とある女性の来訪
ホテルに帰ると、フロント係がキーを渡しながら、留守中に来客のあったことを告げてきた。
「来客だって? 誰だい?」
「お名前は承っておりません。黒髪の女性の方で、ガルーダ様をお訊ねということでしたが……」
「ガルーダだって?」
ジークは聞き返した。
ここではもちろん、ジークの名前で部屋を取っている。
「はぁ……。お間違いではとお聞きしたのですが、部屋番号まで指定されましたので――失礼ですが、ペンネームかなにかで?」
「あ、ああ……うん。そんなものかな」
抑制された好奇心を感じ取って、ジークは曖昧にうなずいておいた。
あまり注目をあびたくはない。
「あとでまたまいられるそうですが……お通ししてもよろしいですか?」
「ああ、うん。そうしてくれ……」
これも適当に答えておく。
「はやくお部屋に行こうよ~、お兄ちゃん」
エレナが気を利かせて、手を引っぱってくれる。
ジークは逃げるようにエレベーターに向かった。
◇
ドンドン――。
「ん……?」
バスルームでシャワーを浴びていたジークは、何か音を聞きつけて動きを止めた。
栓をひねってシャワーを止めると、それはドアを叩くノックの音だとわかった。
「おーい! 出てくれよー!」
「だめなのー、わたし忙しいの。お兄ちゃん出てちょうだいー!」
ドンドンドン――。
ふたたび、ノックの音が聞こえてくる。
今度はさっきよりも強く、はっきりと聞こえてくる。
「ったく、もうっ……」
バスタオルを腰に巻いて、バスルームを出る。
カーペット一面に、服だの靴だの、カバンだのといったものが散乱している。
彼女はカーペットの上にぺたりと座りこみ、箱を開けるのに大忙しの様子だ。
「お兄ちゃん! そこ踏んじゃだめ!」
「はいはい……」
わずかに見える床を飛び石伝いに渡って、ジークはドアまでたどり着いた。
ドンドンドン、ドカッ、ドカッ――。
それはもうノックとは呼べなかった。最後のほうは、足で蹴りつける音だった。
「はいっ、いま開けます――」
ドアを開けた。
その途端、頭をしたたかに引っぱたかれる。
「いるんならトットと開けないかっ! オマエ、この私を何時間ドアの外に立たせておくつもりだっ!」
黒くフィットしたスーツに、体の曲線を浮き立たせた女性が、豊かな胸をずいずいと押しつけるようにして部屋に押し入ってくる。
年の頃なら、二十四、五。
長い黒髪を輝かせた、妙齢の美女だった。
彼女は部屋をぐるりと見回した。
「やあお嬢さん、お邪魔させてもらうよ」
「ううん。いらっしゃい。彼のお友達なら、大歓迎よ」
「トモダチじゃなくて、育ての親だがね――」
彼女はくるりとジークに振り向いた。
「――んで? おマエはいったい、ナニをやってるんだ?」
「な、なにをって……? えっと、いまシャワーを浴びてたところなんですけど」
すぱんと、小気味いい音を立てて、ジークの頭は上から下に打ちぬかれた。
「ンなこたァ聞いてない! あのサイクロプスのヤツが悪だくみしてる現場にいながら、おマエはナニをやってんのかッて聞いてンだよ!」
「さ、さいくろぷす……? サイクロプスだって!? あのドクター・サイクロプスのことか!?」
「ほかにナニがあるッていうのさ! あん?」
挑むように眉をあげた彼女の美貌が、すうっと怪訝そうな表情に変わってゆく。
「ん? んっ――?」
頭の高さに持ちあげた手で、自分とジークの背丈を交互に測る。
「おマエ――背が縮んだんじゃないか? いや、違うな?」
彼女の手が、風を切る。
三度、ジークの頭を引っぱたいて、彼女は言った。
「誰だ――おマエは?」
「あんまりぽんぽん殴っちゃだめ。お兄ちゃんは、わたしのなんだから!」
ジークの前に、両手を広げたエレナが立ちふさがる。
「お姉さんこそ、だぁれ? お兄ちゃんと、どんな関係なの?」
「わ、私か――?」
そう言われて、彼女は言葉を詰まらせた。
ジークは思った。
――彼女にしてはめずらしく、混乱した顔をするものだ。
「私は、私の名前は――」
ジークは彼女の言葉を遮った。
「待った――あんたが誰か、あててみせようか?」
なんとなく面影が残っている。そしてなによりも、この言動――。
ジークは、言った。
「カンナ――だろ?」
◇
ホテルの室内プールは、閑散として人気が少なかった。
ジークはプールサイドのデッキチェアに寝転びながら、雑誌を手にとっていた。右に左に体を転がしながら、本の内容になんとか集中しようとする。
「ああっ、もうっ! やめたっ、もうっ!」
がばりと起きあがって、ジークは雑誌を投げ捨てた。
「教えろよ! あんたは何を知ってるんだよ! 何掴んでるんだよ?」
プールの中央では、紫色の水着に見事な肢体を包みこんだ女性が、エアーマットを浮かべてくつろいでいた。
くびれたウエストに、形よく張りだしたヒップ。
背中からでも、見事なプロポーションを誇っていることが推察できる。
ジークの声は聞こえているはずだが、彼女は素知らぬ顔で、大きく開いた背中を太陽灯の光にさらしていた。
