シャトル
機内で聞こえてくるのは、空気清浄機のたてる寝息のように静かな音だけだった。
ふわふわのドレスを着た十一歳くらいの少女が、窓際の席にちょこんと腰をかけている。
となりには、少女と同じくらいの背丈があるぬいぐるみが行儀よく座らされていた。
通りがかったスチュワーデスが、そのカップルを見て、くすりと微笑んだ。「なにか飲み物はいる?」と問いかけ、少女が首を振ると、残念そうな顔で歩き去っていった。
スチュワーデスが行ってしまうと、少女はふぅと息を吐いた。
自分の体には大きすぎるシートに、深く腰をかける。
旅行には慣れていた。
こうしてひとりで旅行するのは初めての経験だったが、いつもとたいして違わない。
ひとつ違っているのは、まわりの大人たちが、いつも以上に気を使ってくれるところだった。
「こまっちゃうのよ、ねぇ――トンプソン?」
少女はとなりに座るぬいぐるみに話しかけた。
シートベルトをしめておとなしく座っている熊さんは、もちろん何も答えはしない。
ガラスの瞳をきらきらと輝かせて、じっと前を見つめるばかりだ。
気を利かせてくれるのは嬉しく思う。
だがこうも――飲み物ばかり持ってきてくれても、レディとしては困ってしまうんだけど。
彼女は悩んでいた。
もうすぐ――機内の前のほうでランプが光るはずだ。「大気圏に入ります。ベルトをお締めください」という表示が出るまえに、トイレに立っておくかどうか――。
彼女はベルトを外して、立ち上がった。
トンプソンの頭をひとつ撫でてから、シャトルの後部にあるトイレットに向かう。
個室に入り、ドレスの裾をまくって下着をおろす。
用を足しおえて、ため息をつき、体をぷるぷると震わせたときのことだった。
どこからともなく、彼が出現してきたのは。
◇
「ん――?」
床に這いつくばった姿勢から頭を持ちあげて、ジークは奇妙な物体を目撃した。
それがなんであるか気づいた瞬間、ジークはみっともなく叫び声をあげていた。
「うわわっ! わわっ! わーっ! わーっ!」
叫びつづけるジークの口を、少女の手がぴたりと押さえてくる。
「……ももーっ! もーっ!」
「しーっ……!」
口に人差し指をあてて、少女は言った。
その表情と仕草から、ジークは少女の意図を瞬時に理解した。
ここはトイレだ。
そしてジークの前にいるのは、十一、二歳くらいの可愛らしい少女だ。
この状況を誰かに見られたら、ジークが変質者あつかいされることは間違いない。
少女に口を押さえられたまま、ジークはしばらくその姿勢――少女の股間に顔を突っこみかねない姿勢――のままでいた。
ドン――ドンと、個室のドアが外側から叩かれる。
ジークの背中を、どっと冷や汗が流れた。
「どうしたの? お嬢ちゃん――いまなにか音が聞こえたみたいだけど?」
「ううん――なんでもないの。ちょっと足が滑っちゃって――でもだいじょうぶだから。どうもありがとう」
「そう……ならいいんだけど。もうすぐ大気圏に入るから、早めに席に戻ってね」
「はぁい」
足音が遠ざかる。
「はぁ~っ……」
ジークは大きく息を吐きだした。
少女も、ほっとした顔になり――下着を下ろしたままの下半身を、ドレスの裾で覆い隠す。
わずかに顔を赤らめて、ジークに言う。
「もうっ、お兄ちゃんのエッチ」
「いやでもっ。この場合のこれは、不可抗力であって――」
と、弁明をしかけて、もっと大事なことに思い至る。
「そっ、そうだ! ここはっ!? ここはどこなんだ?」
「トイレのなかだと思うわ」
「そうじゃなくて!」
「じゃあ、シャトルのなか――いまネクサスに降りるところなの」
「ネクサスに向かってるのか!?」
ほっと安堵する。
どうやら、うまい具合にネクサスの近くに出現したらしい。
可能性としては、宇宙のどこに出てもおかしくはなかったのだ。
「じゃあ次だ! いまはいつだ? 何月何日なんだ?」
「だーめ、お兄ちゃん。つぎはわたしが質問するばんなんだから。お兄ちゃんの任務って、なぁに?」
「任務だって――?」
