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(次の部屋は――この矢印が示す方向に行けばいいのかな?)


 階段で元気よく跳ねている目に痛いパステルカラーの矢印達は、階段を下りた先にある廊下にも配置されているようだった。手のひらサイズの可愛らしい矢印達は、ポヨンポヨンという気の抜ける効果音と共に、プルプルと弾力性がありそうな全身を震わせながら、その存在を主張している。


(なんだか、こんにゃくみたい……)


 初めて見る物体に、私は興味本位で手を伸ばす。


「やあ、人間のお嬢さん。それには触らない方が良いですよ」


「うひゃ!」


 突然耳元で聞こえたねっとりとした声に驚き、矢印に伸ばしていた手を引っ込める。


「わあ、可愛い反応ありがとうございます」


 そう言ってにんまりと笑ったのは、ふわふわのピンクワンピースにピンクと紫を基調としたケープを羽織った可愛らしい女性だった。ピンクの猫耳と尻尾のオプションはさすがに白ウサギや黒猫で見慣れてはきたが、全体的に少々目に痛い気がする。もちろん、胸元にはスタッフの証である紫色の星が揺れていた。


「ちなみに、お嬢さんが触ろうとしたそのこんにゃくもどきですが、れっきとしたスライムです」


「はい?」


「だから、スライム――つまりは、モンスターの一種なんです。そうですねぇ……見た方が早いと思うので、ここに用意した生魚をご覧ください」


 先程まで何も持っていなかったはずの彼女の手には、ビチビチと跳ねる大きな魚が握られていた。尻尾をしっかりと掴まれて必死にもがく銀色の魚が助けを求めるようにこちらを見ている気がした。私は悲しげな視線を私へと向けている魚から目をそらし、彼女の紫色の瞳を見つめた。


「ええと……その魚ってどこから出したんですか?」


「お嬢さん、気にしても意味がないことに興味を持っても無駄なだけですよ。それよりも、もっと重要なところに目を向けないと……。そもそも、細かいところ全てに目移りしてたら、禿げあがっちゃいます」


「禿げあが――私、禿げたりなんかしませんって!」


「未来のことなんて誰にも分からないじゃないですか。それと、感情論で物事を決めつけてはいけないとは思いませんか? それこそ、目を曇らせてしまいます。とりあえず――見ていてくださいね?」


 彼女は魚をプルプル動く矢印――スライムの方へと放り投げた。その直後、スライムは無数の触手のようなものを魚へと絡みつけ、一気に自身の中へと引きずり込んだ。大きな魚がすっぽりと収まるサイズにまで膨れ上がった半透明な青色スライムの中で、魚が空気を求め、えらをパタパタ、口をパクパクさせて苦しむさまが鮮明に見える。


「お嬢さん、現実から目をそむけてはいけませんよ。たとえスライムの捕食という見たくない物でも、きちんと見極めないと――全てダメになってしまいます」


 私は、彼女の言葉に顔をしかめながらも、苦しむ魚を見つめる。そのうち、魚の表面に変化が出始めた。あんなに綺麗だった銀色の鱗がボロボロになり、濁った赤紫色の液体が魚の周りにまとわりつくようにして漂っている。しばらくすると、魚の動きが緩くなっていき、やがてピクリとも動かなくなった。荒れた鱗の隙間から見えたまだ新鮮な身に、ドロリと溶けた目の角膜を直視できず、私はたまらず目をそらした。


「ああ、まあ、少しグロイですか。年頃の娘さんには少々きつかったかもしれませんが、これで分かりましたか? ここはモンスターの世界。不用意な行動は命取り。そして、お嬢さんは重要な部分を観察すべきなんです。もちろん、分からなくなったらスタート地点に戻るのもいいでしょう」


 彼女の言葉の終わりと共に、ペチョッと床に何かが落ちたような気持ち悪い音が鳴る。恐る恐る青いスライムへと目を向けると、その下には先程の魚の残骸であろう骨がまるで骨格標本のように綺麗な形で落ちていた。


「面白いですよねぇ。さっきの魚がこんなになっちゃうなんて。実はこの青色スライム、超強力なアルカリ性の液体を体内で作ることができて、それでタンパク質を溶かして自身の栄養としているんです。もちろん、こんな感じで溶かせない骨だけを排出するのはご愛嬌」


