で疑いようもなくいい人だ。
「わたくしのことは、今は気にせずともよいのです。それに……兄は間違いなく恥ずかしい女たらしですが、テオバルト様は違います。女たらしのタイプが異なりますので、私は現状なにも恥ずかしいなど思っておりませんわ」
アルビナの兄はただただ下心で女性の尻を追っかけ、そのためにあらゆる手を使う性根が腐ったタイプの真性女たらしだ。あれを恥ずかしいと思ったとて、テオバルトのように真面目に取り組む女たらしを恥ずかしいなどとは思わない。
(真面目に取り組む女たらしというのも、なかなかおかしな言葉ですけれど)
自分で思っておきながら首を傾げてしまうが、その通りだからいいだろうとひとり頷く。
「女たらしにもタイプがあるのか……上級者の言葉は難しいな」
「わたくしは上級者ではありませんが」
「なにを言う! あんなに私の心臓を痛めつけておいて!」
わぁっとベッドに顔を伏せてテオバルトが嘆くが、少しばかり言っていることがよくわからなくて慰めようがないのが困る。
「アルビナは、兄と親しくはなかったのか?」
とりあえず落ち着くのを待っていたら、そんなことを聞かれた。
「親しいというより、家族に対して特に思うことはないです」
素直に答えると、テオバルトがなんとも言えない顔をする。
兄のためにと今まさに努力している彼だ。家族に対してなにも感じないなど、もしかしたら薄情な女だと失望されたかもしれない。
そう思ったら、なんだか胸の奥が痛んだ気もしたが、これが本心なのだから仕方がない。
「……とにかく、練習を続けますか?」
「あ、ああ。そうだな。先ほどのはかなりの攻撃力だった」
「攻撃力、ですか?」
「私も上手くできるといいのだが……」
「大丈夫ですわ。テオバルト様は、本番ではいつもしっかりとご令嬢方が燃えそうなほどに赤面させております」
アルビナとの練習では、毎回「おわわわ」などと叫びながら赤面してしまいなかなか事が進まないのだが、これがまた本番となるとしっかり完璧にこなしてみせるのだ。
あれほどしっかりできるのだから、練習でもできてよさそうなのだが――今夜もテオバルトは「おわわわ」と叫びっぱなしであった。
あるときの夜会では、視線が絡まるたびに蕩けるような笑みを浮かべるテオバルトに、ダンスを踊った令嬢たちはことごとく骨抜きになったものだ。
その日の晩はいつもの寝室で二人も朝方まで踊り通し、アルビナによる激しい指導が飛んだ。
「テオバルト様! 今夜は顔にばかり意識が集中して手がおざなりでしたよ! こうして腰に手を添えて支えて……こうです!」
いやらしくはないが、意識をせずにはいられないような力加減で腰に手を当てる。そしてぎりぎりまでグッと顔を近づけて相手の身体を支える。
身長があったアルビナは背中を反らせるテオバルトを見事に支え、相手の鼻先まで唇を近づけて囁いた。
「私まで釘付けにされては踊れなくて困ってしまうわ、美しいお方。――と、いうような……」
「おわわわわわあぁぁっ!」
「テオバルト様!?」
あるときのパートナー同伴のお茶会では、テオバルトが紅茶の香りを堪能する姿だけで令嬢たちは時間を忘れ、うっとりと見入ったものだ。
その日の晩は、令嬢たちに人気のスイーツ店の名前を一覧にしてテオバルトに叩き込んだ。
「お茶会の主催が気合を入れるのはお茶だけではありません! みな招待客に合わせて一押しの茶菓子を用意しているのですよ!? そこに触れないでなにが茶会ですか!」
甘いものは苦手で……と怖気づくテオバルトの口に、急ぎ手に入れた有名店のスイーツを次々と押し込んでいく。
「これはほんの一部なのですよ。せめてこれだけでも味と名前をすべて覚えるまで今夜は寝かせませんからね」
「あうひな、へめて、みうをうれないは……」
水を手渡しながら、決め台詞の指導も忘れない。
モゴモゴさせるテオバルトの顎をクイっと掬う。
「まるであなたのような甘い香りに酔ってしまいそうです」
「お、おお……」
「これくらいは言えませんと」
息を吹きかけるように囁けば、ブーッとテオバルトが口から菓子を噴きだした。
「おわわわわわああぁぁっ!」
「テオバルト様ぁ!?」
こうして厳しい特訓を重ね乗り越えてきたテオバルトとアルビナ。
