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約束

 私…北方茜は、小樽市に住む大学生である。英語や英米の文化を学んでいて、将来は通訳者のような、世界を行き来して色々な人と出会う仕事に就きたいと思っている。昔の私にこの夢を聞かせたらどう思うだろうか。きっと驚くだろう。あの頃の私は、もっと内気で、人の目を気にし、自分の殻に閉じこもっていたのだから。そんな私が変われたのは、とある少女との出会いのおかげであった。


 私が小学五年生の頃の話だ。事の始まりは、友達の居ない私を見兼ねた両親が、私に放談無く留学生をホームステイ先として受け入れたことであった。

 私と同い年の、金髪の少女…ブルーエットが我が家に来た日、人見知りだった私はなるべく彼女と目を合わせないようにしていた。クラスでも人と打ち解けられない私が、遠い国から来た母国語の違う人間と意思疎通ができる訳が無い、きっと迷惑をかけてしまうだろうと思ったからである。

 なんとか一日をやり過ごし、夜が来た。私はいつも通り日が変わる前に布団に入り、目を瞑って睡魔がやってくるのをじっと待っていた。その時だった。ふと目を開けると、私の隣に、私と同じ布団で、あの少女…ブルーエットがこちらに顔を向けて寝そべっていたのだ。あまりに突拍子のない光景に、私は思わず目をかっ開き、身体を震わせ、出し慣れない声を出して驚いてしまった。

「ごめんなさい、起こしてしまったかしら。」

 日本語が上手すぎるとか、そういった驚きはなかった。そう思考が至前に、目が合ってしまったのだ。月光を反射したサファイアのように、暗闇の中で青々しく、妖しく、神々しく輝く彼女の瞳と。私は声を失った。言葉も、手足の動かし方も忘れてしまったような感覚だった。

「どうかしたのかしら?」

「あっ、いや…その…。にっ、日本語…上手だなって…。」

 とっさに出た嘘は、私が彼女に向けた初めての言の葉になってしまった。


 それからしばらくの間、私は彼女と同じ部屋で生活することになった。 最初は突然の共同生活に、一種の恐怖さえ感じていたのだが…。私はブルーエットのペースに飲み込まれる形で、半ば強引に彼女と打ち解けたのだった。しかしそれは苦痛ではなく、私はブルーエットと時を共にすることに、過去に一度とも識ったことのない幸福を感じていたのだ。私は本気で、彼女が魔法使いなのではないかとすら思ったぐらいには、彼女がくれる初めては、どれも魔法のように輝いて見えたのだ。

 その魔法の一つは、彼女がする故郷…イギリスの話だ。絶景スポット、旅行した先での話、オペラハウス、アフタヌーンティーや貴族社会の名残りなど…彼女は目を輝かせて、故郷の話をした。彼女の綺麗な…本当に聞き惚れてしまうような美しい語りは、私の心を遠い西の国へ旅立たせた。そして彼女は決まっていつもこう言うのだ。「世界って広いから美しいのよ!狭い場所に閉じこもっていては見ることが出来なかった美しさがたくさんあるの!」と。その言葉は、夢へ歩く私の背中を、今まで何度も押してくれた。


 そんな笑顔を絶やさない金髪の魔法使いは、一度だけ顔を曇らせたことがあった。

「あなた、ピアノ弾けるの?」

 彼女は部屋の隅に佇むピアノを見て、今気づいたかのような顔をしてそう聞いてきた。

「うん。でも、一人で弾くだけだから、つまらないんだ。」

 その時、ブルーエットの青空のような顔に雲がかかったのだった。しかし彼女は少しの間を置いたあとすぐに人好きのする笑顔を見せて、こう言った。

「だったら、一緒に弾きましょう。」

 彼女はピアノの前に座って私を手招きするのだが、その時彼女の鍵盤を見つめる瞳は、どうしてか重々しく、また毒々しく見えたのだった。しかし。

「驚いた。ピアノってこんなに楽しいのね。」

 しかし、連弾を終えた彼女は、心からの笑顔を見せた…かどうかは本人にしか分からないが、少なくとも私にはそう見えた。

「驚いた…?どうして?」

「私、親が完璧主義?ってやつで。小さい頃に嫌という程ピアノのレッスンを受けたから、ピアノ、あんまり好きじゃなくなっちゃったんだよね。でも…。」

 貴女と一緒に弾くピアノはとても楽しい、彼女ははそう続けた。

「私も青ちゃんとピアノ弾くの、全然退屈じゃなかった…!」

 心からの喜びをそのまま伝えたせいで、私は彼女をそう呼び間違えてしまった。私は日記にブルーエットのことを書く時、本名を書くのはどこか気恥ずかしくて、「青ちゃん」という仮名を勝手に使っているのだ。それが無意識に出てしまった。

