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3-3 試験のからくり

 眠りについた沙蓮は、夢を見た。

 一人きりで、家の中を走り回っている夢だ。



 たぶん、あれは六歳くらいの頃だろう。

 深迦が長く家を空けていたのは、その時期だけだったから。


 どの扉を開けても深迦の姿がない。


 朝も、昼も、夜も、夜中も。

 すべての部屋を覗いて、落胆しては扉を閉める。

 家じゅうを走り回って疲れた沙蓮は、廊下や深迦の部屋の床でそのまま眠ってしまうことも多かった。


 けれど目覚めれば、必ず毛布をかぶっていたのだ。

 そして時間が来れば、食堂や葡萄棚の縁台に温かな食事が用意されていた。


 ただ香辛料がたっぷり効いた料理は、深迦の作ったものとは明らかに違い、よけいに寂しくなった。


「ねぇ、深迦。顔を見せてよ」


 呼びかけても、返事はない。

 なのに毛布を掛けてくれる時に、確かに優しく沙蓮の頭をなでてくれる手があった。


 きっと深迦は内緒で戻って来ているにちがいない。食事だって、変わった味を作るようになったんだ。

 そう思い込もうとした幼い沙蓮は、いつものように深夜に廊下で横になった。


 寝たふりをしたのだ。


 軋む音も足音も立てずに、誰かの気配が近づいてくる。


 とくん、とくん。

 緊張に動悸が速くなる。


(大丈夫。お化けじゃない。深迦だから)