今夜、二人はカリオン侯爵の夜会に招待されている。
なにを隠そうあのラベンナ嬢の家門である。
馬車を降りた二人はまさに決戦を控えた心境であった。
「……今夜は勝負ですね」
「ああ。ラベンナ嬢は私が惹きつけてみせよう……!」
今夜の夜会は王太子とその婚約者も招待されている盛大なものであった。
家の力を誇示したいカリオン侯爵と、その存在を無下にはできない王族の水面下でのやりとりがあった結果なのだが、アルビナたちにはその辺の事情よりもラベンナ嬢である。
王太子には近づけないぞと並々ならぬ闘志を燃やして入口に立った。
いざ、という直前。不意にテオバルトがアルビナの方に顔を向ける。
今夜のアルビナはクリーム地に金の刺繍が施されたマーメイドラインのドレスだった。
流行りの形とは違うが、テオバルトが「背が高くスラリとしたアルビナにはこれが一番映えると思う」と言って推してきたのである。装飾品はオリーブの髪色に合わせて、薄い緑色の宝石を控えめにあしらったネックレスを身に着けた。
現に馬車に乗る前、身支度を終えて落ち合った際には「綺麗だ」と言葉をかけられたが、形式的なものと大して気にはしていなかった。
のに、だ。
ドレスをまとった婚約者の姿を見て、テオバルトは満足そうに目を細める。
「改めて、そのドレスは良く似合っている」
「え」
「会場に入ったら言えないだろうから、今のうちにもう一度言っておきたかった」
「ええ?」
社交辞令ではなかったのだろうか。
呆けてる間に手を取られ、テオバルトの腕に添えられ、アルビナは会場もとい戦場へ足を踏み入れたのだ。
結果、練習のかいもあって、今夜のテオバルトはどこからどうみても誇らしいほどの女たらしであった。
ダンスの素晴らしいリードでラベンナ嬢とともに会場の人々の視線を掻っ攫ったかと思えば、しっかりと指の先まで意識を巡らせた手付きで腰を支え、テオバルトが顔を近づけてなにかを囁いたときにはあちこちから黄色い悲鳴が上がった。当のラベンナ嬢はうっとりと顔を蕩けさせている。
ビュッフェ形式に食事が並ぶ場に移動した際は、カリオン侯爵家が用意した煌びやかなスイーツについて語るラベンナ嬢に相槌を打ち、会話に花を咲かせていた。
そこでも耳元に口を寄せてなにかを囁き、ラベンナ嬢が頬を染める一幕があり、周囲からはまた黄色い悲鳴が上がる。
完璧である。
やはり本番に強い。
おわわわの「お」の字もでない女たらしっぷりである。
見事な仕上がりにアルビナも思わず得意気に鼻を鳴らしそうになるが、この場面で得意顔はおかしいので口を引き結んだ。
おかげでラベンナ嬢は片時もテオバルトを離そうとせず、王太子とその婚約者は滞りなく挨拶回りを終えることができたらしい。
アルビナとは会場の反対側にいる王太子からその旨を伝えるアイコンタクトを受け、頷き返した。
壁の花になりながら、安堵の息を吐く。このままなら無事に夜会を乗り越えられそうだ。
ひと息ついてふと周囲を見ると、今夜はなんだか普段より視線を感じる気がした。改めて自身の装いを確認してみても、特におかしなところはない。いつもと違うのはテオバルトが見立ててくれたドレスだ。
良く似合っているとは言われたが、やはり華も可愛らしさもない自分がこのように落ち着いたドレスを着たら、余計地味に見えているのかもしれない。
あの第二王子の婚約者がこれか。と呆れているのかもしれない。
視線をテオバルトに戻すと、ラベンナ嬢と楽しげに談笑しているところだった。
艶やかな美丈夫のテオバルトと、いるだけでその場が華やぐラベンナ嬢。並んでいる姿は圧巻である。迫力がある。嫌になるほど絵になっている。
とりまく誰もが二人に見惚れているのがわかる。
アルビナが並んだとて、こうも絵になるとは到底思えない。
テオバルトは『今は』愛することはできない。と初対面で言った。
しかし、王太子の婚姻が整い『今は』が無くなったとてアルビナを愛することができるとは思えない。
いい関係を築けているとは思う。だがそれは「女たらしにならねばならない」というテオバルトの目標に向かうためのただの協力関係だ。
笑顔を浮かべる二人を真っすぐと見据えながら、ふとそんなことを思った。
