第一章 始まりのApril――小田巻拓海の始まり――
「好きなスポーツが上手くなった反動が二度とスポーツができねぇ体とは! これは愉快愉快! やつにとっては死よりも苦しい罰だろうなぁ、拓海ぃ」
破り捨てた紙を見てアクセルが呵呵と笑ってみせる。『人の不幸は蜜の味』。嘲り笑うその姿はまさに悪魔に違いなかった。
上機嫌になったのか彼は喋り続けている。
「それにしても寺坂ってやつはバカだよなぁ? あんなあからさまな願いを悪魔にかけちまうなんてよ! 借り物の力なんてすぐ周りにバレるってわからなかったのかねぇ」
アクセルの言うことはもっともだと拓海は思った。目に見える変化を願えば露見しやすい。わかりづらい変化の方が契約者同士の戦いは有利だ。
だが、拓海には願望のどこからどこまでがあからさまなのかがわからないでいた。
もしかしたら自分の願望もあからさまなものかもしれない。こうやって自分の契約書が破られる日もすぐ近くに来ているのかもしれない。明日は我が身だと思った。
「どうだっていいよ。僕のことがバレなければ、それで」
「お前も悪らしくなってきたじゃねーか。確かお前の友達はこいつのことを好いてたよなぁ?」
「関係ないよ。お前と契約したあの時から……いや初めて契約者を始末した時から覚悟はしてたさ」
あの時――彼がアクセルと契約したその時――世界は一変した。世界は煌びやかとなり、憧れは現実となった。
だが、それと同時に拓海は業を背負って生きていく覚悟をしなければならなかった。それは誰かの犠牲の上でしか成り立たない茨の道の始まりである。
「ああ。あれは確かに面白かったな! あれはそう……お前の――を始末した時だったなぁ?」
嫌でも思い出す、あの日、あの場所、あの光景。悪魔の契約者の末路……
全てはアクセルと出会った時から始まった。
それはアクセルと拓海――一体の恋悪魔と一人のひきこもりの契約履行物語の始まりである。
***
アクセルという恋悪魔が彼と出会ったのは遡ること四ヶ月前――拓海がまだひきこもっていた時のことだった。
悪魔である彼に寒さはわからない。ただ、街を歩いている人間たちが肌寒そうにしていたのをアクセルは覚えていた。
拓海を契約者に選んだのはたまたまではなかった。
彼は現代の人間の力では到底叶えることのできない欲望を抱えていたのだ。悪魔は契約者の欲望が大きければ大きいほどより高度な満足を得られる。その欲望の大きさが決め手だった。
アクセルはなんの躊躇いもなく拓海の部屋の壁をするりと通って侵入した。
「お前の望みを叶えてやろう。その代わりに俺様の言うことに従ってもらう。これは契約だ」
呆然とベットの上に座っている彼の耳元でアクセルは囁く。その囁きは拓海にとって蜜のように甘く、理性をも蕩かす言葉だった。まるで人間の漫画とかいう読み物に出てくる悪役のようだアクセルは思った。
彼は拓海に考える猶予を与えるかのように宙に寝そべり始める。
「従う! 僕はなにをしたらいい?! どうしたら僕の望みは叶う?!」
だがそんな暇はなかった。
拓海は二つ返事で契約に合意を示した。普段は冷静を装っているアクセルもこれにはたちまち仰天し、飛び起きる。
「おいおい。俺様が言うのもあれだが……正気かい? 言っておくが俺様は悪魔だぜ?」
「構うもんかっ……! 望みが叶うなら僕はなんだってする! 悪魔だろうとなんだろうと契約してやる!」
拓海は耳を頼りにアクセルを必死で探していた。
悪魔は未契約の人間の目に触れることはない。契約した者だけが悪魔と対峙することができるのだ。彼はそれを知らない。
知っていたとしても拓海なら同じことをしていただろう。諦めず聞こえるものだけを信じて、真剣に探していた。
アクセルは我ながら上玉を拾ったと心の中でほくそ笑む。
「ハハハハハ! 最高だな、お前! 名前は?」
「拓海……」
「拓海か! いい名前じゃねえか。俺様の名前はアクセル。話は後で詳しくしてやる。まずは契約だ!」
