戦士の休息Ⅰ⑤
目指す『森の憩い亭』への帰路をのんびりと歩いて行く。
ふと立ち止まり何気に外壁の先にある空を見上げれば、どこまでも澄んだ青色が広がっていた。
その空の青さは幼い頃に見た色に似ていて、何故か哀しい気持ちにさせられる。
それが郷愁なのかは分からなかったが、今の人生を得る為に過去の人生を無くした事への喪失感が齎した感傷の類だと割り切り、俺は新たに得た居場所へと続く道を再び歩き出した。
東区を抜け西区の入り口にさしかかって直ぐに、『森の憩い亭』の看板印でもある古木の大樹が目に映った。
昨夜は夜だった為に良く見えず、今朝は気にする事無く宿を出てしまった為に気が付かなかったが、よく良く見れば風格すら感じさせる本当に立派な樹である。
そんな風に感心しながら宿の入り口に歩いて行くと、そこには所在無さ気にウロウロと徘徊しているネコ娘の姿があった。
声を掛けようと思って口を開きかけて思い止まる。
・・・おお、これは絶好の報復機会の到来である!
いつまでも少年の心を大切にしたい俺は、ネコ娘を驚かせるべく気配を消して壁伝いの死角から近付いて行く。
一歩、又一歩と見付からない様に気を付けながら慎重に歩みを進め、壁の端の一歩手前まで来た所で身を潜めながら気配を探って彼女が近付いて来る瞬間を待つ。
・・・今だ!
「わっ!」
俺は全身全霊を込めてネコ娘の前へと躍り出た。
「…、……お帰り」
・・・あれ、全く驚いておりません。寧ろ呆れられております。何故でしょうか……?
確かな自信を以って企てた悪戯が完全な空振りに終わった事に俺は戸惑い困惑する。
阿呆を見る様なネコ娘の冷めた視線が深く深く心に突き刺さり、その冷たい痛みが俺に冷静な思考を取り戻してくれた。
「ただいまです(ぺこり)」
人間はいかなる時も他者に対する優しさを忘れてはならない。
自らの行動により大切な事を悟った俺は逃げる様に宿屋へと入って行った。
「女将、今戻りました。そして、ネコを拾いました」
「あら、お戻りですか。お帰り…、……」
先刻の何かをしくじった事実を拭いさるように、俺は努めて気分を高揚させた軽い感じの挨拶を女将へと投げ掛けるが、それに反応して視線が向けられた途端、何故か返す挨拶の途中で沈黙された。
「…、先程、買い物から戻ったアーテが、白昼堂々と人攫いをする変質者の出没と巨大な珍獣が街の中を疾走したという街の噂を話してくれましたが…、違いますよね……?」
疑いを含んだ眼差しで訊ねてくる女将。
・・・うぬぅ、珍妙な格好で偽装し他者を攫う変態とは、何とも困った輩がいますね。
全く身に覚えのない、それこそ濡れ衣というべきモノである。
「違います(きっぱり)」
ふと気がつくと背後からネコ娘が複雑な視線を向けているが、何か犯人の心当たりでもあるのだろうか。
「そうですか、なら良いのですが。因みにサカキさんのお国では、そのように会ったばかりの方を口説いて宿に連れて来られる事を何とおっしゃるのでしょうか?」
・・・えーと、説得して仲間になって貰ったのだから……。
「それは『勧誘』ですね」
「…、……そうですか、『姦遊』ですか……(最低ですね)」
その返答の口調と笑っていない視線から、互いの間で何かが行き違っている事が分かったが、それを訊ねる勇気は俺の中には存在しなかった。
「冗談はさて置き、そういう事なので彼女の為に部屋の用意をお願いします」
「ウチも商売ですから承りますが、くれぐれも節度というモノだけは弁えてくださいね」
その言わんとする真意は図り兼ねるが、恐らくは先刻の『ネコを拾った』という冗談を窘めようとしているのだろう。
「はい、分かりました」
それまでの経緯がどうあれ、自分でも少し軽率な言動だったと思うので素直に反省しておく。
宿代が割引される七日間の滞在で交渉し、正式な冒険仲間となった記念として宿泊代は俺が支払った。
「では、今お部屋の方の準備をしますので少し待っていてくださいね」
「女将、それなら先に風呂を使わせて貰っても良いですか?」
特別に潔癖症という訳ではないが、初めての冒険によって身も心も草臥れた状態なので、早くさっぱりとしたかったのである。
特にネコ娘の方は倒した敵の返り血など諸々で悲惨な状態にあるので、少しでも早くどうにかしてやる必要があった。
「大変申し訳ないのですが、主人が亡くなってからは人手不足で沸かす事が出来ず、お風呂の方は街の施設である大衆浴場を利用して貰っているのですよ」
「そうなんですか……。ああ、そうだ! 何なら俺が代わりにやりますよ」
正確な所は分からないが力仕事が出来る男手が無くて困っている状況なのだろう。
「しかし、それは流石に……」
「大丈夫です。こう見えても薪割りとか凄く得意なので、鍛錬の代わりにもなりますから任せてください」
前世でも薪で風呂を沸かす古風な生活に慣れてる俺にとって、その手の作業は朝飯前であるし、昨夜の一宿一飯の恩に報いる為にもそれぐらいやって当然であった。
「では、お言葉に甘えてお願いします」
「はい、任せてください!」
という事で俺は風呂焚きの役を買って出たのである。
ネコ娘は俺が風呂の準備をしている間、少しでも戦闘の経験を増す為に自己鍛錬を行うという事なので、女将に許しを得て中庭を借りる事にする。
風呂の焚き方に関しては薪を準備してから女将に説明を受ける事にして、ネコ娘と共に中庭に向かった。
俺は一日の長がある身としてネコ娘に簡単な戦闘技術の指南をする為、宿に泊まる冒険者達が鍛錬などに使っているという場所に行く。
しかし、いざその場所に来てみると長らく使われていないのか、植えられた木々の枝が生い茂り、武器を振るうには多少狭いように感じられる。
宿の主である女将に場所を使用する了解も得ているので、親切の序でに簡単な枝払いをして場所を整える。
地面に落ちた枝葉を簡単に拾い集め、大樹の根元の一ヶ所に纏めて片付けておく。
その一仕事を終えて頭上を見上げると、視線の直ぐ先に丁度、長い歳月によって枯れてしまったのであろう一本の枝が存在していた。
位置的に若干、鍛錬をする際の妨げになりそうなのでこちらも切らせて貰う事にする。
俺は脇差を抜き放ち、気合いを込めて刃を枝の付け根目掛けて振り下す。
『ガキンっ!』
・・・っ!?
