1-3 一緒の帰宅
夕方の砂京の大通りを、日除けがついた馬車が砂埃を上げながら走っていく。
石で舗装されていないので、朝夕の交通が多い時間帯は布で鼻と口を覆っていないと、息が苦しい。天に向かってすらりと伸びた箱柳の並木道。昼の熱気を残した風が、木々の葉をさわさわと揺らしている。
「いいにおい。お腹空いたぁ」
あちらこちらから漂ってくるのは、夕食の用意のにおいだ。平パンのこうばしい香りに、沙蓮のお腹がくうと鳴った。
「日記はちゃんと片づけたな? 保管庫に鍵はかけたか?」
「大丈夫だって」
「なら、いい。さて、夕食は何にしようか」
深迦に尋ねられ、沙蓮は顔を輝かせた。
「羊の串焼きがいいわ。香辛料がたっぷりかかった」
「沙蓮は昔から香辛料が好きだな。俺は肉に添えるなら、薄荷がいい」
「えー、肉料理には合わないよ。薄荷って口の中がスースーするじゃない。深迦ってば、香油も薄荷だしさ。そうだ、果物も食べたいな」
「了解。ならばスモモにしよう。果物は大事だ」
深迦は足が速いから、すぐに置いていかれてしまう。
けれど度々、立ち止まってはふり返る。
そのたびに、沙蓮は小走りになって彼を追いかけるのだ。
沙蓮が追いつくと、深迦はやわらかく微笑む。
仕事中には絶対に見せない笑顔だ。
「どうしたの?」
「いや。ちゃんと待っていないと、お前がはぐれてしまいそうで」
「平気だよ?」
けれど深迦の笑みには、陰りがある。
もしかすると、乾荒原送りを気にしてくれているのだろうか。
「妙な気分だよな。いつも俺の後ろを歩いているのに、いつか俺の手をすり抜けて、お前がどこかへ行ってしまうのではないかと感じる。宋江に告白されるくらいだから、大人になったってことなのだろうか」
「どこへも行かないし。ちゃんと帰ってくるよ」
「ああ、そうだな。杞憂だな」
深迦は、ほっと息をついた。
よかった。安心したみたい。
二人で一緒に家路につく、この時間が大好きだ。
だって勤務時間が終われば、もう上司と部下じゃないから。ぞんぶんに甘えたって構わない。
(うーん、まただわ)
市場でスモモを選んでいた沙蓮は、背中をもぞもぞさせた。
官庁が立ち並ぶ通りではそうでもないのだが。女性が多い場所では、刺すような視線を感じることが多い。
「これも悪くはないのだが。もう少し赤い方がいいな。沙蓮、かごを貸しなさい」
深迦の手が、沙蓮の手元に伸びた瞬間、視線の痛さは五割増しになった。
「ほら。また、あの子よ。いつだって深迦さんと一緒なんて」
「でも妹でしょ」
「名字が違うのよ。深迦さんは瑚、あの子は天青っていうの。この間、図書館で確認したんだから」
「義理とはいえ、家族なんだし。恋愛には発展しないでしょ」
「ああ、でもいいわねぇ。深迦さん。普段は冷たそうなのに、きっと恋人にだけは甘い笑みを見せるのよ。その笑顔を独り占めしたいわぁ」
「南夷でも、深迦さんならいいわよね」
深迦に想いを寄せているのは二人の女性だ。いつも図書館の中庭や窓から、深迦の様子をうかがっている。今日は、露店に吊るされた羊肉の間から、ぎらつく瞳をのぞかせている。
「姉ちゃん達、買うのかい? 買わないのかい?」
「うるさいわねっ。今、忙しいのよ」
怒鳴りつけられた店主は、すごすごと引き下がった。
女性たちの話題になってることも気付かずに、深迦は真剣につややかなスモモを選び抜いた。
「これだな。はちきれんばかりに果肉が詰まり、熟し具合も申し分ない。枝の外側で充分に日の光を浴びた証だ」
「う、うん。わたしもスモモを選ぼうかな」
「その必要はない」
そう言うと、深迦はあと二つのスモモを選んだ。
「傷もなく、赤さもいい。これも完璧だ」
「なんでそんなにスモモにこだわるのかなぁ」
「何を言う。重要なことだぞ」
ふと深迦が立つ位置を変えた。
「おいおい、兄さん。ちょっと遠いよ」
「ああ、すまん」
深迦は腕を伸ばして、お釣りを受け取った。
ちょうど沙蓮の視界をふさぐように、深迦が立っている。まるで二人の女性の視界から、沙蓮を隠すように。
(これって、気をつかってくれてるの? 守ってくれてるの?)