瞬く間に黒い瘴気が部屋を包み込み、二人だけの暗い世界を作り出す。外の世界の音は隔絶され、アクセルの羽音だけが鳴りはためいた。悪魔との力の取引……『契約』だ。
「汝の望み、このアクセル様が叶えてやろう!」
***
「本当に見える……! というか悪魔って実在するんだ」
拓海が禍々しい人型をしたなにかを認知をしたのは『契約』を終えてしばらくしてからのことだった。
初めてアクセルを見ても彼は恐れるような表情は見せず、驚きと喜びを綯い交ぜにした顔をするだけだった。
「ああ、そうだぜ。悪魔っていう怖い存在は実在するんだ。だが、お前は運がいい。俺様は悪魔の中でも人間に優しい部類の契約をする悪魔だからな! ハッハッハッハ!」
「人間に優しい悪魔ねぇ……確かに僕の望みを叶えてくれたみたいだけど、君なんなのさ一体?」
水を得た魚のように饒舌となり、高笑いする悪魔に拓海は不思議そうに尋ねた。その質問を待ってたと言わんばかりに彼は不敵な笑顔を見せた。
「俺は悪魔の中でも少数しかいない希少な悪魔、恋悪魔さ!」
「小悪魔……? 男でしかも背格好とかもほぼ成人男性と変わんないのに?」
「ちっげーよ! 『恋』に『悪魔』で『こあくま』って読むんだよ! 人間の恋愛に干渉して生きている悪魔の総称だ! ってか俺様にツッコミ入れさせるんじゃねーよ!」
話にいまいち納得できず首を傾げていた拓海の耳元で悪魔は吠えた。
拓海は一瞬顔を歪ませ身じろいだが、すぐに座布団の上に座り直して居住まいを正す。
「要するにサキュバスとかインキュパスの仲間?」
「あんな不特定多数に淫夢を見せてチマチマとエネルギー稼いでる下賤なやつらと一緒にすんな! 俺様はエネルギーの搾取にプライドがあるんだよ! だいたいあいつらはだな――」
「そんなこと言ったって恋悪魔なんて伝説とかファンタジー小説でも聞いたことないからさ……それに契約したはいいもののよくわかってないことの方が多いし……」
話を遮るように拓海はか細い声で言った。
途端、アクセルの表情が変わった。熱くなっていたことを誤魔化すかのように彼は咳払いをする。
「契約をしたからには色々と知ってもらわなきゃいけねーな。仕方ねぇなぁ。まずは悪魔について説明してやる」
拓海は首肯した。
アクセルは宙に浮いた状態で胡座をかき、目の前に座っている拓海を見下すように眺める。
「悪魔は人間と契約して望みを叶える生き物だ。その対価として生体エネルギー……つまり命をいくらか頂く。例えば席替えの時、『気になるあの子の隣になれますように!』などと心の中で願ったとする。悪魔はそれに反応して勝手に契約してくるわけだ。『隣の席になれた! 運がいい!』などと人間は思うらしいが実際は違う。お前ら人間はその分の命を知らないうちに支払わされているってことだ」
アクセルの説明はセリフを言う小芝居が鼻についたが、拓海にとってはわかりやすかった。思春期の男子の気持ちに絡めて話してくるのも恋悪魔らしいと思った。
アクセルはそのまま話を続ける。
「恋悪魔も基本的にそれは変わらない。人間の望みを叶える代わりに命を頂戴する。だが、恋悪魔の場合は例外がいくつか存在する。こっからはお前との契約にも関わるな」
「例外?」
「ああ、そうだ」
そう言うとアクセルは人差し指を真っ直ぐ立てる。
「一つ目に恋悪魔はどんなものでも……とまではいかないが、他の悪魔よりも高度な望みを叶えることができる。人の力でできないことも可能だ。もちろん、望みが大きければ大きいほど対価は大きい。恋悪魔は他の悪魔よりも優れているってことだな。故に個体数が少ない。人間の伝承などにも出てこないのはこのためだな」
「なるほど……」
拓海はただただ頷くだけだった。アクセルが立てている指を二本に増やす。