そう言って、ジークははっと胸元のペンダントに気がついた。
さっきからずっと、《ヒロニウム》は輝きつづけている。
無理もなかった。
未来での死闘があってから、ジークの主観時間では十分も経過していない。
「に……任務って、なんのことさ?」
ペンダントを服の下に押しこんで、ジークはとぼけてみせた。
「さっきはちょっとだけびっくりしちゃったけど、でもお兄ちゃん《ヒーロー》なんでしょ? それなら、どっから出てきても不思議じゃないと思うの」
「いやぁ、ぼくは――いやオレは、《ヒーロー》とか、そんなんじゃぁ……」
少女はわかっているとでもいう風に、首を振った。
「ううん。いいのよ。極秘の任務なんでしょ? むりに聞こうとはしないから。わたし、そんなに聞きわけのない子じゃないんだから。お父様だって、いつもそう言ってくれるのよ」
いつのまにか、彼女のペースにはめられている。
ジークはぶるぶると頭を振った。
「いやあのね、だからね……。ぼくは今日が何日か知りたいんだけど」
「きょう? それがどうかしたの?」
彼女は可愛らしく小首を傾げた。
「いいから、教えてくれ。今日は何日なんだ?」
「えっとね、きょうはね――」
彼女が言いかけたとき、それはやってきた。
激しい振動が、シャトルを襲う。
壁が床が――不規則に揺れ動いて、ジークたちは狭い個室の中で振り回された。
「きゃっ!」
「わわっ!」
手をついた先は、少女の胸だった。
わずかに柔らかい感触から、慌てて手をどける。
つぎの揺れに体を支えきれず、ジークは足を滑らせた。
勢いあまって、少女のスカートの合間に顔を突っこんでしまう。
「もうっ! お兄ちゃんたらっ!」
「ごっ、ごめん!」
ぷにっとした感触から鼻をはずして、ジークは言った。
「なっ! なにが起きたんだ!」
「いまお兄ちゃんのお鼻のさきが――」
「そうじゃなくて!」
ジークはトイレのドアを開けようとして、思いとどまった。
周囲のパッキンのあたりに、若干ながら気流が生じていた。外の気圧が、ここよりも低くなっているということだ。
ということは――。
「いいか、まず深呼吸を――わわっ!」
振り返って言おうとした言葉は、叫びに変わってしまう。
少女がちょうど、下ろしたままだった下着を引きあげているところだったからだ。
「いっ、いっ――いいかっ! 深呼吸だ。深呼吸を三回して、そしたら今度は、息をぜんぶ吐く。終わったら口は開けたままにするんだ。合図をしたら、ドアを開けるからな」
理由は聞かず、少女はうなずいた。
聡明な女の子だった。ジークの意図を、言わなくても理解してくれる。
「ひとぉーつ……、ふたぁーつ……、みっつーぅ……」
数をかぞえながら、大きく息を吸う。
《ヒロニウム》が輝いているかぎりジークには必要のない行為だったが、少女のために自分も深呼吸をする。
「――よし、開けるぞっ!」
トイレのドアを蹴り開ける。
外は――シャトルの機内は、かなり気圧が下がっていた。だが心配していたように、真空にはなっていない。
「よし、息を吸ってもいいぞ――」
少女の背中に手をあてて、座席のほうに押しやってから、ジークは周囲の状況を確認した。
シャトルの客室で気圧が異常に下がっている。
照明も半分かた落ちているということは、電気系統にも異常がでているということだ。それに先ほどの衝撃――。
ジークの頭の中で、ひとつひとつのピースが組みあわさった。
おそらくこのシャトルは、軌道上の浮遊物――たぶんボルトかなにか――に衝突したのだろう。
何千万分の一という可能性だが、ゼロではない以上、起きても不思議ではない事故だった。
スチュワーデスのひとりが、蒼白な顔で立ちつくしていた。
緊急時の訓練も受けているはずだが、念頭からすっぱりと消え失せてしまったらしい。
すがりつく乗客に服を引かれても、目を見開いたままで茫然と立ちつくしている。
少女が駆けていった。
手近なシートに登ったかと思うと、スチュワーデスの頬に平手をお見舞いする。
「しっかりして! スチュワーデスさん!」