なんだか居ても立っても居られない気持ちになり、手にしていた果実水を一気に飲み干すとグラスを給仕に渡して煌びやかな会場に背を向けた。
そのままバルコニーに出たら、涼やかな夜風に頬を撫でられる。「ふぅ」と思わずため息がこぼれた。
今までパーティーが終わるまで壁の花として立っているのが常だったし、テオバルトから視線を外すことはなかったのだが――どうしても今は、会場にいる気分ではなくなってしまった。
日々真面目に「女たらしになる!」と練習に励んでいたテオバルトの今夜の出来は、完璧だった。
きっともうアルビナとの練習も、助言も、必要ないだろう。
あとは無事に王太子とその婚約者が結婚するのを待つだけだ。
「……やることがなくなってしまったわ」
疎まれるだろうと覚悟して輿入れしてきたアルビナにとって、『女たらし計画』は案外悪くなかった。こう言ってはなんだが、むしろ楽しかったようにも思う。
それが終わってしまうのはテオバルトとの関係性も終わってしまう気がして、どこか寂しささえ感じてしまう。……まあ、これからも婚約者ではあるのだが。
とはいえ婚約者としての関係性はまったく育めていないし、育めるかも怪しいのだから仕方ないだろう。
ふと、後ろに人の気配がした。
「こんなところにいらっしゃるとは、珍しいですね」
突然の声に振り返れば、バルコニーに男性が一人立っている。
夜会での挨拶回りなどで何度か見たことのある貴族で、それなりに見目のいい男であるが個人的に話したことはない。
今夜も会場にいるのを見たし、なんならやたらと感じた視線の中の一人でもある。
「……少し夜風に当たりたくなったもので」
「普段は会場でテオバルト殿下を熱く見つめていらっしゃるというのに」
「あら、そうでしょうか?」
微笑む男は確か有力な伯爵家の人間だったはずで、一体なんの用だと思いながらも無下にはできない。
これまで貴族たちから遠巻きにされることはあっても、直接話しかけられることは無いに等しかったのだが……その戸惑いを笑みで隠した。
「……今夜のドレス、とても似合っていますね」
「それは……ありがとうございます」
唐突に褒められて思わず目を見張る。
このような夜会の場で、世辞でも綺麗だなどと言われたことはない。
「普段とあまりに印象が違うので、失礼ながらつい声をかけてしまいました」
普段のアルビナは、流行りのふんわりとした可愛らしいドレスを身に着けていた。
背丈があるから似合わないだろうと自分でも思っていたものの、ひとまずこの国の流行りを、と夜会などの際はテオバルトにお願いしていたのだ。なんだか不満そうな顔をしていた気もするが、郷に入れば郷に従えである。
確かに今夜のマーメイドラインのドレスは、やけに着心地がしっくりくるが見た目もそれほど印象が違うのだろうか。
そんなことを考えていたら、いつの間にか男性に距離を詰められていた。咄嗟に下がろうとするが、すぐ背後は手すりで身動きがとれない。
「まさかこれほど美しい方でしたとは……」
そう言ってねめるようにアルビナの胸元から足へと動いた男の目を見て、彼の目的を察した。
(兄と同じ目つきをしている)
戸惑っていた心も一気に冷静さを取り戻した。なるほど、そういうことか、と逆に腑にも落ちる。
この男は性根が腐ったタイプの真性女たらしだ。獲物を前にしたような下卑た眼差しは何度も目にして知っている。
となれば、アルビナに声をかけてきたのも納得というものだ。
敗戦国の王女で、第二王子から相手にもされていない形だけの婚約者など、どのように遊び捨てたところで構わない存在なのだから。
大方、寂しい思いをしているだろうから、耳触りのいいことを言って連れ出そうという魂胆だろう。
それを理解してしまえば簡単だ。
すっかり冷めたアルビナに構わず、男は何事かを必死に言い募っている。どうしたものかと思っている間に反応の薄いアルビナにじれたのか、強引に腕を掴まれた。
「疲れているようですね。少し休憩しましょう……寂しいのなら相手をしますよ」
最後のひとことは、耳元に顔を寄せて囁かれた。
「――っ、結構よ。離して」
テオバルトに散々指導してきた仕草だが、この男にされたとて心には響かなかった。むしろゾワリと背筋が寒くなる。