「もう一つは恋悪魔が奪う命は契約者の物ではないことだ。俺たちは契約者の恋人やそれに近しい者の命を頂く。一時的に契約者の体をジャックして吸血する……みたいな感じだ。これが俺たちが恋悪魔なんて言われてる由縁だな。もっとも、お前には恋人なんてものはいないんだがな!」
「それじゃあ契約代金タダじゃん」
皮肉めいたアクセルの言葉にムスッとした拓海はぶっきらぼうに言い返した。
アクセルはニヒルな笑みを浮かべ、人差し指を左右に振った。
「そうはいかねぇなぁ。言わば今の状態は代金後払い。ツケってやつだ。お前はこれから恋をしてもらい、恋人を作ってもらう。そして、そいつの命を俺様が頂く! お前の望みを叶えた分はしっかり払ってもらうぜ?」
拓海は口元を手で覆いながら頭の中でアクセルの話を反芻した。自分の置かれている状況と今までの話の流れを冷静に分析する。
彼は手で塞いでいた口を再び開く。
「要するに『契約の履行をするために恋人作れ』ってことだろ? その恋人は誰でもいいのか?」
「いい質問だ。結論から言わせてもらえば誰でもいいってわけじゃねぇし、契約した恋悪魔によって異なる。恋人との親密度が対価の指標だったり、見た目が評価の対象だったりと様々だ。ちなみに俺様は後者の見た目派だ!」
「わかりやすい女好きだね……」
「お前らにとってはわかりやすい俺様の方が都合がいいもんだぜ? なにせそいつへの気持ちは考慮しないんだからよ」
拓海はアクセルの言葉の意味を読み取ろうとする。「気持ちは考慮しない」……しばらくしてその言葉の裏に隠されたこの悪魔が求める対価を理解した。
「なるほど……そういうことね」
拓海はアクセルの目を見た。暗黒にも似た黒々しい目は確かに笑っていた。とんでもないやつと契約したと思うと同時に自分が人間として最低なことを考えていることに戦慄する。
しかし、拓海の口角も自然と上がっていた。恋悪魔との利害は一致していたのだ。
「最後にこいつを渡しとく」
そう言ってアクセルは赤黒い表紙の本を渡してきた。外見だけ見るとファンタジーゲームなどで見る魔導書に思えたが、中身は違った。後ろからパラパラとページをめくっても真っ白が続いていく。
ふと、一番前のページで拓海の手が止まる。そこには彼がアクセルと交わした契約内容が書かれていた。
「契約書だ。大事に取っておけ。それを紛失しても不履行になっちまうからな。無くすんじゃねーぞ?」
「契約書?」
「契約書といってもただの契約書じゃない。他の恋悪魔たちが持ってるものと同様に扱われる契約書だ」
アクセルの契約書の説明はいまいちピンとこなかった。とりあえず「わかった」と拓海は返答することにした。
他のページが真っ白だったのも気になっていたが、これ以上の説明はなかった。
拓海は言われた通り、契約書を誰にも見られないように鍵付きの机の引き出しにしまった。
「期間は一年だ。一年以内に履行できなかった場合は……お前に与えたものは消失する。いいな?」
「ああ。どのみちもう契約してしまったんだ。文句は……ないよ」
「文句なんてあるものか」。拓海は口で反芻した。それだけ彼が与えたものは意味のあるものだったからだ。
こうして拓海は契約者となった。自らの欲望を叶えるために悪魔と契約した。
この時の拓海はまだ知らない……。
アクセルが求める女のことを。彼が契約者同士の抗争に巻き込まれることを。
***
その日から拓海とアクセルの目的は「美人を落とし恋人にする」ということになった。
一人は自分に与えられたものの対価を精算するために。
もう一人は自分を満たすために。
拓海の望みは並大抵の女では履行できないほど大きなものだった。彼自身人間としていかがなものかとも思ったが、悪魔と契約した以上なりふり構ってはいられなかった。
そのためにアクセルが用意した舞台が私立成嶺学園高校だった。拓海が通っていた高校では欲望を満たせないと判断されたのだ。
拓海は転校するにあたり今までの自分から変身を遂げることになる。
