尾崎行雄先生、「青人草」はダメで「民草」はOKなんですか?
今回は長いです。
・尾崎行雄は「青人草」をよく思っていない
・でも「民草」を使って歌を詠んでいる
尾崎行雄
政党政治家。号、咢堂。相州津久井(神奈川県)生れ。慶應義塾に学び、改進党創立に参加。第一議会以来25回連続して衆議院に議席を占め、その間、第一次護憲運動に活躍。「憲政の神様」と称される。東京市長、大隈内閣の法相。太平洋戦争期、翼賛選挙を批判し告発される。(1858~1954)
(広辞苑より)
選挙区が三重県だったんです。伊勢の人たちは25回も尾崎先生を国会に送ったのですよ。尾崎行雄もすごいけど、伊勢の人たちも一途ですね。
さて、尾崎先生が「青人草」をディスっていたという話。調べてみました。
『立憲国の青年及教育者』育成会出版部(大正二年)国会図書館デジタルコレクション
9~10コマめ
其の時分の人民は純然たる禽獣扱ひであつたのであります。況んや言論著作などの自由は夢にも見られなかつたのである。これは唯り日本のみならず、何れの専制国に於ても、国民をば人類即ち生命財産のあるものとは認めて居らない、是れが即ち専制政体の原則である。
従つて国民に対する言葉までが違ふのである。知事郡長の如き地方官の事を、牧民官だなどと申しました。これは専制国たる支那から日本へ伝はつた言葉であつて、専制政体に於ては、人民は羊か豚のやうなもので、地方官はこれを飼養する役目であるというふのである。牧といふ言葉は、人間に対して使用すべき言葉ではありません。日本語では更に甚しい、国民のことを青人草(蒼生)とも申します。牛馬なみに扱つたでは飽き足らなくて、草木扱ひにまでしたのであります。人としての生命財産の権利を認めないのみならず、国民自身が其の権利のあるべきものたるを知らなかつた専制時代に於ては、自然の論結として此の如き言葉も平気で用ひられ、又人民はそれに満足して居つたのであります。
『憲政の本義』国民書院 (大正六年)国会図書館デジタルコレクション8~10コマめ
専制治下に在てはただ事実上、人民を禽獣視するのみならず、其用語法に於ても、亦人民に対して禽獣用の言語を用ふることを知らしむれば足れり。地方官を称して、牧民官と云ふが如きは、其一例なり。飼と云ひ、牧と云ふは、禽獣用の言語にして、人類に向て使用すべきものに非ず。更に甚だしきものあり。人民を呼ぶに、蒼生即ち青人草を以てする是なり。是れ人民を草木視するなり。人民に対して禽獣以下の言語を用ふるなり。帝国臣民は千有余年の久しき、藤原氏、源平二氏、北条氏、足利氏、徳川氏、及び薩長藩閥の為めに、奴隷視せられ、禽獣視せられて、生々死々したり。
今や帝国人民は、明治天皇陛下の御懿徳に依て立憲政下の民と為り、人類たるの権利を得たりと雖も、尚ほ未だ人類たることを自覚せず、依然として禽獣状態に安んじ、甚だしきに至っては、人類唯一の保証物たる選挙権を売買するものすらあり。之をしも人面獣心の劣悪動物と云はずして、将た何とか言はん。
《引用おわり》
引用が長くてごめんなさい。でもこれくらいガッツリ引用しないと尾崎先生の言いたいことが伝わらないの……
明治維新よりも前の時代……藤原氏、平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏の時代(尾崎先生はこれを封建時代だとか、専制国だと呼ぶ)は人民は人間扱いをされていなかったと尾崎先生は言っています。そして地方の役人などを「牧民官」(元は中国の言葉)というのはそのあらわれだとしています。さらに日本においては人民を動物よりも下の草木と同一視して「蒼生、青人草」と呼んだのだと……。
しかし、明治天皇のおかげで人類になることができたのだと! 明治維新マジ最高!(超意訳)
……だが、せっかく人類の権利を得たというのに、人民にはその自覚がない。「選挙権」という人類の大切な権利を売買する者(これは賄賂をもらって投票することを意味するのかな?)がいることを尾崎先生は嘆いているようです。
尾崎行雄の著書を読むと「禽獣状態」という言葉がよく出てきます。封建時代は「禽獣状態」だったとか、いまだに「禽獣状態」から抜け出せない人がいるとか、そんな感じの文章。
(国立国会図書館デジタルコレクションで尾崎行雄の著書がいくつか閲覧できます)
「禽獣状態」って何?
