2-2 洛花までやってきた
砂国では年に一、二度だけ雨が降る。
今は涸れてしまった紅水河のおかげで、砂国は栄えることができたが。
山や平原の木々を切り倒し、家や燃料に使い切ったために、今は周辺は草木の生えぬ乾荒原となっている。
雨脚は強くなり、庭には水たまりができている。
降りしきる雨の中、アシアが立っていた。雨よけの布をかぶることもなく、金の髪も褐色の肌もしとどに濡れている。
彼女は一心に葡萄棚を見つめていた。
「アシア。家に入らなくて大丈夫なの? びしょ濡れよ」
「平気でございます。雨が清めてくれるのを確認すれば、中に入ります」
「よく分からないけど。風邪、ひかないでね」
沙蓮が告げると、アシアはにっこりと微笑んだ。
「わたくしは頑丈にできておりますから。それより今夜には紅水河が出現するやもしれませんね」
紅水河! 幻の川。
沙蓮の心は弾んだ。
何千年も前から滔々と流れていた川。けれど十五年前に突如として紅水河の流れは絶えてしまった。
滅多に降らない雨が降ったとき、幻の川は現れ、砂京はお祭り騒ぎになる。
たとえ大雨であろうと屋台が並び、川沿いでは篝火が焚かれ、深夜まで人でにぎわうのだ。
「見に行ってもいいかな。いいよね」
「深迦にお尋ねください。もし許可が下りれば、わたくしが同行いたします。紅水河の水量は多うございますから。沙蓮が足を滑らせでもすれば、おおごとでございます」
「わたし、そこまで鈍くないわ」
「万が一のことがないとは言い切れません。そうですね、羊の皮に空気を詰めたものを肩から下げていくとよいでしょう。たとえ増水した川に落ちたとしても、浮袋となって助かります」
「やだっ! 恥ずかしい」
「何が恥ずかしいのです? 今から市場に行き、羊を買って参ります。すぐにさばいて皮だけにして、縫い合わせれば夕刻には間に合うでしょう」
いやだー。そんな血なまぐさい浮袋。
紅水河が出現すれば、たくさんの人が見学に集まる。そんな中でパンパンに膨らんだ羊の皮を下げていくなんて。考えただけでも、恥ずかしくて死んでしまいそう。
「い、いいから。やっぱり行かないから」
こうなったら内緒で出かけるしかない。
「本当ですか? 沙蓮は子どもの頃から、紅水河の出現をことのほか喜んで、わたくしや深迦に『連れて行って』とねだっていたではありませんか。あの頃の沙蓮は本当に可愛くて。わたくしは羊の浮袋を片手に、付き添ったものでございます」
もう実行済みでしたか。それはさぞや目立ちましたよね。
沙蓮はうなだれた。
沙蓮と深迦は二人で出勤した。
油紙を貼った傘を差して並んで歩いていると、やはり視線を感じた。
「ほら、また一緒に出勤してるわ。ほんと、深迦さんを独り占めにして。いい加減にしてほしいわね」
「大丈夫よ。あの子、もうすぐ乾荒原の檻に入るから」
「わーあ、かわいそう。もう帰ってこられないわね」
けらけらと笑う声。いつもの二人組の女子だ。
なぜか今日は、二人とも裳がほつれていたり、髪が縮れていたり、傘を持つ手に包帯を巻いたりしているけれど。
よほど暇なのか、彼女たちは沙蓮の後をつけてくる。このまま図書館まで来るつもりなのだろうか。
「あたし、司書見習いになろうかな」
「素敵。一緒に砂京図書館に応募しようよ。ちょうど見習いの枠が空くもんね」
沙蓮は唇をかみしめた。傘を叩く雨の音は強いのに、三人の声は嫌になるほど大きく聞こえる。
その時、ふいに深迦が沙蓮の手を掴んだ。
「走るぞ」
「えっ?」
ぐいっと引っぱられて、沙蓮は深迦の後を追う形になった。あまりにも急で、沙蓮の手から傘が離れて落ちる。
深迦は風の抵抗を受けぬために傘を閉じた。
顔を叩き、髪や裳を湿らせる雨。それでも深迦は足を止めない。
木造の家並みの角を曲がり、小路を走り抜け、また曲がり。
砂京の官庁街をぐるりと周るようにして、たどり着いたのは図書館の裏口だった。
「ど、どうしたの? きゅ、急に」
ようやく止まることができた沙蓮は、肩で息をしていた。雨に濡れて冷えているはずなのに、吐く息はとても熱い。
「騒音が気に食わなかっただけだ」
「騒音って」
もしかして、あの子たちの悪口のこと?