 ふわりとかけられる毛布。沙蓮の髪に触れる指。その時に気づいた。薄荷の匂いがしないことに。


「だれ?」


 急に上体を起こした沙蓮は、目を丸くした。

 暗やみの中で、青い瞳だけがぎょろりと沙蓮を見つめていたからだ。


「きゃあああー! 目玉お化け」


「しーっ。お化けではありませんよ。目玉はありますが」


 雲に隠れていた月が現れ、廊下の窓から淡い光が差し込む。

 現れたのは、顔を真っ黒に塗り、闇色の衣を着た女性だった。


「わたくしです。アシア・ファーマです」


「おとなりの?……深迦じゃなかったんだ」


 胸が詰まり、沙蓮はぼろぼろと泣いた。


「深迦が戻るまで、あなたのことを預かっております」


「やだ、深迦がいい。沙蓮は深迦に会いたいの!」


「困りましたね。わたくしは子どもをあやすのは慣れていないのです。そんなに泣けば、喉が渇きますよ。もし脱水症状になって寝込んだらどうするのです」


「ううーっ」


 幼児相手だというのに、アシアは淡々と説明した。





 日中は土や壁の茶色、夜は闇の黒。偽装顔料を塗ることが多かったアシアは、沙蓮の願いで渋々顔料を落としてくれた。


 怖かったのだ。

 茶色はともかく、闇に浮かぶ二つの青い目が。


「なんでアシアは、顔に色を塗ってるの?」


「任務に就くには、できる限り姿を隠さねばなりません」


「任務ってなぁに?」


「沙蓮をお守りすることですよ」


「守るって、もしかして沙蓮ってお姫さま?」


 わくわくしてアシアに尋ねると、即座に否定された。


「残念ながら。わたくしは最後の姫を存じておりますが。まったくの別人でございます」


「なんだぁ。でもなんでお姫さまを知ってるの?」


「兄が姫さまに仕えていたのですよ」




 それからアシアは自分の家よりも、沙蓮の側にいてくれる方が長くなった。

 とはいえ、これまでも塀の陰や木の幹に、軒先からぶらさがって窓をのぞき込んだりしていたそうだ。


 本人にとっては護衛でも、一見、ただの変質者だ。




 ある夜、アシアが散歩に連れ出してくれた。

 家々の明かりの消えた町は暗く、道は閑散としている。

 けれど見上げれば、満天の星が輝いていた。


 アシアは双眼鏡を手に、夜空を眺めていた。

 望遠鏡よりも手軽で、星だけではなく、遠くに潜む砂大すなおおトカゲも見つけやすいのだそうだ。


「深迦がいるのは、あの魚釣うおつりぼしの辺りですよ」


 アシアが指さすのはひときわ赤い星が目立つ星座だった。


「そして沙蓮のいるこの家の目印は、車輪星しゃりんぼしです」


 今度は頭上の星を示した。


「深迦はきっと今頃、車輪星を眺めていらっしゃいます」


「深迦、沙蓮のこと見てる?」


「もちろんです」


 沙蓮は二つの星座を必死で覚えた。

 寂しい夜も、窓を開いて魚釣星を眺めていたら、落ち着いて眠れるようになった。


 深迦は車輪星を見ていてくれるから。




 アシアは、いろんなことを教えてくれた。


「いいですか、沙蓮。人には急所というものがあるのです。あごを殴れば脳震とうを、耳の後ろの部分を攻撃すれば、平衡感覚を失います。呼吸困難に陥るのは、喉か鳩尾です」


「うん」


「さぁ、わたくしを暴漢に見立てて殴ってごらんなさい」


「ひぇ? アシアを」


「さぁ、遠慮なさらずに。まずは鳩尾など」


 アシアはひざまずいて、沙蓮に高さを合わせた。

 とはいえ、さぁ殴れと言われて、殴れるはずもない。

 結局「できないよぉ」と泣いて、許してもらえた気がする。


 あれは必要な知識だったのだろうか。




 そしていなくなった時と同じように、深迦は突然戻って来た。

 げっそりとやせて、ふらふらになりながら。


 小さな沙蓮が「おかえり」と飛びついただけで、あの時の深かはよろけて倒れてしまった。

 彼が持っていた砂まみれの本が、床に散乱した。






 目が覚めた時、沙蓮は寝台に座ってひざを抱えた。

 試験に落ちた日。「六度も試験に落ちた人はいない」と言った沙蓮に対して、深迦は「そうでもないぞ」と言った。


 今ならわかる。

 深迦も学芸司書試験に六度落ち、乾荒原送りから生還したのだと。


 朝食はアシアが用意してくれた。

 葡萄棚の下の縁台に、深迦が食器を並べていた。もっとも毒が残っているのを警戒して、葡萄から水が滴らないように、頭上には布が張ってあったが。


「沙蓮には消化の良いスープと、蒸しパンにいたしました」


「……馬芹クミンのにおいが強くないか?」


馬芹クミンは食欲を増進させますからね。深迦はあっさりと白湯でも飲めばよろしいかと」


 ふふ、と沙蓮は微笑んだ。


 深迦が乾荒原送りの時、ずっとアシアの料理を食べていたから。

 香辛料がたっぷりの料理は、あの頃は慣れない味だったけれど。今では懐かしい味だ。


「びしょ濡れの服を寝間着に着替えさせてくれたのは、アシアなのね。ありがとう」


 沙蓮が礼を言うと、アシアは首をかしげた。


「それはわたくしではございません」


「え? でも」


 硬い平パンをちぎっていた深迦が、そっぽを向いた。

 そういえば深迦は、背中と肩の傷を把握していた。


(っていうことは……)


 思わず叫びだしそうになって、沙蓮は両手で口をふさいだ。


「驚くことではございません。お風呂にも入れてもらっていたではありませんか。蒸し風呂の中、真っ裸で走りまわる沙蓮を、深迦は追いかけたと聞いたことがございます」


「そ、それは小さい頃の話でしょ」


 深迦は咳きこむし、沙蓮は顔が真っ赤になった。


「すまなかった。アシアに頼むべきだったか」


 食事の片づけを終えた縁台で、深迦と沙蓮は背中合わせで座っていた。

 まともに深迦の顔が見られない。


「うん」とも「いいえ」とも答えられないよ。


「乾荒原送りが近づいてるけど。檻ってどんなところにあるのかしら」


 ぽつりと沙蓮は呟いた。


「洞窟になってるが、過酷な場所だ。日中は耐えがたいほどに暑く、夜は凍えるほどに寒い。寒暖差に耐えられるように、荷物を用意しておくことだ」


「詳しいね」


 触れ合う背中越しに、深迦が小さく笑ったのが伝わって来た。


「学芸司書の合格基準は、八割以上の正解だ。だが砂人が受験すれば、二割余分に点がもらえる。桂国や火国の受験者は素点のまま。稀ではあるが、藍国の人間が試験を受ければ、得点の三割は引かれる」


「なに、それ。じゃあ、藍人は絶対に合格できないじゃない」


「図書庁ができた頃からの慣例だ」


 深迦は立ち上がった。とたんに背中に風を感じる。


「俺は六度落ち、藍国の文献を手土産に学芸司書になった。がんばるんだな」


 いつものように素っ気ない口調だったけれど。

 それでも深迦が乗り越えた乾荒原送りを乗り越えれば、自分も学芸司書になれるのだ。

 たとえ厳しくとも、それは絶望ではなく希望だ。


(そうよ。深迦がくれた水晶の花の髪飾りをつけて、授与式に……)


 沙蓮ははっとした。


 大事に懐に入れていた水晶の花がない。


 慌てて裏庭に干してある洗濯物に触れる。ない。

 部屋に戻って机や床を探す。ここにも、ない。


「川に落ちた時に、失くしてしまったんだわ」


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