Ⅸ
「良かった。無事にここまで来てくれて……」
インフォメーションセンターで出迎えてくれたのは、ニコニコ笑う黒猫と人形を抱き抱えたアリスだった。その後ろには、山犬とジャックが何やら大きな扉の準備をしている。
「それじゃあ、その金の鍵とスタンプを押したお守りのカードを預かりますね」
黒猫は上機嫌にその二つを回収すると、キラキラ光る長方形の紙をくれた。
「急いで下さい。もう、学祭が終了してしまいます。本当はこの景品のチケットをゲートの門番に渡してアチラ側の世界に行くことになるのですが、時間がないのでこのゲートをくぐって出立して下さい!」
少し押され気味になりながらも、なんとか踏みとどまり、私は呼吸を整える。
「黒猫さん……一つだけ、質問してもいいですか?」
「はい、何でしょう? でも、手短にお願いします」
「【化物になった少女】は本当にあった話ですか?」
私の言葉に、黒猫の目が赤く染まる。
「あの童話を読んだの?」
「ッ――」
素早い動きでいきなり腕を捕まれたことに驚いたが、力はそれほど入っていない。
「化物でも良い化物がいることを教えてくれたのはあなたなのに――なんで人を食らうんですか?」
膝の震えが止まらない。どうしても、声が震えてしまう。目の前にいるのは鋭い歯をむき出しにした獰猛な黒い獣。まだ二足歩行をしているが、もう、人間の面影は全く無かった。低く唸るような声が響く。
「アリスのためよ」
「アリスのためって――あなたがアリスの好きな容姿になるために人を食らうっていうのを喜んでくれるわけないでしょ!」
「ッ――」
黒猫が何かをしようと動いた瞬間、私はコンパクトミラーを黒猫に向けた。まばゆい光の中、映ったのは巨大な黒い獣の姿――うずくまった大きな獣は、悲しげな目でこちらを見つめている。その目としばし見つめ合っていると、急に手を引かれ、私はあっという間にゲートをくぐり抜けてしまった。
真っ暗闇の中に突然放り込まれ、何が何だか分からないでいると、可愛らしい少女の声が耳元で聞こえた。
「大丈夫、あの赤い光の先に行けば、あなたはもう――」
暗闇の中に一筋差し込んだ赤い光とその声に、私はホッとした。
「アリスなの――?」
「うん。もう大丈夫だから。黒猫が手荒な真似しちゃってごめんね?」
「ううん、大丈夫。アリス――ありがとう!」
ゲートの暗闇を抜けた先で、目を開けると、そこは夕暮れの大学だった。学祭は終わり、撤収し始めているようだ。立ち並んでいたテントがパタパタとたたまれていく。
「帰ってきたんだ……」
思わず、涙で視界が潤む。
「ああ! ようやく見つけた! もう、どこ行ってたの!」
「あ――」
懐かしい友達の声と鼻をかすめたキャンディーのように甘い懐かしい香りに、その顔をよく見ようとするが、やはり涙のせいで上手く見えない。
「って、泣いてるの? もう、私達喧嘩中なんだから、そんなことしても、もう、名前呼んであげないんだから!」
(ああ、喧嘩中だったっけ……?)
怒る友人を懐かしく感じながら、私は謝った。
「ごめん。ねぇ、ごめんってば、また呼んでよ。いつもみたいにさあ」
「あなたの名前なんて知りませーん!」
「もう、知ってるでしょ! 私の名前は――」
パリン――
「?」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないって……あ――壊れちゃったみたい。ナキからもらったオマモリ」
ショルダーバックにつけていた青い勾玉の形をしたオマモリが割れていて、なんとなく悲しい気持ちになる。
(もう帰ってきたから、オマモリも必要ないってことなんだね……ああ、ようやく自分の名前を呼んでもらえる。もう、あの世界のように本当の名前を名乗っちゃいけない決まりもないんだ……)
「ねぇ、呼んでよ。私の名前」
「もう、仕方がないなあ……ほら、行こう。アリス」
「え――?」
「アリスってば、聞こえないふり? もう、さっさと行くよ。このままじゃ、バスに遅れちゃうってば!」
「あ、うん!」
(そっか、私はアリス――そう、【アリス】なんだ)
赤い赤い夕陽の中、【アリス】は笑った……。