練習だといってテオバルトにされたときは、こんな不快な思いは感じなかったのに、だ。
なんて不思議に思ったと同時。
「アルビナ!」
バルコニーに息を切らせた男性が飛び込んできた。
肩を上下させる彼と視線が交わる。その瞬間、垂れた優しげな目尻が鋭くなった。
「テオバルト様」
アメジストの瞳を見間違うはずもない。
名前を呼べば、彼は弾かれたように真っすぐと向かってきて、いまだアルビナの腕を掴む男の手を険しい顔で払いのけた。
「私の婚約者が、なにか?」
「……いえ、あの――」
普段、公の場で見せるような穏やかさなど一切感じさせない低い声に、相手は怯んだように後ずさった。現に、その変わり様にはアルビナでさえ驚いた。
ここにいるのは女たらしな第二王子ではなく、圧倒的風格をまとった王族であり、アルビナの母国を完膚なきまでに返り討ちにしたほどの戦を指揮した男だ。
その事実をまざまざと肌で感じるほどだった。
「お一人でしたので、少しお話しておりました……」
「そうか、ならばもう必要ない。下がれ」
「し、失礼しますっ」
にべもなく言い放つと、戸惑う男にむかって手を払い、下がるように促す。
さすがに第二王子からここまで言われては食い下がることもできない様子で、男は渋々バルコニーから去っていった。
――だが、アルビナこそ戸惑っていた。
「テオバルト様、なぜここに……?」
夜会では最初のダンスさえ踊ってしまえば、あとは別行動だと言っていたはずだし、今までもそうだった。
問えば、それまで険しい顔で男の背中を見送っていたテオバルトの顔が一気に崩れる。
「心配したんだぞ!?」
「……え?」
「い、いつもはずっと会場内にいるだろう? なにかあったのか?」
先ほどまでの風格はどこへやら。
オロオロと情けなく眉を下げてアルビナの手を取った顔は、いつものテオバルトだ。
「姿が見えないから、焦った……!」
「それは、申し訳ございません……?」
ちょっと会場を離れただけで、ここまで狼狽えられることに目を白黒させていると、またもやバルコニーに人影が増える。
「テオバルト様! 急にどう――」
ラベンナ嬢である。おそらく突然姿を消したテオバルトを追って来たのだろう。
テオバルトの姿を認めて一瞬安堵の顔を見せた彼女は、横のアルビナと二人の手元に視線を落として眉尻を吊り上げる。
これはまずいところを見られたな。と思ったときには、すでにラベンナ嬢はテオバルトの腕にしがみついていた。
「まだ夜会は途中ですわ。戻りましょう?」
にこりと笑んでから、鋭い目つきでアルビナを睨みつける。
「あら、いらしたのね。相変わらずテオバルト様にまとわりついて、ご迷惑なのがわからないのかしら」
確かに傍目に見たら、アルビナが縋っているように見えるだろう。
軽蔑したような目でラベンナ嬢は「フン」と小さく鼻を鳴らした。
ここは二人を置いて戻った方が良さそうだと、テオバルトの手を離そうとするが――なぜが一層強く握り返された。
テオバルトは一度会場内に視線を向けたかと思うと、笑みを浮かべることなくラベンナ嬢に言い放つ。
「申し訳ないが、私は婚約者と先に失礼させてもらう」
先ほどまで、会場内でにこにこしながら甘い言葉を囁いていた姿とのギャップに驚いたのだろう。ラベンナ嬢は怯むように一度息を呑んだ。
「テオバルト様、どうされましたの? これからではありませんか」
それでも絡めた腕を解かないのはさすがだ。
決して逃がさぬとでもいう様子に、おそらく彼女も彼女で今夜は何かしら仕掛けるつもりだったのかもしれない。なんといっても今夜の会場はカリオン侯爵家、ラベンナ嬢の家である。
「そのような方、お気になさらずともよろしいでしょう?」
これ以上もめるのも良くないのでは……とアルビナは内心焦りながらテオバルトを見やるが、彼は動じることなく腕にしがみつくラベンナ嬢を、やんわりとだが確かに振り払った。
これに驚いたのはラベンナ嬢本人と、アルビナである。
「私の婚約者をそのように言ってほしくはないな」
すると、あろうことかテオバルトはアルビナを横抱きに抱え上げた。いわゆるお姫様だっこである。
「……え!?」
「それでは失礼する。素晴らしい夜会だった」