「おいこらっ! 聞こえてるんだろ! そこのおばさん!」
彼女はがばりと起きあがると、ジークに向かって水を投げつけてきた。
「誰がオバサンだっ! 誰がっ!! 私は二十四だっつーの!」
「ウソつけっ! この妖怪女っ! このこのこのっ!」
ジークも負けじと水を投げかえす。
「あっ! じゃあわたし、お姉さまの味方ねっ!」
水の掛けあいに、ワンピースの水着を着たエレナも嬉々として混じってくる。
十五年後の世界で彼女に出会ったのなら、彼女の言葉を信じもしよう。
だがここは十五年前の世界なのだ。
どうやっても計算があわないではないか。外見をころころと変えられる女の本当の年齢など、わかったものではない。
ジークをガルーダと勘違いしていた彼女は、あれから何も言おうとはしなかった。
ジークが何を聞いても、貝のように口を閉ざし――そのくせ、ジークたちのとなりに部屋を取り、朝も昼も行動をともにしてくるのだ。
そんな状態が続くこと、三日間。
こうなってはもう、どちらかの辛抱が切れるまでの我慢比べだった。
二人がかりの攻撃を受けて、服がすっかり水浸しになる頃――ジークは降参した。
「わかったよ……もうっ。オレの負けだ。話すよ……話すから、そっちも話してくれよな?」
「なんだい? もう終わりかい? 若い子は辛抱が効かないねぇ――ほらっ、なんだい、手エ貸してくれないのかい?」
差し伸べられた手を握って、彼女の濡れた体をプールサイドに引っぱりあげる。
東洋人離れした見事なプロポーションを――タオルで覆い隠し、彼女はジークに言った。
「――んで? なにからゲロする? 言っておくが、一から十まで、イチイチぜんぶ話さなくてもいいぞ。なんたって私は――」
「あんたの頭が切れるってことは、よく知ってるよ」
「ふぅん。私も有名になったのかね? ここ何十年かは、隠居生活をしてたつもりなんだが」
意味深な言葉を遮って、ジークは言った。
「オレは未来から来たんだ。未来で起きた、ある悲劇を食い止めるために」
「ほゥ――」
彼女は目を細めた。
「すっごーい。お兄ちゃんったら、《ヒーロー》のうえにタイム・トラベラーだったのね?」
エレナが目を輝かせる。
「茶化さないでくれよ。真面目なんだから」
「茶化してないもん。まじめだもん」
「オレのいた未来では、この惑星……このネクサスは、やつの手で消滅させられるんだ。オレはそれを止められなかった。住民すべてを助け出すのが、せいいっぱいで……」
そこで言葉を区切ると、ジークは拳を握りしめた。
カンナがうなずく。エレナは目を輝かして、話の続きを待っていた。
「今度こそ、止めてみせる。かならず止めてやる! ……と、そんなふうに思ってここに来たんだけど………その、どうも時間が間違ってたみたいなんだ、これがさ」
「ふぅん……どのくらいかね?」
カンナに聞かれ、ジークはしぶしぶ答えた。
「いや、ちょっとその……十五年ほど」
「まあ、十五年もなの? それじゃあお兄ちゃん、その事件が起きる頃には三十代のおじさまね。きっと素敵なおじさまになってると思うわ」
そう言うエレナは、なぜか楽しげだった。
「いや、その……。それでオレ、どうしたもんかなぁ……って思ってるんだけど」
カンナはしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「まあ、おマエさんを十五年先に送ることは簡単だがね。冷凍睡眠でもいいし、なんなら停滞力場ってモンもある」
「停滞力場?」
「時間を止めちまう力場を発生させる異星人の装置があるのさ。そいつを使えば、おマエさんの感覚時間じゃ、まばたきひとつのあいだに十五年未来に到着さ」
「そんなの持ってんのか? それ、やってくれないかな? オレにさ……」
「いいや。その前に、おマエさんにはやることがあるんじゃないか? いまこの時代でやつが企てている〝何か〟と、十五年先で起きる事件――。どちらにもやつが関わっている以上、なんらかの関連があるはずさね。ところで……時間旅行に関して、こんな仮説があるんだが知ってるかい? その旅行の目的――それ自体が、到着先の場所や時間に影響することがあるらしいンだ」
「なにが言いたいんだ? もったいつけてないで、教えてくれよ」
「つまり――だ。歴史を改変するつもりで時間を越えたタイム・トラベラーは、それが可能な時と場所に到着するってことさ。十五年の誤差っていうのは、偶然じゃなくて必然なのかもしれんぞ」
「この時代じゃないと、お兄ちゃんの目的が叶えられないの? だからお兄ちゃんは、ここに来たってこと?」
「そういうことさね。未来で起きる悲劇を止めるには、この時代でやつの陰謀をぶち壊してやる必要があるのかもしれないぞ」
「十五年越しの計画が動きはじめる……その出鼻をくじくってことか?」
「そういうことさね」
「じゃあ――そのサイクロプスさんって人の陰謀をあばいちゃうのが先決ね。なんか《ヒーロー》もののドラマみたいで、わくわくするなぁ。きゃっきゃっ」
エレナの陽気な笑い声が、プールサイドにこだました。