 骨と化した魚の尻尾をひょいと摘み上げ、彼女はにんまりと笑った。


「ちなみに、さっきお嬢さんが触りそうになった黄色スライムは、青色スライムとはちょっと違います」


 彼女が、先程と同じように骨を黄色スライムに投げると、スライムは無数の触手のようなもので骨に絡み付いた。触れた瞬間、ジュッという音と焦げ臭い臭いが漂い、見る見るうちに骨が溶けていく。最終的にスライムの中へと押し込まれた骨はすぐさま無残な姿に崩れ去り、辺りには異臭だけが残った。


「こちらのスライムはご覧になった通り、超強力な酸性の液体を体内で作ることができます。つまり、お嬢さんの場合は重度のやけどを負うことになっていたでしょう」


 彼女が言う『超強力な――』という前置きは、スライムの捕食スピードから誇張でもなんでもないことが分かった。


(それじゃあ、私があれに触れていたら――?)


 思わず青色スライムを見て、口元が引きつるのが分かる。考えたくもない。あの魚のように生きながら溶かされるなんて……。


「まあ、近づかなければ大丈夫ですよ」


 階段の端の方まで身を寄せた私に、彼女はピンク色の尻尾を楽しげにゆらゆらさせながら笑った。


「それから、このスライムには見分け方――いや、仲間外れの探し方と言うべきですかね? まあ、ともかく、方法があるんですよ。面白いことに」


「仲間外れ――?」


「はい、アルカリ性の液体を作れるスライムは稀なんです。そのスライムの体の色は、濃い薄いと言った濃淡の違いはあっても必ず青色なんですよ。つまり、青色以外はすべて酸性のスライム。ああ、まるで宝石のようですね」


「は、はあ……」


 あの強烈なスライム達を宝石にたとえてしまう彼女の意味不明な言動に、自分の顔が引きつっているのが分かる。彼女は私の表情をにまにまと楽しげに眺めた後、長い尻尾をしなやかに動かし、優雅にお辞儀した。


「そうそう、名乗るのが遅くなっちゃいましたが、私、チェシャ猫という者です。以後、お見知りおきを」


「え――? また不思議の国のアリス……?」


「ああ、お嬢さんの疑問は最もですよ。『また』ということは、すでに不思議の国の住人とは会っているんですね? 実はこの世界、不思議の国の全住人がいるんです。まあ、ハロウィンの時期のみですが――」


「あ、そうなんですか?」


「はい、そうなんです。そうそう、不思議の国の住人の数はいつも一定なんです――ああ、誰の代わりに誰が欠けるのか、悲劇の始まりはどこだったのか……さてさてお嬢さん、君の進む先にはどんな結末があるんでしょうかねぇ?」


 その瞬間、スッと細められた目と綺麗な弧を描いた可愛らしい口元を残し、チェシャ猫の体が歪んだ気がした。ピンクの長い尻尾が大きく右から左へと動き、彼女の体を見えなくする。そして、尻尾の残像を追った後、チェシャ猫の姿は完全にその場になかった。


(え? 消えた――?)


 呆気にとられた私を残し、姿が消えたチェシャ猫の笑い声が響く。


「またの機会にお会いできることを楽しみにしていますよ。人間のお嬢さん」




 ☆ ☆ ☆




 不思議なチェシャ猫が消えた後、私はスライム矢印に従ってある教室へと行き着いた。


 ドアを開けると、たくさんの本が収まった棚がズラッと並んでいた。それだけ見ると、ただの図書室のように見えるのだが、教室の中はまるで水族館なんかで見るような大きな水槽の中のようになっている……。ゆらゆらと揺れる穏やかな水の流れに、天井から差し込む光の筋、時折どこからか生まれてくる細かい泡、優雅に泳ぐ白い魚達は宝石のようにキラキラと輝く色とりどりの目を持って――そう、綺麗な目を持って――


(――ってか、骨格標本の魚が泳いでるんですけど! その目の空洞にキラキラの石がただ埋まってるだけなんですけど! 正直、怖すぎる。周りが幻想的な分、余計怖すぎる!)


