江戸時代の「民草」用例
江戸時代の「民草」用例を集めました。
「民草」という言葉は江戸時代には使われていた言葉ですよ、という話です。
新日本古典文学大系『近松浄瑠璃集 上』岩波書店
せみ丸
元禄六年 (1693)二月以前に大坂竹本座初演と推定されている。元禄三年以前という説もあり。
p51
今此時よ秋津君。延喜の帝の御聖徳申もをさをさ。有難し。
治まる国や民草の猶その栄へ衰へを。ぢきに叡覧有べしとて唐土の聖代の巡狩になぞらへ。
《引用おわり》
これは浄瑠璃「せみ丸」の冒頭部分です。「延喜の帝」とは醍醐天皇のことで、すばらしい治世であったとされています。そしてその醍醐天皇が狩りに出かけるふりをして「民草」の暮らしを見に行くという場面です。
新日本古典文学大系『本朝水滸伝 紀行 三野日記 折々草』岩波書店
p10~11
本朝水滸伝巻之一 (安永二年)
第一条 味稲の翁仙女と契りて百人の子をまうく。
未通女答へて、「さればふとき本つ枝は貴人と生れ出、すこし細きはその次々の官人と生れ出、末の枝のほそきはみな蒼生と生れ出て、此処にいゆき彼処にとどまり、世のありさまの善悪を経て、終には我々が住む山に来り集ん。その集る人は皆我子なりとおぼせ 以下略」
《引用おわり》
柘枝伝説に材をとった話です。
翁が川で鮎釣りをしていると、大きな枝が流れてきて持ち帰ると、その枝の根本から女の子が生まれあっという間に大きく美しい女性になり「枝を折って百片にしてください」と言います。
そしてその百片を再び川に流すと世界中に行きわたり百人の人に生まれ変わるであろうという話です。
引用部分はその枝から生まれた美しい女のセリフです。
「ふとき本つ枝は貴人と生れ出、~末の枝のほそきはみな蒼生と生れ出…」という表現、気になりますね。
太い木の部分は貴人に、小さい枝の部分は「蒼生」になる…
この表現と似たような文章が日本書紀の解釈書である「私記」にあるようなのです。
『本朝水滸伝』の作者・建部綾足は国学(日本の古典・古代史を研究する学問)を学んだことがあるので、もしかしたら「私記」にヒントを得たのかもしれません。
感想欄にてご教示いただいた「貴人を木、賤人を草にたとえる」という話。
調べてわかったことを少し書いておきます。
この話は新井白石の著書にある話なのですが、白石は「私記」を引用しています。
「私記」における「青人草」の解釈部分です。
しかし、白石はこの「私記」の見解に疑問を持っていたみたいなのです。
このことについてはちゃんと調べてまた今度、詳しく書きたいと思います。
……最近忙しくて図書館に行くことがなかなかできず(/_;)
遅くなると思いますが、頑張って調べます!
