1-4 恋心
食後、アシアは熱いチャイを入れてくれた。
軽い歯触りの角砂糖と、共に飲むチャイは格別だ。
「あ、葡萄も食べよ」
「沙蓮。まだスモモしか食べていないぞ。羊の串焼きが食べたいと言ったのは、お前だろ」
「あはは、そうでした」
笑ってみせたけれど、やはり試験に六度落ちたことを考えると、食欲はあまりない。
縁台の上に広がる葡萄棚に手を伸ばした沙蓮を、アシアが見とがめる。
「その葡萄は、まだ熟していないようですが」
「ほんとだ」
「渋く酸い葡萄がお好きでしたら、止めませんが。その右側の葡萄の方が……」
言いかけてアシアは、はっと目を見開いた。
ガツッと何かが刺さる音。
沙蓮の三つ編みが風をはらんで、なびく。深迦が「アシア!」と声を荒げた。
アシアの手には、短刀が握られていた。
恐る恐るふり返った沙蓮が見たものは、葡萄棚の柱に深々とつき刺さった短刀だ。
足元には葡萄の房が落ちている。
深迦も目を見開いて、言葉を失っている。
「葡萄の木を焼き払います」
うそ。なんで?
「待ってよ。アシア。どうしちゃったの?」
「他の家には葡萄棚はございません」
「それは、そうだけど。でも、この葡萄棚は私のお気に入りなの。深迦がここまで育てるのに、何年もかかったのよ」
「手間と時間を天秤にかけても、この木は不要です。葡萄棚など変わったものが存在するから、目立つのです」
(変わってものって。アシアも際立って目立ってるじゃない)
混乱する沙蓮に構わず、アシアはマッチと液体の入った小瓶を手にしていた。
「アシア、油はやめろ。危険だ」
「確実に焼却するためには、必要不可欠ですが」
「家まで燃やす気か?」
「それもそうですね」
深迦に指摘されて、アシアはようやくマッチと小瓶を片付けた。
「引火せぬように、まずは家に水をかけましょう」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……。何事も徹底するパラティア人の気質は、確かに護衛や警護に向いている。だがな、アシア。守られるべき者の気持ちも考えてやってほしい」
「……つまり、わたくしの判断よりも沙蓮の意見を通せと?」
燃やすなと言われたことが不本意なようで、アシアは珍しく深迦に食ってかかっている。
基本的にアシアは深迦の指示には、忠実だ。
なのに、どうしたというのだろう。
「アシア、中で話そう」
「ここで話せばよろしいかと」
「……中に入ってくれ。沙蓮、葡萄は食べないように。いいな」
深迦は地面に落ちた葡萄の房を拾い、アシアの背中を押した。
夕闇の室内は暗いだろうに、扉と窓を閉められて、中の様子をうかがうことはできない。
「何を話しているのかしら」
アシアは、なぜあんなことをしたのだろう。
彼女の行動は突飛で、何を考えているのかよく分からない。
昼間は木々の葉影に隠れていた羽虫や蜂が、夕風に乗って葡萄棚へと集まってくる。
どんなに耳を澄ましても、二人の話し声は聞こえない。
そして虫の羽音も途絶えた。
深迦に恋してると自覚したのは、いつだっただろう。
夜空に見える車輪星を眺め、沙蓮は考えた。
(ああ、そうだわ。たしか七年前)
沙蓮がまだ十歳で、たしか深迦は二十一歳の頃だ。
アシアは現金輸送の護衛の仕事で不在だった。
夕食を作ろうと、沙蓮は一人で市場に行ったのだ。淡い色の髪を隠すように、帽子の中にまとめて入れて。
「おや、お嬢ちゃん一人かい? いつもの兄さんは?」
パン屋のおじさんが、声をかけてきた。
子どもの沙蓮が一人で買い物に来ているのが、よほど珍しかったのだろう。
簡単な屋台には、中央に穴が開いた丸パンが紐に吊るされている。紙のように薄いパン、サンギャには、焦げ目がついておいしそう。
「深迦はまだ仕事なの」
どれを選ぼうか、沙蓮はパンを指さしながら迷った。
「パラティアの変わった姉さんは?」
「アシアも遅いわ」
「じゃあ、じゅうぶんに気を付けないとな」
平パンを抱えて、沙蓮は市場を歩き回った。
野菜は自分で切ってチーズと混ぜて。あとは焼いた肉か、茹で肉でも買った方がいいかも。
大なべで湯気をたてている肉と内臓の煮込み。香ばしい焼き目のついた羊肉。ナスやトマトの煮込みをかけた麺も食欲をそそる。
考え事をしていたから、後ろをつけられていることに気づかなかった。
それは突然だった。
沙蓮の腕が、見知らぬ男に握られたのだ。強い力で狭い路地に引き込まれた。
かぶっていた帽子が、地面に落ちる。
にぎわう市場では、子どもが一人消えたことに気づく人はいなかった。
市場から見えぬように、路地をふさぐように立っていたのは、二人の男だった。
「こいつ、砂人じゃねぇぞ」
「この髪色、藍人だろ」
「なら、ちょうどいい。さっきパン屋で話しているのを聞いたんだ。遅くまで家族は帰らんらしいぞ」
(なに、どうしたの? わたし、どうなってるの?)