突然のことに素っ頓狂な叫びをあげるアルビナに構わず、テオバルトはそれだけを告げ、返事を待たずに歩き出した。
言われたラベンナ嬢も呆気にとられている。
「テオバルト様、このまま? え、このままですか!?」
「このままだ」
ひえぇ、と小さな悲鳴をこぼすアルビナに気付いているだろうに、何食わぬ顔でお姫様抱っこのまま会場に戻り、脇目も振らず進む。周囲の驚く視線が全方向からグサグサと突き刺さる。正直恥ずかしすぎて顔が上げられない。
すると「テオバルト殿下!」と慌てたような声が後ろから聞こえた。
「ど、どうされたのですか!?」
「これはカリオン侯爵。すまないが婚約者の具合が悪いようだ。今夜はここで失礼させてもらう」
「な、なんと……」
どうやら駆け寄ってきたのはラベンナ嬢の父親でもあるカリオン侯爵その人だったらしい。
チラリと視線を上げると、彼は娘とそっくりな目で忌々しそうにアルビナを睨みつけた。
「では休憩できる部屋を用意しましょう。せっかくの夜会ですし、娘も殿下にお会いできるのを大変楽しみにしていたのですよ」
どこか焦りを浮かべて必死にテオバルトを引き留めようとする侯爵の後ろに、バルコニーから蜂蜜色のブロンドが駆け寄ってくるのが見える。
なるほど、テオバルトとラベンナ嬢の間に既成事実でも作るつもりなのだろう。侯爵も絡んでいるどころか、発案者は彼かもしれない。
だが――。
「結構だ」
彼を捉えようとするこの状況、すべてをひとことで斬り捨ててテオバルトは会場をあとにした。
*****
アルビナはドレスのまま寝室のベッドの縁に腰かけていた。
テオバルトにこの恰好で待っているように言われたからだ。
あのあと、すぐ馬車に乗りこんだ帰路の道すがら、大丈夫なのかと何度も問うたがすべて「あとで説明する」とだけ返され今にいたる。
するとようやくノックの音が響き、「どうぞ」と応えたらテオバルトが入ってきた。
「今日はすまなかった」
隣に腰かけた彼は、唐突にそんなことを言う。
「ええと、なにについてでしょう? いえ、それよりもラベンナ嬢を無下にしてしまって良かったのですか?」
なによりも気がかりだった点を再度問うた。
彼女を惹きつけるための『女たらし計画』ではなかったのか。
焦りを見せるアルビナとは反対に、テオバルトはそうだったとばかりに「ああ」などと声をこぼす。
「それは大丈夫だ。兄上たちもすでに会場をあとにしたようだったし……そもそも、女たらしも今日までだからな」
「……今日まで?」
思いがけない言葉に目を見張った。
「ああ。兄上たちの結婚の日取りが正式に決定したんだ。明日詳細が発表される。元々その話がまとまるまでということだったし、それに――」
じっ、とアメジストの瞳がアルビナを覗き込んだ。その目は、なにかを堪えるようであった。
「これ以上は私が耐えられない」
「それは女たらしとして振る舞うのが、ですか?」
「違う、そんなことはどうでもいい」
元々の真面目な性格との落差が耐えがたいのと首を捻れば、強く否定された。その視線はずっと逸らされることなくアルビナの瞳に注がれている。
「君のことだ」
「……私、ですか?」
「君が言われなくてもいい言葉を浴びせられ、されなくてもいい扱いを受けていることが辛い」
意を決したように言い切って、テオバルトはその端正な顔を歪めた。
口元には自嘲するような笑みが浮かぶ。
「そのような扱いをさせている原因は、私だというのにな」
俯いてしまった美しいアッシュゴールドの髪を見下ろして、アルビナはしばし言葉を失った。そして「いいえ」と首を振る。
「この件については、すでに最初に謝罪を受けております」
アルビナのことだけに限らず、テオバルト自身のことさえも『今は』優先することはできないのだと。
元より自分が優先されることなど想定すらしていなかったアルビナに対して、初対面であまりにも誠実に内情を打ち明けてくれたのだ。だからアルビナは協力しようと思ったし、この状況にはとっくに納得している。
「それに……慣れていますから」
「慣れている?」
「特になにも感じません。このような扱いは母国と変わりませんし、むしろ……」
母国よりましである。