わけがわからなかったのですが、こちらの本↓を読んで、ヒントをつかんだような気がします。
石田尊昭 谷本晴樹『咢堂言行録 尾崎行雄の理念と言葉』世論時報社 (2010)
p164~165
一九二五年の『政治読本』でも、「大戦争以前の国際関係は、まだ植物程度の不完全な有機的関係であった。ゆえに右の枝を切れば、左の枝が栄えるということでもありえたが、すでに動物程度に進んだ今日の国際関係においては、右手を切って左手が太り、甲の国を滅ぼして乙の国が栄えるというわけには行かなくなった。畢竟今日の国際関係が、動物程度の有機的関係に進んだことの一証左である」と述べている。このような有機体説はハーバード・スペンサーがすでに提唱しており、内容は異なるものの、尾崎はスペンサーの他の著作を翻訳していることから、ここから発想を得ているのかもしれない。
尾崎は国際社会を、石などの無機体→植物程度の有機体→動物程度の有機体→人類ほどの有機体と次第に進化しているものと捉えていることがわかる。植物程度の有機体の時代であれば、他国を害して自国を益することも可能だったかもしれないが、もはや人類程度の有機体に至っており、こうなるといかなる民族主義も国際主義との調和なくしては成り立たないと考えていた。
《引用おわり》
……難しいですね。
「ハーバート・スペンサー」という哲学者・社会学者の思想の影響を尾崎は受けていたのではないかという話です。
広辞苑で「スペンサー」をひいてみましょう↓
スペンサー【Herbert Spencer】
イギリスの哲学者・社会学者。あらゆる事象を単純なものから複雑なものへの進化・発展として捉え、生物・心理・社会・道徳の諸現象を統一的に解明しようとした。その哲学思想は明治前半期の日本に大きな影響を与えた。主著「総合哲学体系」10巻。(1820~1903)
……よくわからないけど、「進化・発展」というのがキーワードです。すべての物は進化してきた、もしくは進化していく。社会も進化する……
「社会進化」という言葉が広辞苑にありました↓
しゃかいしんか【社会進化】
一定の方向に向かって社会が歴史的・必然的に変化・発達すること。ダーウィンの生物進化論をスペンサーが展開した社会理論。
生物が進化するように「社会」も進化するのだという考えでしょうか。
スペンサーの理論の影響を受けた尾崎は、「日本社会は禽獣状態(動物)から明治維新によって「人類」に進化したととらえていたのではないか」と私は思うのです。そして、「禽獣状態」よりも劣る状態が「草木」の状態だと尾崎は考えていたのではないでしょうか。
『尾崎咢堂全集』五巻
「時論一束」
p188~189
明治天皇の盛徳大業は中外の均しく仰瞻する處である。けれどもその中で最も偉大なるは日清日露の両戦役ではない、財産及び其他の権利を附与し給うたことにある。二千有余年の久しき、官吏の為めに生殺与奪の全権を専有せられたる、帝国八千万の同胞兄弟は、此の時始めて禽獣状態、草木状態を脱して完全なる人類となつたのである。
既に人類となつた。然れども是れは形式に於いて人類たる事が出来たといふ丈であるまいか。その実質に於ても完全なる人類となつたと云ひ得なければ、そは国民の罪である。憲法を下し給うて人類たるを自覚せよと仰せ下されたる 明治天皇陛下にも誠に相済まぬ譯ではあるまいか。
p192
前に説いた如き、人民を禽獣視し、草木視せんとする様な武断的の頭の人が、今日の我が国に残って居るのではあるまいか。自己の狭き範囲なるものの利益を計らんが為めに、国民を愚にすることを務めて居るものが有りはしないか。
《引用おわり》
せっかく明治天皇のおかげで国民は人類に進化できたのに、いまだに国民を動物や草木に見る政治家がいるのだと尾崎は怒っていたのだと思います。
……ここまでは尾崎行雄がなぜ「青人草」という言葉をディスっていたか、ということを書いてきました。
が、しかし!
尾崎先生は「民草」という言葉を使って和歌を詠んだり、明治天皇が詠んだ歌を絶賛しているのです!
「青人草」はダメでも「民草」はOKなの? 尾崎先生!