木を切るのに到底そぐわない音と共に振るった刃は弾き返され、俺の手に痺れるほどの衝撃が伝わってきた。
相手が異世界に存在する植物である事から、俺の知るそれまでの常識に反して、何らかの理由で硬質に変化していたのだろうと予測する。
・・・然らばこれでどうだ!
負けず嫌いの気がある俺は手にしていた脇差を鞘に戻し、代わりに同田貫を《荷物袋》から出すと、先刻以上の気合いを込めて再挑戦の一振りを放った。
僅かな抵抗はあったモノの確かな手応えと共に刃が振り抜かれる。
俺は勝利の証である古木の枝を地面から拾い上げた。
見れば見るほどに何とも良い感じの形をした枝であり、杖などにするのに最高な具合である。
「あら、精が出ますね。こちらの準備の方はもう少しお待ちくださいね」
突然、背後から女将に声を掛けられて驚いた俺は、反射的に手にしていた枝を纏めてある枝葉の中に隠し、後ろへと振り返った。
「はい、分かりました」
「そうそう、その古樹は我が家で代々大切に護ってきたモノなので悪戯しないでくださいね。天罰が下りますから」
・・・えっ!? そういう事は最初に言っておいて頂けると大変に助かったのですが……。
自分の仕事をする為に去って行く女将の背中に向けて、俺は心の中で言葉に出来ない恨み事を呟く。
『覆水、盆に返らず』という言葉の通り、今となってはどうしようもない事である。
悪意を以ってした訳ではない事が幸いしたのか、特に天罰が下される気配も無いので、彼は皆の幸せの為に取り敢えず事実は自分の心の中に、証拠の枝は《荷物袋》の中に封印する事にした。
起きてしまった哀しい事件の事実と証拠の隠蔽を果たした俺は、唯一の目撃者であるネコ娘に自分の行為を突っ込まれる前に先んじて次の一手を打つ。
「では早速、戦闘技術の指南を致そうか」
三十六の秘技の一つ「何も無かった事にして誤魔化す」である。
「取り敢えず、いざという時に身を護る為の近接武器を用いた簡単な技を伝授しよう!」
ネコ娘が何事かを言いたそうにじっとこちらを見詰めているが、俺はそれを黙殺して話を続けた。
「その前にスィージー殿には、こちらの刀を貸してしんぜよう」
俺は腰に差していた脇差を鞘ごと腰当から引き抜き、ネコ娘に差し出す。
「…、……ありがとう」
尚も何事かを言いたげな彼女の視線による圧力に堪え、俺は平静を保った真顔を維持し続ける。
「先に言っておくと刀は剣とは少し攻撃する際の扱いに違いがあるから、そこにだけは注意が必要だな」
ネコ娘は俺の説明の言葉に対し真剣な表情で頷き、渡された脇差をギュっと握りしめた。
終始に真面目な態度を取り続けた事が功を奏し、どうやら先刻の隠蔽行為を有耶無耶にする事に成功したようである。
万事思惑通りに事が運び安心した俺は、保身の為に使っていた分の意識を本題に集中させた。
「と言っても、両者の扱いの違いは『撫でる様に斬る』か『叩く様に斬る』かというくらいだけどな」
これに関しては各人によって所所諸々に考えの分かれるところだろうが、薄刃の造りにして茎を目釘で柄に留めている刀を乱暴に打ちつければ、無駄に刃を損ねるか最悪目釘を折って刀身を飛ばすだけである。
特にこれまでの常識が通用しない異世界に於いては、先刻の古樹の枝を払った時のような思いがけない状況がいつ起ってもおかしく無いので、これまで以上に注意する必要があった。
・・・さて、刀の基本的な扱い方を教えるくらいなら兎も角、それより先の踏み込んだ戦闘技術を未熟な俺が指南して良いモノやら。
『生兵法は大疵のもと』という言葉がある通り、中途半端な指南は反ってネコ娘に危難を招く可能性があった。
【お応えします。宗司武より既に免許皆伝の証である《神武の司武纏》を授けられているので問題ありません。宗司武曰く、『神武の司武である証を身に纏う以上、決してそれに恥じぬ生き方を心掛けよ。……等と口煩く言うのは好まないから、自らに恥じぬ生き方を貫けとだけ言っておく』との事です】
・・・ありがとうございます。何とも貴方らしい御言葉ですが、自身が行った先程の隠蔽工作の完遂という一件を顧みますと、そう言われる方がより一層重く感じる一言です。
『自らに恥じぬ生き方を貫け』という言葉は、それこそ正に『心を攻める上策』として俺の心に強い罪悪感を抱かせる。
俺は心から反省し、真人間になる事を天に誓った。