そのように続く言葉を察したらしいテオバルトの目が険しく据わり、アルビナは思わず口を噤んだ。
「以前も言っていたな。特に思うことはないと」
「ええ。わたくしの母は、元は流れの踊り子なのです」
それだけを告げれば、アルビナの境遇をすべて理解しただろうテオバルトの顔が、より一層痛ましそうに歪んだ。
父にも母にもろくに見向きされず、数だけは多い兄姉たちにも蔑まれて生きてきた。
和平の証としての輿入れが決まった際には、姉たちはお前が選ばれて当然だとばかりに嗤っていたものだ。
そんな家族に、今さら思うこともない。
「なるほど、わかった。だが――」
不意に手を取られる。
アルビナの手を握る指先にギュッと力が込められた。
「これからは慣れないでほしい」
聞こえたのは、切実さを滲ませた声。
「それは、どういう……?」
だが、アルビナには彼の意図が理解できない。
不思議に思っていると、テオバルトは服の胸元から小箱を取り出した。
そっと箱が開けられた瞬間、眩いほどの宝石の輝きが目に飛び込んでくる。
「先ほど待たせてしまったのは、これを取りに行っていたんだ」
「……アメジストですか?」
見上げれば、肯定するように垂れた目元を細めるテオバルトがいた。
その瞳も同じ色に煌めいている。
「今の色も、もちろん似合っているが……」
言いながら、テオバルトはアルビナが身に着けているネックレスに視線を落としてそっと触れた。控えめにあしらわれた薄い緑の宝石がわずかに煌めいたが、そのまま首の後ろに手を伸ばされ外された。
代わりにテオバルトは、小箱から大きなアメジストが輝くネックレスを取り出す。
彼はじっとそれを見つめて、次にアルビナを見た。渇望ともいえる強い色を浮かべる瞳に、目を見張る自身が映っている。
「ああ、ようやく渡せる」
感嘆のため息にも似た声だった。
「この日をずっと待っていた」
これまで見せてきた微笑みなどしょせん偽物だったのだと思い知らされるほどの、抑えきれぬ思いがすべて溢れたような顔をアルビナに向けてくるのだから、戸惑うなという方が無理だろう。
あまりの衝撃に固まっていたら、その間に首にはアメジストのネックレスが輝いていた。
「これは、あの人気店の……」
「ああ、そこの物だ。流行りではなくオーダーメイドで仕立ててもらった。これでアルビナの心をわし掴みだろう?」
照れたようにはにかむテオバルトを前に、唇が震えた。上手く言葉が出てこない。
「……なぜ」
なぜ。当然の問いだった。
惜しむことなく渡せる王女。
敗戦国の王女。
愛人のように扱われるならまだましだが、地味で可愛げもない自分。
死ぬまで放置され飼い殺されても当然。
『今は』愛することができないだろうが、その『今は』がなくなったとて愛する必要はない存在。
そのようにアルビナは理解していた。
だから諦めていた。
諦めていたのに。
王族の持つアメジスト色を贈られることが、一体どういう意味なのか。そんなこと考えるまでもない。
「だって、わたくしなど、惜しむ必要のない存在で……」
「なにを言う。我が身を削って和平のために来てくれた存在ではないか」
「そんなの、テオバルト様こそ、敗戦国から押し付けられた厄介な王女ではありませんか」
「そうだな。だからこそ、聡明な君にとって輿入れなど不安しかなかっただろうに」
「み、見てくれだって、可愛げもない地味な女で、とてもテオバルト様とは――」
「アルビナは綺麗だ」
「……っ!」
「本当ならもっともっと着飾ってやりたい。きっと誰よりも美しくなる」
ずっとまとわりついていたドロドロとした思いが、ひとつずつ剥ぎ取られていく。
固く閉ざしていた心がいとも簡単に裸になっていく。
「今夜のドレスも良く似合っている。贈らせてもらえたことは私にとって栄誉だ」
その代わりに変な虫も寄ってきたがな。と、テオバルトは忌々しそうに小さく吐き捨てた。
「私は、初めて会ったときからアルビナに惹かれたよ。国の責任を一身に背負って輿入れしてきたにも関わらず、なんと凛とした美しさを持った人だろうかと。あなたの国を敗戦国とした私を前にして、怯えも憎しみも見せず振舞う姿に、どれほど感服したことか。……だからこそ、君はこの国の流行などに捉われず、君に似合う好きなドレスを着たらいい」