『尾崎行雄全集第十巻』
「自叙伝」
p374~381
陛下が詠歌を嗜ませ給ふ事は、兼て伝承しては居たが、許多の御製を拝読したのは、御崩御後の事である。私も少年時代に、漢詩は、少し作つた事もあるが、国歌は到底分らないもの、企て及ばないものと、速了して、諦めて居た。然るに陛下の御製を拝読すると、私らにもわかる。誠心誠意を基準とした天籟の如く感じた。是に於て、私も始めて詠歌の念を起し、爾来漢詩を止めて、国歌を作ることにした。
(中略)
陛下の御人格を偲び奉らむとするの資料としては、多くは御製以下たるの感無きを得ざる也。
(中略)
照るにつけ曇るにつけて思ふかな
我民草の上はいかにと
(中略
夫れ斯の如し、誰か感嘆に堪へざらむや。而して以上掲ぐる所の御製は人事に関するものなりと雖も、其主題の、月なると雪なると将た又た花なるとを問はず、崇高偉大の御人格が、歴然として辞句の間に彷彿するは皆一なり。
《引用おわり》
尾崎先生は明治天皇の御製を読んで和歌を詠むようになったのですね。
明治天皇の御製をいくつか挙げて絶賛しています。
そのなかに「民草」を使った歌があるのです。
「草木」視してますけど、いいのですか? 先生……
この引用部分からわかるのは尾崎行雄は明治天皇のことをめっちゃリスペクトしていることですね。明治天皇への愛があふれている文章です。
明治天皇の歌をたたえるだけではなく、尾崎先生自身も「民草」を詠んでいます。どうやら、その歌を誇りに思っていたようなのです↓
『随想録』紀元社(昭和21年) 国会図書館デジタルコレクション 24コマめ
私の作つたどんな歌が歌人の気に入るのか、私自身には解らないのだが、或人が高濱虚子といふ人の雑誌に私の歌の批評が出てゐると教へて、その雑誌を送つて呉れたので、読んで見ると、
時し得ば我は五洲の民草を
活かさんものと夢みたりしが
といふ私の古い歌の批評で「尾崎の歌など相手にしないでゐたが、この歌は中々いい。始めの方は壮士の気焔のやうにしか思はれないが、下の句で夢みたりしがと結んでゐるので立派な歌である」と書いてあった。
《引用おわり》
自分の歌が雑誌で褒められて嬉しかったのでしょう。尾崎先生、可愛いですね(^^)
「私自身には解らないのだが」なんて照れ隠しみたいなことも言ってます。
時し得ば我は五洲の民草を
活かさんものと夢みたりしが
若いころに詠んだ歌でしょうか?
(阪上順夫『尾崎行雄の選挙』によると大正13年末に詠んだらしいです)
世界中の人々の幸せを願う尾崎行雄の想いがこもった歌だと私は思います。いい歌ですね。
私が調べた限りでは、尾崎はこの歌以外にも二首、「民草」を詠んだ歌を残しています。
尾崎行雄は「青人草」についてはディスっていたけれど、「民草」という言葉は普通に使っていたということで……。
ここからは、このエッセイの本題から少しずれますが……
尾崎行雄は「天皇」についてどう思っていたのか?
「天皇制を嫌う人のなかには民草、青人草を嫌う人がいる」という仮説を私はぶち上げましたので、ちょっと触れておこうかと思います。
尾崎は戦時中、不敬罪で拘置所に入れられたりと苦しい思いをしたのですが、後に無罪を勝ち取りました。そして戦後、宮中に招かれ昭和天皇に会いました。そのことについて↓
伊佐秀雄『尾崎行雄』人物叢書 吉川弘文館(昭和35年)
p247
(けふは御所きのふは獄舎あすはまた地獄極楽いづち行くらん という狂歌を詠んで)
尾崎は天皇も「不敬罪」事件を思い出したに違いないから何というかと思って聞き耳を立てていたが、ただ笑っていただけだったのに失望した。
《引用おわり》
あれ、尾崎先生、昭和天皇に「失望」した?
明治天皇への愛にあふれていたけれど、昭和天皇には失望したのでしょうか?