 半ばパニックを起こしていると、教室の中から黒縁メガネをかけた真面目そうな青年がちょこちょことやってきた。不思議なことに、水中教室(?)の中にいる彼が着ている藍色のパーカーも、ジーンズも、彼の黒くて柔らかそうな髪でさえ、一切濡れているように見えなかった。


「あの、ど、どうぞ。中でも呼吸はできますし、濡れません。ただの魔法なので」


 緊張しているのか多少早口ではあるが、一生懸命教室の中に招き入れようとする彼は、私が水中に入ることに躊躇していると勘違いしているようだった。


「あ、じゃあ、お邪魔します」


 せっかく声をかけてもらったのに突っ立っているのも変だと思い、部屋の中に入ろうとするが、さすがに顔から入るのは怖いと感じ、そっと手を教室内に入れてみる。手先では特に水中という感触もなく、普通の空気があるように感じられる。思い切って踏み出してみると、まるでフィルターを通して物を見ているような不思議な感覚になった。呼吸は正常にできるが、息を吐くたびに口から泡が生まれるのが面白い。骨だけの魚が傍に寄ってきて、ビクリと身を引くと、黒縁メガネの青年が可愛い八重歯を軽く出して二カリと笑った。


「あ、大丈夫ですよ。ここの魚達は温厚な性格なので」


 その時、青年の後ろでふさふさと揺れる大きな茶色い尻尾に目がいく。ついで、青年の頭上でピクピクと動く垂れた同じく茶色い耳を見てピンとくる。


「犬?」


「ああ、はい、山犬なんです。その、よろしくお願いします」


 早口で落ち着きなく話し、照れたように俯いてしまった彼の可愛さになんとなく癒される。


「その……ここはコチラ側の世界の図書管理室にもなってるので、ここにある蔵書は傷つけないようお願いします」


「え――もしかして、ここにある本全部が化物の本なの?」


 私の言葉に、彼は少々不機嫌そうに一瞬だけ毛を逆立てた。


「化物――まあ、あなた達人間からしたらそうなりますか……とりあえず、ここにある本は全て人間が書いたものではありません。そして、イベントに参加しているあなたには宝石の中にあるこの三冊の本のいずれかに入ってもらい、スタンプを入手してもらうことになります」


 机の上に置かれた大きな宝石の中にある本は、【白雪姫】【赤ずきん】【青い鳥】。全て、元の世界で読んだことがある絵本だった。それぞれの表紙に描かれたファンシーな子供向けの絵に、なんとなくホッとする。


(スプラッタとかグロイ系の本とかじゃなくて良かった)


「あれ? でも、入るって――? 読むんじゃなく?」


「はい、入ってもらいます。この本の中に。入り方は簡単です。このサファイア――宝石に素手で触れて『仲間外れ見つけた』と言うだけでいいです。ただし、一般的にこの類の本は一度入ったら出られません」


「…………それ、どうしろって言うんでしょうか?」


「一般的な本は出られなくなりますが、仲間外れの本を見つけて、その本の中で【鍵】を入手できれば帰ってくることができます。ただ、本の中ではウソツキに気をつけてください」


(仲間外れに、ウソツキ?)


 このフロアのイベントの趣旨はなんとなく分かったが、仲間外れが何を指していることなのかがさっぱり分からない。


「ええと――仲間外れのヒントとかってありますか?」


 私の言葉に返答をする前に、山犬の大きな耳がピクリと反応し、胸元にある赤いスタッフの証がキラリと光る。山犬の視線の先をたどれば、ツギハギだらけの大きな体に、まるでスキーの時にかけるような大きな黒っぽいゴーグルをかけた青年(?)が、教室の隅にある椅子から立ち上がるところだった。彼が動くたびに、錆び付いた機械があげる悲鳴のような音と青色のスタッフ証が彼の硬い体に当たるカツンカツンという音が鳴り響く。


「ヒントならこの教室にあるじゃないデスカ。誰かに聞く前に、まず周りを見てみたらどうデスカ」


 ムッとした表情のまま読んでいたらしい本を片手に本棚へと移動した彼は、なに食わぬ顔で新しい本を手にとった。


「まだ何か用デスカ?」


 彼は、ポカンとして彼を見続けていた私に不機嫌そうな視線を向けてきた。冷たく光るゴーグルの中の赤と青のオッドアイに睨まれ、思わず小さな声で謝罪の言葉を発してしまう。


「ええと、彼はフランケンシュタインで――元人間なんですけど、改造人間で……その、あんまり落ち込まなくて大丈夫ですよ。フランケン先輩はいつもああなので」


 山犬が耳をヘタリとさせながら私の様子をうかがう様子になんとなく癒されながら、私はフランケンに言われた通り教室内を見て回りヒントを探すことにした。


(言われた瞬間はムッとしたけど、フランケンさんの言う通り、まずは周りを見るべきだよね……うん)


