戦士の休息Ⅰ⑨
女将に案内される形で後に付いて行くと、再び宿屋の裏庭へと連れて行かれる。
行き着いた先は、先刻薪割りをした場所にあった物置小屋の一部を利用して造られた風呂場の入口であった。
正確に言えば、宿屋の建物と隣接している物置小屋の裏壁部分の隅に設えられているのが、本当の入口のようである。
宿屋の廊下と繋がっているそちらの入口から脱衣所に直接出入り出来る造りになっており、俺が案内されたのは風呂場の焚口に出入りする為の裏口のような場所である。
焚口の脇にある階段を上った先にある扉から風呂場に行く事が出来るが、普段は内側から鍵が掛けられていて自由には出入り出来ないらしかった。
風呂釜の掃除は事前に女将の方で済ませてくれてあり、そこに水を入れる作業に関しては自分がやると申し出る。
風呂焚きに関する一通りの説明と注意だけ訊いて、他の仕事で忙しいであろう女将をこれ以上煩わせてはいけないだろうと思い、後は任せるようにと告げて井戸へと向かった。
今朝以来の釣瓶井戸での水汲みに臨み、一杯汲み上げる毎に桶の水を《荷物袋》に移す事で運搬の手間を省く。
必要な量を確保する頃には、釣瓶井戸の扱いにもすっかり慣れてしまった。
俺は狙い通り一度の運搬で風呂桶に水を満たし終えると、風呂の焚き方自体は、前世で馴染んだ焚釜式と殆ど変らない仕様なので早速風呂焚きを始める。
焚き付けとして用意されている毛玉みたいな乾燥植物を置いて、その上に細く割って適度に短く折った薪を縦横交互に組み上げる形で乗せれば準備完了である。
後は焚き付けに火種から火を移し無事に燃え上がるのを待つだけであった。
・・・火種、火種 (キョロキョロ)
周囲を見回しそれと思われる物を探すが生憎と見当たらなかった。
そもそもこの世界で火種として使われている物が何であるかすら知らないという事実に気がつく。
前世の経験からマッチのような物を想像して探していたが、それがこの異世界に存在する可能性は低かった。
その事実を踏まえてもう一度周囲を見回してみると、件の毛玉が詰められた木箱の脇に置かれた袋の存在を見つける。
中を確かめてみると油紙が入っており、それを取りだして広げてみると二つの種類と大きさが異なる石が現れた。
・・・おお、アレだ! アレ!
所謂、『火打石』というヤツである。
時代劇とかで見かける程度には知っているが、実物を目の当たりにするのはこれが初めてであり、当然使うのも初めてであった。
火打石の仕組みに関しては、幼少のみぎりに戯れに何度か行った、石と金属を打ち合わせると火花が飛ぶという現象と類似したモノである事を知識として知っている程度である。
試しに打ってみると確かに火花が飛ぶが、それがどこに飛ぶかは偶発性が強く、やはり素人が簡単に扱える道具ではないようである。
多分、件の毛玉に火花を飛ばして息を吹きかけ、火が燃え上がった所に細かくした薪をくべるのが正しい作法だと思われた。
既に準備万端整えた状況からやり直すのは少し切なく、さりとて無駄に焚き付け用の毛玉を使うのも申し訳が無く思われる。
そんなこんなで葛藤する俺の脳裏にとある道具の存在が思い浮かんだ。
・・・トッテリャ~! リャ~ン! 『魔石ライター』ァ~!
サフィーリア嬢の店で買った魔道具の一つを意気揚々と《荷物袋》から取り出す。
正式名称は別にあるが、機能的にはこの名前が一番ふさわしい便利アイテムである。
形状的には、細長い金属性の筒の端に円錐型に磨かれた魔石が付いており、反対の端に細い握り部分が施された全長20Cmくらいの道具であった。
使い方は至極簡単で、握り部分を持ってその尻部分に施された摘みを回すだけである。
サフィーリア嬢の説明によれば誰でも簡単確実に使える道具の筈であるが、魔術の初期素養を培う件の儀式をしくじった経緯のある俺としては、使用に際し少しばかりの躊躇いを抱かされた。
・・・えい、ままよ!