「青ちゃん…?」

 彼女が拍子抜けした顔でそう聞き返してきた時は、穴を掘って隠れてしまおうとさえ思った。

「ごめんなさい…!間違っただけだから、忘れて!忘れて!」

 しかし。

「それ、良いね。気に入った。」

「え…?」

 その日から、私は彼女を「青ちゃん」と半ば強制的に呼ぶことになった。


 夢のような日々はあっと言う間に過ぎ、別れの日は思っていたよりもすぐに来た。青ちゃんがイギリスに帰らなければならない日だ。

 千歳空港へ向かう前に、私達は二人で早朝の小樽運河を眺めた。二人でここへ来たのはもう八度目だ。青ちゃんが偉く気に入って、何度も私に案内させたのだ。私にとってはそこら辺の川と同じ認識だった景色だったが、彼女があまりにも魔法石のようにキラキラした目で夢中になって眺めるので、いつしか私にとっても特別な場所になった、小樽運河。

「泣くの禁止!」

 青ちゃんは俯きながら、私の左肩を強く握って、そう呟く。私はその時初めて、自分の顔がびしょ濡れになっていることに気がついた。

「泣いたら…本当にもう会えない気がするんだ。だって…、世界は広いから。」

 彼女の私の肩を握る手の力が弱まる。これほど不安そうな彼女を見たのはそれが初めてだった。

「広いから、美しい…だったよね。青ちゃん。」

 彼女はしばらく俯いたまま、沈黙を貫いた。一通り貫いたあとに、私の手を柔らかく、包み込むように握り…。

「いつか必ず会いに来てね。それまで、毎月手紙を送るわ。」

 震えのない、いつもの美しく落ち着いた声でそう言った。

「うん。私も毎月送る。英語ペラペラになって、イギリスに行くから。今度は青ちゃんがイギリスを案内してね。」

 私の声はやっぱり震えていた。しかしそんな私に、彼女は小指を差し出した。

「日本人は、約束をする時、指で握手をするのよね?」

 彼女はようやく顔を上げ、そう言った。彼女の表情は、天気雨だった。


 私達の約束は、数年間守られた。勉強の話や、学校の話、話題が思いつかない時はニュースの話など、その内容に統一性はないものの、確かに毎月一通の手紙が、大きな海を超えて私達の元へ届いた。しかしその約束は、ある日、何の前触れもなく、突如として破られるのであった。


 私が高校三年生の頃だ。一ヶ月を過ぎても手紙が来なかったので、私は最初、もう忘れられてしまったのかと思った。いくら楽しい日々を共に過したと言えども、お互い自分の生活があり、きっと誰よりも明るい彼女には友達も沢山居る。だからきっと、私に構ってる暇がなくなってしまったのだと、そう思った。一人で勝手にそう決めつけ、次の月は私も手紙を書かなかった。悲しかったが、またきっといつか会えると、根拠の無い希望を頼りに、私は泣くのを我慢した。泣いたらもう、会えないと思ったからだ。

 しかし私のその踏ん張りは、たった一通の国際電話によって、踏みにじられることになったのだった。


 青ちゃんは死んだ。


 落雷による火事で、逃げ遅れたとの事だ。私は涙の代わりに、口から血を吐いた。血を吐いて、そのまま倒れて、目が覚めて、今度はわざと嘔吐した。自分の体の中に生きるための栄養があることが腹立たしく感じたのである。それから毎晩夢に青ちゃんが出てきて、毎朝夢から覚めた絶望に苛まれ、昼間は自分の唇を噛みちぎりながら部屋にひきこもった。しかし、不思議と涙は出なかった。否、無意識に堪えていたのだろう。私はこの期に及んで、まだ泣かない限り彼女と再会する日が来ると信じていたのだ。まるで狂信者のように。

 そんな日々が一ヶ月ほど続いたのだが、ある日届いた手紙が、そんな私の運命を変えた。それは青ちゃんの机から見つかったという、私宛の手紙を、彼女の遺族が届けてくれたものだった。私はすぐにその手紙を開封し、まるで青ちゃんが帰って来るような、そんな気持ちでその手紙を読み始めた。

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