※新井白石…江戸中期の儒者・政治学者、独自の史観に基づく歴史書も著す
では、『本朝水滸伝』からもう一つ、「民草」の用例を紹介します↓
p181~182
第廿六条 光明皇后、浴室を立て、手づから往来の人をあらひ給ふ。乞食来て事をあかす。
……身には漆をぬり、眉をぬき、髪を虫の巣にし、石の薬をつけて膿血のたるべき瘡を作り、かく乞食の者となりて参るは、ただ天下の民草をおもひて也 以下略」
《引用おわり》
光明皇后が人々のために湯屋で垢すりをしてあげる話ですね。
とても汚い身なりの浮浪者らしき人を洗ってあげると、その人は実は仏様だった!という話です。
引用部分は仏様のセリフです。
次に「雨月物語」などで知られる上田秋成の紀行文にある「民草」を紹介します↓
上田秋成「去年の枝折」安永九年 (1780)
楠元六男『江戸人物読本 松尾芭蕉』ぺりかん社より
八洲の外行浪も風吹たたず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、いづくか定めて住つくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触て狂ひあるるなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。
《引用おわり》
実はこの文章、あの松尾芭蕉をディスっている文章なのです。
世の中の人々はそれぞれの仕事をがんばって定住するべきなのに、僧でもない一般人でもない芭蕉さんはふらふらと旅に出ている。マネしちゃダメだよね。
みたいな感じです(超意訳)
さて、注目すべき点は「四つの」民草という部分ですね。
「四つの」とはおそらく「士農工商」のことだと思うのですが、「士」も含まれているというのが気になります。
「士」は「士農工商」の中では上位の身分とされています。
上位の身分の「士」も「民草」と呼んでいるということは、やはり「民草」に侮蔑の意味はなく、「様々な人」というニュアンスが強かったんじゃないかなと思うのです。
(※「士農工商」に関する記述は誤解を招くような文章だったので書き直しました。また、「士農工商」の意味についても第11部分にあらためて書きました。ぜひお読みください。)
最後に、江戸時代の大ロングセラー『南総里見八犬伝』の「民草」を紹介しましょう。
『南総里見八犬伝』は明治時代に入ってからも庶民に親しまれた小説です。
滝沢馬琴『南総里見八犬伝』
白帆走らせ風もよしとは。白帆は源家の旗をいふ。ここに義兵を揚給はば。威風に靡かぬ民草なし。
(中略)
民草を憐れみて。ここに軍を起し給はば誠に国の大幸なり。
《引用おわり》
これは、『南総里見八犬伝』の「第四回」の文章です。
里見義実に対して「民草のために立ち上がってほしい」とお願いしている場面です。
ひとつめの引用部分は金碗孝吉が里見義実にお願いしているセリフ。
ふたつめの引用部分は里人(民)がお願いしているセリフ。
『南総里見八犬伝』は実は反権力の思想を含む小説なんだそうです。
馬琴が生きた時代、庶民は米不足に苦しみ大塩平八郎の乱が勃発しました。『南総里見八犬伝』はそのことを暗喩しているというのです(小田切進 市古貞次編『日本の文学古典編45 南総里見八犬伝』ほるぷ出版)
『南総里見八犬伝』は「民衆」のための物語といってもいいでしょう。
明治に入ってからも庶民に人気のあった小説に「民草」という言葉が使われていたのです。「民草」が一般庶民の間で当たり前のように使われていた言葉だと考えてもいいんじゃないかな。
なぜ、私が江戸時代から「民草」という言葉が使われていたということにこだわるかというと…
「民草」は侮蔑的な言葉だと言っているサヨク系のブログを読むと、「この人は民草という言葉は明治政府が発明したと思いこんでいるのでは?」と思わされるからです。
そういったブログは明治以降の「大日本帝国時代」を憎み、それ以前の江戸時代をやたらと賛美する傾向があるように思います。
そして明治維新を成し遂げた「薩長」をものすごく憎んでいるんですね。
で、行きつく先は長州出身の安倍総理も憎いというトンデモ陰謀論なのです。
戦前戦時中によく使われていたことは事実ですが、「民草」は江戸時代からある言葉です。
明治になってから権力者によって作られた言葉ではないのです。
大日本帝国は嫌いになっても「民草」は嫌いにならないでください。
念のために言いますが、私は無党派層です。
【令和4年7月8日記】
安倍元総理のご冥福をお祈りします。
『南総里見八犬伝』は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。
※大塩平八郎の乱についてちょっと説明します
1837(天保8)大坂で大塩平八郎と門人らが起こした武力反乱。天保の飢饉による米不足のなか、大塩の救済策を無視して江戸へ多量の米を贈った町奉行跡部良弼への反感、米の買い占めをはかる豪商への怒りなどが原因。『新版角川日本史辞典』より。
※「士農工商」について詳しく知りたい方には
平井上総『兵農分離はあったのか』平凡社
をオススメします。
p86〜91に「士農工商」の概念の歴史的変遷が説明がなされています。