3-4 夜が明けなければいいのに
翌朝は、乾荒原送りだ。
夜更けると、辺りはしんとした静けさに包まれた。
普段ならとっくに眠っている時刻なのに、沙蓮は目が冴えたままだった。
寝台から降り、部屋の東側の壁の前に立つ。
そっと手を伸ばして壁に触れてみる。ひんやりと心地よい感触。
この壁の向こうに深迦がいる。
もう眠っているだろうか。それとも読書しているのだろうか。
ほんの少しだけ、顔を見るだけなら。
床に置いた荷物を避けながら、そっと扉を開く。
深迦の部屋の前に立ち、扉の把手に手をかけて、ためらった。
部屋を訪れる理由が思いつかない。
沙蓮は、把手に触れていた指を離した。
それと同時だった。扉が勢いよく開いたのは。
「眠れないのか?」
まるで沙蓮の訪問を知っていたかのように、深迦は当たり前の様子で尋ねてきた。
「アシアが隣の自宅に戻っていてよかったぞ。もしいたら、沙蓮は侵入者と間違われて、無数に釘を刺した棍棒で殴られていたかもしれないな」
彼女ならやりかねない。
でも、沙蓮を守ると公言しているから。間違って襲われたりしたら、後が大変そうだ。
アシアだったら責任をとって自害します、なんて物騒なことを言いかねない。
「入りなさい」
うながされて、部屋へ足を踏み入れた。
いつも通り、天井まである本棚にも書物や巻物がぎっしりと詰まっている。床には棚に入りきらない本が塔になっている。
紙のにおい。図書館と違うのは、この部屋には薄荷の香りが漂っているということ。
大好きな深迦の部屋だ。
「これ、藍国のものね」
机の上に置かれた、古びた本に沙蓮は気づいた。どうやら教科書のようだ。
表紙は色褪せ、染みもついている。しかも、のたうちまわる蛇のような文字が、でかでかと書いてある。
子どもの落書きだ。
「別になんでもない」
なぜか深迦は、その本を急いで取り上げた。そんなに慌てるってことは、深迦が授業中に落書きしたものだとか?
「見せてくれてもいいのに」
「たいしたものじゃないから、いいんだ」
そう言う割には、布で丁寧に包んで引き出しにしまっている。
「教科書も史料になるの?」
「砂国の教育機関が参考にするかもしれないが。これは図書庁には提出しない」
「そうなんだ? じゃあ、補修するのね」
「なぜ?」
「え、だって……落書きは消しておいた方が」
「そんなことは絶対にしない」
強い語調の深迦に、沙蓮はとまどった。
深迦は自分が真剣な表情であることに気づかないのか、眉をしかめたままだ。
「気にしないでくれ。それで? 眠れないのか?」
「う、うん。乾荒原のことを考えると、目が冴えて」
「体力を温存するためにも、睡眠はとっていた方がいいぞ。まぁ、座りなさい」
勧められた椅子に、沙蓮は腰を下ろした。
角燈の明かりが、二人のぼんやりとした影を壁に映している。
「沙蓮、怪我を見せなさい」
「え? どういう……」
問いかけが終わる前に、背後に立った深迦の手が沙蓮の寝間着に触れた。
胸元を留める紐を外されると、するりと上半身があらわになった。
涼しい夜風が肌をなでる。
「ちょ、ちょっと……」
「静かにしなさい」
たとえ背中を向けているとはいえ、こんなの恥ずかしすぎる。
沙蓮は顔を真っ赤にして、縮こまった。
壁に映る二人の影はゆらめいて、重なって見える。
ただ傷を見てもらっているだけ。それだけのことなのに、どうしてこんなにも緊張するのだろうか。
深迦の長い指が、沙蓮の肩を、そして背中をたどる。
ひんやりとした感触。思わず声をあげそうになって、両手で口を押さえた。
「痛むか?」
「少し……だけ」
「今は痣になっているが、傷は残らないだろう」
そう言うと、深迦は沙蓮に寝間着を着せ直した。ほのかに香る薄荷の匂い。
肩にかけられる布の感触、肌にぬくもりが戻ってくる。
「傷が残ったら困る?」
「まぁ、結婚相手が嫌がるかもしれないな。相手が誰かは知らんが」
「わたしが、誰か知らない人と結婚したら。深迦はどうするの?」
洛花さんと付き合うの?
その問いは口にすることはできなかった。
「……困るな」
戸惑いがちな返事。
(それってどういうこと?)
沙蓮は、思わずふり向いた。ぼんやりとした明かりに照らされた深迦の顔は、つらそうだった。
「俺には分からないんだ」
小さな呟きだった。
「先生の願いを、どうすれば叶えられるのか。なにが沙蓮にとって一番の幸せなのか……」
(先生って深迦の?)
そう考えていると、ふいに深迦に抱きしめられた。
少し硬い髪が沙蓮の顔の近くにある。
「深……迦……?」
「どうか生きて戻ってくれ。お前だけが、俺の希望だ」
深迦の声は震えていた。
沙蓮は深迦の背に手を回し、しがみついた。
このまま夜が明けなければいいのに。
空を行く夜啼く鳥が、寂しげな声を上げた。