何が起こったのか、分からなかった。
無我夢中で悲鳴を上げようとしたけれど、毛むくじゃらの手で口をふさがれた。
すえた汗のにおいに、気分が悪くなる。
「思考を失う薬を飲ませて、売ればいい値になるだろうさ」
「まだガキだぞ?」
「それがいいって奴もいるだろ。好みが特殊な奴ほど、高い値を出すってもんさ。桂国なんざ、こういう小娘が好きそうじゃないか」
「ちげぇねぇ」
男たちの下卑た笑い声が、耳に響く。
(思考を失う薬って、火国の薬だ。こいつら、火国の盗賊なんだ)
そんなの絶対にイヤだ!
聞いたことがある。
盗賊がさらってきた娘を買う館があると。
そこに売られたら、部屋に閉じ込められて、大変なことになるって。
その大変なことは何かと尋ねたら、深迦は苦い顔をして教えてはくれなかったけど。
(絶体絶命ってヤツだ!)
沙蓮は両手足をバタバタさせて、もがいた。
ああ、たしかアシアが、襲われたときは急所を狙いなさいって言ってたけど。
なんてこった!
真面目に聞いてなかったから、どこが急所なのか覚えていない。
(ごめんなさい、アシア。次は、ちゃんと教えてもらうから。わたしも、一撃必殺で相手を倒せるようになるから)
「このガキ、静かにしろ」
「おい、手足を縛れ」
盗賊が縄を持ち出す。
このまま火国に連れていかれたら、二度と生きては戻れない。
今日は深迦の好きな平パンを買ったのに。
お帰りなさいって言って。一人で夕食を用意したこと、褒めてもらいたかったのに。
「深迦……深迦」
もう会えないなんていやだ。これまでも深迦がいない日は、とっても寂しかったのに。
「……助けて。深迦、助けて!」
沙蓮は声をふり絞った。
その時だった。
盗賊の一人が、白目をむいて倒れたのは。
「おい、どうした? なんだよ、おい」
残った男の鼻と口に、背後から伸びる手がある。
「なっ!」
叫ぶ間もなく、残った男もよろけて倒れた。
「沙蓮。大丈夫だったか?」
盗賊たちをけりとばしながら、現れたのは深迦だった。
手には折りたたんだ布を持っている。
「うわーん、深迦ぁ」
怖かったの。もう生きて会えないかもと思ったの。
会えないと思ったら、深迦のことがこれまでよりも、もっともっと大事で。
思いばかりが溢れて、止まらない。
げいん!
抱きつこうとした時、深迦の肘が沙蓮の顔に直撃した。
「な、なんでぇ?」
「馬鹿! これは火国の薬をしみこませた布だ。沙蓮まで倒れるつもりか?」
「知らないもん、そんなのぉ」
ぐすぐすと、沙蓮は泣きじゃくった。
「まったく、もう。なんで一人で出かけたんだ。図書館の利用者が沙蓮が市場で一人、買い物していると教えてくれたからよかったものの」
薬のしみた布を捨て、深迦は事前に用意していたらしい濡らした布で手を拭いた。
「うう……なんで薬なんて持ってるの?」
涙が止まらない。けれど深迦は余分の布は持っていないようだった。
沙蓮は猫の刺繍が施されたハンカチで、涙をぬぐった。
早く泣き止まないと。
猫ちゃんに「沙蓮ちゃんが泣いたら、ぼくも悲しいでちゅよ~」って言われちゃう。
「沙蓮みたいな可愛い子が一人で歩いていたら、狙われるだろ。だから家や図書館には相手を失神させる、ど……薬を常備しているんだ」
「ど?」
「毒じゃない、薬だ! 俺はそんな物騒なものは持っていない」
「沙蓮、かわいい?」
「そんなこと言ってないだろ!」
「い、言ったもんー」
しゃくりあげる沙蓮に、深迦は言葉に詰まった。
「今のは言い間違い。沙蓮みたいな幼い子、だ」
「かわいいって言ったもん」
「あー、かわいい、かわいい」
投げやりな言い方だったけど、深迦は沙蓮の頭をなでてくれた。
そして軽々と抱き上げると、まだ倒れている盗賊を、むぎゅっと踏みつけて歩きだす。
「お前ら、今度俺の大事な沙蓮を狙ってみろ。次はその程度の毒では済まないぞ」
――俺の大事な沙蓮。
その言葉は矢のように、沙蓮の心をドスッと打ち抜いた。
そう、恋という名の矢だ。