最後は少し不貞腐れたように付け加えられた。
この国ではふんわりしたドレスが流行っているからと、似合わないドレスを着ていたことがよほど不満であったらしい。
「そして私のふざけた提案を受け入れてくれたことは、どれほど感謝してもしきれない。……と、まだまだ語れるのだが、どうだろう」
すでにアルビナの視界は水面のように揺れている。
「施してくれた『女たらし計画』は、未熟な私にはなかなか刺激が強く毎晩心臓を貫かれたが――楽しい時間だった。兄上のためではあったが、間違いなく私にとってかけがえのない時間だったんだ。君にとっては……婚約者を女たらしに仕立てるなど、苦痛でしかなかったかもしれないが……」
違う。それは、アルビナにとっても同じであった。
終わってしまうのを惜しく思えたほどに。
「待たせてすまなかった。これでやっと君を……いや、あなたを愛せる」
このときを心から待ちわびたように笑みを浮かべたテオバルトは、あまりに眩しかった。
あまりに眩しくて、目をしばたたかせたらポロリと涙がこぼれる。どうやらアルビナの目には刺激が強すぎたらしい。
だが、それに驚いたのがテオバルトである。
「ど、どうしたんだ!? 押し付けがましかっただろうか? 嫌だっただろうか?」
流れた涙をどう思ったか、先ほどまでの強気はどこへやらとばかりに狼狽えた。
そんなわけないだろうと思いながらも、つい笑ってしまう。ここでもうひと押しできないところが彼らしい。
「ふふっ、嫌なことがありますか。わたくしにここまでしてくださるのは、テオバルト様だけですわ」
人は嬉しくて泣くこともあるのだと、初めて知った。
おさまらない感情のまま泣いて笑ってとせわしないアルビナを見て、テオバルトの頬が赤くなる。そういえば、こんなに笑ったのは初めてかもしれない。
「私以外にさせてたまるか」
拗ねたように口を尖らせる姿は、たまらなく愛おしいものに見えた。
「そうしてくださいませ。テオバルト様、わたくしもあなたを愛してよろしいですか?」
「……は――?」
湧き上がる思いをそのまま言葉にしたら、テオバルトの美しい顔は赤く染まるどころか炎が噴き出しそうなほど熱く色を変えてしまった。
あまりに急激な変化に心配してしまうくらいに。
「だ、大丈夫ですか?」
「いや、そっ、アル……愛して?」
「はい。これからは、わたくしも愛してよろしいでしょうか」
「わ、私を……っ?」
「はい。テオバルト様を」
一変した可愛らしい反応に、ついつい迫るように顔を寄せた。
どうやら自分の愛を告げるところまでしか想定していなかったらしい。
アルビナから同じ言葉を返されるとは思っていなかったのだろう。『女たらし計画』を強いたことによほど負い目を感じているらしい。アルビナにとっても楽しくかけがえのない時間であったと伝えたら、どのような顔をするだろうか。
ここまで大切にしてもらえて、格好いい面も可愛い面も見せられて、ほだされないわけがないというのに。
夜会で女性たちをことごとく虜にするような『女たらし』にまで成長したというのに、本人は自分の魅力を低く見積もりすぎている。
顔を真っ赤にした彼は、迫るアルビナを前にしてやはり叫ぶのだ。
「おわわわわわああぁぁっ!」
この夜を境に、社交界では婚約者を溺愛する第二王子と凛々しい美貌の隣国の王女の話題が瞬く間に駆け巡る。
女たらしの第二王子はあっという間に消えてしまった。
その後王太子の盛大な結婚式を祝ってから(第二王子とその婚約者は人目も憚らず号泣していた)、彼らも控えめに式を挙げた。王太子夫妻を立てるためであったのだろうが、それ以上に、あまりに最短での挙式であったため、一刻も早く夫婦となりたかった第二王子の意向ではないかというのが周囲の認識である。
結婚後、第二王子妃の母国へ親交を深めるためという名目で訪問をした際には、出国時の「攻め入りにでも行くのだろうか?」と周囲を心配させた顔から一変、大変な満足顔の第二王子と顔を真っ赤にした第二王子妃が帰国してきたとの目撃談が多々であった。
余すところなく溺愛っぷりを披露してきたのだろうと噂が流れたが、おそらくそれは事実だろう。
ここまで読んでいただきありがとうございます。