⒉ 事故の記憶
「先生。グレースお嬢様の具合はいかがでしょうか?」
「足の怪我は問題はないですな。恐らく、意識が混濁してたのでしょう。少し安静にしていれば、混乱も治ると思いますよ」
「そう、ですか。……そうよね。あんなに怖い思いをされたんですもの。無理もないわ」
「今はとにかく安静にすること。それだけを心がけてください」
「はい。ありがとうございました、先生」
「いやいや。では私はこれで」
「……あ、あの。これからミラ様の所へ?」
「ええ。……あの子の方が心に深い傷を負ってしまっていますからな。母親が庇って身体は無事でも、可哀想なことだ」
「……ええ。そうですね。まだあんなに幼いのに……」
侍女と医師の声がベッドから離れていき、部屋のドアが閉められた。
途端に部屋の中が静まり返る。
私は瞑っていた目をパチリと開くと、先程の会話の内容を反復する。
――あんな怖い思い
――ミラ様
――心に深い傷
――母親が庇って
次々と脳内に流れてくるワードに、胸の奥がぎゅっと痛くなり、気がつけば目から涙が溢れていた。
ああ、思い出したわ。
――私は、事故にあったのね。
脳内に思い返されるのは、馬車の転落事故による恐ろしい記憶だった。
馬車に乗っていたのは、私と、腹違いの2歳年下の妹ミラと、ミラの母親のリリーの三人で、首都からの帰り道での出来事だった。
突然の天候不良による嵐で、雷に驚いた馬が暴れ、気づいたら馬車は崖から転落したのだ。
右足の怪我はその事故によるものだ。
その時の衝撃で転落後のことは朧げな記憶しか残っていないが、ミラを覆うように抱き抱えるリリーの姿だけは目に焼き付いていた。
横倒しに転がった馬車。
雷鳴の閃光と暴風雨の激しい音。
身体中から痛みを感じ、底の見えない恐怖と混乱。
目と鼻の先に、額から血を流したリリーがいた。
腕の中にしっかりとミラを抱き、泣き叫ぶミラを必死にあやしていた彼女。
――そうか。彼女は亡くなってしまったのね。
数ヶ月しか一緒に過ごしていない継母だったが、血の繋がっていない私にも優しい人だった。
この涙は彼女を偲んでのことなのか、それとも怖かった体験を思い出したからなのか。
――分からない。
まるで、私のことなのに、私のことじゃないような気がする。
さっきから感じるこの違和感は何なのだろう。
医者の言う通り、事故のせいで意識が混乱しているのかも知れない。
――あの医者は、これからミラの処へ行くと言っていた。
「……ミラ」
腹違いの私の妹。
ほんの数ヶ月前に父の再婚によって屋敷にやって来た彼女。
継母のリリーの連れ子かと思えば、お父様の隠し子だと言う。
それまで存在も知らなかった妹が突然現れ、私は困惑した。
しかし、彼女は私と違ってお父様と同じ色の髪と目を持っており、一目で伯爵家の血筋を引いていることが分かった。
正直、ミラの事は嫌いだった。
みんなから好かれるような愛嬌があって、私より可愛くて。
それに。
半分同じ血が繋がっているのに、彼女は私と違って母親から深く愛されていた。
――私の母は、私を捨てて家から出て行ったのに。
私が欲しいものを持っているミラなんて大嫌い。
あんな子、不幸になればいいんだとずっと思っていた。
そう、私はミラを妬んでいた。
だから、あの子と仲良くしなかったし、意地悪もしてた。
父やリリー、使用人たちから見えないところで彼女を虐めたし、何度も泣かせた。
でも、彼女も母親がいなくなって、私と同じになってしまった。
――可哀想なミラ。
可哀想?
私、ミラのこと可哀想って思った?
可哀想なんかじゃないわよ。
だって。
――あの子は最後まで母親から愛されていた。
転落事故にあっても尚、我が子を懸命に守るリリーの姿。
彼女は最期まで愛する子を守っていた。
私はそんな親子を見ながら、恐怖と痛みに一人絶望していたのに。
――ミラなんて大っ嫌い!
私には誰も守ってくれる人なんていないのにっ!
その光景を思い出すほど、悔しさと惨めさで涙が溢れてくる。
この涙はそういう涙だった。
私は継母を亡くした悲しみよりも、自分の惨めさに心が傷ついているのだ。
『…………ああ。だからグレースはミラを虐めていくのね』
頭の中でもう一人の私が呟いた。
――誰?
グレースって私のことよね。
どうして、私がそんな風に言うの?
私は頭の中で、私とは違う自分がいることを感じた。