4-2 君がいない
今、砂京図書館は深迦一人でまわしている。
うるさくつきまとっていた二人の女子の姿は、最近見かけない。
静かでせいせいする。
深迦は、閉架室で桂国の意匠が描かれた本を選んでいた。図書館の利用者に頼まれていたものだ。
「沙蓮。この本を取って来てくれないか?」
書名を書いた紙をさしだして、はっとした。
「そうだ。いないんだったな」
仕事中も、帰宅途中も、家でも。まるで子犬のようにまとわりつく存在がいないと……。
(ああ、この気持ちをなんというのだったか)
答えは分かっているのに。
それを認めることはできない。
いずれ沙蓮は、自分の元から巣立っていくのだから。今から慣れておかないと。
「静かすぎるのも、問題だな」
かたん、と閉架室の扉が開く音がした。
「沙蓮?」
反射的に深迦は飛び出した。
けれど、入り口で背筋を伸ばして立つ姿を見て、足を止める。
「なんだ、アシアか」
「わたくしの顔を見て、落胆するのはやめてください。乾荒原送りから、そんなに早く戻れるはずがないでしょうに」
アシアは砂まみれで、首からは古びた双眼鏡を下げている。
「報告いたします。沙蓮が藍都に入るのを確認しました」
「そうか。ありがとう」
「それと。昨日、彼女は砂大トカゲに遭遇しました」
深迦が抱えていた本が、バサバサと床に落ちる。
アシアは片方の眉を上げて、深迦と書物を見比べた。
「よろしいのですか? 桂国の大事な文献かと」
「あ、ああ。それでトカゲの件は?」
「神経を麻痺させる毒を混ぜた煙玉で退治いたしました」
「怪我は、ないんだな?」
「沙蓮がですか? それとも砂大トカゲがですか?」
「沙蓮に決まっているだろう!」
深迦は思わず声を荒げてしまった。他に人のいない静かな館内に、自分の声が反響する。
「あっ……」
しまった。
あわてて手で口を押さえるが、もう遅い。
「素直になればよろしいのに。冷ややかさを装っていても、深迦は沙蓮のことしか目に入っていないではありませんか。あの子の気持ちには、気付いているのでしょう?」
「だから、どうだというんだ」
床に散乱した本を、深迦は拾った。アシアは手伝おうとしない。これは彼女の仕事ではないからだ。
「ちゃんと応えてあげないのですか?」
「その必要はない」
「沙蓮への愛情が溢れて洩れていても?」
反論しようとして、深迦は口ごもった。
「まぁ、いいでしょう。これからが本番ですね。葡萄に毒、濁流に突き落とす。次は何を仕掛けてくるでしょうか」
「次もなにも、すでに仕掛けられているだろう? 砂大トカゲは、湿気をひどく嫌う。雨の後に巣から出てくるはずがない」
そもそも試験の素点から三割を引かれ、さらに命を狙われている状態で、たとえ公平さを求められても、くそくらえだ。
「わたくしも、命の危機に関わること以外は手助けは致しませんが。沙蓮が学芸司書として、この国で確固たる地位を築くためには、避けられぬ試練です」
「頭が固いな」
「あなたほどでは、ございません」
深迦は事務室へ入った。
作業机の上に、沙蓮が残していった仕事を広げる。
踏みつけられてしわになり、汚れ、破れた日記。それとたどたどしい藍語を書き写した紙。
「文字はあまり上手くなっていないな」
自分でも知らぬうちに、微笑んでいた。
日記の最後の一枚を、丁寧な手つきで持ち上げる。
――沙蓮。どうか健やかに。
乱れた藍語で、そう書かれている。
「分かっています。沙紺先生。あなたの最愛の娘は、きっと幸せにしてみせます」
それが自分に課せられた義務。
そして沙蓮の幸せを願うことが、自分が得た権利。
沙蓮を託されて十五年。彼女の幸福だけを考えて生きてきた。
先生は、国を滅ぼされた恨みに引きずられ、怨恨の中で生きることを望まなかった。
だから、沙蓮には復讐の人生を歩ませたくはない。
明らかに砂人と髪や目の色が違っても、あえて藍人であると沙蓮には教えてはこなかったのは、それが理由だ。
たとえもう存在しなくとも、故郷はいつもこの胸の内にある。
深迦は、藍国の学舎に通っていた頃のことを思い出した。
◇◇◇
川の近くに立つ学舎の窓からは、いつも紅水河の流れる音が聞こえていた。
「藍は天頂の青、そして紅水河の水の色。藍人の自由な魂は藍の空にあるのです。決して恨みや憎しみに囚われてはなりませんよ」
教師の天青沙紺は、授業の前に藍人としての教えを説くのが常だった。
(あーあ、つまらないの)
十三歳の深迦は、机に頬づえをついた。
いっつも同じ話ばかりを、先生はする。他の生徒は熱心に聞いているけど。退屈でしょうがない。
窓から外を見ると、校庭の葡萄棚は緑の果実をたわわに実らせている。
藍国ではどの家にも、庭に葡萄棚がある。そればかりか道の左右に葡萄を植えて、緑の隧道にしている場所も多い。
緑の葉がつくる日陰と、ちらちらと石畳の道に落ちる木漏れ日。葡萄長廊は、藍国の名物の一つだ。
藍国では、丸い教会の屋根や家の壁に藍色のタイルが貼られている。
存分に降り注ぐ太陽の光が、ガラス質のタイルに反射して、白い道には青い光が満ちている。
大人達は、こんなに美しい国は他にないというけれど。
(俺は桂国にも、火国にも行ったことがないもんな。どうせ自画自賛ってヤツだろ?)