乱れ放題で肩にかかりそうなほど長かった髪の毛はバッサリと切り落とし、色も明るめのブラウンへと染めた。
今までは無縁だったワックスも使うようになり、慣れもしない香水にも手を出した。
服装も雑誌を研究して最近の流行りのものを着るようにした。ひきこもりだったが、体格も顔も人並だったのは幸いだった。
拓海は今までの学校を捨て、今までの自分を捨てた。
これからの自分は偽りの自分。偽りの姿、偽りの身分、偽りの転校。全てが偽りで、これからは仮面を被って生きていくようだと思った。
「それにしても随分と段取りがいい気がするんだけど」
変貌を遂げた姿を洗面所の鏡で眺めながら拓海が喋る。鏡の中には彼以外に人影は見当たらない。
「なぁに、これも契約の内さ。お前の契約内容はちょいと特殊だったからな」
姿の見えない悪魔は嬉々として語る。
拓海自身は自分がどう特殊かわからなかったが、必要なことだったと言われると反論ができなかった。
「じゃあ、あとは転校初日までぬくぬく過ごせばいいってわけだね」
「は?」
明るかったアクセルの声のトーンが一瞬で底辺まで落ちる。ドスの効いたその声は悪魔の声に違いなかった。
そして、堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに拓海を捲し立て始める。
「お前、バカか? バカか、お前? 肝心のターゲットが決まってねぇじゃねーかよ! そんな呑気な調子じゃ先越されちまうんだよ!」
「で、でも! そんなの行ってみなきゃわからないじゃないか! 誰が可愛いなんて知らないんだぞ?!」
振り向いて必死に反論するが、アクセルは怒り心頭であった。切れ長の目が拓海を睨みつける。その視線から逃れられない彼はさながら蛇に睨まれた蛙であった。
「だから、行くんだよ。下見だ。俺様についてこい」
そう言ってアクセルは文字通りどこかへ飛んでいった。拓海は遮二無二急いで追いかける。
***
アクセルに言われるがまま電車に乗り、到着したのは拓海の住む春陽市の隣の市内――夏海市であった。
電車を降りて、すかさず飛んでいくアクセルを追いかけるとしばらくしてひらけた敷地にたどり着いた。
彼の視界にお城のように立派な建築物が目に入る。アクセルはその建物の門の手前で佇んで待っていた。
「ここがそう?」
やっとの思いでアクセルに追いついた拓海は息を整える。改めて見ると建物だけでなく、敷地も広いことがよくわかった。
「私立成嶺学園高等学校……この辺有数のお坊っちゃまお嬢様学校らしいな。美しさは育ちの良さに比例する。それに噂ではかなり美人揃いの学校と聞いた。こいつは俺様の胸も高まるってもんだぜ! よし、そうとわかれば突入だ! 俺様ワクワクすんなぁ」
「あ! ちょっと! おい! お前は人から見られないけど僕は……って聞いてよ! 置いてかないでってば!」
拓海は仕方なく、耳を貸さないアクセルの後を追った。目を離すとすぐに消えてしまうほど彼は機敏であった。
幸い校門は開かれており、入るのに苦労はなかった。
だが、いくら春休みとはいえ部活のために登校している生徒が学内にいる。
そこに拓海は私服姿で侵入していく。ただでさえ人混みの中が不慣れな上に、見知らぬ学校に潜入……彼が緊迫しないわけがなかった。
初めて味わう共学の高校の雰囲気。楽しんでいないと言えば嘘になる。
仲睦まじく談笑する男女や一緒に部活に励む人たち、手をつないで下校をしているカップル……憧れていた煌びやかな世界が眼前に広がっていた。
「おい、こっちだ拓海」
声を追ってみると、アクセルは宙に浮きながら大きなかまぼこ状の建物の窓を覗いていた。生憎、窓は上部についているため、拓海にはなにを見ているのかわからなかった。
「なに覗いてんの?」
「水着の女子高生」
「おい……!!」
臆面もなく言うアクセルにたまらず拓海は吹き出した。そこが室内プールであったことにその時になって初めて気がつく。
