2-3 賭け
藍人の日記は、結局修復できない部分が多いことが判明した。
「記録だけでも残そう」
深迦は新しい紙と竹ペンを沙蓮に手渡した。
「ちょっと待って。わたしは単語が少し読めるだけで、藍語は書いたこともないわ」
「平気だ。写し取るだけでいい」
藍国が滅ぼされたのは十五年前だが、藍語を知る者は、ほとんどいない。
それは藍人の生き残りがいないということだ。
学芸司書である深迦や洛花は、藍語だけではなく同時期に滅んだ火語や桂語も解読できるけれど。
見習いである沙蓮には難しい。
「正史は勝利した国の視点で記される。個人の日記は、藍国がどのような国であったかを後世に残すための重要な史料だ」
「だったら、なおさら深迦が写すべきだわ」
「口ごたえは認めない」
「なんでよ!」
「ここは職場だ。上司の指示には従ってもらう」
冷ややかに深迦は言い放った。
(なによ。深迦の方が適任って言ってるだけじゃない)
どうしてそんなに熱くなるの?
訳が分からないよ。
紙の束と竹を削ったつけペン。それに黒い液体の入ったビンが机の上に置かれている。
墨汁と違うさらりとした液体はインクだ。藍国は、砂国のような毛筆を用いていない。
「がんばりなさい。期待しているわ」
沙蓮の手元を、洛花がのぞき込でくる。
深迦よりも年上ということもあるが、間近で見ても大人っぽい女性だ。おしろいのいい香りが、ふわっと鼻をかすめた。
「無理ですよ。わたしになんて」
「あらー、弱気ね。平気だと思うわよ。賭けてもいいわ」
「賭けるって、何を?」
「そうねぇ」と洛花はあごに指を添えた。
「もし沙蓮に写本ができれば、あたしが大事にしている衣裳をあげるわ。学芸司書証の授与式の時に着た物よ。で、沙蓮が失敗したり諦めた場合は」
にやりと、目を細める。
「深迦のこと、諦めてもらうわ」
「え?」
まさか洛花さんまで深迦のことを……。
「なーんて、嘘」
なんだ。
思わずほっとして息をつく。
そうだよね。考えすぎだよね。
「水晶の花をいただこうかしら」
「水晶の花って」
「薄紅色の髪飾りよ。あら、もしかしてまだ深迦からもらってないのかしら」
どうしてそれを。
沙蓮は目を見開いた。
昨夜、深迦からもらった水晶の花の髪飾り。まだ一度もつけたことがないし、大事なものだから懐に入れているのに。
「市場に、有名な水晶職人の店があるのよね。桂国の生き残りらしくてね、髪飾りの意匠も細工もそりゃあもう素晴らしいのよ。作るのに時間がかかるから、なかなか注文を受けてくれなくて。ずいぶん前に、深迦と一緒に店に行ったんだけどね」
「市場の店……」
そういえばスモモを買ったとき、深迦は何かを引き取りに行っていなかったか。
(まさか、この水晶の花は)
沙蓮は深迦からの贈り物が入った、懐に手を添えた。
考えたくない。でも、彼は寝言で洛花に謝っていた。
(もしかして、本当は洛花さんにあげるために注文した物なの?)
自分がただ知らなかっただけで、二人は親密な関係だったのだろうか。
でも、そんな素振りを深迦が見せたことはない。
(元々つきあっていて……でも、髪飾りができる前に別れてしまったとか?)
いや、そんなはずはない。
けれどどんなに否定しても、疑念が湧き上がってくる。
「ま、がんばりなさい。あなたならできるわよ」
ひらひらと手を振りながら、洛花は立ち去った。
「気を取り直さなくちゃ」
へこんでなんかいられない。
今は勤務時間だ。それに大事な仕事を任されてもいる。沙蓮は竹ペンを握り、分かりづらい文字を書き写した。
――文字を教えてもらったのだと、娘がうれしそうに話していた。
なぜだろう。じっと目を凝らすと、内容をちゃんと読み取ることができる。
ただ人名は難しくて読めないけれど。
次の一枚を用意し、また写本する。さらさらと真新しい紙の上を走る竹のペン。毛筆よりも、ずっと書きやすい。
――砂国の使節が、兵を伴ってきたとのこと。紅水河の水源を狙っているようだ。
「急にきなくさい話になってきたわね」
ただの日記と侮っていたけれど。確かにこれは歴史的な史料だ。
――武力を行使されれば、軍隊もなく、兵役の義務もない我が国は持ちこたえることができない。だが、愛しい生徒たちを戦場へと送りたくはない。
沙蓮は唇をかんだ。
ペンを持つ手に力が入る。
――今日、舟の隠れ処へと向かう。悠久の川の流れは、しばし途絶える。だがどの舟も、迎えが来るのを待っていてほしい。さぁ、今は別れの時だ。
一気に書き綴ると、なぜか涙が浮かんできた。
破損のひどいものを選んでいるから、日記といえども日付順にはなっていない。
けれど断片的に読み取れる情報から、滅びへと向かう藍国の情景が脳裏に浮かぶ。
枝を張った木々と、紅水河の清らかな流れ。きらめく川面。川岸を走る子どもたち。
今はもうどこにもない国だ。
「進んでいるようだな」
手元が暗くなったと思うと、深迦が正面に立っていた。
「深迦……」
「どうした?」
あまりにもじっと見つめてしまったせいか、深迦がいぶかしそうに眉をひそめる。
あの水晶の花は、洛花さんのために作ったものなの?
二人はどういう関係なの?
つい、問いかけそうになってきつくまぶたを閉じる。
考えるな、わたし。
後ろ向きな考え禁止! だ。
「あの……かつてあった紅水河が消えたのって、人為的なものなの? 木々が伐採されたせいじゃないのかしら」
「どうしてだ?」
「だって、この日記……そんな風に読み取れるわ。もしかしたら、あえて川が涸れたように見せたのかもと思って。だって雨が降れば、紅水河は一時的に蘇るじゃない」
「沙蓮っ。読めるのか?」
深迦が両手を机についた。そのはずみで、インクの入った瓶が倒れてしまう。ふたを閉めていたので、中身がこぼれることはなかったが。深迦にしては珍しい失敗だ。
「前にも読めるって言ったけど」
「だがそれは、簡単な単語の拾い読みだけだろう? 文章としてつながったものは無理だったのに」
「本当。どうして読めるのかしら、わたし」
沙蓮は、足形のついた古い紙をじっと見つめた。
「隠れた語学の才能が開花したのかもよ」
「寝言は、寝て言うものだ」
もしかすると、と沙蓮は立ち上がり、閉架室へと向かった。
桂国の書を開き、目を通す。
うん、どの文字もころころとした団子にしか見えない。
次は火国の書を手に取る。
火国の文字は、茹ですぎて伸びきった麺にしか見えなかった。
古びた書を抱えたまま、沙蓮は息をついた。
呼吸はしていたはずなのに、ようやく息が吸えたような気がする。
「参ったなぁ」
子どもの頃から慕ってはいたけど。こんなにも深迦のことが好きになっていたなんて。
いつも隣にいて、いつでも側にいて。それが当たり前だと思っていた。
でも、深迦には他の人を選ぶ自由がある。
もし彼が洛花の手を取って見つめあうなら。自分はそんな二人を祝福できるのだろうか。
「どうしよう……つらいよ」
沙蓮は壁にこつんと額を当てた。