しかし、尾崎の著書を読むとそうでもないようです↓
『尾崎咢堂全集』10巻
「咢堂清談」(昭和22年)
p200~202
参内の感想
一昨年の秋、私は招かれて参内し、四十分ばかり陛下にお目にかかつたが、格別のお話はなかつた。私としては色々お話申し上げたいこともあつたが、どのくらゐ御理解下さるかどうかも分らないと思つたから、御模様を拝するにとどめるつもりで参内した。陛下には遠方からお目にかかることは屡々(しばしば)あつたが、差向ひでお話しするのは始めてであつた。平生酒も煙草もおのみにならないと聞いてゐたし、半つき米など召上つてをられるといふことだから、お人柄も察してゐた。
かうして参上するに当つて私は、陛下としては歴代の天皇にかつてない御不幸に際會され、神武天皇以来の御祖先に対し、将来にたいしてもまことに申訳ないといふ強い責任感を感じてをられるはずのお気の毒な状態にあつて、大変やつれてをられるものと想像した。それ以前、開院式などで幾度か遠見でやつれてゐられる御様子を拝したので、前古未曾有の悲惨な状態に立たれた以上はそれ以上に弱つてをられるものと考へた。ところが実際にお目にかかると、お顔など福々してゐて少しもお苦しみになつてゐるやうな御様子は見えなかつた。私はまことに意外に感じた。国家と人民がこれほどの不幸に遭遇したのに、陛下には全く責任を感じてをられないために、かくも健康さうに見えるのではないかと考へた。そこでその後侍医などに聞いて見ると、終戦当時からしばらくは陛下も大変御心を痛められ、肉体的にも弱つてをられたが、私がお会ひしたころがすでにあきらめられたためか、精神的に力をもたれ健康も回復されたといふことだつた。私はお招きによつて参内するについて狂歌を作つたから、それを申上げてよいかとお付きのものを通じてお許しをこひ、
けふは御所きのふは獄舎あすはまた
地獄極楽いづち行くらん
といふ和歌をお見せしたら笑つてをられた。
私の示した狂歌で陛下も大変打解けられた御様子であつた。いろいろ聞かれるが、私は耳が聞えないのでくはしいことは分らなかつた。おたづねになつたことは、私がいつ欧洲へ行つたかとか、在欧中どんな人に会つたかといふやうなことで、普通の世間話に過ぎなかつた。陛下のおたづねになることにお答へしただけで、私の方からは別に何も申上げなかつた。
《引用おわり》
伊佐秀雄氏の記述とずいぶん違う印象をうけます。「失望」はしていないんじゃないかな?
伊佐氏がなぜ「失望」という強烈な言葉を断定的に使ったのか謎です。
伊佐氏は尾崎行雄と数十年来の知り合いの記者だった人です。もしかしたらオフレコで何か言っていたのかもしれませんが……。尾崎行雄の著書を読むと「失望」ということはなかったのではないかと私は感じます。
戦後にできた新たな憲法(日本国憲法)について尾崎は『民主政治読本』で語っています。
そのなかで「天皇」についてもふれています↓
復刻版『民主政治読本』尾崎行雄著 石田尊昭解説編集 世論時報社(平成25年)
p60~62
天皇の大権が著しく制限されたことをもって、天皇の権威と地位が甚だしく低下したように考えて憂慮する人が少なくないようだが、私はそうは思わない。もし真の立憲政治・政党政治が行なわれていたならば、明治憲法の下でも、天皇の実際のお仕事は、新憲法におけるそれと大同小異になったであろうと想像される。
(中略)
新憲法によって天皇の権威と地位が低下したとは思わない。かえって、これでこそ日本の皇統を万世につなぐことができると思う。
(中略)
これからの日本人は、人間らしい愛情と尊敬を持って、人間天皇に親しんでいくであろう。それで結構ではないか。
《引用おわり》
尾崎は「立憲君主」を理想にしていたのです。それは「天皇」の存在があってこそ成り立つもの。
『尾崎咢堂全集』九巻
「日本はどうなるか」
p562
「立憲政治はどうなるか」と云ふことは、即ちその点からして、日本の国体と密接な関係をもつものである。立憲政治以外には、帝室を尊厳に安全に長く維持する方法はない。苟も帝室の尊厳を御安泰とを希ふ者には、立憲政治以外の政治機構即ち独裁政治などと云ふことは、夢にも考へられない筈と思ふ。
《引用おわり》
尾崎は戦後、昭和天皇は退位すべきだと語ったという話もあるようですが、天皇制に反対だったのではないようですね。
ハーバート・スペンサーの理論について勉強しようとがんばったのですが、難しすぎてギブアップしました。
なので広辞苑の内容を紹介するだけにとどめました(^_^;)
追記
尾崎行雄の歴史認識は現代の学説から見るとおかしい部分が多数あります。しかし、尾崎の生きた時代では定説だったのです。(たとえば、足利尊氏は逆賊だとされて来ましたが近年の研究では違うのではないかという説が有力。また尾崎は江戸時代を暗黒の時代の如く言っていますが、一概には言えないと思います)
しかも尾崎独特の歴史観も入りこんでいます。
その歴史認識に基づいて社会進化論をあてはめているので「そもそも歴史認識が間違っているのだから、その理論おかしくね?」と現代人の私なんかは腑に落ちない感じになります。