「室内プールも完備とは……流石だぜ。ちょっとこの壁すり抜けてくる」
ドヤ顔でサムズアップを決めたアクセルはすぐさま壁を通り抜けていなくなってしまった。
「なにが恋悪魔だ! ただのエロ悪魔じゃないか! 全然羨ましくなんてないからなー!!」
無機質なねずみ色の壁を拓海は怒鳴りつけた。壁の向こうのアクセルに聞こえているわけがなく、ただただ虚しい叫びが響く。
共学の学校に潜入してまでなにしているんだろうという悲しさと慣れてない大声による息苦しさだけが残った。
拓海はしゃがみ込み、ついにはその場で大の字になって寝そべりだした。
しばらく黙って空を見上げていると近くから大人数の歓声が聞こえてくることに気がついた。懸命に応援しているような雰囲気だった。
気になった拓海は自分の耳を頼りに声の出どころを探し始める。数分、近くを歩いてみると間もなくその場所を見つけ出した。テニスコートだった。
よく見るとコートを囲むフェンスに沿うようにおびただしい数の人が群がっていた。
彼らは口を揃えて「ゴー! ファイ! 成嶺! ゴー! ファイ! ユイ!」と特定の人物を応援しているようだった。
熱気に惹かれさらにコートに近づいていく。
拓海は群がりの中に空いているスペースを見つけそこからフェンスの先を眺めることにした。入った時に隣にいた女の子から若干変な目で見られたような気もしたが、気にとめなかった。
いざコートを見ようとした次の瞬間、彼の視線は釘付けとなった。
――コートを自在に飛び回る天使がそこにいた――
ストロークを打つ度にポニーテールにまとめられた黒髪が艶やかになびく。決して大柄とは言えない体格から放たれるサーブはフォームもさることながら、ライン際を狙った弾道も鮮やかなものであった。
拓海は彼女の一挙手一投足から目が離せないでいた。
「お前もなかなかお目が高いじゃないか」
「うわっ! 来てたのかよ……」
いつの間にか拓海の肩から覗くようにアクセルがコートを見ていた。堪えきれず驚いてしまったが、その後の言葉はなるべく周りに聞こえないように小声で言った。
「美人というよりは可愛い系か? 容姿は悪くないし、髪は染めてないであろう綺麗な黒。細すぎもせず、太すぎもしない健康的な肉体に豊満なバスト……! うむ、悪くない! 運動神経の良さも追加点としては文句がない! これは――こいつに違いないな」
アクセルは目を輝かせ、喜びを隠せない子犬のように尻尾を揺れ動かしていた。拓海は「絶対興奮してるでしょ……」と心の中で思っていたが、口に出すことはしなかった。
ふと隣の女子が視界に入った。
髪は染めた茶色でスタイルはどちらかというと痩せている方だ。先ほどから鼻をくすぐるような芳醇な匂いがするのもきっと隣のこの子からだろう。コートを舞う天使とは正反対とまではいかないが違う要素を兼ね備えた女の子だと思った。
一緒にいた時間が長いわけではないが、「こういう女の子はアクセルの趣味じゃないだろうな」と拓海は直感した。
拓海は再び前を向き、テニスの試合を観戦しようとした。だがそれを思わぬ人物に阻まれることになる。
「ねえ、君! 君だよ、君! ねえってば! えいっ!」
「な、何すんだよ?! ってええ?!」
右頬を人差し指で刺され、思わず振り向く。拓海に話しかけ、指をあてがってきたのはさっきまで眺めていた茶髪の彼女だった。
「君、見かけない顔だね。こっちは成嶺の応援だよ?」
「え……? あ……えっと……」
「見かけない顔」。この一言が拓海の背筋を凍りつかせた。今の今まで自身が無断で侵入していることを忘れていたからだ。
拓海は心の中で叫ぶ。「侵入してるのバレた!」と……
「え、えっと……その……」
彼の頭の中は真っ白だった。
予想外の出来事でどうすればいいかわからないのもあるが、なにより女の子に話しかけられたのが久しぶりだった。最後に女子とまともに話したのはもう五年も前である。