校庭の向こうに流れる紅水河では、舟が行きかっている。
水の流れに乗って進む小舟に、母と子が乗っているのが見えた。
(あれって、先生の奥さんと子どもだ)
川面に反射する光の中で、幼い女の子が水に触れている。
名前は沙蓮。校庭で一人で遊んでいるときに、よく相手をしてやっている。
なのに教材にでかでかと落書きをされたから、何度も怒って追いかけたことがある。
舟の後を追うのは、水鳥の親子。沙蓮は鳥を見て微笑んでいる。
きっと百年先も、こののんびりとした風景は変わらないのだろう。
こつ、こつと木の床を歩く音。
「深迦。手がお留守ですよ」
声をかけられてはっとすると、目の前に沙紺先生の顔があった。
体が細くて、いつも笑った顔をしているが、さすがに今は困ったように眉を下げている。
(そうだ。砂語の時間だった)
深迦は慌てて教科書と筆記帳を取りだした。
「せんせーい。それって幼児に言う言葉ですよー」
一人の指摘に、教室にいる十数人の生徒が一斉に笑う。
「あ、そうですね。すみません。家でよく沙蓮に注意しているもので。つい」
(なんだよ、だらしないの。単に娘に甘い父親じゃないか)
深迦は肩をすくめた。
沙紺先生は偉そうぶったところがない代わりに、教師としての威厳もない。
全然、尊敬なんてできない。
「では宿題を出してください」
しまった。
他の生徒たちは、次々と先生に筆記帳を提出しているのに。いつものように、宿題の存在を忘れていた。
「深迦。またですか?」
「えーと、学校を出るまでは覚えてたんですけど」
「ちゃんと手帳に書けばいいでしょう?」
「それは正論ですけど」
なんでやりたくない宿題の存在を、わざわざ記録しないといけないんだ。
「次はちゃんとやってくるように。でないと、これまで忘れた一年分の宿題をまとめて提出してもらいますよ」
「えーっ。いやです」
深迦は口をとがらせた。
先生は、五十年前にこの地に南下してきた砂人について話している。
彼らがやって来てから木々は伐採され、緑あふれる野は荒れ地になってしまった。
しかも、その乾荒原を渡るにはラクダやロバが便利なのに。
砂人は騎馬民族であるから、たとえ砂漠であろうとも馬を用いるのだという。
「騎馬民族としての誇りが、ラクダやロバに乗ることを許さないのでしょうね。藍語も覚えようとしないので、交渉の際はこちらが砂語を話すしかないのですよ」
(やっかいな人たちだなぁ。でも藍人は腑抜けだから、きっと喧嘩なんかできないだろうな)
そう、喧嘩にはならなかった。
砂国が紅水河の利権を主張してきた時も、藍国の反対派はあまりにも簡単に殺されてしまったから。
平和に慣れきった藍人は、戦う術すら知らずにいた。
紅水河の水源のある藍都は、砂人に包囲された。
大砲から轟音が響くたびに、鉄球が建物にめり込んで、美しい藍色のタイルが剥がれていく。壁は崩れ、建物が崩壊した。
葡萄長廊は、支柱も葡萄の木も伐り払われてしまった。
踏みつぶされ道にしみ込んだ果汁が、まるで血のようだ。