「はっ――はいっ!」
正気を取りもどしたスチュワーデスは、乗客に向かって訴えかけた。
「みっ、みなさん! 落ちついてください!」
その光景を見ながら、ジークは奇妙な既視感にとらわれていた。
いつかどこかで、この光景を見たような気がするのだ。
そう――。この次に起きるのは、船尾のほうで――。
ジークは、はっと船尾を見た。いま出てきたトイレと、その奥に貨物室につづくドアが見える。
「みんなっ! シートベルトを締めて伏せろっ! 立っている者は、シートにしがみつけっ!」
乗客たちに向かって、ジークは叫んだ。
多くの者がその声に従う。
ひと組の夫婦連れが、通路に立ったままだった。腕の中に赤ん坊がいる。そのためにすぐには動けないようだ。
ジークは身を投げだして、夫婦に覆い被さった。
つぎの瞬間、背後で爆発が起こった。
いくつもの破片が、ジークの背中に襲いかかる。
だがひとつとして、突き刺さりはしなかった。体に触れる寸前で、ぴたりと停止してしまう。
機内に竜巻が起きた。
恐ろしい勢いで、空気が宇宙に吸い出されてゆく。
誰もが、飛ばされないようにするだけで精一杯だった。
その中で、ジークだけが立ち上がった。
嵐の中で振り返り、機体にあいた穴を見つめる。
その向こうに、宇宙が見えていた。真空と静寂の世界――ジークが慣れ親しんで、育った場所だ。
それはいま、人々に牙を向こうとしていた。命を奪おうとしているのだ。
「来るな! 入ってくるな――!」
ジークは命じた。
宇宙に対して、断固として命じた。
ここは人の住む場所なのだ。真空と静寂と死をつかさどる世界が侵入することは、物理法則が許したとしても、自分が許さない。
空気の流出が、ぴたりと止まった。
機体に開いた大穴はそのままに、流れでる空気だけが止まっていた。
「おっ――おい! 見ろよ!」
乗客のひとりが、ジークの胸元を見て声を張りあげる。
「見ろよ! 《ヒーロー》だぜ! 《ヒーロー》が乗ってるぞ!」
シャツの下からでもはっきりとわかるほど、ペンダントはまぶしく輝いていた。
「そうよ! きっと助かるわ! だからみんな頑張って! スチュワーデスさん!
わたしたち、つぎはどうしたらいいの!?」
機を逃さず、少女が叫ぶ。ばっちりのタイミングだ。
「あの、えっと――みなさん前のギャレーに移ってください。そこなら気密が保てますから」
ジークはスチュワーデスに訊ねた。
「コックピットと連絡は?」
「あの、いぇ――それが。応答がなくて……」
「そうか」
ジークは走りだした。
さきほど守った若い夫婦が、なにか礼を言っていたようだが、いまは取りあっていられなかった。
ギャレーを抜け、スタッフ・ルームを抜け――扉に突きあたる。
エアロック式になった二重扉の向こうに、コックピットはあるはずだ。
ハッチの上のパネルには赤いワーニング・ランプが点滅し、ハッチの向こうが真空であることを警告していた。
宇宙服も身に着けず、ジークは一枚目の扉を開いた。
扉の間の狭くるしい空間に体を押しこめてから、客室側の一枚目を閉じる。コックピット側にある二枚目を、無造作に開く。
そこは真空だった。
窓の全面が吹き飛び、宇宙が直に迫っている。
ふたつあるシートには、すでに事切れたパイロットたちが座っていた。
操縦士席の亡骸に手をかけて、ベルトを外してゆく。
心の中で謝罪しながら、ごろりと横に転がした。
いまは少しでも時間が惜しい。
事故が起きたとき、シャトルは大気圏突入体勢に入っていた。もうあまり時間は残っていないはずだ。
ジークは席についた。航法パネルの半分は吹き飛んでいたが、ジークが手をふれると、残ったパネルに光が蘇ってくる。
操縦桿を握りしめたとき、それはやってきた――。
熱い大気の層が、炎の壁となってシャトルの前に立ちふさがる。
シャトルは大気圏に突入し、コックピットの中は、一瞬にして数千度の業火に満たされた。
ずいぶん長いこと間が開いてしまいましたが、連載、再開です!
しばらくは週2回程度の不定期更新です。