拓海は回らない頭を必死で回転させようとした。目の前にいる茶髪のボブヘアーの女の子は不思議そうな顔をしている。
「おいおい……これくらいテキトーに誤魔化せよ」
拓海の背後で宙を浮いて寝そべっていたアクセルが呆れた顔を見せる。彼はため息をつき、腹を据えたように目の色を変えた。
「しょうがねぇなぁ。アフターサービスはアフターサービスだ。ちょいと失礼するぜ!」
アクセルの体が黒い霧のような形態へと変化する。そのまま拓海の背中めがけて一直線にぶつかりに行った。霧となったアクセルはなんの抵抗もなく彼の体に入り込む。
いわゆる――「憑依」――だ。
一瞬糸が切れた人形のように頭を垂れた拓海。
次の瞬間、彼は勢いよく顔を上げる。先ほどのおどおどとした表情と違い自信に満ち、ニヒルな笑顔をして言う。
「俺は拓海。今度この学校に転校することになったんだ。それで今回は下見しに来たってわけ」
心の中で「はあ?!」と声を上げたのは他でもない拓海自身だった。思ってもいない言葉が自分の意思とは反対にすらすらと出ていく。
体を乗っ取ったアクセルのせいであった。今、拓海の体の主人格はアクセルのものだ。
「そうなんだ! てっきり向こうの学校の応援に来た人だと思ってたよー。あ、転校ってことは次二年生?」
茶髪の彼女は拓海の変貌に気づいていなかった。それどころか転校してくると知って興味深々であった。少し早い転校生としてのチヤホヤタイムだ。
「そうそう、二年生」
乗っ取られていても視覚はアクセルと共有できた。彼が話している間、拓海は視覚を通して彼女を観察する。
やはりテニスコートを舞う天使とは対照的で、典型的な派手目の最近の女子高生だと思った。袖を余した緩めのカーディガンに少しはだけた胸元がそれを物語っている。
「そっかぁ。私は優姫っていうの。一緒のクラスになったらよろしくねー!」
優姫と名乗った彼女が手を差し出してくる。握手を求めていたのだろうと思い、拓海の意思は応じようとしていた。
けれどアクセルはそれを拒んだ。優姫を無視して「あの女の子は?」とコートの天使を指差して尋ねた。
「あ……あれは結衣! 私の親友なんだよ。可愛いでしょ?」
一瞬表情に陰りを見せた後、優姫は自慢気にコート上の天使――結衣を紹介した。
「ああ。可愛いねぇ」
ねっとりとした言い方に、ほくそ笑む拓海の顔。アクセルがよからぬことを考えているのが心の中の拓海には手に取るようにわかった。
彼が悪いことを考えていても止めるつもりはなかった。利害は一致しているのだから。
突然、心の中の拓海の意識が吸い上げられるような感覚に陥った。さっきまでなくしていた全身の重みを感じる。拓海はアクセルの憑依から解放された。
「後は好きにしろ。憑依ってのは思ってる以上に労力使うから長い時間使っていたくねーんだ。お前が掘りそうになった墓穴は埋めてやったし、アフターサービスの下準備も整えた。帰りたければ帰ればいいし、結衣とやらを眺めてたいなら眺めていればいい。俺様はまだこの学園に用があるから残るがな」
振り向くと乗っ取られる前と同じようにアクセルが宙を浮いていた。拓海が頷くと彼はどこかに飛び去って行った。
「あれ? 優姫ちゃんその人は?」
知らないうちに先ほどまで試合をしていたはずのコートの天使改め結衣が優姫の後ろにいた。
「あ、結衣! この人ね、拓海って言うの! 今度転校してくるんだって!」
ターゲットの知人と仲よくなり、さらにその知人が自身を紹介してくれる……幸先のいいスタートだと拓海は感じた。
「ぼ、じゃなくて……俺、拓海よろしくな!」
そう言って拓海が結衣に握手を求めると、彼女は快く応じてくれた。
その時、彼の心を覆うように仮面が生まれた。誰にも見せてはいけない、秘密の黒い一面を……本当の彼自身を隠すかのように。
この日が結衣と優姫と出会い、拓海が仮面をかぶるようになった「始まりの日」だった。