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美樹

 それから俺と清美は全くの他人同士になった。清美はあの日以来、もうバスに乗って来る事は無かったし、学校で俺と会っても、目を合わせる事も無かった。俺も結局、清美を見かけても話しかける事もせずに、ただ目を伏せて通り過ぎるのだった。そんな学校生活が苦しくなかったと言えば嘘になる。だが学生である以上、学校に通わない訳にはいかなかったし、それは清美だって同じだった。俺達は気まずい空気の様な関係のまま、三年間を過ごした。


 結局俺は高校時代に、清美の他に好きになった女性は居なかった。清美に振られた落ち込みが酷かったせいもあるが、半年程経ってようやく気持ちが上向いても、他の女に興味を惹かれる事はなかったのだった。もしかしたら、あのホロスコープのお告げのせいで恋愛から逃げていたのかも知れないが、とにかく、新しい彼女を作る事もなく、俺は卒業を迎えたのだった。


 高校を卒業した俺は、すぐに小さな出版社に就職した。俺の仕事は、作家から送られてきた小説やらビジネス書やらの文章を校正する事だった。特にこの仕事がやりたかった訳ではない。というか、そもそも俺には取り立ててやりたい事などなかったのだ。卒業する数ヶ月前に高校の新卒用の企業の張り紙を見てなんとなく決めたのだった。入社試験を受けたら受かってしまったので、ここで働いているだけである。


 入社して三年も経つと、もう俺は清美の事は忘れていた。いや、時々思い出して胸が少しチリチリするがそれだけだ。それに、俺には新しい想い人がいた。彼女は時々わが社に原稿を納めに来る小説家の女で、美樹という名だった。俺より二つ年上で、背はそれほど高くないが、メリハリの効いたグラマーな体をした、中々の美人だった。猫の様な大きな黒い瞳がセクシーで、俺は彼女を一目見てたちまち恋に落ちたのだった。


 今時は普通なら原稿は電子データでやり取りするのが普通なのだが、美樹はどういう訳か、手渡しに拘った。


「だって、電子データじゃ、いかにも味気無いじゃない? 魂が無いっていうか」


これが彼女の口癖だった。お陰で校正も手書きでする事になるのだが、いつもコンピューターにばかり向き合っている俺にとっては、それも悪く無かった。今日も美樹はオフィスにやって来ると、編集としばらく打ち合わせした後、俺の所へやって来た。


「はーい、海君。頑張ってるわね?」

美樹は明るい茶色に染めた長い髪を片手でかき上げながら、俺のデスクに肘を付いて、俺の顔を覗き込んだ。甘い香水の香りが俺の鼻腔をくすぐって、何だかその香り嗅いだだけで、彼女にからかわれている様な気がした。そしてそれは、中々気分の良いものだった。

「ええ。仕事ですからね」

俺は出来るだけ素っ気なく答えた。

「ふーん。相変わらず真面目なのねえ……ね、今日仕事が終わったら、飲みに行かない?」

「えっ? 美樹さんと二人でですか?」

思いがけない誘いに俺の心臓は急激に鼓動のペースを上げた。俺は彼女に自分の心臓の音が聞こえやしないか、と狼狽えた。

「もちろんそうよ~」

「あの、でも、どうしてです?」

「どうしてって……飲みに行くのにそんなに理由が必要かしら?」

美樹は派手なローズピンクの口紅で縁取られた唇を大きく開いて形の良い笑顔を作って笑う。真っ白な形の良い歯がまるで真珠の様に煌めいて、それを見ただけで俺はもう彼女の虜だった。

「そうですよね……ええと、じゃあ今日は7時頃に上がるんで……」

「分かったわ。7時にまた来るわ。じゃね!」

軽くウィンクすると、美樹はオフィスを出ていった。


「おい、海! やったな!」

同僚の小林が向かいの席から立ち上がって、ニヤニヤと薄笑いを投げて寄越した。

「やったなって、飲みに行く約束しただけだぜ」

「ふふん。そっか、お前は知らないんだっけな」

小林はさもいわくありげといった目付きで俺を窺うように見詰める。

「何だよ」

「あの女な、小説家やってる合間に水商売で稼いでるんだぜ。噂じゃ、そこの常連客に体を売ったりもしてるって」

俺は愛しい彼女を侮辱された様な気がして、小林に噛みついた。

「だから何だよ! 仮にそうだとしたって、お前には関係ない事だろ。あの人は作家で、俺達は原稿もらって出版する、それだけだろ」

「そりゃ……まあ、そうだけどな。ま、あれだ。そういう女な訳だから、お前も本気で誘われたとか思わないこった」

小林は憐れみを含んだ目で俺を見ると、席に着いた。


 体を売ってる……小林から聞いたその一言が気にならない訳ではなかったが、俺が美樹に惚れているという事実に変わりはなかった。その時の俺は、憧れの美樹から誘いを受けたというだけで嬉しかったのだ。取り立てて魅力的でもない冴えない俺に彼女が目をかけてくれた――その事実だけで十分だった。

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