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民草とは青人草とは   作者: 完結しました
9/21

本居宣長の「青人草」の解釈を調べました

▲椎名林檎さんの茎について知りたくてこのページに来てくださった方へ。該当ページは削除しました。せっかくアクセスしてくださったのに申し訳ありません(._.)▲


今回は長いです。宣長についてあまり知らなかったので勉強しつつ調べました。難しかったよー。

「青人草」の語源について、本居宣長はどう解釈していたのか調べました。谷川士清とは異なる見解を宣長は持っていたようです。


『古事記伝』は国会図書館デジタルコレクションで読めます↓


本居宣長『古事記伝』日本名著刊行会

144コマめ

三柱ミバシラ 凡て古は、神をも人をも数へては、幾柱イクバシラと云り。

(中略)

さてかく柱としも云所以は、さだかならねど、まづ上代には、宮造ることを云に、底津石根宮柱 布刀斯理フトシリと稱へ、或は柱は高太タカクフトくなどもいひ、大殿祭詞などにも、柱の事をのみムネといひ、又書紀の袁祁御子ヲケノミコ室寿ムロホギの御詞にも、築立柱者ツキタツルハシラハ此家長コノイへキミノ御心鎮ミココロノシヅマリ也と先詔ひ、其外神代の始に、女男大神天之御柱を行廻ユキメグり坐しを始て、柱を云ること多く、後には神宮に心御柱など云こともあり。かくて其柱は、あまた並立ナミタテる物なるが故に、もと皇子ミコたちなどを、數多アマタ立並タチナラビ坐すをホギて、幾柱イクハシラタトへ申せるにやあらむ。

(中略)

私記に、蓋古以貴人喩於木故為一柱一木矣、以賤人喩於草故謂青人草也。といへる、()()()()()()


《引用おわり》


「三柱」とは古事記の冒頭天地開闢の場面で登場する「天之御中主アメノミナカヌシノ神」「高御産巣日タカミムスヒノ神」「神産巣日カミムスヒノ神」のことですね。


なぜ神を「柱」と数えるのか?


宣長は「詳ならねど」としつつも、古くから「柱」は神聖なものであった例を示し、皇子など貴人が並ぶ様を柱とたとえて言うのではないか?と考えていたようです。

そして「私記に、蓋古以貴人喩於木故為一柱一木矣、以賤人喩於草故謂青人草也。といへる、此説はわろし」と私記の「昔は貴人を木、賤人を草にたとえた、だから身分の低い人を青人草という」という解釈を否定しています。わろし!


宣長は私記について否定的だったようですね。「漢意からごころ」(中国の影響)をとりはらって古事記を読もうとした宣長にとって、儒学者たちの解釈を記した「私記」は否定すべきものだったのかな、と私は思います。(宣長が『私記』について否定的だったのではないか、という私の見解は間違っていました。詳しくはこのページのあとがきを見てください。2019.10.11記)



イザナミが火の神を生んで死んでしまったときに夫であるイザナギが「大切な妻をたった一つの木に変えてしまった」と嘆いたと古事記にはあります。

なぜ、子(火の神)を「木」と表現するのか。宣長は『古事記伝』において何と言っているのでしょう?↓



198コマめ

易子之一木乎 

(中略)

一木は、私記曰、一兒コノヒトツケ、古事記及ビ、日本新抄並謂易子之一木乎、古者謂木為介、故今云神今食者、古謂之神今木矣云々。と云り。此訓古き傳と聞えたり。猶古に木をとも云し例は、書紀景行巻に、御木ミケ、木此云開、萬葉廿〔二十一丁〕に眞木柱を麻木波之良マケバシラ。又〔二十八丁〕松木を麻都能気マツノケとよめり。

(中略)

さて今子一人とあるべきを、かく詔ふ由は未ダ思ヒ得ず。

私記に、蓋古以貴人於木、故謂神及貴人為人柱一木矣、以賤人喩於草、故謂天下人民為青人草也。と云へれど、此ノ説 ヨシ所思オボエず。なほ別意コトココロあるべきものなり。


