花鳥の森
七重八重 花は咲けども山吹の
実のひとつだに なきぞ悲しき
やえに山吹と言う名を付けたのは姐様だ。
当時まだ八つで学も無かったやえにはわからないことであったが、姐様付きの童として籠の教育を受けるなかでついにその意味を知った時、これ程己に相応しい名もないと腑に落ちるように理解が出来た。
きっと、やえが山吹となったように椿と名乗る姐様にもかつては別の名があったのであろう。その名を知る事はついぞ無かったが、足抜けにしくじり落とされた姐様の首はどこか微笑んですら見え、椿の名に相応しく冴え冴えと雪によく映えた。
共に死んだ男の方は散々打たれて顔形も分からぬ程であったけれど、やえにはとても美しいものに見えた。
美しくも哀しく、哀しくも美しいものに。
男の欲を炙り煽り受け入れる事を生業とするこの籠において、女はそれぞれ花の名を冠する慣習がある。そして、その花を描いた物を身に付ける。
山吹の着物には必ず山吹が咲いている。春でも、冬でも、鮮やかに花弁を広げる八重の山吹。姐様はただ語呂良く付けただけと言っていたけれど、こんな名をただ付けるような人でなかった事は誰より山吹がよく知っている。
籠より他に生きる道の無い女。揶揄いというには痛々しく、憐れみと言うには滑稽過ぎる。優しくも厳しくもなりきれなかった姐様らしい名付けだと、事毎に思い出しては懐かしく想う。
「何を考えている」
「御前様の事を」
男の腕の中で啼きながら無意識に遠くに飛ばしていた思考をそっと戻す。咄嗟の言葉が詰まらなくなったのは単純に馴れの問題でしかないのだけれど。
「嫌な女だよ、お前は」
「御前様は良い男ですよぅ」
「そんなら、何で受けられねぇんだ」
「だって、わっちは山吹だもの」
間も無く果てた男の汗が柔らかな肌の上を滑り落ちる。湿った唇に啄ばまれるのを感じながら、ここ最近すっかり馴染みになったやりとりを繰り返す。
男の目にじっと見下ろされても動じる事もない。心の奥まで探ろうとするような視線にももう馴れてしまった。花である限り馴れない事などいつか無くなってしまうのかもしれない。それが恐ろしくもあり待ち遠しくもある。姐様はどうだったのだろうか。
「それでも俺はお前が良いんだよ」
また飛びかけていた意識の上を男の言葉がぞわりと撫ぜた。心の臓を絞るような嫌な痛みが走る。痛んでいるのは果たして身か心か、どちらにしても耐え難いものには違いない。
「わっちは、わっちは……」
啼き過ぎて張り付く舌をもつれさせて必死に言葉を紡ぐ。言うべき事は決まっている。それは己の未来と同じくらい決まりきった言葉だった。
男の手に握られたものが山吹の手に渡されるまでは。そして、男の続けた言葉を聞くまでは。
「山吹は八重でなくても咲くだろう」
四枚の花弁をそっと広げた金色の花。新しい着物の裾から腰にかけ華やかに咲き誇っている八重の花とはまるで違う、小さな小さな花の簪。
とりどりに 花は咲けども籠の中
実のひとつだに なきぞ悲しき
「知ってるか。一重の山吹には実がなるんだぜ」
乱れた髪に無骨な指が簪を差し込む。顔にかかった解れ髪を梳かしながら囁く声がいつになく優しげで、山吹は途端にどうしたらよいかわからなくなってしまう。
だって、こんなの知らない。全然馴れてなんかいないもの。
花籠の花は摘まれた後はただ枯れるばかりの儚い命、残るものなど一つたりともありやしない。
あの日、雪の上に倒れ伏した姐様の肌蹴た襦袢の間に流れた赤い赤い命の名残りを見た時から、とうに覚悟は出来ていたのに。元より八重の山吹ならば惜しむ命もあるまいと今日まで過ごしていたというのに。
花に誘われた鳥の中には蜜だけでなくその花弁をも食べてしまうものもいるという。舐められ、食まれ、色付く程に啄ばまれ、失った先に吹く風に花は嘆くだろうか、それともこれ幸いと笑うだろうか。
春はただ、等しく巡ってくるばかり。
紛らわしいですが冒頭の歌は引用、後半の歌は自作です(投稿時より入れ替えました)。
「道灌」という落語にこの歌が出て来るのですが、使い方は全く違います。非常に粋でオチの綺麗な噺なので是非聴いてみていただきたいです。ただし、古典と聞くだけで激しい頭痛がぁ!!という方にはお勧めしません。無理はダメ、絶対。