だとしたら、嬉しい。すごく嬉しい。
深迦が体を退けたときには、もう彼女たちの姿はなかった。
「俺は少し寄りたい店がある。注文していた品がやっと出来たんだ。先に家に戻っていなさい」
「え、うん」
なんだ。一緒に帰れるのもあと少しなのに、つまらないの。
守ってくれているなんて、考えすぎだったのかな。
沙蓮は、今は干上がった紅水河の川底を眺めながら歩いた。
かつては木々に覆われていたという禿山に、太陽が沈んでいく。
家についた沙蓮は、葡萄棚のある広い縁台に荷物を置いた。
木陰で昼寝もできるし、食事もできる、さらには実っている葡萄を食べることもできる縁台が、沙蓮は大好きだ。
でも他の家では葡萄棚も縁台も見たことがない。
「なんだろ。やけに虫が落ちてるけど」
小さなほうきで羽虫や芋虫を払い、縁台に敷物を広げる。
涼しい風が葡萄の葉を揺らし、日中の熱を冷ましてくれる。
「ただいま」
「お帰りなさい、深迦。ちょうど料理を並べたところよ。アシアも呼びに行こうか?」
「匂いで気づくだろ? それよりも渡したい物が……」
深迦がごそごそと、袂の中に手を入れた。
「おや、よい香りですね。香辛料の馬芹を使った羊の串焼きですか」
「うわっ!」
いきなり現れたアシアに、深迦が珍しく大声を出した。
そりゃ、びっくりするよね。
だってアシアってば、地面に這いつくばってやって来たんだもの。
アシアは隣家に住んでいる。といっても、敷地が同じだし食事も一緒にとってるから、ほとんど家族同然だけど。
「アシア。どうして普通に歩かないの?」
「匍匐前進の練習です。一番難易度が高いのは、このように腕だけで進む方法です。日々の訓練を怠ってはなりませんから」
「どうして顔を茶色く塗っているの?」
「背景に溶け込む保護色です」
「それも訓練?」
「いえ、妙な物音がしたので見張っておりました」
アシアは立ち上がると、きょろきょろと辺りを見回した。
「沙蓮の部屋、深迦の部屋、どちらも確認いたしましたが。盗まれたものはないようです」
「そうか、ありがとう」
「いえ、当然のことですから。深迦」
アシアは不思議な存在だ。
自宅の警備員というか……学芸司書は数が少ないけれど、だからといって警備を強化しなければならないような家ではない。なのに深迦は当たり前のように、対応しているし。
「現金輸送の護衛は、大変だったそうじゃないか」
「別にどうということはございません。やはり馬芹はよいですね。故郷、パラティアの香りです」
首を傾げる沙蓮に、深迦が新聞を手渡した。
一面を見て、驚いた。
大きな見出しには『パラティアの女用心棒、今回も大活躍』と書かれていたからだ。
どうやら現金を運ぶ馬車の護衛をしていたアシアが、強盗をやっつけたらしい。
襲ってくる屈強な男を倒し。逃げる強盗を追いかけて、アシアは民家の屋根や塀の上を走り、木の枝から枝へと飛び移ったという。
その身軽なさまは猿のようであり、決して獲物を逃さぬ執拗さは乾荒原の豹のようであったと。
強盗は、空から降って来た女用心棒に馬乗りになられ、あえなく降参したとのことだ。
「すごいのね」
「ほんの片手間の仕事です。たいしたことはございません」
片手間で、強盗退治か。
沙蓮はため息をついた。
「深迦もアシアも実力があるのに。わたしだけ、お荷物みたい」
「俺もアシアも、お前を重荷だと思ったことはないぞ」
「でも、学芸司書試験に六度も落ちるなんて」
試験は難しい上に、五度落ちれば学芸司書を諦める者も多い。
命を懸けてまで六度目に挑戦するなんて、愚かだというのが砂人の考え方だ。
「そりゃ、落ちるだろ」
「え?」
今のはどういう意味?
お前は馬鹿だから、落ちて当然だって言いたいの? それとも他に意味があるの?
だが、深迦は素知らぬ顔で平パンをちぎっていた。
「沙蓮。後ろ向きな性格は、禁止です」
「ご、ごめんなさい」
アシアに指摘され、沙蓮ははっとした。
自分に自信がないのと、周囲に優秀な人が多いから。考えないようにしていても、すぐに劣等感を抱いてしまう。
気を取り直さなくちゃ。
「ねぇ、先にスモモをもらってもいい?」
「これですか?」
皿に三つ盛られたスモモの一つを、アシアが手渡してくれる。その手を、深迦が止めた。
「沙蓮のはこれだ」
「なるほど。一番大きくて、赤いスモモですね」
「どれも素晴らしい。アシアには、そう見えるだけだ」
むすっとした表情で、深迦はそっぽを向いてしまった。
「彼はスモモに対して、並々ならぬ執念があるのですよ」
アシアは小声でささやいた。
つやのある果皮にかぶりつくと、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。
深迦と一緒に帰宅できるのも、あとわずか。
その事実に、胸がきしむ。