《引用おわり》


「未ダ思ヒ得ず」……まだよくわからないよ、と言っています。と、言いつつも、「此ノ説 ヨシ所思オボエず。なほ別意コトココロあるべきものなり。」と「私記」の説を否定することを忘れていません。


(古事記にある「木」は「ケ」と読むのですね。私は普通に「キ」と読んでいました)


さあ、では「青人草」について、宣長はどう解釈しているか見ていきましょう↓



215コマめ

宇都志伎青人草ウツシキアヲヒトクサ

書紀に、顕見蒼生 此ヲ宇都志枳阿烏比等久佐ウツシキアヲヒトクサ。とありて、私記に、顕御者、見在ゲンザイ之義也。とあり。かかれば、宇都はウツツ

(中略)

さて、人草のことを如此カク詔ふは、書紀大穴牟遲ノ命の御言に、吾所治アガシレル顕露事者アラハルゴトハ皇孫當治スメミマノミコトシロシメセ吾将退治幽事アハカクシテカミゴトシリナム云々。〔此ノ幽事を、上の文には神事カミゴトとかけり。同じことなり。〕かく、幽神事にムカヘて顕露事と云るが如く、目に見えず、アラハならぬ神に對へて、アラハシたる世人と云ふことぞ。

〔中巻末に、神習カミナラフ青人草習アオヒトクサナラフと云ことある。此レも世ノ人を神に對へて云るなり。〕

(中略)

青人草と云所以は、次の文に、千人死千五百生とある意にて、草の彌益々(イヤマスマス)に生茂オヒシゲリはびこるにタトへたるなり。青としも云るに心をツクべし。〔私記に、貴人を木にたとへ、賤民を草にたとふ、といふ説はひがことなり。〕

故レ、此ノは、神の人の利益クホサナシ給ふことと、人の損害ソコナヒを為給ふこととにのみ、必ズツカなり。〔神の人を利益タスケたまふは、千五百人生るる意なり。され、損害をなすは、それに逆ひアタむなり。故、共に此ノ称を云なり

(中略)

から國に、蒼生黔首など云意とは、いたく異なり。ゆめ、此ノ文字に迷て、意をとりあやまることなかれ。書紀に、蒼生と作れたるは、たまたま似たるの文字をトラれたるのみなり。


《引用おわり》


ウツシキアオヒトクサの「ウツ」とは「現実の」「現れる」という意味だと言っています。


そしてオオアナムチ(大国主)のセリフを例に出して「現れる」について説明しているようなのですが……


う、難しい。オオアナムチ(大国主神)の話とか持ち出されてもわけわからない……というわけで小学館の『新編日本古典文学全集 日本書紀』を確認!……


……載ってないんですけど? 「吾所治アガシレル顕露事者アラハルゴトハ皇孫當治スメミマノミコトシロシメセ吾将退治幽事アハカクシテカミゴトシリナム」ってどこに載ってるの―?宣長先生!


多分、大国主神の国譲りの場面のセリフだと思うのですが……


吾所治アガシレル顕露事者アラハルゴトハ皇孫當治スメミマノミコトシロシメセ吾将退治幽事アハカクシテカミゴトシリナム」とは


「私が治めている土地に皇孫が現れて治められるならば、私は隠れ去りましょう」


という意味だと思います……(ちょっと自信ない、あってるかな)……書紀の「吾以此矛卒有治功。天孫若用此治国者、心当平安。今我当於百不足之八十隈将隠去矣」という一節のことを宣長先生は言っているのかな?


うわ―! わからん!


……気を取り直して。


幽事カミゴトの対語は顕露事アラハルゴトであるとしています。


隠れる(見えなくなる)の対義語は「現れる・顕れる」ということでしょう。


そして「目に見えない神」に対して現れる(目に見える)人と言っているということ?

