聖書も人間を草にたとえている
聖書にも人を草にたとえる言葉がありました。
私はクリスチャンでないし、聖書もきちんと読んだことがなかったので難しく感じました。
イスラエルの歴史のことをきちんと勉強しないと理解しづらいのかも。
『旧約聖書Ⅶ イザヤ書』岩波書店
イザヤ書 40:6-10
「呼びかけよ」
と言う者の声がする。
私は言う、
「何と呼びかけようか」、と。
「総て肉なる者は草、
総てその愛は野の花のようだ。
草は枯れ、花はしぼむ、
ヤハウェの霊風がその上に吹くならば。
この民はまさに草である。
草は枯れ、花はしぼむ。
だがわれらの神の言葉は、永久に立つ」。
44:2-4
ヤハウェが、こう言われる。
あなたを作り、母の胎内から形造り、あなたを助ける方が、
「恐れないように、わが僕ヤコブよ。
わたしの選んだエシュルンよ。
まことにわたしは干からびた地に水を、
乾いた地に流れを、注ぐ。
わが霊をあなたの子孫に、
わが祝福をあなたの末に、注ぐ。
こうして彼らは、青草の中にあって、
水のほとりの柳のように、芽生える。
《引用おわり》
囚われの身になっていた民をなぐさめるヤハウェの言葉をイザヤが預言しました。その言葉の中で人間を草にたとえています。
「ヤハウェの霊風」という語は論語の「君子の徳風」を思い起こさせます。
またキリストの誕生を予感させるようなことをイザヤは植物にたとえてのこしています。
11:1-2
エッサイの根株より一つの若芽が生え、
彼の根から一つの若枝が出て実を結ぶ。
その上にヤハウェの霊が留まる。
これは知恵と認識の霊、
思慮と勇気の霊、
ヤハウェを知って畏れる霊である。
《引用おわり》
※エッサイはダビデの父
エッサイはイエスの先祖にあたる人だそうです。(ウィキペディア先生頼りました)
根株から芽が出、若枝が伸びて実がなる。その「実」が子孫、つまりキリストであるという解釈でいいのでしょうか?
日本では子孫のことを「末葉」と言いますよね。
人間の生を植物にたとえる文化はもしかしたら人類共通なのかな?
(……キリストを人間といっていいのでしょうか? クリスチャンの方で不快に思われる方がいらしたら申し訳ありません)