「お前が子どものままだったら、俺が耳をふさいでやればいいのだが。奴らの言うことなど聞くなと言ったところで、お前は気にするだろう?」
「知ってたの?」
「気づかぬわけがない。図書館の中庭で、市場の羊肉の間で、そしてうちの塀の外でも。あまりにもうっとうしいから、アシアに何とかしてもらうように頼んだ」
ああ、それで。
今日の彼女たちがボロボロだった理由が、納得できた。
「ささいな嫌がらせで済んでいる内は、まだいい。だが沙蓮を傷つけるのならば、こちらも容赦はしない」
「深迦?」
「なんでもない。もう勤務時間だ、入るぞ」
深迦の声は低くて小さかったから。沙蓮には、ちゃんと聞きとることができなかった。
館内は薄暗く、沙蓮は窓の外にある木の覆いを開けていった。
繊細な格子細工が施された窓を透かして、ぼんやりとした光が広がる。
今日は雨だけれど、ふだんは陽射しの強さを避けるために、窓には格子細工、窓の外には幅の広い回廊が設けられている。
「これでよし、と」
ふり返った沙蓮は、言葉を失った。
(うそ。なに、これ)
自分の目に映る光景が信じられなかった。
図書館の床一面に、紙が散乱していたからだ。
あわてて拾い上げると、それは沙蓮が補修していた藍人の日記だった。
泥の足跡が、ばらけた日記についている。しかも、わざと踏みつけたように紙はよれて破れている。
「なんてことだ」
遅れて惨状を目にした深迦が、息を呑んだ。
すぐに深迦は日記を拾い集める。眉をしかめたその表情は、とても苦しそうだった。
二人とも言葉を交わすこともできず、館内には重い空気が立ち込めた。
「ちょっと、なによ。あんた達。辛気臭いわね」
バーン!
突然、図書館の扉が勢いよく開かれた。
「ははーん。乾荒原送りが、相当堪えてるとみえるわね」
腰に手を当て、胸を張って現れたのは越洛花だった。
三十歳くらいで、アシアほどではないが女性にしては背が高い。つややかな黒髪を結い上げている。
「沙蓮、勉強はしてたんでしょ? 運が悪かったのかしらね。それとも深迦の指導が悪いのかしら? しかも江なんて一発合格しちゃって。この先、どうなるのやら。今は江も学芸司書証の授与式で、この砂京に戻ってるのよね。人手が足りないから、緋山図書館は休館よ」
ぺらぺらと途切れることなく、洛花はしゃべっている。けれど砂京図書館の上司と部下が、二人とも無言であるのに、洛花はようやく気付いた。
「あら、やだ。なによこれ。大事な史料がぼろぼろじゃないの」
「……もう、直せないんでしょうか」
「馬っ鹿ね。直すのが学芸司書の仕事でしょ」
弱々しく尋ねる沙蓮の背中を、洛花はバシンと叩いた。
「それにしてもひどいわね。ちゃんと図書館の鍵はかけたんでしょ? 保管庫の鍵は?」
「かけました」
洛花は考え込むように腕を組んで、唇を引き結んだ。
「洛花、ちょっといいか」
声をかけたのは、深迦だった。
洛花の隣に立ち、彼女の耳元で何かをささやいている。沈痛そうな彼の面持ちに、沙蓮は胸が痛んだ。
――洛花……許して……くれ。
今朝の寝言が、何度も頭の中で繰り返し聞こえた。
話が長引くようで、二人は隣の事務室へと場所を移した。扉は閉じられたので、中の様子を沙蓮がうかがうことはできない。
最近の深迦は、こうして沙蓮を外すことが多い気がする。
「わたしが子どもだからなのかな」
洛花やアシアのことは対等に見ているから、相談だってできるのだろう。
自分だけが、年齢も経験も追いつくことはできない。
「はっ。ダメダメ。後ろ向きになっちゃ」
沙蓮は両手で頬を叩き、床に散らばった日記を拾い集めた。
その時だった。
「ダメだ!」と叫ぶ声が聞こえたのは。
「あら、いいじゃない。雨も降りだしたし、ちょうどいい機会よ。あたし、はっきりしないのは嫌いなのよね」
「ダメだと言ったら、絶対にダメだ」
「却下よ。あんたは沙蓮に甘すぎるのよ」
キィと軋む音がして、事務室の扉が開いた。
紙の束を抱きしめる沙蓮を、洛花がじっと見据える。真顔だったのに、すぐにその表情に笑みを浮かべた。
「沙蓮、よかったわね。今日の仕事が終わったら、深迦が紅水河を見に連れて行ってくれるらしいわよ」
とってつけたような笑顔だった。