文脈的に見て「皇孫」のことを「現れる(目に見える)世人」と言っている?


古事記や日本書紀は「うつしき青人草」と表現しています。

なぜ、わざわざ「うつしき」をつけるのか?


「青人草」だけでも意味は通じるはずなのに。



「青人草」を「うつしき=目に見える・現れる」というのはどういうことなのでしょう?

人間は本来は目に見えない存在だというのでしょうか?

(なんか……私、宗教がかったこと言ってる?)


うつ」という言葉もあるので、ここは「この世の人」とかそういうニュアンスだと思った方がいいのでしょうか……?


戦前戦時中は天皇のことを「現人神あらひとがみ」と言ったそうですが……たしか「天皇は人間の姿をしてこの世に現れた神」という意味だったと思います。(現人神は日本書紀にもある言葉です)

その考えに沿えば、「うつしき青人草」は「人間の姿をしてこの世に現れた草」ということになる……


古事記の冒頭天地開闢の場面で、三柱の次に登場する葦から生まれた「ウマシアシカビヒコヂノ神」はなぜか、すぐに「身を隠し」てしまうんですよね。


天地開闢のときに「身を隠し」たのに、なぜ人間の始祖であると言えるのか……少しだけひっかかってたんです。




三浦佑之氏の「ウマシアシカビヒコヂノ神」=人間の始祖という説と本居宣長の「ウツシキ」の解説を私なりにミックスしたら、自分の中で筋が通ったような気がします。


人間は「ウマシアシカビヒコヂノ神」がこの世に現れた姿なのだと!


つまり、我々は皆「現人神」!



……すみません。怪しい宗教者のようですね。


あくまで、私個人の解釈です。博士号をとっていない、ただの素人の戯言でございますからね。



さて、なぜヒトを「青人草」というのか。その理由を宣長はイザナミとイザナギの別れの場面のやりとりに求めているようです。

イザナミが「アンタの国の人間を一日千人殺すわよ」と言えばイザナギが「ならば私は一日に千五百人の人間が産まれるようにしよう」と言う話ですね。まあ、人口は増えていくという話。


「千人死千五百生とある意にて、草の彌益々(イヤマスマス)に生茂オヒシゲリはびこるにタトへたるなり。青としも云るに心をツクべし。」


人間が生まれ増えることを青々とした草が生い茂る様にたとえているのだと解釈したのですね。


そして、ここでも「私記」を否定しています。それだけでなく中国語の「蒼生」と「青人草」はイコールではないのだとも言っています。


>「から國に、蒼生黔首など云意とは、いたく異なり。ゆめ、此ノ文字に迷て、意をとりあやまることなかれ。書紀に、蒼生と作れたるは、たまたま似たるの文字をトラれたるのみなり。」


中国の言葉に「たまたま」似たような言葉があっただけであるということでしょうか?

「民草」の語源について宣長は何と言っていたかは、わからないです。私の調べ方が悪いのか、見つからなかった……多分、「たみくさ」については宣長は何も言及してないんじゃないかな。


時間があるときに、宣長全集をボチボチ見直そうかなぁと思っています。マイペースで。


※追記(2019.10.11)

私の見解に誤りがありました。


>宣長は私記について否定的だったようですね。「漢意からごころ」(中国の影響)をとりはらって古事記を読もうとした宣長にとって、儒学者たちの解釈を記した「私記」は否定すべきものだったのかな、と私は思います。


この見解は間違いのようです。

斎藤英喜氏によると、

「宣長は、儒者たちが『日本書紀』について説いたにもかかわらず、そこには中世のような「漢意にときまげたる、わたくし説」や「儒意によれる強説」が比較的少ないと評価している。」とのこと。(『古事記はいかに読まれてきたか〈神話〉の変貌』吉川弘文館p172より)

宣長は『私記』のすべてを否定していたわけではないようです。


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