4 shake hands
すぐには声が出なかった。糸織に会おうという決心が嘘だったわけじゃない。ただ、糸織が目の前に居て、普通に、前と同じように話しかけてくれたことに驚いた。たった一ヶ月なのに、糸織の声を聞くのは、もっと久しいように感じた。
黙り込んでいると、糸織は、今日は月が綺麗だよ、と言った。
俺は伏せていた目を上げて、糸織と同じように夜空を仰ぐ。真上から、まるで二人を照らしているような、丸い大きな、とても綺麗な満月だった。
「ほんとだ」
生温い夜風と、虫の声に消されてしまうほどの声で、呟く。少しの間、月を眺めていた。
私はね、と糸織の声が、生温い風を切った。糸織は小学生の頃から、自分のことを私と言った。そんな他の子とは少し違った部分も、好きだった。
視線を糸織の方へ下ろすと、糸織はこっちを見て笑っていた。糸織は続けた。
「会いに来たんだよ」
その意味がよくわからなかった。ただ、糸織の頬が少し赤い気がする。
「俺に?」
すぐに返した。そう言ってすぐに、糸織の少しの笑顔と、当たり前じゃん、と言う少し低い声が想像できた。
「うん。結也に会いに」
想像と、実際の糸織は全く違っていた。糸織が俺のことを結也と呼ぶことは、声を聞くことよりも、ずっと懐かしい。それに、糸織の笑顔は俺の想像していたものと違って、下唇を噛んで微笑む、初めて見る顔だった。
生温かった空気が、一気に温度を上げたように感じた。
「俺も、糸織に会いに行こうと思ってた」
糸織、と声に出すのは、俺も久しいことだと、言ってから気がついて恥ずかしくなった。そして、初めて見た糸織の顔がどういうものか、少しわかった。
糸織は、ちょっと歩こう、と嬉しそうに笑った。
「糸織、って呼ばれたの久しぶり」
糸織は俺の前を、跳ねるように大きく手を振って歩いた。
「俺だって」
俺はまた、前を跳ねる糸織に届くかわからないような声で、呟いた。
どうして、俺に会いに?という言葉が、喉で詰まった。もしかして、実咲と何かあったのだろうか。また想像の渦に呑まれそうになる。
「ねえ」
楽しそうに跳ねていたかと思うと、糸織はこっちを向いて真面目な顔をした。この顔は小学校の卒業式で、見た事のあるものだった。
「どうして、避けてたの」
虫の声に同調しそうな、悲しい震えた声で言った。俺はまた黙ってしまう。
その理由を言ってしまえば、俺の気持ちを告白しているのと同じだと思った。そうすれば、糸織が困った顔になるのは目に見えていた。
「私は、ずっと結也と、一緒に居ると思ってた。結也のことなら、なんでもわかると思ってた」
月の光が、糸織の涙に揺れている。
「でも、結也のいない夏休みが、こんなつまらないこと、知らなかった。みんなの前では笑っていられても、一人で、家にいると、悲しくて泣きそうになったの」
あんなに楽しそうに見えたのは、そう見えるように糸織が努力していたからだったのか、わからない。でも、糸織が嘘を吐いているようには見えない。今にも、糸織の焼けた頬に涙が溢れそうだ。
しおり。俺は糸織の目を見て、静かに糸織に言った。糸織は涙を手で拭った。いつもの、無邪気な笑顔が、糸織に戻った。
「結也、私が、何を言いたいかわかる?」
見当はついていた。だけど、もし間違っていたらどうする?
「わからないよ」
恐怖が勝ってしまった。糸織は、優しく微笑んで、右手を前に出した。
「じゃあ、仲直りしてくれたら、教えてあげる」
優しい声。声だけじゃない、こんな俺に糸織から仲直りのチャンスを与えてくれるなんて。
断る理由はなかった。糸織が誰を好きでも、もう嫌な思いをさせないと誓う。
握った糸織の手は、熱く、そして震えていた。そう感じて糸織の顔を見る。糸織は握った手をじっと見つめて、口をゆっくりと開いた。
「……好き、だよ」
糸織の声は弱く、澄んでいた。反対に、俺の手を握る糸織の力が強くなる。
驚きを超えて、夢じゃないかと思った。それも、すぐに手から伝わる熱が否定した。
「え……」
言葉が続かない。
途端、糸織は手を離してしまった。
「別に、だからどうってわけじゃないけどね。言いたかっただけだから」
糸織は笑った。悲しく、嬉しそうに笑った。その顔を、俺は忘れることは出来ないだろう。複雑な、そして今までで1番美しい顔だった。
俺は、何も言えないまま、糸織を家まで送った。
「じゃあね、また明日」
「また明日」
今日で夏休みは終わる。夏休み最終日、俺は初めて女の子に告白された。
好きな人に、好かれる事の喜びを知った。
この時はただ、手に残った熱が、愛しくてたまらなかった。