 そう考え、本を選んだら山犬に声をかけるということにし、本棚のあちこちを見てみるが、特別これといったヒントを見つけられず、時間だけが過ぎていった。時々近づいてくる骨だけの魚のギラギラ輝く宝石のような瞳に怯えながら、最後の本棚を覗く。


 先程から代わり映えしない本棚ばかり見ていたため、特に期待していなかったそこには――本棚に背をあずけ気持ちよさそうに眠っている可愛らしい女性がいた。水色のドレスにフリルをふんだんに使った白いエプロンとヘッドドレスのせいか少し幼く見える綺麗な横顔に、長く黒いロングヘア、膝の上には茶色の下地に金色の装飾が施されたアンティークのような本、そして、胸元には青いスタッフの証が煌めいていた。私は音を立てないようにそっと彼女に近づいた。


(うわあ、まつげ長いし、肌白い――)


 失礼かなあと思いつつも、その天使のような寝顔をじぃっと見つめてしまう。そんな時、ぷっくりとした可愛らしいピンク色の唇が薄く開き、可愛らしい小さな声が聞こえた。


「あなたは――人間さんですか?」


「え――?」


 目の前の女性のまぶたがゆっくりと開き、大きな黒い瞳がじぃっとこちらを見つめる。


「私はアリス。ねぇ、ここにいちゃダメになっちゃうよ? 逃げなきゃ――そう、逃げなきゃダメなの。アイツから――」


「えっと――寝ぼけてません?」


 ギュッと私の手を掴んできたアリスに、私が困って声をかけると、アリスは数度瞬きを繰り返した後、寂しげに笑った。


「あ、そっか――私、まだ夢から覚めてないみたい」


 その時、アリスの膝の上に置いてあったアンティークのような本がするりと落ちる。本の表紙にはファンシーな夜の森の絵が書かれており、夜空いっぱいに散りばめられた星と綺麗な三日月の間には金色の文字で【化物になった少女】と書かれていた。


「この絵本はね、化物が書いた本なの。ねぇ、時間がないの。この本を――」


「あ、アリスさん、こんなところにいたんですね。白ウサギ様が探してましたよ?」


 アリスの言葉を遮ったのは山犬だった。一瞬だけアリスの表情がこわばり、山犬が首をかしげた。


「? どうかされましたか?」


「ううん、なんでもない。この本――よろしくね」


 アリスは私に本を渡すと寂しげに笑った。何がよろしくなのかよく分からないまま、本を受け取った私に山犬がニッコリと微笑む。


「あ、本なら僕が――」


「ううん、あなたには別の用事があるから、一緒に行きましょう?」


 アリスは、半ば強引に山犬の腕を引き、行ってしまった。後に残された私は、呆然とその姿を見送り、手の中にある本を見つめた。


(この本……とりあえず、読めってことなのかな? でも――本の中に入っちゃうものだったら……)


「気になるなら読んでみればいいじゃないデスカ。それは普通の絵本デスヨ」


「――ッ」


 ギシギシという軋んだ音と共に、いつのまにか一つ隣の本棚にいたフランケンが、本棚の隙間から冷たいオッドアイをこちらへと向けていた。


「この本を開いたら中に入っちゃったりなんかは――」


「しませんよ。普通の本だって言ったじゃないデスカ。まあ、その言葉を信じないなら勝手にドウゾ」


 そう言い残して、定位置の椅子へと戻ってしまったフランケンの周りには、先程から骨だけの魚達がまとわりつくように泳いでいるが、彼は鬱陶しそうにしながらも、決して手で払ったりはしなかった。


(フランケンさんはちょっと無愛想で怖いけど、優しい人――いや、今は優しい化物? なんだよね? だって、あの魚達があんなに懐いてるし!)


 新しい本をすごい速さで読み上げていくフランケンのツギハギだらけの横顔を見た後、私は目の前の絵本を読む覚悟を決めた。恐る恐る本を開くと、ファンシーな絵が両開きのページいっぱいに書かれており、そこに少しの文章が添えられていた。


(あ、本当に普通の絵本と変わらないんだ……それに、タイトルと同じで中身も私に読める字でよかった)


 化物の普通というのに少し身構えていた私は、知らず肩に入っていた力を抜き、ゆっくりとした気持ちで絵本の内容を読んでいった。


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