俺は自らを奮い立たせ摘みを回す。
結果、普通に火が出ました。
それ相応の値段がした道具であるので、ちゃんと使えて一安心である。
使用者の魔法力を微妙に消費する程度の燃料で半永久的に使え、万が一に不具合や故障が生じた際にも修理対応をしてくれるという事なので、利便的にはとても安い買い物であった。
勿論、温故知新という言葉を重んじる気風の俺としては、次回こそは火打石による着火に挑む所存である。
何はさて置き無事に火種も用意できたので、中断していた風呂焚きを再開した。
とはいっても一度燃え出してしまえば、後は火が絶えないように様子を見て薪を足し、湯加減を確認するだけの単純作業である。
ずっと焚き場にいるのも退屈な上、中は結構暑いので万が一の失火にだけは気を付けつつ、外に出て散歩代わりに裏庭を散策する事にした。
由緒ある宿屋であるという先の説明に違わず、敷地の一角に設えられている木立が良い感じの中々に趣のある裏庭である。
惜しむらくは、男手の不足で手入れが足りていないのか、木々が多少雑多とした茂り具合をしている事であるが、それもそれで無為自然の造形と捉えれば一つの美しさとも感じられた。
木立の入り口で修練を続けているネコ娘に簡単な挨拶の言葉を掛け、奥へと足を踏み入れる。
木陰となる冷たく落ち着いた空気が前世で暮らした故郷の里山の様子を思い出させる。
見上げれば木洩れ日の先にある空へと高く高く伸びる大樹の頂が見えた。
・・・ああ、昨夜の食事の時に振舞われたあの実はこの樹の果実だったのか。
紅く三日月型をした件の不思議な果物と同じ実が大樹の枝に実っているのが見える。
とても美味しいかったその味を思い出し、こそっと一つ摘み食いさせて頂こうかという悪心が沸き上がってくるが、流石に今度こそ天罰が下りそうなので自重した。
そうは思いつつも盗んで舐める蜜は常よりも甘く感じるモノである。
至極後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、大樹の下を去ろうとした時、バサバサという激しく木葉が揺れる音が聞こえてきた。
鳥がいてこちらの気配に気がついて飛び去ったのかと思って周囲を見回していると、突然頭の上から何かが落ちてくる。
咄嗟にそれを受け止めようとして身構えた俺の頭に、僅かな鈍い音と共に衝撃が走る。
激痛とまでは言えないが、かなりの痛みを感じながら、何事が起きたのかを確認すると、足元に紅く熟れた件の木の実が転がっていた。
・・・うぬぅ、未練によって生まれた邪な心に反応して、本当に天罰が下りましたか……。
流石に只の偶然だとは思うが、そのタイミングの良さに何らかの意志の存在を感じさせられる。
何はともあれ、食べ物を粗末にしてはいけないという祖母の教えに従うと共に、前払いで天罰も受けた事なので有り難く落ちてきた実を頂戴する。
ここで食べたりすると無実(?)の摘み食いに対する濡れ衣を着せられる可能性があるので、後でゆっくりと食べる事にして取り敢えず《荷物袋》の中に入れておいた。
木立の中を適当に散策して焚き場に戻ると、丁度良い具合で焚き釜の中が空いていたので、薪を足してから湯加減の確認に行く。
温められた熱い湯が上に行き、冷たいままの水が下に行くという物理法則は、異世界でも健在なようなので、湯釜の脇に置いてある棒を使って掻き混ぜる。
後、二度三度と薪を足せば十分に沸きそうな具合であった。
よくよく見れば宿屋としての規模から考えるとやや小さな造りの風呂場である。
特に湯釜が普通の家庭にあるくらいの大きさでありながら、脱衣所と洗い場が極めて広く設けられているその造りには違和感を感じる。
そんな事を思いながら洗い場から出ようとした時、脱衣所へ行く為の出入り口の脇に、前世で見慣れた盥より少し深い造りの大きな木桶が置かれているのに気がついた。
・・・これは何の為にあるのでしょうか?
単純に考えれば、洗濯物を洗う為の物とかが思い浮かぶが、それなら水切りの為にひっくり返してありそうなモノである。
恐らくは、湯を沸かし過ぎた際にそれを冷ます為に足す水を蓄える物だと推測する。
という事で、親切序にそこにも水を補充する為、再び裏庭の井戸へと向かった。
井戸に行くと先客として修練を終えたのであろうネコ娘が居たので、彼女が用を済ませるのをのんびりと待つ事にする。
カラカラ、ポっチャン! ギューギュー、ポっチャン! ギューギューギュー、ポっチャン! ギューギューギューギュー、ポっチャン! ギューギュー、ポっチャン!
・・・『水は汲めるが引っ張り上げられず』といった感じですね。
非力或いは不器用というよりは、単純に体重が軽い所為で上手く引っ張り上げる事が出来ないのであろう。
優しいのと甘やかすのは違うという家訓に従い、その頑張りを温かく見守っていたが、流石に忍びないので手伝ってあげた。
感謝の言葉と共に去っていたネコ娘が、修練で生じた顔の汗や汚れを洗い流している姿を何気に眺めながら、目的の水汲みに励む。
・・・願わくは明日も良い天気でありますように。
目の前で行われている迷信的現象に、そんな益体も無い事を考えている自分は極めて平和な生き物であった。